| .....筆者がこのサイトを"オタクの戯れ言"と称しているように、当然筆者には"オタク"の自己認識があるワケである。.....いや、こんなサイトを2年半もやって来たのだから例え本人が否定したって客観的に見たらオタク以外のナニモノでも無い。年が明けて、筆者のF-1オタク歴は'76年秋の富士から29年目を迎えてしまうのである。.....人間、30年近くも好きでいられるものなんぞそうありゃしない。同世代或いはそれ以上の方はお解りだと思うが、'80年代前半は特にキツかった。何しろ、情報が無い。TVは月に1回のダイジェスト、専門誌も無いからオート・スポーツだけが頼り。ナニ?、プロスト初優勝?。ホンダがターボ創った?。勝った!?、マジで〜!!??.....てなモンである。それに比べれりゃ今の人達は幸せだ。何しろ全戦生放送、年に1回F-1が向こうからやって来てくれるし、更に知りたい情報はweb上にゴロゴロと転がっている。 .....と、グチっても仕方が無い。とにかく、今のファンの人は幸せだ、と言う事である。そして、その最も大きな要因として挙げられるのが'87年に始まったフジテレビのF-1全戦中継である事は疑いようが無い。更に、中嶋悟と言う日本人初のF-1レギュラー・ドライバーと、世界チャンプを獲得するエンジン、ホンダの存在。母国のヒーローを得たTV局は、単なるスポーツ中継番組では無く、この未知の競技に於ける人間模様を映し出そうと、それまでに無かったスタイルを模索する。'89年にメイン・アナウンサーに異例の抜擢をされたフリー・アナ、古館伊知朗氏はその典型である。F-1と言う、世界中の自動車工学の頂点である特殊な競技に於いて、古館氏が心掛けたのは"人間実況"であった。フル・フェイスのヘルメット越しに表情の伺い知れぬドライバーに、レース戦略の事しか頭に無い"カタブツ"のチーム監督に、そして普段表に出る事の無いマシン・デザイナーに、彼はニック・ネームやキャッチ・フレーズを付けて行ったのである。更に、フリー・ジャーナリストでラジオ番組のDJ等でも甘いトーンに定評のあった今宮純氏は、そのソフトな語り口調で難解な専門用語を解り易い"カタカナ"に置き換え、元本田技研/ロータス・コンポーネンツの森脇基恭氏が豊富なキャリアを活かして戦力分析をする.....。彼等はF-1と言う特種な競技で、レース実況だけでは無い、内面的な部分さえも伝えようとしたのである。 .....そしてもうひとり、F-1中継に欠かせない人物がいる。同時に、我々(一緒にすんなって?)オタクの"星"とも言うべき、愛すべきキャラクター。言わずもがな、"川井チャン"こと川井一仁氏である。元々は"ピット・レポーター"としてF-1中継に登場し、流暢な英語でトップ・ドライバーやチーム・スタッフのインタビューをリアル・タイムで届け、チームやスポンサー関連の国内イベントでは司会や通訳をこなし、現在はCS放送で生中継時の解説及びレギュラー番組と雑誌連載を持つ。.....ま、そんな事は皆さん御存じだと思うので、ここではその川井氏、いや川井チャンの実態に事細かに迫ってみよう。 "川井チャン"こと川井一仁は'60年12月23日、埼玉県加須市にて誕生。実家は加須で「川井さんトコ」と言えば知らぬ者のいない(?)程の、有数の広大な雛人形製作工場を敷地内に持つ、所謂"お金持ち"の家である。ルノーやフォード等の外車を多数所有していたクルマ好きの父の影響もあってか、川井チャンは幼少の頃から自動車に興味を持つ。小〜中学校と県内でもトップ・クラスの成績を収めるが高校受験に失敗、父の薦めで1年間オーストラリアの交換留学生となる。そしてこの時、ホーム・ステイ先の"第二の父"に連れられて観戦した、オーストラリアで一番人気のカー・レース"バサースト1000"が、その後の川井チャンの運命を決める亊になる。1年間の交換留学生活を終え、川井チャンはハワイの高校に編入。