■lap98-"君を忘れない"/ローランド・ラッツェンバーガーが残したもの-
2004.04.23


-呪われた週末-。今から10年前、'94年のF-1グランプリ第3戦、サンマリノ・グランプリは近代F-1の歴史に於いて最悪の大惨事を招いたレースとなってしまった。人々の記憶には、不世出の天才ドライバー、アイルトン・セナが命を落としたグランプリとして記憶されている。が、このグランプリそのものが予選から決勝までの3日間、完全にその機能を失っていた。そしてもうひとり、セナ以外にも命を落としたドライバーがいる事を御存じの方がどれだけいるだろうか。そして、彼の事を、どこまで知っているだろうか。

.....我々はセナを忘れない。そして、彼の事も忘れないでいたい。ローランド・ラッツェンバーガー。セナが逝く前日の'94年4月30日、イモラに散ったもうひとりの勇者の事を、今だからこそ想い出そうと思う。あの日あの時、ローランドにいったい何が起こったのか。

ローランド・ラッツェンバーガーは'62年7月4日、オーストリア/ザルツブルグにて誕生。幼い頃から母国のヒーロー、ニキ・ラウダに憧れ、レーシング・ドライバーを志す。'85年、23歳の時にフォーミュラ・フォードのオーストリア/欧州/ドイツの3大タイトルを総ナメにし、翌'86年には伝統のブランズハッチ・フォーミュラ・フォード・フェスティバルでも優勝。'87年に名門、ウエスト・サリー・レーシングからイギリスF-3/欧州F-3選手権へとステップ・アップ、欧州選手権では初勝利を挙げシリーズ5位と非凡な才能をアピール。また翌'88年はドイツのBMWがローランドの才能に着目してイギリスGTカー選手権のワークス・ドライバーへと抜擢し、シリーズ4位と活躍。'89年はイギリスF-3000選手権へ参戦し、1勝。しかしここでローランドは欧州でのレース活動に行き詰まり、日本へと活動の場を移す。'90年、全日本F-3000選手権/全日本スポーツ・プロトタイプ・カー選手権(JSPC)/全日本GT選手権(グループA)へとフル参戦し、全日本GTではBMWのエースとしてクラス優勝を果たす。翌'91年も同様に日本国内の複数カテゴリーへ参戦し、GTでは2連覇を達成。JSPCでも鈴鹿1.000kmレースで1勝を記録。'92年は全日本F-3000でも初優勝、またル・マンやデイトナ24時間等にも出場し、フォーミュラもスポーツ・カーも乗りこなす器用なドライバーとして活躍する。'93年、全日本F-3000参戦中に翌'94年にF-1へと打って出る新興チーム、シムテックからのオファーを受け、ローランドは遂に念願のF-1ドライバーとなる事が決定する。31歳、遅咲きのF-1デビューであった。

シムテックは'92年、前年までのコローニ・チームをイタリアの大手靴メーカー社長、アンドレア・サセッティが買収したアンドレア・モーダ・チーム('92年で撤退)にF-1シャシーを供給していたシムテック・リサーチ社が、新たに元F-1チャンピオン、サー・ジャック・ブラバムとの共同出資とドイツのシュミット・モーター・スポーツの協賛により結成したF-1チームであった。"シムテック"とは"シミュレーション・テクノロジー"を意味する。チームはブラバムの次男であるデビッド・ブラバムと新人のローランドをドライバーに据え、シムテック・リサーチ代表、ニック・ワースのデザインによるシムテックS941・フォードで'94年開幕戦、オーストラリア・グランプリにデビューする事となった。

この年、FIAはアクティヴ・サスペンション/トラクション・コントロール/ABS等のハイテク・電子制御デバイスを一斉禁止し、レース中の給油許可を含めた大幅なレギュレーション変更を行った。主な理由はあまりにもコストのかかるハイテク・デバイスの開発を禁止し、トップ・チームと中堅クラスの実力差を埋め、コース上でのバトルを増やそうとの目論みであった。が、急激なレギュレーション変更は結果的にますます下位チームの財政事情を苦しめ、ロータス/ミナルディ/ラルースら資金難に苦しむチームはレースでも明らかに苦戦した。この年はシムテックとパシフィック・グランプリの2チームがF-1デビューしたが、"前年モデル"と言う制約を持たないシムテックは特殊な空力処理/サスペンション技術を用い、新チームとしては比較的良いスタートを切った。信頼性を武器に、サバイバル戦ではポイント獲得も夢では無い戦闘力を発揮するのでは、と期待された。

