| .....F-1史上、最もポピュラーなエンジン、フォード・コスワースDF-V(読者の皆さんはもういい加減聞き飽きたよね、この名前.....)。名作コベントリー・クライマックスの後を受け、マイク・コスティンとキース・ダックワースと言うふたりの若者が興した小さなコスワース・エンジニアリングと言うエンジン・チューナーがフォードの依頼でF-1用エンジンを製作、'67年から'83年までに通算155勝を挙げ、キット・カー/コンストラクター時代を完全にリードした。その後F-1にはターボ時代が訪れ、そして'89年に再び自然吸気エンジンへと戻って行く。幾つかのチームが"コスワース・マジック"を信じ続け、DF-Vの後継機種であるDF-R/V8を用い、グランプリに挑戦し続けた。が、既にホンダ/フェラーリ/ルノーらのワークス・マルチ・エンジン時代が到来し、ノーマル仕様のコスワースではトップ・チームに太刀打ち出来なかった。そして、ひとりの男がDF-Rを"スペシャル・チューン・アップ"する為に立ち上がる。ブライアン・ハートは、巨大化するF-1社会の中にあって、最も自分に合ったスタイルを模索していたのである。 '36年9月7日/イギリス生まれのブライアン・ハートは、幼い頃からのメカ好きが嵩じ、大学卒業後はイギリスのデ・ハビランド航空で航空機用エンジンの設計と言う職に着いた。しかし同時に、イギリスに限らずエンジニアリングに魅せられた多くの若い技術者と同じように、ハートも自らの所有する自動車のエンジンをチューン・アップし、公道をカッ飛ばす若者のひとりであった。「"機械工学"と言えばこ難しく聞こえるかも知れないが、ようはエンジンを"ブン回す"事しか考えてなかった、って事さ」ハートはエンジンの高回転時のサウンド/独特の振動、等に魅せられ、遂にはエンジン自体をより肌身に感じられる"フォーミュラ・カー・レース"へと傾倒して行き、自らエンジンをチューニングしたフォーミュラ・ジュニアでサーキット・レースに出場し始め、とうとうイギリスF-3にまで進出した。「デ・ハビランドでの給料は殆ど全てが週末のレースの為に消えて行った。で、考え始めたんだよ。『飛行機と自動車レースと、どっちを取るか』答は簡単だった」ハートはデ・ハビランド航空を退社し、レーシング・エンジンニアリング・メーカー、コスワースへと転職する。 コスワース・エンジニアリングは、元F-1ロータス・チームの技術者、マイク・コスティンとキース・ダックワースのふたりが'58年に興した小さなエンジン・チューナーであった。彼等はフォードの市販車用エンジンをレース用にチューニングし、F-J/F-2等のミドル・フォーミュラ・カテゴリーで大活躍。それが米フォード社の目に止まり、'65年でF-1のNo.1シェアを誇っていたコベントリー・クライマックスが撤退し、更に翌'66年からF-1エンジンが1500ccから3000ccへと排気量規定が改められる為、新たなトップ・シェア・ユーザーを目指すフォードが新設計のF-1用3000ccエンジンの開発/製作をコスワースに依頼したのである(lap51-"最強エンジン伝説"/フォード・コスワース-参照)。'67年からロータスと組んで3000ccF-1へと討って出たフォード・コスワースは、名機"DF-V"を擁してその後のF-1グランプリに於けるスタンダードへと成長して行く。 ハートはコスワースでエンジニアと働きながらも、趣味であるレース出場は続けていた。それどころか、自らのチューニングによって高性能を得たハートのマシンは速く、しばしば上位でフィニッシュし、'66年にはイギリスF-3で選手権を争う程になっていたのである。「回りの連中(レーサー達)はとにかくブン回すだけだったが、多分私は運転中にエンジンのクーリングのタイミングが解る唯一のドライバーだったんじゃないかな(笑)」'67年、コスワースはF-1エンジン初年度を迎え、プライベートのF-2チーム、ロン・ハリス・レーシングのF-2用シャシー、"プロトス"(しかもモノコックが木で出来ている異端なモノであった)にコスワース製V8エンジンを載せ、実戦兼テスト・ドライバーとしてハートをF-1に出場させたのである。当時はF-1グランプリにF-2マシンでエントリーする事も可能であり、コスワースとしては実験的な意味で"大真面目"な選択であった。そして'67年第7戦ドイツ・グランプリでハートは予選を25位で通過、結果は12周リタイアだったが、見事にF-1・デビューを果たしたのである。