| .....先日、御殿場にあるレーシング・パレスに行って来た。お目当てはアロウズA-2('79年)である。「わっはっは。やっぱマトモじゃねーぞ、この発想!」なんて笑い飛ばし、セナ人形の乗ったウィリアムズFW16('94年)の前でしゅんとなり、タイレルP-34('76年)の10インチ・タイヤの小ささにあらためて感心し.....そこで「ん?」と気になったのは、なんか展示モノにしては妙にピカピカと光る、幅広のエンジン。展示用ベンチに乗せられたそいつの正体は、スバル・モトーリ・モデルニ!。おお、実物は初めて見た。キレイだ。.....つ、使ってナイからか?.....なんて色々考えつつ、このコラムでホンダ/無限/トヨタ/ヤマハ、あげくにコジマだのマキだのまでを紹介して来た筆者が、そー言や書いてなかったっけ、と言うジャパン・パワーがここにいた。う-ん、こりゃつまり「書け」って事なのね。 .....'90年、空前のF-1ブームを迎えた日本からF-1グランプリの舞台へ打って出たもうひとつのメーカー、スバル/富士重工。が、WRC(世界ラリー選手権)では常勝を誇るこのニッポン代表も、フォーミュラ・カー・レースに於いてはその知名度は恐ろしく低い。いや、ひょっとしてスバルがF-1をやってた事すら、若い人は御存じ無いんではないだろうか。知名度が低い、と言う事はつまり活躍していないと言う証明でもあるのだが、では何故活躍出来無かったのか。 まず、スバル/富士重工と言う会社そのものについて知っておこう。富士重工株式会社は'17年(大正6年)に元海軍機関大尉の中島知久平が興した戦闘機/航空エンジンメーカー、中島飛行機が母体である(ちなみに後の第一期ホンダF-1総監督、中村良夫氏も中島飛行機出身である)。終戦後の'50年に株式会社富士産業となり、"戦争"と言う元々攻撃を主な使命とした開発から脱却し、庶民の役に立つ分野での開発を志し、且つ航空機で培ったモノコック構造を使ったフレーム・レス・リア・エンジンのバス"ふじ号"を開発。'53年にはグループ内の5つの主な企業(東京富士産業/富士工業/富士自動車工業/大宮富士工業/宇都宮車両)が統合し、新たに富士重工業を設立。5つの会社がひとつに、と言う意味でシンボル・マークに六連星が用いられ、これがすなわちスバル(昂)を意味する。'54年、それまでスクーターの量産等を中心としていた富士重工がスバル・ブランドとして初めて"スバルP-1"と言う高級車のプロト・タイプを製作、そして開発陣の血の滲む努力の末に誕生した'55年発表の国産大衆車、"てんとう虫"ことスバル360が爆発的にヒットし、低価格/大人4人乗り/僅か360cc、等、戦後の日本に於ける"夢のクルマ"を実現した初の国産車となったのである(TV番組"プロジェクトX"のスバル360の時、筆者は涙ボロボロ出しながら見てまひた)。その後スバル/富士重工は軽自動車や4WDの分野で成長を遂げ、レオーネ/レガシィ/インプレッサ等の名車を次々と発表。また、'77年のロンドン〜シドニー・ラリーを皮切りに国内/欧州/アメリカ等世界各地で行われるラリー・カー・レースへと参戦、'80年のサファリ・ラリーで初のクラス優勝、'93年にレガシィでWRC初優勝を果たし、'95年に初のWタイトルを獲得。以後、現在までWRCで未勝利に終わったシーズンは無く、「スバル抜きでラリーは語れない」と言う程の存在となった。 そして、このスバルが'66年から現在まで一貫したスタイルとして継承し続けているのが、水平対向エンジンの採用である。クランク・シャフトの左右でボクサーの拳のようにピストン運動を繰り返す様から、通称"ボクサー・エンジン"と呼ばれるこのスタイルが、実はスバルのF-1参戦に非常に大きな意味を持っていた。 '84年、アルファロメオのエンジン・デザイナーだったカルロ・キティが独立し、翌'85年からのF-1参戦を目論むイタリアのフィアット・ディーラー、ジャンカルロ・ミナルディのリクエストでキティ自らが興したエンジン・サプライヤー、モトーリ・モデルニ。ミナルディの為に開発したV6ターボで'85〜'87年のF-1グランプリを戦うが、ホンダ/ポルシェ/BMW/ルノーらのハイ・パワー・ターボを擁するライバルの前に歯が立たず、ミナルディは'88年いっぱいでのターボ禁止レギュレーションを見越してNAのコスワースV8へとスイッチ。モトーリ・モデルニはミナルディに劣らぬ"弱小チーム"、AGSに供給するがやはり結果は出せず、キティ自らも3.5リッター/NAレギュレーションに向け、'88年に新たに水平対向12気筒NAエンジンを製作する。このエンジンはミナルディのマシンに搭載されてテストを行うが、結局ミナルディはコスワースを選択。モトーリ・モデルニ製W12エンジンは結果的に宙に浮く形となってしまった。 .....そろそろお気付きだと思うが、スバルとモトーリ・モデルニを結ぶ接点が、この"水平対向エンジン"と言うカテゴリーである。