開幕戦オーストラリア、これが初のF-1レースとなるローランドは27位で惜しくも予選落ちとなるが、僚友ブラバムがひとつ上の26位で予選通過し、決勝は12位フィニッシュ。第2戦パシフィック(岡山/TIサーキット英田)では2台揃って予選通過、ローランドは初のF-1出走を"第二の故郷"日本で果たし、レース序盤はオリビエ・パニス(リジェ・ルノー)、エリック・コマス(ラルース・フォード)らを従えて快走、結局F-1初レースを11位で終えた。

.....そして、'94年F-1グランプリは第3戦、サンマリノ・グランプリの舞台となるイタリア/イモラ・サーキットへとやって来た。フライ・アウェイが終わり、欧州ラウンドが始まるここからがシーズンの本格的なスタートとなる。しかし、この週末、グランプリは明らかに"呪われて"いた。

4月29日、予選第1日目。ジョーダン・ハートに乗るルーベンス・バリチェロが最終シケイン手前のバリアンテ・バッサで200km/hを超えるスピードでコントロールを失い、コース・アウト。マシンは縦方向に宙を舞い、タイヤ・バリアに激突してフロント部から地面に落下、バリチェロは鼻骨を骨折し、気絶。幸いメディカル・センターに運ばれた際に意識を取り戻したが、グランプリ・ドクター、シドニー・ワトキンス教授から翌日以降の出場を取り止める事を通告される。真っ先にバリチェロの元へ駆け付けたのは、母国ブラジルの大先輩、セナであった。バリチェロはセナと言葉を交わし、大事を取って帰国する。

.....そして4月30日、予選2日目。タイム・アタックに入ったローランドのシムテックは最終コーナーでショート・カットによるコース・アウトを喫し、縁石でフロント・ウィングにダメージを負ってしまう。その翌周、ビルヌーヴ・コーナー手前でフロント・ウィングのフラップ右半分が突如脱落。ローランドのマシンは一瞬にして全てのダウン・フォースとコントロールを失い、制御不能のままビルヌーヴを曲がれずに300km/hオーバーでコンクリート・ウォールに激突、跳ね返って再びコース上まで戻って来た。しかしその時、ローランドのシムテックS941は既に原形を留めてはいなかった。モノコックは破壊され、コックピットからはローランドの左腕がぶらんと垂れ下がっていた。午後1時18分、予選セッションは赤旗中断となり、レスキュー隊がローランドのマシンに駆け寄った。が、ローランドはコックピットでピクリとも動かない。その場で応急処置と心臓マッサージが施され、ヘリコプターでボローニャ市内のマジョーレ病院へと搬送。しかし事故発生から約1時間後の14時15分、医師団の懸命の治療の甲斐無く、ローランドの死亡が正式に確認された。ほぼ即死であった。ローランド・ラッツェンバーガー、31歳と言う若さでイモラに死す。

F-1グランプリ(テスト等では無く、グランプリ開催中)での死亡事故は'82年第8戦カナダのリカルド・パレッティ以来、12年振りに起きた悲劇であった。またそれは、人々が"F-1で死亡事故が起きる"と言う現実を忘れかけていた、いや実体験として知らない者達への、信じられない程の衝撃となった。だが翌日、更なる悲劇が立て続きに起こり、ローランドの死は呪われた週末の一部と化してしまう。