「夢を見た感じだった。だって、ジム・クラーク、ジャッキー・スチュワート、デニス・ハルム、ブルース・マクラーレン、ジョン・サーティースにグラハム・ヒル、そしてジャック・ブラバム.....彼等とF-1レースをやったんだから!」 .....さて、"夢"を見終わったハートは、コスワースでの自分の仕事に、決して満足していたわけでは無かった。ハートは、元々小さなエンジン・ビルダーだったコスワースがフォードの資本参画によって少々大きな会社に成り過ぎていた、と感じていた。「それでもエンジンの基本設計はダックワースがほぼひとりで行い、後は分業、と言う形で、実際"与えられた仕事"以外にアイデアを入れられる部分は殆ど無くなっていた。ダックワースを見ていていつも羨ましいと思っていたし、やはり自分もひとりでエンジンをいじっていたくなったんだ」しかし、そんなハートをダックワースは気に入っていた。恐らくハートを"自分と似たタイプ"と思ったのだろう。事実、自分もエンジニアとしての独立を目指してコスワースを興したのであり、ハートの言い分はとても良く理解出来た。'69年、ハートはコスワースを"円満退社"する。 コスワースを退社して独立したハートは自らの会社"ブライアン・ハート・リミテッド"を興す。スタッフはハートを含めて僅か3人。それも、「ひとりじゃエンジンが運べないから」と言う理由でふたりのアシスタントを付けた程度の、完全なるハート個人のファクトリーであった。ハートの最初の仕事は'71年、フォードBDAをベースに1600cc/直列4気筒のF-2用エンジンを手掛ける事であった。このエンジンはスウェーデンの天才ドライバー、ロニー・ピーターソンに欧州F-2タイトルを齎す。しかし、ハートが自身のオリジナル・エンジンを作り始めた'70年代のF-2エンジン市場はドイツの巨大メーカー、BMWが完全に掌握しており、その価格はF-1用のフォード・コスワースと大差無い所まで来てしまっていた。更に、'70年代中半になるとそこにルノーが参戦し、F-2はF-1と同等のコストがかかる巨大カテゴリーへと成長してしまった。FIAはこの現状をなんとかする為に幾度かのレギュレーション変更を行うが殆どが"イタチごっこ"で終わり、'70年代後半にはエンジンを1600ccから2000ccとする大きな新規定が制定された。ここでハートはF-2での有力コンストラクター、トールマン・モータースポーツと組み、2000cc4気筒/オリジナル・アルミ・ブロックのニュー・エンジンを製作する。このハート製V4エンジンは'79年から徐々に上位争いに加わり始め、'80年には遂にブライアン・ヘントン/デレック・ワーウィックの手により欧州F-2選手権を制覇する。しかし、'81年にはホンダが無敵のV6エンジンを投入してシリーズを席巻(欧州F-2選手権は"ホンダひとり勝ち"を懸念したFIAによって'84年で終了する)し、トールマンとハートは岐路に立たされる。「結局、このままF-2をやるなら同じ金額でF-1が出来る、と言う事でF-1に進出する事になったんだよ」'81年、ハートは遂に自らの名を冠した"エンジン屋"としてF-1グランプリに挑戦する。 トールマンは元々イギリスで車両の運送を専門に行う会社であり、代表のジョン・トールマンがレース好きの社員を集めて作ったプライベート・レーシング・チームであった。しかし'75年にフォーミュラ・フォード2000を制覇してから活動が本格化し、前年の欧州F-2制覇を機に最高峰カテゴリーであるF-1にやって来た新興チームである。ドライバーにはF-2時代のままヘントンとワーウィックを起用(ヘントンはこの時既にF-1へのスポット参戦経験を持つベテランであった)、マシン・デザイナーはF-2時代からトールマンのシャシーをデザインしていた新鋭、ロリー・バーンを起用。ハートはF-2で使用した直列4気筒エンジンを改良し、シングル・ターボを搭載した。しかし、彼等のF-1での1年目は全くもってどうにもならず、トールマンTG181・ハートは'81年第4戦サンマリノ・グランプリから出場、ヘントン、ワーウィック共に予選通過1回、と言う散々な結果となった。「ターボに必要なのは信頼性。'70年代にルノーが苦しんだ理由が良く解ったよ」2年目の'82年はヘントンに代えてテオ・ファビが加入するが状況は変わらず、完走はワーウィックの2戦だけ。