| '02年のF-1世界選手権で、フェラーリが他を寄せつけない圧倒的な強さでWタイトルを獲得したのは記憶に新しい。この時、ドライバーズ・タイトルを獲得したミハエル・シューマッハーは17戦中11勝を挙げ、しかも全戦表彰台、第11戦フランスでまだ7月だと言うのに早々とチャンピオンを決定した。同僚でランキング2位となったルーベンス・バリチェロも4勝し、フェラーリの1-2フィニッシュは計9回。結果的に第2戦マレーシアと第7戦モナコの2戦を落とした以外、全てのレースにフェラーリが勝利したのである。全17戦中15勝は勝率にすると実に88%、他のチームが単なる脇役に見えて来る程'02年のフェラーリF2002(開幕2戦はF2001改)は圧倒的な強さを見せ、TV視聴率すらも低迷する程の優位を誇ったのである。 .....が、50年余に及ぶF-1史上には、勝率88%を上回る、実に93%と言う数字を残した年がある。'88年、アイルトン・セナ/アラン・プロスト、そして"究極のターボ"ホンダRA168Eを擁し、全16戦中15勝をマークしたのはフェラーリと並ぶF-1の名門、マクラーレン。Wタイトルはもちろんの事、獲得総ポイント199点は'02年にフェラーリ(221点)に抜かれるまで堂々の史上最多得点であり、しかも当時は優勝者9点(現在は10点)、しかも'02年より1戦少ない16戦でこの数字である。1-2フィニッシュは'02年フェラーリを超える10回、レース中のラップ・リード率は実に97%に及ぶ。シーズン中は「今日は(セナ/プロストの)どっちが勝つのか」と言う予想しか成り立たなかった。更に、決勝での勝利だけで無く、'02年はウィリアムズ・BMWのファン・パブロ・モントーヤがシューマッハーと並ぶ7度のポール・ポジションを獲得しているのに対し、予選でポール・ポジションを逃したのもたった1度だけ。'88年のマクラーレンが強さだけで無く、圧倒的な"速さ"を持っていた事も解る。 .....何をどうすれば、そこまで圧倒的に強く/速いF-1マシンが作れるのか。それは誰が作り、何故速かったのか、どうして強かったのか。そして、たった1戦だけ取りこぼしたのは何故なのか。これは'88年、いやF-1史に残る究極のF-1、マクラーレンMP4/4・ホンダの軌跡である。 '80年代後半、F-1マシンは止まる事を知らぬターボ・エンジンの開発合戦により、予選に於いては遂に1000馬力を超えてしまっていた。FISAによるF-1のターボ化を規制する動きは以前から存在していたが、突然の禁止策によって各コンストラクター/エンジン・サプライヤーの混乱を招く事はFISA側としても好ましい事では無く、結果的に段階的な縮小案を決定。'89年からの完全NA化を前に、'88年はターボ過給圧を従来の4バールから2.5バールへと改める事を決定。1.5リッター/2.5バール・ターボ勢と3.5リッターNA勢が混在する'88年シーズンは、本来ターボ開発のマニュファクチャラーにはNAへの変換期となり、更なるパワー・アップは齎さない筈だと考えたのである。ところが、翌年からのNAエンジンの開発を軸にしながらも、ターボ最後の年にも全く手を抜かないメーカーがあった。ホンダである。'87年、ウィリアムズ・ホンダのネルソン・ピケ/ナイジェル・マンセルに完全にシーズンを凌駕されたマクラーレンのロン・デニスはエンジン・サプライヤー、ポルシェの撤退に伴い、当時最強のホンダ・エンジン獲得に動く。一方ホンダ側もウィリアムズとのチーム・ワークにやや不満を感じており、ホンダ総監督の桜井淑敏は自身のセカンド・チームであるロータスのドライバー、アイルトン・セナの起用を条件に、マクラーレンとの提携を了承。マクラーレン側はセナに対し、従来のエース、アラン・プロストと共に"ジョイント・No.1"制度を確約する。