猛勉強の末アメリカでも屈指のエリート校、ボストン大学に入学し、エアロ・スペース・エンジニアリングを専攻。.....つまり、川井チャンは多くのF-1マシン・デザイナー達と同じ"航空力学"を学ぶ事を決意したのである。ところが、在学中に肝炎を患い、急遽帰国。日本で約1年間の闘病生活を送った後、レース雑誌に掲載されていた写真事務所の求人広告に惹かれ、就職。'85年のF-1開幕戦オーストラリア・グランプリで初めてF-1の現場で仕事をする事となる。この時の川井チャンの仕事は主にレース・レポートと写真撮影で、まだ日本人の少ない当時のパドックでは専門的な話も出来て英語の得意な川井チャンは会社にとって非常に助かる存在となった。翌'86年、川井チャンは新たに設立されたモーター・スポーツ専門のエージェント会社の設立メンバーとなり、主にホンダのモーター・ホーム運営に関わっていた。そこへフジテレビが'87年からの全戦中継の準備の為に訪れる。が、フジ側もF-1グランプリの現場では初めての事ばかりでどうすれば良いのかが解らず、古くからF-1グランプリで活躍する日本人カメラマン、ジョー・ホンダ氏の紹介で川井チャンがパドックでのフジテレビの"案内役"を仰せつかる事となったのである。.....と言うワケで、実は川井チャンはフジテレビの社員では無いのである。 '87年、中嶋悟のF-1デビューを機にフジテレビが全戦中継をスタート。アナウンサー/解説者/ディレクターが現地のコメンタリー・ブースに入り、フジテレビの独自カメラが国際映像とは別に中嶋の走りを、また中嶋の所属するロータス・ホンダのピットを映し出す。そして、TBSのダイジェスト中継時代の'70年代から解説/ピット・レポートを担当して来た森脇基恭氏が、マイクを持ってピット・レーンに立っていた。中継2年目の'88年第3戦モナコ・グランプリ、決勝前夜のスタッフ・ミーティング。ここで急遽森脇氏がコメンタリー・ブースに入る事となり、さてピット・レポートをどうするかと悩むフジテレビの松野ディレクター(当時)に、森脇氏自身が「川井チャンがいるじゃない」と進言。その場にいた川井チャン本人はキョトンとするばかりだったが、あれよと言う間に決勝当日、巨大なバッテリー・ボックスと送受信機を腰に巻き、密閉式ヘッド・セットにハンディ・マイク姿の川井チャンが日本のお茶の間に登場。そして翌'89年、川井チャンは臨時では無く正式にF-1ピット・レポーターとなったのである。 '89年、フジテレビは前述の通りF-1の実況担当に「おお〜っと!」の名ゼリフのプロレス中継で一躍有名になった元テレビ朝日の古館伊知朗氏を招き、徐々に国内で盛り上がって来ていたF-1ブームを更に広めようと目論んだ。が、レース/メカニズムよりもヒューマン・ファクターにこだわるその方法論が賛否両論となり、'89年開幕戦ブラジル・グランプリ放送時、2.000件近い抗議電話がフジテレビに殺到した。が、そんな中でリタイアしてピットへ戻って来たアイルトン・セナやアラン・プロストら世界的ドライバーに、誰よりも真っ先にインタビューを取る川井チャンの姿は正しく"勇姿"であった。しかも、どうも英語は上手いが日本語で話している時の方が聞き取りづらい、いや何を言ってるのか良く解らない、不思議なキャラクターであった。また、古館/今宮/森脇氏らが全員低いトーンで話すのに対し、時折「お話中すみません.....」と割り込んで来る川井チャンの声はやけにカン高く、NA元年のV8サウンドに交じったフェラーリV12のように独特であった(.....)。フジテレビには「あの人は誰?」との問い合わせが殺到、フジテレビは'89年から日曜深夜に古館氏司会のF-1専門番組"ポール・ポジション"の放送を開始しており、'90年には遂に川井チャンを"ゲスト"として出演させたのである。 ここでの古館氏と川井チャンのやりとりは絶妙であった。もちろん、古館氏は川井チャンをいじりに行く。が、川井チャンは全てに大真面目で対応、これが突っ込みとボケのようなコントラストを生み出したのである。