| '76年10月24日、富士スピード・ウェイ。日本初のF-1開催となる最終第16戦、F-1グランプリ・イン・ジャパン決勝は、降り続く雨の為にスタートが見合わされていた。フェラーリのニキ・ラウダを3ポイント差で追うランキング2位は、この年マクラーレン・フォードに移籍したジェイムズ・ハント。ハントが逆転王座に着く為には走り、そしてラウダに勝たねばならなかった。が、ドライバーズ・ミーティングでは殆どのドライバーが「この雨では危険過ぎる」と、レース中止を主張。その中には、もちろんラウダ、そしてハントも含まれていた。ラウダは、僅か3ヶ月前に小雨降る第11戦ドイツ・グランプリで生死の境を彷徨う大クラッシュを演じ、奇跡のカム・バックを果たしたばかりであった。午後2時、ハントはコースを歩き、路面の状態をチェックした。ピット・ロードまで戻って来た時、グランド・スタンドで「Hunt,Run!
Run!」と誰かが叫んだ。たちまちスタンドは「Run! Run!」の大合唱と手拍子の嵐となった。午後2時半、「3時にスタートします」との場内アナウンスが流れ、寒空の中、早朝から初のF-1を冷たい雨に打たれながらレースを心待ちにしていた数万人の大観衆から大歓声が上がった。あの感覚は、28年経った今でも忘れない。 .....このレースを体験して、彼のファンになった人は恐らく筆者以外に何万人と存在するのだろう。我々日本人が初めて迎えたF-1グランプリで、劇的に初のワールド・チャンピオンを獲得した男。"ハント・ザ・シャント(壊し屋ハント)"の異名を取るアグレッシヴなレーサー、ジェイムズ・ハントは、筆者にとってあの"赤白マールボロ・カラー"のマクラーレンが最も似合う男である。 '47年8月29日、イギリス/サリー州のサットンで、ロンドンで証券所を開いている厳格な父の家庭に生まれたジェイムズ・ハントは、'40年代のイギリスに於ける言わば典型的な"上流家庭育ち"の幼年期を送った。しかし反面、英国紳士である父への憧れの裏返しからか、"紳士"と呼ぶにはハントの少年期は少々"荒っぽい"ものであった。通っていた学校では"暴れん坊"と呼ばれ、家へ帰れば父の車を勝手に乗り回していた。丁度日本で言う所の"暴走族"と、アメリカのヒッピーが混ざったようなものだった、と言えるかも知れない。伸び放題のブロンドの髪と、ヨレヨレのTシャツ、穴の開いたジーンズに汚れたスニーカー。ハントは有り余るエネルギーを発散させる場所を探しているようにも見えた。19歳のある日、友人がハントに言った。「ジェイムズ、ちゃんとしたレースに出てみないか」夜な夜な暴走を繰り返すハントに敵はいなかった。が、友人達は負けん気の強いハントの鼻っ柱を折ろうと企み、プロのレーサーと競わせる事を提案したのである。「ああ良いとも。誰にも負ける気はしない」ハントはアルバイトで稼いだ金で中古のミニ・クーパーを買い、'67年、20歳の時に初めてレースに出場した。だが、結果は惨敗であった。しかし、ミニのワン・メイク・レースだった為に、プロのレーサー達がどうのようにしてタイムを稼ぎ出しているのかは良く解った。燃費調整、サスペンションのチューニング、タイヤ選択、そして走行ラインとタイミング。ハントは完全にレースの虜となり、自らもプロのレーシング・ドライバーを志す。友人達の目論見は確かに成功した。街で一番速い男は夜のサリーから消えたのだから。 '68年、ハントはいきなりフォーミュラ・フォード1600選手権へと参戦する。前年のミニのレースに比べ、初めての本格的なレーシング・カー/オープン・フォーミュラに手を焼くが、翌'69年になると徐々にレースでの駆け引きを身につけ、頭角を表すようになる。