そしてマクラーレンは前年型MP4/3までのマシン・デザインを行って来たデニスの旧友、ジョン・バーナードのフェラーリ移籍に伴い、'86年に"フラット・フィッシュ(ヒラメ)"と呼ばれた異様に車高の低いターボ・パワー・マシン、ブラバムBT55・BMWを考案した(結果は残せなかったが)奇才、ゴードン・マーレイをブラバムから引き抜き、チーフ・デザイナーに起用、スティーヴ・ニコルス/ニール・オートレイらを配下に置き、ホンダのハイ・パワー・ターボを搭載する完全なニュー・マシンの設計を命ずる。ここに、マクラーレン/ホンダ/マーレイ/セナ/プロスト、と言う"失敗の許されない組み合わせ"が完成したのである。 レーシング・カー・デザイナーを父に持つゴードン・マーレイは'46年、南アフリカ共和国で誕生。マーレイ自身も学生時代から自動車を自作し始めるが、当時の南アフリカでは自動車は買うには高過ぎ、むしろ自分で組み立てた方が安上がりだったのだと言う。'70年、マーレイは単身イギリスへと渡り、ジャック・ブラバムのF-1チームへメカニックとして加入、'73年のマシン、ブラバムBT42では早くもチーフ・デザイナーとなる。その後三角モノコック車のBT44('75年)、"ファン・カー"ことBT46B('78年)等、各デザイナー達が空力と言う分野に着目し始めた'70年代後半に幾つもの独自のアイデアで勝利を齎し、ロータスのコーリン・チャップマンと並んで"奇才"の名を欲しいままにした。 '86年、自身の意欲作であるBT55は、BMWの72度直列4気筒ターボ・エンジンを横置きにマウントし、車高を極端に低く設定した姿から"ヒラメ"と呼ばれた。しかしあまりの安定性の悪さから信頼性/耐久性を確保出来ず、遂にはドライバーのエリオ・デ・アンジェリスをテスト中の事故で失ってしまう。マーレイはショックを受けた。自身のデザイン・コンセプトは完璧であった。が、エンジンのコンパクトさがそのコンセプトに対しては不足していた。そして、結果的にチームの同胞であるドライバーを失ってしまった(注:この死亡事故はコース・マーシャルの不在による処置の遅れが最大の原因である/lap16-"勇者達の肖像vol.3"/エリオ・デ・アンジェリス-参照)。マーレイに出来る事は、完全なる信頼性を持ったマシンをデザインする事だけであった。程無くマーレイはブラバム・チームを離脱、ジョン・バーナードの去ったマクラーレンへと加入する。 ホンダはウィリアムズと共にWタイトルを獲得した'87年を最後に、ウィリアムズとのコンビを解消した。このホンダの決断の理由は、大きく分けて3つの要素から成り立っていた。ひとつは、日本人ドライバーの起用。言わずと知れた中嶋悟の存在である。'86年、ウィリアムズ/ロータスの2チームにエンジン供給していたホンダは中嶋の起用を両チームに打診、ロータスはこれを受け入れたが、ウィリアムズは拒否した。フランク・ウィリアムズ言わく「別に中嶋が嫌だったんじゃない。チームのドライバー人事に口を出される事自体が嫌だったのさ」次に、フランク・ウィリアムズ自身の'86年3月の自動車事故である。結局半身不髄の重症を負い、車椅子での生活を余儀無くされたこの事故により、ホンダがウィリアムズ・チームの先行きに不安を感じたのは当然であった。そしてもうひとつ、ホンダにとってウィリアムズのチーム運営は"古かった"のである。桜井は「我々にはチャレンジが必要だった」と言う表現を使ったが、フランクとパトリック・ヘッドによるウィリアムズのチーム運営は今だ'70年代の方法論を引きずっており、例えチーム自体に戦闘力が備わっていても、将来的に新たな挑戦を行うには不向きなチームだったのである。こうしてホンダは後1年契約が残っていたにも関わらず、ウィリアムズとの決別を決断する。 