しかし'83年になるとハートのL型4気筒ターボの信頼性も上がり、予選ではしばしば上位に着け、速さは証明する事に成功、"ピッグ(豚)"の愛称で知られるトールマンTG183B(フロント・ウイング下部に豚の鼻のようなふたつの穴が空いていた)はシーズン終盤に向けて速さを増して行き、第12戦オランダで遂にワーウィックが4位初入賞を果たす。結局ワーウィックは最終15戦まで4戦連続入賞し、第13戦欧州グランプリでは2台入賞(もうひとりはブルーノ・ジャコメリ)も成し遂げ、ようやく戦闘力を付けて来たのである。 翌'84年、トールマン・チームに驚異の新人が加入する。前年のイギリスF-3覇者、アイルトン・セナである。セナは"ガラスの王子"と呼ばれる細みの身体でビッグ・パワーのターボ・マシンと格闘し、第6戦雨のモナコではあわや優勝、と言う活躍を見せる。「彼はメカニカルな部分に非常に精通していた。夜中まで私の隣でエンジン調整を観察し、翌日確実に情報をフィード・バックしてくれたよ」セナは3度の表彰台を含む6度の入賞でシリーズ・ランキング9位となり、名門ロータスへと移籍して行った。チームはコンストラクターズ順位で7位となり、このまま上位陣へ加わるかと期待されていた。 .....が、翌'85年はチームがピレリ/ミシュラン両社とタイヤ供給契約で揉め、シリーズ序盤にトールマンにタイヤが供給されない、と言う事態となる。結局メイン・スポンサーのベネトンが仲介する形で第4戦から出走、第9戦ドイツではファビがチーム初のポール・ポジションを獲得する等速さは見せるが、結局無得点に終わり、チームは急騰するコストに対応出来ず、メイン・スポンサーであるベネトンにチームを売却する事を決定する。更にベネトンはBMWとのワークス供給契約を結び、"エンジン・プライベーター"ハートはここで"お払い箱"となってしまう。ハートはF-1での居場所を失い、フォード・エンジン搭載の予定がスケジュール/契約の都合で送れたニューマン・ハース・ローラに急遽エンジン供給するが、フォード搭載が可能になった第3戦からは撤退。ハートのF-1活動はここで一旦終了してしまったのである。 ハートは悩んでいた。「F-1の魅力に代わるものは無い。しかし、現代のF-1は少々規模が大きくなり過ぎてしまった。私のようなひとりぼっちのエンジン屋に、もうF-1のエンジン・サプライヤーとしての仕事は無いんだ」ハートはF-2時代と同じような状況に立たされてしまった。 '87年、ハートの元に一本の電話がかかる。コスワースのダックワースからであった。「ブライアン、私の会社はDF-Z(DF-Vの後継機種)とは別に'89年からのNAエンジン・レギュレーションに合わせてワークス用のエンジン(後にベネトンへ独占供給されるHBシリーズ)を作らねばならなくなった。DF-Zの生産はもちろん続けるが、良かったらチューニングをやってくれないだろうか」ハートは一時はライバルとなりながらもこうして認めてくれる恩師、ダックワースに感謝した。こうしてハートは再びコスワース傘下へ入り、DF-Z、その後のDF-Rのチューン・アップと言う役目を背負う事となったのである。 ターボが禁止され、NA元年となった'89年、参加全20チーム中、コスワースDF-R/V8を使用するチーム数は実に半分の10チームにも及んだ。その内、ハートは老舗のティレル、アロウズ、そして新興チームのオニクス・モンテヴェルディの3チームと契約を結び、DF-R/V8エンジンのパワー・アップの為にチューン・アップを行う事となった。作業は、相変わらずハートがひとりで行った。電気系統のスタッフはサポートしているものの、3チームのピット・ガレージを真黒になりながらひとりで走り回っていた。そして、ティレルに乗るジャン・アレジがデビュー戦4位の快挙も含めてしばしば快走を見せ、ランボルギーニのV12マルチ・エンジンや時には本家ベネトン・フォードすら食う活躍を見せた。翌'90年はジャン・クロード・ミジョー設計の独特のコルセア・ウイングを武器としたティレル019が活躍、開幕戦アメリカ/第4戦モナコでアレジが2位となり(開幕戦は旧車018)、チーム・メイトとなった中嶋悟も3度の入賞を記録。ホンダ/フェラーリ/ルノーらマルチ・エンジン勢に一矢を報いる成績を納めたのである。 .....しかし、これ以降コスワースDF-R/V8がマルチ・エンジン勢に対向する事は無かった。'92年、コスワースはDF-Rの生産ラインを停止し(F-1チームへの供給、と言う意味で)、ベネトン/ロータス/フォンドメタルのコスワース・ユーザー3チーム全てがフォードHBシリーズのエンジンを搭載した。