更に、ハントの走りに目を付けたMRE(モーター・レーシング・エンタープライズ)・チームから、欧州F-3へのスポット参戦のオファーを受け、シーズン終盤の数戦に出場。ブラバムBT21を駆って最高位3位と、期待に応える走りを見せた。翌'70年は本格的に欧州F-3選手権へとステップ・アップし、ロータス59Aに乗ってルーアンのレースで最後尾から追い上げて初優勝、ノン・タイトル戦のゾルダーでも勝ち、ハントの名は一躍欧州のグランプリ関係者の耳に印象付けられる事となった。翌'71年にはワークス・チームである名門マーチからのオファーを受け移籍。しかし地元イギリスのブランズハッチ戦で優勝した以外、殆どのレースをクラッシュやスピン・アウトでリタイアする。この頃からハントは"ハント・ザ・シャント"のニック・ネームで呼ばれる事となった。速いが荒っぽい、それがハントの評判であった。だがそれでは、サリーの街をブッ飛ばしていた頃の自分と何ら変わる所が無かった。結局翌'72年、シーズン中盤でハントはマーチを解雇されてしまう。 マーチを解雇されたハントの元に、あるオファーが舞い込んだ。イギリスの大富豪、ロード・アレクサンダー・フェルマー・ヘスケス卿が「ウチのF-2チームで走ってくれないか」と申し出て来たのである。広大な宮殿を所有する貴族であるヘスケス卿はモーター・レーシングの分野ではまだ新米で、勝利の為には何が必要かを知らず、悪戯に資金を浪費していた。ハントはヘスケス卿のチームでテストを行うが、その際ワークス勢に比べて明らかに戦闘力の劣るダッスル製のマシンに乗り「こんなマシンじゃ勝負にならない」と直訴、ヘスケス卿はそれでもテストで今までの契約ドライバーの誰よりも速いタイムをマークしたハントを正式に迎え入れる事を決め、ハントの為に1年落ちのマーチ712Mを購入。9月のザルツブルグ戦でハントは欧州F-2選手権にデビューした。ハントは2戦目で早くも3位表彰台を獲得する等活躍し、欧州F-2をシリーズ17位、同時に参戦した南米トルネイオ・F-2をシリーズ6位と言う成績で終了した。これは、1年落ちのマーチ712Mの戦闘力を考えた時、偉業とも言える好成績であった。 ヘスケス卿は、この"荒っぽい若者"に心底惚れ込んだ。同時に、所謂"金持ちの道楽"と誰もが思っていた(むしろ自分自身もそうだったに違い無い)レースと言う分野に深くのめり込んで行った。'73年、ヘスケス卿は"ハント・ザ・シャント"を連れ、遂にF-1チーム結成に乗り出す。 '73年、ヘスケス・レーシング・F-1・チームはサーティーズTS9Bを購入し、3月に行われたノン・タイトル戦"レース・オヴ・チャンピオンズ"に出場、なんとハントは3位でフィニッシュする大活躍を見せる。その後チームは欧州F-2選手権を戦う傍ら、ヘスケス卿は着々と準備を進め、第6戦モナコから正式にF-1世界選手権にエントリーした。マシンはマーチ731を使用、ハントは2千回にも及ぶシフト・チェンジを必要とするモナコで正式にF-1デビューし、見事に9位で完走して見せた。2戦目となった第8戦フランスで6位入賞、続く第9戦地元イギリス/ブランズハッチ戦では優勝したピーター・レヴソン(マクラーレン)から僅か3.4秒遅れの4位を獲得、地元観客は熱狂した。翌第10戦オランダでは当時の最強コンビ、ジャッキー・スチュワートとフランソワ・セヴェールのティレル勢に続く3位でフィニッシュし、初の表彰台を獲得。最終戦アメリカではワークス・マーチに乗るロニー・ピーターソンを最速ラップを記録しながら終始攻め続け、僅か0.6秒差で2位となった。誰もが新しいヒーローの誕生を予感せずにはいられなかった。もう、"ハント・ザ・シャント"とは誰も言わなかった。 翌'74年、ヘスケス卿はマーチから新進マシン・デザイナーのハーヴェイ・ポストレスウェイトを引き抜き、ヘスケス初のオリジナル・マシンを製作する。