セナ/プロストら有名ドライバーを捕まえて喋らせ、レース映像だけでは到底解らないようなコアな情報をリアル・タイムで伝える、"話し下手"な青年。しかも情報はテクニカル分野のみならず、ドライバーの私生活にまで及ぶ臨機応変さ。川井チャンは一気にF-1中継の"アイドル"となり、男女問わず多くの"ファン"を獲得したのである。更に、この時紹介された通称"Kコレクション"と呼ばれる(?)川井チャンのF-1グッズ・コレクションは、各グランプリで関係者のみに配られる膨大な量のイヤー・プラグやステッカー、ドライバー本人から貰った無数のピン・バッヂ、挙げ句にはセナが'90年鈴鹿の予選でポール・ポジションを獲得した際使用していたタイヤを自宅でテーブル代わりにしている.....等、収集家としての異常なまでのこだわりも判明。古館氏は後に川井チャンに"オタッキー川井"の称号を与え、彼の人気は全国にF-1オタクを増殖させてしまったのである。 '90年、川井チャンは所属するエージェント会社から独立、これで彼の仕事はフジテレビF-1中継と関連とレース専門誌での執筆等となり、立場的にはフリー・ジャーナリストとなる。.....いや、むしろF-1ブームの"顔"と言っても良いかも知れない。レース中継時のピット・レポート及びドライバー/チーム関係者のインタビュー、専門番組への出演、関連イベント/特に外国人ドライバー出演時の通訳や司会進行、等。川井チャンの日常は完全にフジテレビのコントロール下に置かれた。松野ディレクターは当然、その特異なキャラを前面に押し出そうと露出を増やし、当の川井チャン本人は全てに大真面目に対応する。そのギャップは特に古館氏との絶妙な掛け合いによるコントラストとなり、バラエティ番組のスペシャリストたるフジテレビの目論んだ"下世話とマニアック"と言う異なるカラーを見事に演出したのである。 スターティング・グリッドに着くF-1ドライバー。彼等はこれから300km/hの戦いに赴く戦士である。当然、テレビのインタビューなんぞお断りである。それぞれがコンセントレーションを高め、ある者は眼を閉じ、ある者はレース戦略を組み立てる。.....とそこへ、マイク片手に川井チャンが現れる。と、何故か皆丁寧に答えるのである。レース中、リタイアによってピット・レーンを歩いて帰って来るドライバーがいる。彼等のアドレナリンはまだレース中と区別されておらず、息も荒い。そこへ、カメラマンを従えてダッシュして来た川井チャンが一番にマイクを差し出す。'90年鈴鹿はそれを象徴する場面である。スタート直後にタイトルを争うセナとプロストが接触、数メートルの距離を保ったまま視線も合わせずに無言でピットへ帰って来るふたり。川井チャンはセナに近付き、まずじっと眼を見る。.....多分、その眼は「.....聞いても良い?、いや、聞くよ。聞かなきゃなんないんだもん。そりゃ喋りたく無いよな。でも.....解るだろ?」と訴えている。しばらくアイ・コンタクトがあった後、セナの眼が「解ってる。話す用意はあるよ」と合図する。そして川井チャンの「what happen at the start?」である。.....貴方がセナだったとしよう。たった今クラッシュし、1年が決し、そこへ良く知らないインタビューアーがやって来ていきなり「ひとことお願いします」と言われて、何と答えるだろう。いや、筆者だったら答えもしないだろう。これはつまり、ひとことで称するのなら"愛すべきキャラ"である。グランプリ・ウィークの数日間のパドックでの日常から来る信頼感、それこそが川井チャンの最大の武器である。いやそれだけでは無い。テストで、移動で、パーティーで、イベントで、川井チャンはF-1グランプリのあらゆる関係者とフレンドリーに話す。が、それは決して川井チャンが日頃から下地を作ろうと努力していたからだけでは無い。彼は本当に"好き"なのである。