5月1日、午後2時2分。サンマリノ・グランプリ決勝レースはスタートでエンジン・ストールした予選5番手のJJ・レート(ベネトン・フォード)に、後方から来たペドロ・ラミー(ロータス・無限)が避け切れずに激突、衝撃で吹き飛んだマシンの破片がグランド・スタンドに飛び込み、観客8人が負傷。コース上にはレート車のオイルが激しく溢れるが、レースは赤旗とならず、セーフティ・カー先導で続行。コース上の処理が終了した4周目、レースは再開。トップはセナ(ウィリアムズ・ルノー)、2位ミハエル・シューマッハー(ベネトン・フォード)。7周目/午後2時17分、セナのマシンが高速の左コーナー、タンブレロを曲がれずに直進してコンクリート・ウォールに激突、レースは赤旗中断。セナは前日のローランド同様レスキュー隊に救助され、事故発生から16分後にヘリコプターでマジョーレ病院へと搬送。2時52分、これだけの惨事にも関わらずまたもレース再開。41周目、ミケーレ・アルボレート(ミナルディ・フォード)がピット・アウトする際に右リア・タイヤが外れ、フェラーリとロータスのメカニック4名がタイヤの直撃を受けて負傷。そしてレース終了後(勝者シューマッハー)、午後6時3分にセナは脳死状態となり、6時40分、永遠の眠りに着いた。

.....たった3日間で死者2名、負傷者13名。それも、グランプリ・ウイーク・エンド初日から事故が続発していた。レースは、中止されるべきだった。終わってから結果論として言うのでは無く、幾人かの勇気ある人々がそれを叫んでいた。決して神憑かり的な事を言うつもりは無いが、少なくともローランドの事故の後、イモラには奇妙な異音が響いていた。嫌な響きであった。ワトキンス教授も自身の著書で「嫌な予感がしていた」と告白している。「これ以上続けてはいけない」その叫びは幾らかの人の耳には届いたが、巨大化した"F-1グランプリ・サーカス"の流れを変える程の力を持ってはいなかった。果たしてローランドの死は、無駄となってしまったのだろうか。

ローランドの親友でもあり、良き相談相手だった同郷のオーストリア人ドライバー、ゲルハルト・ベルガー。彼はこの呪われた週末に、友人をふたりも失った。「アイルトンの棺を担いだ翌日、ローランドの葬儀に出た。どちらも、考えた事も無い出来事だ。『全てが夢だ』と、自分に言い聞かせるしか無かった」更に翌第4戦モナコ・グランプリではフリー走行中にまたもオーストリア人ドライバー、カール・ベンドリンガーがトンネル後のシケインでクラッシュ、頭部を打って意識不明の重体となった。ベルガーは同郷のラウダとシューマッハー、クリスチャン・フィッティパルディらと共にGPDA(ドライバーズ協会)を結成し、サーキット/レースの安全性を高める為の戦いを始めた。「一時は引退する事も考えた。でも、僕達に出来る亊は、アイルトンやローランドの死を無駄にしない事なんだ」

'82年の惨劇を知る男、そしてセナの最大のライバルでもあったアラン・プロストは叫んだ。「アイルトンの事故は本人のせいじゃない。ローランドの事故が起きたばかりだと言うのに、興行目的でレースを続行したF-1グランプリそのものとレギュレーションのせいだ。走っているのはドライバーなのに、彼等はそのドライバーの意見を聴こうともしない。レースを知らない愚かな老人達が、今のF-1を取り仕切っているんだ!」プロストは'82年、目の前でパレッティ、ビルヌーヴを失い、ホッケンハイムでは雨でスロー・ダウンしていた際に水煙で視界を奪われたディディエ・ピローニが猛スピードでプロストのマシンに突っ込み、両足を切断する重症を負った当事者でもある。以来、雨のレースの危険性、コースやオーバー・テイク時の安全性確保を叫び続けて来たドライバーであった。「レースは中止するべきだったんだ」セナの母国ブラジルの英雄、エマーソン・フィッティパルディもまた、度重なる事故にも関わらずグランプリが続行された事に憤りを感じるコメントを出した。「今度の事で、"春眠を貪っていた"上の方の連中は目を覚ますだろう。だが、遅過ぎた」