マーチでの手堅いマシン製作に定評のあったポストレスウェイトはコスワースDF-V搭載のマシン・デザインのノウハウを知り尽くしており、コンパクトなボディ・カウルと高く聳え経つインダクション・ポッドを持つヘスケス308は、まずシーズン開始前のノン・タイトル戦、シルバーストン・インターナショナル・トロフィーで優勝。そしてシーズンが始まると序盤は信頼性の低さから完走もままならぬ状態が続くが、シーズン中盤になりマシンの熟成が進むと戦闘力を発揮し、ハントの"一発に強い"走りも冴えて予選シングルの常連となり、第7戦スウェーデン/第12戦オーストリア/第15戦アメリカで3位を記録。入賞4回でシリーズ・ランキング8位に着けた。'75年、開幕戦アルゼンチンで2位、翌第2戦ブラジルで6位、と健闘を見せたヘスケス308とハントだったが、エマーソン・フィッティパルディやニキ・ラウダを擁するマクラーレン、フェラーリ等の名門チームと、長期に渡る開発による熟成と信頼性を武器にピーターソンを擁して戦うロータスらの戦闘力アップの前に徐々に低迷。ポストレスウェイトはマシンに大鉈を振るい、新たにヘスケス308の進化型を製作する。そして迎えた第8戦、オランダ・グランプリ。 予選でハントはトップのラウダ(フェラーリ)から0.4秒遅れの3位を獲得する。決勝は雨。ナーバスな路面コンディションにトップのラウダは苦しんでいた。それは予選2位でチーム・メイトのクレイ・レガッツォーニも同じだったが、ワールド・チャンピオン獲得に向けて堅実にポイントを重ねたいラウダはコース上での無用なリスクを避け、13周目にレガッツォーニにトップを譲る。しかし徐々に天候が回復し、コース・コンディションがドライに変化して来た事を察知したハントはピット・インしてドライ・タイヤへと変更。フェラーリ2台が遅れてタイヤ交換してコースに復帰した時には、既にハントのヘスケスはコントロール・ラインを通過した後であった。レース中盤にはコースが完全にドライとなり、猛然とハントを追撃するラウダ。しかし明らかにトップ・スピードでフェラーリに劣るマシンで、ハントは果敢にラウダをブロック、ベテランに一歩も退かない走りでトップを守り切り、僅か1秒差でF-1初優勝を遂げたのである。この後ハントは第9戦フランス/第12戦オーストリアで2位を獲得し、チームもシーズン終盤の第13戦イタリアで完全なブランニュー・マシン、ヘスケス308Cを投入する等開発の手を緩めず、結果的に初優勝を含む8度の入賞でシリーズ・ランキング4位となったのである。 .....こうなると、ワークスでは無いプライベート・チームで大活躍を見せるハントを、トップ・チームが黙って見ている筈が無かった。ハントの元には多数のオファーが舞い込んだ。中でも'72、'74年とチャンピオンを獲ったエマーソン・フィッティパルディが、兄であるウィルソン・フィッティパルディの興したチームへと移籍するのに伴い、新たな"エース・ドライバー"を探していたマクラーレンからのオファーはあまりにも魅力的であった。ヘスケス卿は「又と無いチャンスだ」と、ハントに移籍を促した。ここまで目をかけて来たハントとの別離はチームにとっても大打撃であったが、ヘスケス卿はハントの"出世"を、心から喜んだのである。その後ヘスケスは'78年まで活動し、多くの新人ドライバーをF-1グランプリに送り込み、ウルフ・チームに全てを売却し、静かにグランプリを去って行った。 '76年、トップ・チームであるマクラーレンのエースとなったハントは、前年のチャンピオン、フェラーリのラウダとの激闘に突入していた。"帝王"ラウダは前半10戦で5勝を挙げ、しかも第8戦フランスでのリタイアを除いて全て表彰台に上がると言う圧倒的な強さを見せていた。