それまで欧州のF-1関係者から"無口で勤勉なカタブツ"と思われていた日本人のイメージを、川井チャンが根底から覆してしまったのである。パドックの愛すべき日本人、カズ・カワイ。そんな彼には、仕事抜きで本当の意味で"友人"と呼べるドライバーがいる。ゲルハルト・ベルガーやジョニー・ハーバートがそうだ。 ベルガーとハーバート、どちらもF-1ドライバーの中では明るいキャラクターの持ち主として知られているが、それも彼等の友情に大きく関係しているのかも知れない。ベルガーは川井チャンがフジテレビの独占インタビューを収録する際、わざわざ"他のジャーナリストには場所さえ教えない"自らの隠れロッジに招待し、ホテルや送り迎えまでを手配してくれたそうである。だがパドックでは(特にTVカメラの前では)イタズラ好きのベルガーにとって恰好の標的となったが、私生活に於いても連絡を取り合う仲、と言うのは本意で無ければ成り立たない。ハーバートはロータス・無限ホンダ時代、鈴鹿でのレースを終えて東京へ向かう新幹線で、たまたまハーバート一家(妻レベッカ/長女クロエ)と遭遇、ハーバートは「実は静岡でスポンサー(タミヤ)の所へ寄るんだけど、カミさんと娘を青山のホテルまで連れてってくれない?」と川井チャンに家族を任せたのである。それだけの信頼関係は、もし両者の間に計算が存在していたら不可能である。そんな川井チャンの親しみ易いキャラのおかげか、ドライバー達はフジ/川井チャンのインタビューには他国のジャーナリストでは聞けないような事まで話してくれるようになったのである。 '92年、フジテレビは"バトル・トーク"と言う新たな中継スタイルを模索する。元ベネトン・チームのメカニック、津川哲夫氏、アメリカ生まれのポーランド/イタリア人のハーフ、ジェフリー・ブレズ氏らが川井チャンと交代でピット・レポーターを務めるようになり、フジテレビには「川井チャンはどうしたのか」と言う問い合わせが殺到。当の川井チャンは富士で開催されたインターF-3戦で初のTV解説を体験。が、この時は慣れぬコメンタリー・ブースに翻弄され、フジが川井チャンに解説を依頼する事は当分無くなってしまった。また、翌'93年、川井チャンはセガとフジテレビの共同開発によるF-1ゲーム・ソフトのアドバイザーと言う大役を務めるが、やはり、視聴者はピットからカン高い声でレポートを入れて来る川井チャンを求めていたのである。 .....'94年、彼等が作り上げて来た、F-1と言う自動車開発競争に於ける"人間像"と言うスタイルが、根底から揺らぐ事件が起きた。ローランド・ラッツェンバーガー/アイルトン・セナの死亡事故である。サーキットで、レースで、"人が死ぬ"と言う現実に初めて直面したファンは動揺した。関係者/スポンサー企業までもがF-1/モーター・レーシングを離れ始め、ここまでメインでムーブメントを引っ張って来た古館伊知朗/今宮純の両氏もまた、この年いっぱいで中継から姿を消す事となった。翌'95年、フジテレビはカー・グラフィック編集長の熊倉重治氏とレーシング・ドライバー土屋圭市氏を解説陣に迎え、女性ピット・レポーターの林百合佳嬢を起用して新たな中継スタイルを模索した。しかし、"残った"ファン達は戸惑った。彼等のそれは、あまりにもそれまでの実況スタイルとは掛け離れていたのである。しかし、我等が川井チャンは身を引いてはいなかった。しかも、第3戦サンマリノ・グランプリで遂にコメンタリー・ブースに入り、F-1解説者デビューを飾ったのである。移り行くF-1の在り方の中で、川井チャンの声だけは変わらずお茶の間に届いたのである。.....その後、FIAは安全性の問題から徐々にTV関係者をピット・レーンから締め出すようになって行き、必然的に"ピット・レポート"と言う中継形態は困難なものとなって行った。そして'03年、川井チャンは今宮氏と共にCS放送の全戦解説担当となり、レースの前後は地上波用にドライバーのインタビューを取りにグリッドやパドックを走り、レース中は自前のノートPCを使って各チーム/ドライバーの給油のタイミング等を独自に計算〜推測。