マクラーレンのデニスは、'86年シーズン中にホンダが新たなパートナーを探し始めた事を知る。デニスの決断もまた極端であった。長期に渡って関係を築き上げて来たTAG/ポルシェとの契約をあっさりと打ち切り、ホンダとのパートナー・シップに意欲を燃やしたのである。'86年はウィリアムズのふたりのドライバー、ネルソン・ピケとナイジェル・マンセルがお互いに星を分け合ってしまい、結果的にマクラーレン・ポルシェのプロストがラッキーな王座を手にしたが、純粋なエンジン・パワーによるマシン・パフォーマンスではウィリアムズ・ホンダに大きく遅れを取っていた事は周知の事実であった。デニスもまた、ホンダの"保守に回らず、攻め続ける"姿勢に共感するひとりだったのである。桜井とホンダはマクラーレンに理念の一致を見い出し、更に'87年にロータスが中嶋を受け入れていたのも功を奏し、若き天才ドライバーと言われた"セナ"と言う特大の土産付きでマクラーレンはホンダ・エンジンを手に入れる事に成功したのである。 '87年9月4日、第11戦イタリア・グランプリの開催されるモンツァ・サーキットで電撃発表は行われた。'88年シーズン、ホンダはマクラーレン/ロータスの2チームにエンジンを供給、ドライバーはマクラーレンが2度のワールド・チャンピオンであるプロストとロータスから移籍のセナ、ロータスがウィリアムズから移籍のピケとチーム2年目の中嶋。マクラーレン・チームはプロスト/セナを"ジョイント・No.1"として扱う、と言うものであった。プロスト/セナ/デニス/桜井が会見に望み、イタリア・グランプリの予選そっちのけでマスコミが殺到した。 .....その頃、ファクトリーで既にマーレイは動き出していた。ホンダの新設計2.5バール/1.5リッターV6ターボ・エンジンのモック・アップを前に、マクラーレンのチーフ・エンジニアであるスティーヴ・ニコルズ、シャシー・デザイナーのニール・オートレイとミーティングを行っていた。ニコルズはバーナードと共にMP4シリーズを製作/開発して来たデニスの腹心のひとりであった。マーレイはブラバムBT55で完成しえなかった独特の超低重心型マシンのアイデアを忘れたわけでは無かった。マーレイはニコルズとオートレイに言った。「私はドライバーを失いたくは無いのだ」軽量コンパクトでありながら無類のハイ・パワーを秘めた最強エンジン、ホンダRA168Eを搭載するマクラーレンMP4/4の設計は、この一言から始まったのである。 '88年3月。シーズン開幕を一ヶ月後に控え、各チームはプライベート/合同テストで新車及び2.5バール/1.5リッターの新レギュレーションに基づくブラン・ニュー・エンジンの開発/調整に余念が無かった。.....が、マクラーレンのピットに、'88年用のマシンは無かった。彼等は前年型MP4/3にホンダV6ターボを搭載してレスポンス・チェックは行っていたものの、他チームの新車が出揃ったこの時期でも新車完成との話は一向に出て来なかった。ウィリアムズは翌'89年からの完全NA化に向けて3.5リッターNAのジャッドV8エンジンで走行を重ね、同じエンジンを使うレイトンハウス・マーチ881も好タイムを連発していた。フェラーリは最後のV6ターボ・マシン、F187/88Cで勝負を掛けて来ており、誰もが'88年の混戦を予想した。大本命だった筈のマクラーレンの新車開発が遅れている、と言う事実は、ホンダ・エンジンとのマッチングに苦しんでいた為と誰もが考えた。 .....しかし、事実は違った。マーレイの指揮するデザイン・グループは万全に万全を期してニュー・マシンの剛性強化にあたり、ホンダもまた僅かな振動すらも押さえようと必死になっていた。彼等は性能だけで無く、ドライバビリティでも完璧を追求していたのである。