そして、ハートは最後の賭けに出た。「年々コストは急騰し、今にF-1は巨大な自動車メーカーだけのものになってしまう。そうなる前に、もう一度チャレンジしたかったんだよ」'93年、ハートはオリジナルV10エンジン、ハート1035を設計。参戦3年目の新チーム、ジョーダンと組み、エンジン・マニュファクチュアラーとしてもう一度F-1グランプリへと挑戦したのである。 ハート製NAエンジンを搭載したジョーダンの'93年は、第3戦欧州グランプリ/雨のドニントンで新人のルーベンス・バリチェロが一時2位を走行する等、時折速さは見せるがシャシー側の信頼性に泣き、入賞は第15戦日本グランプリ(バリチェロ5位/エディ・アーバイン6位)のみ。2年目の'94年は第2戦パシフィックでのバリチェロ2位表彰台を含め、9回の入賞でコンストラクターズ5位を獲得。だが、ジョーダンは翌年からのプジョー・エンジンのワークス供給権を獲得し、ハートはお払い箱となる。翌年、アロウズ(フットワーク)と契約したハートは、チームからの低予算の希望と新たな3000ccへのレギュレーション変更に伴い、コンパクトで信頼性の高いV8エンジン、830を新設計する。そしてこの830が年間を通して殆どブロウしない強力な信頼性を発揮、最終戦オーストラリアではジャンニ・モルビデッリが前年の改良型マシンでサバイバル戦を生き残って3位を獲得し、大健闘のシリーズ8位となった。しかし翌'96年はチームのマシン開発が完全にストップして僅か1ポイント、供給チームがテール・エンダーのミナルディへと代わった翌'97年は無得点と低迷。時代は既に、ハート自身の恐れていた"ワークス時代"へと突入していたのである。'98年、ハートは再びアロウズとエンジン供給契約を結ぶがエンジン名称は"アロウズ"となり、実質'94年のV10エンジンの改良型を使用し、6ポイントでコンストラクターズは7位。'99年、遂に運用資金の尽きたアロウズV10は開発そのものがストップし、開幕戦でのペドロ・デ・ラ・ロサの6位1ポイントのみでアロウズの歴史そのものに終止符を打つ事となった。ハートもまた、F-1から静かに身を引いて行ったのである。 .....ハートが自身の名を冠したエンジンでF-1グランプリを戦ったのは、ターボ時代の'81〜'85年、NA時代の'93〜'99年の延べ12シーズンである。が、ハートは決してエンジン・ビルダーとしての評価を確立する事は出来ず、F-1でのハートの偉業を語る際、コスワース・チューナーだった'87〜'91年の活躍の方が印象的であるようだ。「(コスワースは)なにしろ基本設計の古いものなので、材質/寸法等、改良の余地は非常に限られていた。だからこそ、面白かったんだが」ハートは、職業としてレースをやるには、少々エンジョイし過ぎていたのかも知れない。彼自身、チームからコンセプト/設計と言う分野でプレッシャーを受けながら資金をやりくりして開発を行うより、ガレージで真っ黒な手でバルブ調整に精を出す事の方に魅力を感じていたのではないかと思う。ちなみに、同時期にF-1エンジンを製作していたジャッドも元々コスワース・チューナーだったジョン・ジャッドが自ら興したエンジン・メーカーだったが、こちらも自社エンジンでの成功は成らなかった。 「'70年代、F-1チーム(コンストラクター)は皆コスワース製V8エンジンとヒューランド製のギア・ボックスを使っており、まだ空力も重要な要素では無かった。だからこそ、同じエンジンからどうやって後10馬力絞り出すか、と考えていたんだ。それが、前後ウイングが登場すると、簡単にラップ・タイムが縮められるようになった。そうなると、チームもシャシー側のアイデアの方に目が向いて行った」恐らく、ハートがF-1エンジンを製作する為には'60〜'70年代のスタンスが必要であり、"多くのシャシー・コンストラクターの為に扱い易く、セッティングの幅の広いスタンダード・エンジンの製作"と言う、正にコスワースの行って来たような状況/時代背景が必要だったのではないだろうか。現在、ハートはF-1とは無縁の分野でエンジン・チューンを行っている。巨大メーカーが巨額の資金を注ぎ込んで戦う現代のF-1グランプリに、決して未練は無いのだろう。
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