サンマリノ・グランプリ予選初日のバリチェロのクラッシュは、本人が命に別状無く、次戦からの復帰が可能な程度の怪我で済んだ為にその原因に付いて多くを語られない。しかし、一歩間違えば大惨事になっていた程壮絶なクラッシュであった。「バリアンテ・バッサで突如マシンがグリップを失った。それ以上の事は覚えていない。痛みも記憶に無い」セナの事故は'04年現在、所謂"セナ裁判"がイタリアで再び再開される、と言うニュースが駆け巡ったが、事故の真相は今だ明らかでは無い。だが、ローランドの事故原因は明らかである。コース・アウトによるフロント・ウィング破損、そして脱落。シムテック・チームとローランド自身は、ここで緊急ピット・インを行う必要があった。が、予選通過最後尾の26位に位置していたローランドは、コースに慣れて来た事も手伝い、翌周もフライング・ラップを続ける決断をした。恐らくセクター・タイムが振るわなかった場合、スロー・ダウンしてノーズ修復の為にピットへと向かった筈である。が、不幸にも最初の計測地点の手前でウィング脱落は起きた。.....おおローランド、何故ピットへ帰って来てくれなかったのか。最終的に君の数周前のタイムは予選26位に相当したと言うのに。

反対に、セナの事故原因は今も謎に包まれたままである。ステアリング・ロッドの破損、セナ自身の要望による危険な改造疑惑、後方を走っていたシューマッハーの「セナのマシンは事故の数周前から激しくリア部を路面に擦り、火花が上がっていた」との証言.....。セナは前日、ローランドの事故現場へ行き、「何と言う事だ」と嘆いていた。ワトキンス教授の肩にもたれ、セナは泣いた。ワトキンス教授は動揺するセナを抱き締め「もう走らなくて良い。君はレースを引退するべきだ」と諭した。だがセナは「僕は走らなくてはならない。それは、僕自身にはコントロール出来ない事なんだ」と答えた。その夜、セナは親しい友人やガール・フレンドのアドリアーナにも「走りたくない」と漏らしていた。が、もしセナがサンマリノ・グランプリを走らない決断をしたとしたら、周囲、いや世界中に何と言われるかも想像出来る。後から「嫌なら走らないで欲しかった」と言うのは簡単だが、それは我々のエゴにすぎない。

イモラ・サーキットは、セナの逝った高速コーナー、タンブレロを中心としたハイ・スピード・コースとして名高い歴史と伝統のサーキットであった。が、ここではあわやの事故が過去何度も起きていた。タンブレロだけでも'87年のネルソン・ピケ(ウィリアムズ・ホンダ)、'89年のベルガー(フェラーリ)がセナ同様全く曲がる気配無くコンクリート・ウォールに激突。'92年にはテスト中にリカルド・パトレーゼ(ウィリアムズ・ルノー)がタンブレロ出口を直進してクラッシュ。いずれも「リア・タイヤがパンク/バーストしたのでは無いか」と言う説が有力であった。これだけ同ケースの事故が起こるには、必ず理由/原因がある。ひとつ考えられるのはイモラ・サーキットの路面である。高速サーキットであるが故のロー・ダウン・フォース・セッティングに於いて、イモラのコースはセンシティヴ過ぎるのでは無いか、車高調整の幅が狭く、重心を下げたセッティングではマシン下部のどこかが路面のミューに対応出来ず、何処かを擦ってしまい過ぎるのでは無いか、そしてそれは、よりによってレコード・ライン上が最も激しいのでは無いか。もしそうなら、シューマッハーの「セナのマシンは激しくリアを擦って火花を上げていた」との証言は肯定される事になる。そして第二に、エスケープ・ゾーンの狭さとコンクリート・ウォールの存在である。結論から言えば、300km/hを超える高速コーナーに対してエスケープ・ゾーンが狭過ぎる(しかもタンブレロはサンド・トラップでは無く通常のアスファルト路面のままであった)事が最大の問題である。セナもローランドも、コース・アウトした際に逃げ場が無く、減速もコントロールも不可能な状態でそのままウォールにクラッシュしているのである。だがもし、ここが広く深いサンド・トラップであったなら、決して死に至る事は無かった筈である。「チャレンジング」や「スペクタクル」と言う言葉でエキサイティングな走りを求める人々からは反論もあるかも知れない。が、ドライバーは死と隣り合わせで戦っているのでは無い。興行的な面白味の為に、ドライバーの命が危険に曝されて良い筈が無い。翌'95年からタンブレロは低速コーナーとなり、ビルヌーヴへの進入スピードも落ちた。が、フィッティパルディの「遅過ぎた」のひとことが全てである。