シャシー剛性は何百キロもの走行/あらゆるコーナリングでの完璧な耐久性を目指し、後藤治をチーフ・エンジニアに置くホンダの新しい80度/V6ターボは、ベンチ・テストの段階で数十機がオシャカにされた。マクラーレンMP4/4・ホンダRA168Eは、完全なる速さに加え、完全なる信頼性の確立をも目指していたのである。 開幕3週間前、イギリス/ウォーキングのマクラーレンのファクトリーに、ラングレーのホンダ・オフィスからホンダRA168Eが到着。MP4/4のモノコックがようやく完成し、スタッフが総出で組み立てを行う。深夜、組み上がったマシンのエンジンに火が入った事を確認し、即座にプライベート・ジェットでイタリアへ向けてニュー・マシンを運んだ。合同テスト最終日を迎えたイモラ・サーキットのガレージでは、それまで他チームの仕事を眺めているだけだったマクラーレンのクルーが慌ただしく準備を始め、朝一番で税関を通って来たばかりのMP4/4を迎える。そしてイモラ・テスト最終日、ライバル・チームはほんの僅かでもマクラーレンの戦力低下を期待した事を恥じなければならなくなった。マクラーレンMP4/4・ホンダは、シェイク・ダウン初日から他のマシンより1周2秒以上速いタイムで周回したのである。 .....その姿はマーレイのコンセプトの究極の姿であった。本人はその表現を嫌うだろうが、MP4/4は正に完成された"フラット・フィッシュ"であった。長身のセナが乗ると、コックピットから肩が見える程低かった。エンジン・カウルはドライバーの首のあたりを頂点に後方へ向けてなだらかな曲線を描き、コンパクトなエンジン・サイズを想像させた。ホンダRA168Eは燃費効率の向上、と言う2.5バール/1.5リッターのレギュレーション最大の難題と向き合い、熟成に熟成を重ねた究極のターボ・エンジンであった。そして、歴史に残るシーズンが始まって行く。 4月3日、開幕戦ブラジル・グランプリ/ジャカレパグア。ポール・ポジションはセナ、プロストはマンセル(ウィリアムズ・ジャッド)に続く3位、決勝ではセナがギア・リンケージのトラブルの為ピット・スタートとなり、20周目には1位プロストの背後まで追い上げる速さを見せるが、スタート直前にスペア・カーに乗り換えると言うレギュレーション違反を犯し、結局失格、31周でマシンを止める。プロストが危なげ無く優勝。 第2戦サンマリノ/イモラ。ポール・ポジションは2戦連続でセナ、2位にプロスト。3位ピケ(ロータス・ホンダ)はトップのセナから3秒以上も離されてしまった。決勝では順当にスタートしたセナに対し、プロストはスタート・ミスで出遅れ、一旦6位まで後退。その後プロストはバトルを繰り返しながら2位まで上がり、結局セナ-プロストの順で3位ピケ以下を全て周回遅れにして圧勝。セナはマクラーレン移籍後初勝利となる。 第3戦モナコ/モンテカルロ市街地。"モナコ・マイスター"セナは2位プロストに1.4秒、3位ゲルハルト・ベルガー(フェラーリ)に2.6秒の大差をつけてポール・ポジション獲得。決勝では1コーナーでベルガーがプロストを抜くが終盤2位へ復帰、独走していたセナは、2位プロストに1分近い差を着けていた67周目、トンネル手前のポルティエ・コーナーで自身の不注意からクラッシュし、まさかのリタイア。プロストが2勝目。 第4戦メキシコ/エルマノス・ロドリゲス。マクラーレン・ホンダ勢は荒れた路面でのセッティングに苦しみつつも今季3度目の予選1-2、ポール・ポジションのセナはスタートをミスしてプロスト/ピケに抜かれ、ピケを捕らえるのは容易だったがその間にプロストの築いたマージンを減らす事は出来ず、プロストの完全勝利。2位セナは7秒遅れだったが、終わって見れば3位ベルガーは1分遅れ、他車は全て周回遅れとなった。 第5戦カナダ/モントリオール。セナがプロストを0.18秒差で押さえ、開幕から5戦連続のポール・ポジションを獲得。