対してハントは名車マクラーレンM23を駆って開幕戦ブラジルで自身初のポール・ポジションを獲得、その後第4戦スペイン、第8戦フランスを制し、徐々にトップ・ドライバーと互角に渡り合える所まで来た。第10戦ドイツ・グランプリを前に、58ポイントのラウダに対し、ハントは24ポイントで4位にいた。しかし、第9戦イギリスでトップでチェッカ?受けたにも関わらず、スタート直後の赤旗中断時に既にマシンを止めていた(再スタートに出走可能なのは赤旗の時点で走行していたマシンに限られる)、と言う裁定で失格となっていた。そして迎えた第10戦ドイツ/ニュルブルクリンクで、ラウダは小雨の中緩やかなコーナーでクラッシュし、一時は"死亡説"が流れる程の重症を負ってしまう(lap65-"ある4人の英雄達"/'76年ドイツ・グランプリの真実-参照)。このレースはハントが制したが、ポイント・リーダーのラウダの突然の戦線離脱により、突如シリーズは渾沌として来たのである。 ハントは第11戦オーストリアを4位、続く第12戦オランダで4勝目を挙げる。更に、第9戦イギリスの結果が審議の末覆され、失格で失った優勝10ポイントがハントに与えられ、ラウダに2点差と迫る56ポイントとなって一躍チャンピオン候補となった。だが、第13戦イタリア・グランプリに、不死鳥のごとく蘇ったラウダが顔面に大火傷を負った痛々しい姿でサーキットに帰って来たのである。 ラウダは全身と顔の火傷に加え、肺の損傷と言う重傷を負いながらも僅か6週間でグランプリに復帰した。フェラーリ・チームさえ、ラウダの復帰は不可能と判断して後任ドライバーを既に決めていた程であった。しかも場所はラウダの乗るフェラーリの聖地モンツァ、ハントは途端にイタリア中を敵に回す"悪役-ヒール-"となってしまった。イタリア・グランプリ予選2日目、マクラーレンの使用する燃料が僅かな誤解から"違法"と判断され、タイム抹消。前日の予選1回目は雨だった為、ハントの有効タイムは25位相当のものでしか無かった。決勝では後方から追い上げるが、トム・プライス(シャドウ)と11位を争っている時にコース・アウトし、リタイア。モンツァの大観衆は熱狂した。ラウダは堅実に4位でフィニッシュし、3ポイントを加え、タイトル獲得へ意欲を見せた。更に、一旦失格となった後、優勝の裁定が下った第9戦イギリスの結果が、結局失格に戻ってしまったのである。そしてプライベートでは、妻がとある有名俳優の元へ去った。全ての事柄はハントに"逆風"となっていたのである。本人言わく「命からがら」モンツァを脱出したハントは、頭の中を整理し直した。「落ち着け。ラウダは神じゃない。同じ人間だ」そして第14戦カナダ/第15戦アメリカと連勝。最後になって強靱な集中力を見せたハントは、再びラウダに3ポイント差と迫って、最終戦の舞台となる日本/富士へ乗り込んで来たのである。 冒頭の通り、決勝日はレース中止も検討される程の雨。ラウダは明らかにナーバスであった。ニュルブルクリンクでの大クラッシュも雨、そして幾らアタックしても抜けず、結果的にハントが初優勝した'75年オランダも雨であった。ラウダにとって、このレースは出走する事そのものが地獄であった。結局、ドライバーズ・ミーティングではふたりのドライバーを除き、全員がレース中止を望んだ。だが、スタートを承諾したふたりの中に、ハントは含まれていなかった。それどころか「こんなコンディションの中で走るなんて危険過ぎる」と、ドライバーを代表して主張したのはハント、ラウダらを中心としたドライバー安全委員会だったのである。マクラーレンのスタッフは「ジェイムズ、レースに出走しなければタイトルは獲れないんだぞ」とハントを促したが、ハントは逆に「君らはニキの事故を見なかったのか!」