真相がどうであれ、これらが人災である事には違いが無い。人災とは、未然に防ぐ事が可能なものである。ローランドの事故もまた、人災であった。経験不足のドライバーと、経験不足の新興チームによる、あさはかな決断ミスだった、と言わざるを得ない。ローランドの事故は、新興チーム/ルーキー・ドライバーであるが故のミスの重なり、と言う意見は正しい。では、セナはどうか。同じ週末、同じサーキットで、同じように命を落とした事に違いは無い。そして、どちらも1.000分の1秒を削り取る為に懸命にマシンをドライヴし、ふたりともサーキットの安全性に身を委ねる事が出来ずに絶命した。出走3戦目、予選落ちギリギリのラインでコース・アウトしながらも必死にタイム・アップを計るローランドと、開幕2戦で若手シューマッハーの後塵を拝し、チャンピオン・チームのエースとして何としても勝たねばならぬセナ。いったい何が違うと言うのか。F-1、モーター・レーシングとは、そう言うものなのでは無いのか。現在、確かにF-1の安全性は飛躍的に高まっている。それは明らかに'94年のローランドとセナの死による"教訓"である。だが、'00年イタリア/'01年オーストラリアではコース・マーシャルの死亡事故が起きており、全てが万全とは凡そ言い難い。"起きてからでは遅い"のだ。

.....'94年のル・マン24時間レース、サード・トヨタ94CVのボディ・カウルには出場する3人のドライバー、エディ・アーバイン/ジェフ・クロスノフ(彼もまた'96年にCARTで事故死してる)/マウロ・マルティニ以外にもうひとり分、名前が書かれていた。ローランド・ラッツェンバーガー。本来ならこのマシンでエントリーする筈だったローランドの名を、サード・トヨタは一番上に書き、彼と共に全日本F-3000を戦った3人のドライバーにマシンを委ねたのである。このレースでサード・トヨタはトップを快走するも終盤ギア・リンケージのトラブルでコース上でストップし、クロスノフが自ら応急処置を施してピットへ帰還、修理後コースへ復帰し、アーバインが鬼神の追い上げでフィニッシュ直前に2位へ上がる素晴らしいチーム・ワークを見せた。そして、3人のドライバーは口を揃えて「ローランドがいたら楽勝だった」と笑顔でコメントした。

.....ローランドと同じ時期に全日本F-3000を戦ったドライバーの中に、ミカ・サロがいる。サロはシューマッハーが負傷欠場を余儀無くされた'99年にフェラーリに大抜擢され、コンストラクターズ・タイトル獲得に貢献したが、同年に全日本F-3000時代に知り合った元タレントの日本人、賀子夫人と結婚。夫妻の長男の名はマックス・優輝・ローランド・サロ君。.....もうお解りだろう。サロ夫妻は全日本F-3000時代に知り合った"親友"、ローランドの名を息子に授けたのである。如何にローランドが人々に愛されていたか、お解り頂けるだろう。

.....あれから10年の月日が流れ、セナは"伝説"と化した。が、ローランド・ラッツェンバーガーは人々の記憶に留められているだろうか。あれ以来、'94年の"呪われた週末"を"セナとラッツェンバーガーの悲劇"等と呼ぶ事が多く、その名は語り継げられているかも知れない。だが、我々は知名度や実績と言う理由で彼を忘れて行く事が可能な状況下にいる。だからこそ、もう一度彼の事を胸に記そうと思う。志半ばで逝った日本を愛する好漢、ローランド・ラッツェンバーガー。きっとローランドは天国でセナと共に現代のF-1を見守ってくれている筈だ。



「セナだけじゃないんだ。皆、ローランドの事も忘れないでいて欲しい」
-'98年/ジャック・ビルヌーヴ-


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