だが決勝では抜群のスタートでプロストが先行。しかし19周目のヘアピンで周回遅れに手こずったプロストをセナが抜き返し、そのまま逃げ切り2勝目。プロストは5秒差の2位、今季3度目のマクラーレン1-2。3位ティエリー・ブーツェン(ベネトン・フォード)までが同一周回、4位以下は全車周回遅れに。 第6戦アメリカ・グランプリ・イースト/デトロイト市街地。ここまで2年連続でこのレースを制しているセナが、得意の市街地コースで余裕のポール・トゥ・ウィンを達成。予選2番手のプロストはスタートからじわじわとセナに離され、最終的にセナに38秒の大差を付けられ2位フィニッシュ。またしてもマクラーレン・ホンダ2台が3位ブーツェン以下を全車周回遅れに。今季3勝目のセナは開幕から6戦連続ポール・ポジション。 第7戦フランス/ポール・リカール。地元で奮起するプロストが今季初のポール・ポジションを獲得、セナは0.4秒差で2位、3/4位にベルガー/ミケーレ・アルボレートのフェラーリ・コンビが肉迫。決勝はピット・ストップでプロストが後退するが、トップに立ったセナを猛追し、61周目に抜き返し、結局プロストが地元レースを制して今季4勝目。マクラーレンのふたりだけのレースとなり、3位アルボレートは1分以上後方。 第8戦イギリス/シルバーストン。予選では好調なベルガー/アルボレートのフェラーリ・コンビが今季初めてフロント・ロウを独占。ハンドリングの決まらないマクラーレンはセナ3位、プロスト4位。決勝は雨、セナが完璧な走りでトップに立ち、4勝目。プロストは苦手の雨の中、ハンドリングに苦しんで周回遅れとなってしまい、結局25周目にリタイア。3位は今季初完走のマンセル、フェラーリ勢は入賞圏外でレースを終えた。 第9戦ドイツ/ホッケンハイム。エンジン・パワーが全ての超高速コースでマクラーレン・ホンダは絶対的な強さを見せ、予選はセナが3戦振り7度目のポール・ポジション、プロストは0.2秒差の2位。決勝は2戦連続のウェット・レースとなるが、またしてもセナが誰も寄せつけない速さで独走、プロストがしぶとく2位、今季5度目のマクラーレン・ホンダ1-2フィニッシュ。3位ベルガー/4位アルボレートのフェラーリ・コンビ。 第10戦ハンガリー/ハンガロリンク。セナが8度目のポール・ポジションを獲得するが、プロストはセッティングに失敗し7位に沈む。決勝でも抜き所の少ないハンガロリンクでセナに敵は無く、今季6勝目。2位にはプロストが追い上げて1-2となるが、49周目に一旦ホーム・ストレートで前に出たプロストを1コーナーでセナが抜き返す、白熱したチーム・メイト同士のバトルが見られた。セナ/プロストが72ポイントで同点となる。 第11戦ベルギー/スパ・フランコルシャン。セナが3戦連続9度目(タイ記録)のポール・ポジションを獲得、2位は0.4秒差のプロスト、セナから0.8秒差の3位にベルガー、4位アルボレートのフェラーリ勢。決勝ではスタートを制したプロストをセナがオープニング・ラップで抜き返して独走、プロストを従えて7勝目を挙げて逆転。3位には徐々に戦闘力を増して来たNAジャッドV8エンジンのマーチに乗るイヴァン・カペリが入る。 .....ここまで11戦、御覧のようにマクラーレンMP4/4・ホンダのセナ/プロスト以外、誰もレースで勝利していない。それどころか、レースが始まった途端にマクラーレン・ホンダのふたりは見る見る後続を引き離し、完全に2台/ふたりだけの戦いとなってしまっていた。この時点でセナ82ポイント/プロスト78ポイントとなり、既にコンストラクターズ・タイトルはマクラーレン・ホンダに決定、3位フェラーリのベルガーは28ポイントで、既にドライバーズ・タイトル獲得の可能性を失ってしまっていたのである。