結局F-1で何も成果を上げられなかったキティは、モトーリ・モデルニそのものを譲渡出来る相手を探し始める。ホンダがマクラーレンと組み16戦15勝と言う正に全盛期を迎え、ヤマハがF-1活動を一時撤退し、NAエンジン・レギュレーションによりF-1グランプリにエントリーするマシンは実に40台に膨れ上がりつつあった'88年、スバルに「イタリアのモトーリ・モデルニ社がW12エンジンの始末に困っている」との一報が入る。富士重工上層部の判断は至ってシンプルであった。「水平対向エンジンならウチの分野だし、今F-1流行ってるし。よし、買っちまえ」.....と言う返事だったかどうかは解らないが、早いハナシがそう言う事である。 '88年、スバルはレース部門の子会社"スバル・テクニカ・インターナショナル(STI)"を設立、翌'89年には"スバル・テクニカ・ヨーロッパ(STE)"を作り、欧州でのレース活動の前戦基地とする。この間、モトーリ・モデルニ製のW12エンジンのモディファイに協力し、最終的にスバル-MM(モトーリ・モデルニ)の名称で新たなW12エンジンを完成する。概要は水平対向12気筒/60バルブ、排気量3497cc/最高出力300馬力オーバー/13.000回転/重量159kgのアルミ/マグネシウム合金製(これもまたスバルの伝統である)で、全長743mm/全幅725mm/全高399mm。一言で言って"デカイ"エンジンである。そして問題は、誰が/どこのチームがスバル-MMエンジンを搭載するのか、であった。 エンツォ・コローニ率いるイタリアの強豪F-3チーム、コローニ。'87年からF-1へとステップ・アップするもノーマル・チューンのコスワースで苦戦を強いられ、慢性的な資金難からF-1撤退のピンチを迎えていた。コローニは同じイタリアのモトーリ・モデルニ/キティとの親交が深いチームでもあった。そして、断末魔のバブル経済の日本で、スバルは後1年遅かったら不可能な決断をする。それが"コローニ買収"であった。結果的にスバルはエンジン・サプライヤーとコンストラクターの両方を買収した形となる。 '90年、開幕戦アメリカ・グランプリ。エントリーの中には"スバル・コローニ・レーシング"の名があった。開幕戦のエントリー台数は35台。金曜午前に予備予選が行われ、前年の成績下位チーム9台のマシンが午後の本予選出場権(上位4台)を巡って戦う。スバル・コローニの運命はベルギー人ドライバー、ベルトラン・ガショーひとりの手に委ねられた。 .....結果は、参加9台中最下位であった。それも、まともに1周も出来ぬままセッションは終了した。ガショーの記録したタイムは5分15秒010、ピット・アウトしてそのままスロー走行しながらピットへ帰って来ただけである。ちなみにひとつ前にいる、こちらも水平対向12気筒エンジン搭載のイタリア・チーム、ライフ(ドライバーはゲイリー・ブラバム)のタイムは2分7秒147、予備予選通過ボーダー・ラインのラルース・ランボルギーニ(鈴木亜久里)が1分33秒331、ポール・ポジションを獲得したゲルハルト・ベルガーのマクラーレン・ホンダのタイムは1分28秒664であった。熟成、信頼性、戦闘力、テスト。全てが"不足"していた結果であった。第2戦ブラジル。予備予選参加8台中7位、タイムは1分34秒046。ひとつ前のユーロブルン・ジャッド(ロベルト・モレノ)は1分25秒763、ボーダー・ラインはAGS・コスワース(ヤニック・ダルマス)の1分24秒015、スバル・コローニとのギャップは約10秒。第3戦サンマリノ、参加8台中惜しくも5位、1分33秒554。ひとつ前(ボーダー)はモレノのユーロブルンで1分28秒178、ギャップは5秒。第4戦モナコ、9台中8位、1分39秒295、ひとつ上のユーロブルン(クラウディオ・ランジェス)は1分33秒195、ボーダーはモレノの1分28秒295、ギャップは11秒。第5戦カナダ、9台中7位、1分44秒185。ひとつ前のダルマスが1分30秒460で既に13秒差、ボーダーのラルース(エリック・ベルナール)は1分29秒844、ギャップは15秒。第6戦メキシコ、9台中7位、1分28秒805、ボーダーの鈴木は1分27秒511、ウェットでタイム差が縮まり、後1.5秒で予備予選突破であった。第7戦フランス.....。 .....フランス・グランプリ/ポール・リカール・サーキットに現われたコローニのシャシーに、スバル・MMエンジンは搭載されていなかった。スバルは、たった6戦でチームを再びコローニに売却し、F-1を撤退してしまったのである。これ以降コローニ・チームはフォード・コスワースV8エンジンを使用、第11戦ベルギーで初めて予備予選を通過するが、結局シーズンを通じて1度も決勝に駒を進める事は出来なかった。 