他にも複数のF-1専門番組(CS)と複数の雑誌連載を抱える、相変わらずF-1・オタク・ファンの間では"教祖"と崇められる存在なのである。 .....川井チャンの人気の秘訣、それはひとことで言うならば究極の"オタク・スピリット"である。が、その根底に鎮座するものは、彼の持つ"永遠の少年っぽさ"では無いかと思う。"冷静な"とか"正確に"と言った基準では無く、"好きな事、自分の知っている事を自慢したい"に近い感覚である。それ故、彼のレポート/発言を受け取る側である我々には、「何それ?」とか「ふ-ん、それで?」と言うようなスタンスで聞く事が出来るのだ。F-1と言う未知の世界をTVを通じて伝える際、川井チャンの声は"専門家からの教え"では無く、"友達から情報を仕入れる感覚"に近かったのである。しかも彼は、その情報に本物(ドライバーやチーム関係者)の声、と言う必殺技を加えて来た。ファンもいつしか、コメンタリー・ブースの中の声よりも、実際に目の当たりにしているピットと言う名の"現場"からの声を信じる程になって行ったのである。'88年、翌年からのF-1実況担当が決定したものの、何も知らない古館伊知朗氏に"F-1とは何か"を教える講師役を、まだレギュラー・ピット・レポーターとなる前の川井チャンが担当した。「フツーならチンプンカンプンで終わる所が、彼のおかげで"垣根が外れた"感じがした。F-1の現場へ行くと、彼は遊園地に連れて来られた子供のように楽しそうにしている。そのおかげで、僕のF-1に対する"一歩退いた"考え方は変わった」川井チャンは何の計算も無く、ひとりのプロフェッショナル・アナウンサーをF-1ファンに変えてしまったのである。「でも、週に1回のフジテレビ会議室での講習は"軟禁"だった(笑)」 「ウチ(東京/世田谷)の近くに引っ越して来てからは、夕食は我が家で食べる、言わば弟みたいなもの」とは、常に川井チャンと行動を共にする今宮純/雅子(ジャーナリスト)夫妻。F-1の現場でもふたり一緒な事が多い今宮夫妻は、川井チャンにとってもはや家族のような存在なのだろう。「好物はカレーで、それも専門店のような本格派じゃ無くて家庭的なもの。ウチ(雅子さん)の実家から漬け物とか送って来ても、川井チャンがみんな食べちゃう(笑)。で、ウチの母も『川井チャンが食べちゃった』って言うと凄く喜んでる」'94年、川井チャンはモナコ・グランプリのパーティ出席で一緒になった女優の鈴木保奈美さんと結婚するが、3年後の'97年に離婚し、現在は独身(ちなみにモナコのパーティーでは'93年が平子理沙(現・理彩)嬢、'95年が梅宮アンナ嬢を同伴、毎年「なんでオマエはいつもイイオンナを連れてるんだ!」と突っ込んで来るのはミカ・ハッキネンであった)。結婚以前、古館氏は「アイツは結婚しない方が良い」と言っていた。「結婚して、普通の男になっちゃった川井一仁に何の魅力がある?。彼にはプライベートを犠牲にする"芸人魂"に近いものを感じる」確かに、川井チャンに生活感は見え無い。「女性にはとても優しい人」と語るのはフジテレビの"F-1アナウンサー"として活躍した、佐藤里佳/大坪千夏の両アナウンサーである。「良く言う"少年のようなひと"。愛すべきキャラクター。でも、彼に合う女性は日本にはいないかも知れない」.....確かに、今宮夫妻のように"同業"でも無い限り、川井チャンが"結婚生活"を営むのは難しいのかも知れない(この辺の話題に対するコメントに関してはソニーマガジンズ刊"ピットレポーター川井ちゃん・F1ワハハ読本"/1〜3巻を読むと良く解る)。 .....'91年第15戦、日本グランプリ。中嶋悟、最後の鈴鹿。31周目、中嶋のティレル020・ホンダはS字でサスペンション・トラブルに見舞われ、クラッシュ。川井チャンは涙をこらえながら中嶋にマイクを向けた。自他共に認める"中嶋ファン"である川井チャンにとって、中嶋の5年間のF-1ドライバー生活は自らのピット・レポーターの歴史でもあった。