と一喝した。 .....しかし、結局レースは"超満員のファンの興奮を押さえ切る事が出来ない"、"TV中継の契約上、中止は難しい"、そして"日没までに終了させる為にはこれ以上遅らせられない"等の理由により、スタートが決行される。グリッド上で霧が晴れるのを待ち、3時9分にレースは突然スタート。激しい水しぶきの中、予選2位のハントが1コーナーを奪う。しかしラウダは、たった2周しただけでマシンを降り、フェラーリのクルーに「危険過ぎる」と言い残し、そのまま羽田空港に向かった。自らレースを、そしてチャンピオン・シップを放棄したのである。この時点で、ハントは3位/4ポイントで逆転チャンピオンが可能だった。しかしハントは無心で走っていた。22周目にビットリオ・ブランビラ(サーティーズ)を振り切ると、その後はトップを独走した。徐々に雨は小降りになり、レース終盤は完全にドライとなった。 ハントのリア・タイヤがバーストしたのは68周目であった。予想以上に路面が乾くのが早く、ハントのバーストをきっかけに、各チームがタイヤ交換を始めた。ハントは、未知のサーキットで"スケープ・ゴート"となってしまったのである。残り5周、どうにかピットへ戻ってタイヤ交換を済ませたハントは5位に落ちていた。逆転王座は既に絶望的であった。しかし、ハントは残された5周を全力で走る事に決めた。ファイナル・ラップ、周回遅れのマシンを何台も抜いた。無我夢中で走った。そしてチェッカーが振られた。「終わった.....」そう呟いて、ハントはゆっくりとピット・ロードへ帰って来た。 ハントは、「路面コンディションやラップ・タイムから、もっと早くタイヤ交換の指示を出さなくては危険だ」と、チーム・クルーに言うつもりでいた。だが、クルーが皆笑顔で、そして指を3本立ててハントを迎えた。ハントは初めどう言う意味か解らなかったが、マシンを止めるとマクラーレンのマネージャー、テディ・メイヤーが「やったぞ、3位だ!」と叫んでいるのが聞こえた。優勝マリオ・アンドレッティ(ロータス)、2位パトリック・デパイエ(ティレル)、そして3位はハントだった。無我夢中で走っていたハントは、レース終了直前に3位アラン・ジョーンズ(サーティーズ)、4位レガッツォーニ(フェラーリ)の2台をブチ抜いていたのだ。ハント本人が周回遅れだと思っていたマシンの中に、前方を走るライバルが含まれていたのである。「信じられない」狐につままれたような表情のハントは、僅か1ポイント差で逆転王座に着いたのである。 .....翌'77年、マクラーレンは新車M26の熟成に手間取り、シーズン後半にハントが3勝を挙げるもタイトルは前年苦汁を舐めたラウダが奪い、ハントはランキング5位でシーズンを終了。翌'78年はマクラーレンのマシンが完全に"時代遅れ"となってしまい、未勝利/リタイア9戦でシリーズ13位へと転落。'79年、ハントはヘスケス時代の盟友、ポストレスウェイトの誘いでウルフ・チームへと移籍する。だが、この頃F-1は完全なる"グランド・エフェクト競争"と化し、ドライバーの能力よりもマシン性能に合わせたドライヴィングが求められる事に幻滅、第7戦モナコ終了時に突如引退を表明。32歳と言う若さでレーシング・ドライバーと言う仕事を自ら終えたのである。F-1出走92戦、10勝/'76年ワールド・チャンピオン。ポール・ポジション獲得14回、最速ラップ8回、獲得ポイント179点。初めてミニでレースに出てから、まだたったの12年であった。 .....サリーの暴走青年、そしてF-3時代には"ハント・ザ・シャント"と言われたハントが、F-1では安全面に気を使う神経質なドライバーだった事はもうお解りだと思う。それは何故か。ハントがF-1で過ごした7年間で、実に8人のドライバーがレース中の事故で死亡している。