宙に浮いたイタリア製のW12エンジンの権利と弱小チームを買収し、F-1をやってはみたもののまともな戦闘力を持たず、毎戦予備予選で敗退して金曜午前中にサーキットを後にし、広告効果も全く得られず、いやむしろ悪いイメージだけを残し、シーズン序盤のたった6戦で撤退。.....簡単に言えばそれだけの事である。こう書くと非常に無責任なスタンスに見えて来るが、恐らくこの参戦でスバルの目的は果たせた筈である。 スバルは、決してホンダに勝とう等と言う目的でF-1に打って出たのでは無い筈である。もしそうなら、巷で言われているスバルのF-1総予算は、あまりにも安過ぎる(数億円、との話である)。更に、モトーリ・モデルニの設計したエンジンをモディファイする、と言う形が、ひとつの自動車メーカーとして、果たして納得行くものなのだろうか。いや、有り得ない。むしろ、スバルは富士重工創業当初から「欧州車の真似をするのでは無く、独自のアイデアで車を作る」事をモットーとして来た会社である(ちなみに市販車に"スバル"と言う和名を付けたのは富士重工が日本初である)。ここから推測される答はこうだ。「F-1が流行ってて、同じ日本のホンダさんが勝っている。世界中のメーカーが競うF-1エンジンのレベルって、どの程度のものなんだろう。知りたいとは思うが、そんなもの作る金も余裕も無い。何?、イタリアの小さなメーカーがウチと同じW12作ってF-1やろうとしたけど資金難で止まってる?、じゃあ、ウチもちょっと出して、F-1見てくるか。今ならギリギリ金も出せるし」.....こんなところだろう。そして、スバルはF-1のレベルを実感し、自分達の進むべき道では無い事を確信する。水平対向エンジンは、近代オープン・フォーミュラには不向きである事、アルミ製低重心エンジンのメリットは、ハコ車でこそ活かされる事。それを知ったスバルはその後ラリーで快進撃を続け、事実他のフォーミュラ・カテゴリーには一切参戦していない。 このケースに於いて、最も道を誤ったのはモトーリ・モデルニのカルロ・キティであろう。何故なら、水平対向エンジンの存在意義そのものが、自らが籍を置いていたアルファ、そしてマルチ・エンジンの老舗フェラーリでさえも見切りを付ける時代であった事を、キティは身誤ってしまっていたのである。結果的に僚友であった筈のミナルディはシンプルで軽量なコスワースV8を選択し、スバル-MMの初戦となった'90年開幕戦ではなんと予選フロント・ロウを獲得しているのである。更に、時代は既にマルチ・エンジンそのものをも過去のものとしようとしていた。'91年のマクラーレン・ホンダを除き、V12エンジンにF-1での勝機は無かったのである。実際、'90年のタイトルはV10のマクラーレン・ホンダが奪い、シーズン終盤にはフォードV8のベネトンが2連勝を果たしているのである。 前述の'90年序盤の予備予選の中に、スバル・コローニ同様苦しい戦いを強いられていたライフ・チームがいる。彼等もまたW12レイアウトの自社製エンジンでF-1に挑戦したが、ある意味スバル・コローニ以上に悲惨な結果であった。こちらもエンジン搭載チームが見つからずにファーストと言う企画倒れチームのシャシーを購入、自チーム参戦に踏み切った口である。そしてモトーリ・モデルニ/ライフに共通している事は、12気筒の高出力と、8気筒のコンパクトさをミックスしようとした点である。その本意は、'89年からのターボ禁止〜NAレギュレーションによって、潤沢な資金で馬力を上げ続けたメーカー・エンジン勢に、アイデア勝負をかける最後のチャンスだったからに他ならない。同じ事を低予算で追従するよりも、誰も手を出さない分野で巨大メーカーに"一発くれてやる"事が出来るとしたら、こんなに素晴らしい事は無いではないか。それを夢見て無謀なチャレンジをする最後のチャンス、それがNAレギュレーションだったのである。そう言った意味では、彼等のアイデア/挑戦はおおいに賞讃に値するものである。しかし皮肉にも、それは既にエンジン分野では無く、ジャン・クロード・ミジョーが送り出したハイ・ノーズ+アンヘドラル・ウィング(ティレル019/'90年)と言う、空力分野の仕事だったのである。 .....おそらく、富士重工/スバルの社内でもしばらくF-1の話題はタブーだったかも知れない。14年経った今でこそ笑い話として扱う事は可能かも知れないが、スバルのウェブサイトでもF-1での経験について殆ど触れられていない。もっとも、決勝レースへの出場記録が無いのだから当然かも知れないが、一見すると記憶から消されているような印象すら受ける。だが、彼等のF-1経験は、確実にその後の開発に活かされている。その証拠が、今我々が目にしているラリーでの活躍であろう。ホンダ/トヨタ/ヤマハらにも出来ない事を、彼等は魅せてくれているのである。
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