川井チャンが高校生の時にオーストラリアで観たバサースト1000、このレース、実は偶然にも中嶋悟、初の海外レースだった。もちろんその時にふたりが言葉を交わしたわけでは無かったが、中嶋がいなければ川井チャンがフジテレビのF-1ピット・レポーターになる事も無かっただろう。 .....川井チャンで印象的な場面に、F-1ブームの真只中だった'92年、川井チャンがマウロ・マルティニのドライブするグループCカーに同乗し、300km/hで鈴鹿サーキットを周回する、と言うフジテレビの"'92年F-1日本グランプリ前夜祭"がある。エリック・ヴァン・デ・ポールのレーシング・スーツに身を包み、アイルトン・セナ(模様)のヘルメットでマイク片手に意気揚々とコックピットに乗り込むが、あまりの前後G・フォースにパニックに陥ってしまい、眼は泳ぎ、コメントはしどろもどろ。そして最後はピット・ロードでマルティニの「fire!(火事だ!)」に騙されて慌てる、と言う"珍場面"の連続である。'90年に"アズーロ"と呼ばれるメタリック・ダーク・ブルーのフェラーリ348を購入し、誰もが羨むフェラーリ・オーナー(他にホンダNSX等も所有)でもある川井チャンがハイ・スピードの恐怖に怯えるあのシーン、ビデオに録った方はもう一度観てみて欲しい。川井チャンのラブリーな(?)一面が垣間見れる筈である。 現在、F-1中継で事実上ピットから"締め出し"を喰らった川井チャンは、レース中に自前のノートPCを使った"オリジナル作戦推測ファイル"を駆使して解説している。これは、各チーム/ドライバーのタイヤ・チョイス及び燃料搭載量をフリー走行/予選1回目/予選2回目のラップ・タイムから予想し、レース中のピットでのマシン制止時間(給油時間)と照らし合わせ、ピット・ストップ回数やストラデジーを計算によって割り出す、と言う独自のシステムである。しかもこれがパドックで話題となり、フェラーリ等はそのあまりの正確さに警戒し、イタリアRAI -TV、イギリスITV等も川井チャンからの情報を元に実況している程である。更に、実況中にアナウンサーが川井チャンに話を振ると「はい?.....すいません、今ウィリアムズの無線聞いてたモンで.....」川井チャンは"実に川井チャンらしく"、コメンタリー・ブースで仕事をしているのである。 '04年第7戦、欧州グランプリ/ニュルブルクリンク。自身初のフロント・ロウ・スタートの佐藤琢磨(BAR・ホンダ)は最後のピット・ストップを終えた時、フェラーリのルーベンス・バリチェロに0.4秒差の3位だった。コメンタリー・ボックスは佐藤がこのまま日本人最高位タイの3位でフィニッシュするもの、と安堵していた。しかし、1周目のグリップに優るミシュラン・タイヤの特性と、佐藤のファイターとしての素質を知る川井チャンだけがピット・アウト後の佐藤に注目し続けていた。最終コーナーから46周目へと入った1コーナーに向け、アナウンサーが既に別の話題に話を振っている時、川井チャンの絶叫が響く。「琢磨真後ろ!.....琢磨来い!、来い!!、来い!!!」.....佐藤は最強フェラーリに勝負を挑んだのだ。.....川井チャン、ありがとう。あの「来い!、来い!!、来い!!!」が、筆者の'04年F-1ベスト・シーンなんだ。 ....."レース好きのフリーター"、これが川井チャン自身による自らの表現である。ジャーナリストとか、解説者とか、ましてやピット・レポーターとかオタクとか.....。色々な呼び方をされる中で本人が「いや、単なるレース好きのフリーターです」と言うのは何故だか非常に気持ち良い。決して有名ドライバーと仲良くしている事を鼻にかけるでも無く、そのキャリアに溺れて仕事が疎かになるでも無く、「.....この仕事?、続けるよ。クビになんなきゃね」と語る川井チャン。彼こそ、"F-1オタクの星"と呼ぶのに相応しい、永遠の少年である。 |