前述のセヴェール、ピーターソン、プライス等、ハントと共にレースを戦った者達の死がハントの価値観に大きく影響し、結果的にハントはドライバーを代表して安全委員会のひとりとなったのである。最終戦で自らがチャンピオンになる為にどうしても出場しなければならない筈の'76年富士のレースで、スタート決行に反対したのは、決して安全委員会のメンバー、と言う立場からでは無く、そう考えるのが当然、と言うものだったのだ。翌'77年の最終戦日本では、第1コーナーの立ち入り禁止区域に観客がいるにも関わらずレースがスタートされ、結局マシン・クラッシュで観客2名が死亡する事故が発生。このレースに優勝したハントはチェッカーを受けた後この事実を知らされ、怒りをあらわにした。結局ハントは表彰式をボイコットしてピットでそそくさと着替え、ボストン・バッグを持ってサーキットを後にしたのである。 .....反面、マシンを降りたハントは実に自由奔放なキャラクターであった。実際、英国上流階級出身であるとはとても思えないエピソードが数多く残されている。例えば、各ドライバーがタキシードに身を包むパーティー会場に、ハントはあろう事かTシャツにジーンズ、スニーカー、そして伸び放題のブロンドの髪で現れる。その風貌は、ティーン・エイジャーの頃のハントと、何ら変わらないものであった。周囲の顰蹙も御構い無しである。F-1デビュー間も無い頃、ハントを溺愛し、典型的な英国紳士であったヘスケス卿とハントの組み合わせは、父に反抗する悪ガキ、と言うハントの幼年期そのままだった。 また、F-1ドライバーきっての"プレイ・ボーイ"であった事も周知の事実である。パドックで1、2を争うハンサム、長身、飾らないラフな服装、そしてテニスの腕前は一流。ハントの周囲にはいつも所謂"美女"が集まっていた。ある女性ジャーナリストが、ハントの"私生活"を暴こうと、自らが囮となってハントに誘いをかけた事があった。しかし目論み通りに事は運ばず、その女性ジャーナリストは「彼は恋愛が下手なよう」とレポートした。これについて聞かれたハントは全世界に放送されるTVインタビューで「まだヴァー○ンだと思ったから.....」と返し、見事に"お返し"をしたのである。 筆者選出、ジェイムズ・ハントのベスト・レースは言わずもがな'76年富士である。もちろん、まだ小学生だった筆者がここに記したようなラウダとの関係やレースでの心理的な部分は知る由も無いのだが、スタートと共に水煙で真っ白になったサーキットで、トップにいるハントのマクラーレンだけはハッキリと見えていた。むしろ、マールボロ・カラーのマシンにトレード・マークの黒いヘルメットと茶色いバラクラーバ、と言うハントだけが、その水煙を全て引っ張って走っているようであった。ハント自身、激闘の末にチャンピオンを決めた一戦ではあるが、それ以上にあの日のグランド・スタンドにいた我々には印象的なレース、そしてドライバーとなったのである。以後、かのDeep Purpleの名曲"Smoke on the water(水煙)"を聞くと、真っ白い帯を引き連れて最終コーナーを立ち上がって来るハントの勇姿が、今でも浮かんで来る。 .....引退後、イギリスBBCのTVコメンテーターとして"歯に衣着せぬ"鋭いコメントでF-1を語り続けたハント。'93年7月15日、ウィンブルドンの自宅で心臓発作の為に、45歳と言う若さで突然死去。薬物常用の噂もあった。今ハントは天国で何を想い、そして今のF-1に、何を言いたいのだろうか。それとも、グランプリで命を落とした多くのライバル達と、想い出話に花を咲かせているのだろうか。
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