同時に、この頃からマクラーレン・ホンダの"全16戦完全勝利"の可能性が語られ始める。舞台は総帥、エンツォの死で荒れるフェラーリの聖地、イタリア/モンツァ。 第12戦イタリア・グランプリは、一ヶ月前にエンツォを失ったティフォッシ/フェラリスタ達による、マクラーレンの完全勝利阻止への情念に燃えていた。予選はセナとプロストがいつものようにフロント・ロウを独占、ベルガー/アルボレートが2列目に続いた。9月11日、決勝。セナはスタートを上手く決めたが、プロストは35周目に今季初のエンジン・トラブルでリタイアし、ベルガーが20秒後方で2位、アルボレートが3位に上がる。しかし、今までならこのままセナの圧勝で終わる筈であった。ライバル、プロストがいなくなった今、セナにはマシンを労って走る余裕すらあったのである。 .....49周目、チェッカーまで残り僅か2周。トップを独走するセナの前方に1台の周回遅れのマシンがいた。病気欠場のマンセルに代わってウィリアムズをドライヴするのは、'68年にホンダの空冷エンジン車、RA302で事故死した故・ジョー・シュレッサーの甥、ジャン・ルイ・シュレッサー。セナは第1シケインでシュレッサーをオーバー・テイクしようとしたが、これがF-1決勝レース・デビューとなったシュレッサーはコントロールを失い、シケインをオーバーラン。慌ててトラック上へ戻った所へ、セナが突っ込んで弾き飛ばされてしまったのである。セナのマシンは緑石の上にシャシー底面を乗せてしまい、エンジンがストップ。両手を上げてリタイアを宣言するセナを見て、モンツァのグランド・スタンド、いやサーキット全ての観客から大歓声が上がった。ベルガー/アルボレートのフェラーリ・コンビが、その横を通り過ぎて行ったのである。マクラーレンは今季初の2台リタイア(セナは10位完走扱い)、フェラーリはエンツォの"弔い合戦"を制し、神憑かり的な1-2フィニッシュを果たしたのである。そしてここに、マクラーレンMP4/4・ホンダの16戦全勝の夢は消え失せた。 第13戦ポルトガル/エストリル。ポール・ポジションはプロスト、セナ2番手。スタートでイン側のセナが好スタート、しかしプロストがセナをアウトへブロック。セナは草地にはみ出しながらトップへ。2周目、今度はプロストがセナのインに入るが、セナがプロストをイン側のウォールギリギリにまで押しやってブロック。レースはプロストが制し、セナは6位に終わるが、このふたりの間に初めて問題が起きたレースとなった。 第14戦スペイン/ヘレス。イベリア半島での連戦第2ラウンドでセナは今季11回目のポール・ポジションを奪い、プロストが僅差の2位。だが決勝はスタートでプロストがトップを奪い、セナは3番手スタートのマンセルにも抜かれて3位へ後退。ライバルよりも燃費と戦わなければならなかったセナは結局4位に甘んじ、プロストは終始レースをリードして今季6勝目を挙げ、再びセナを逆転してラッキング・トップの座に返り咲いた。 第15戦日本/鈴鹿。初の王座を目指すセナがプロストを押さえて今季12回目となるポール・ポジションを奪うが、決勝スタートで痛恨のエンジン・ストールを喫し、なんと14位へ後退。しかしここから入魂の追い上げで20周目には2位に上がり、28周目の1コーナーで遂に周回遅れに引っ掛かっていた首位プロストをオーバー・テイクし、このままセナがトップでチェッカーを受け、自身初のF-1ワールド・チャンピオンとなる。 最終第16戦オーストラリア/アデレイド。セナは前人未到の1シーズン13回目のポール・ポジションを獲得。レースは2番手スタートのプロストが上手く飛び出してリードするが、14周目にはセナをも抜いて来た3番手スタートのベルガーがプロストからトップを奪う。結局ベルガーはクラッシュしてリタイアし、最終的にはプロスト-セナの順でフィニッシュ。マクラーレン・ホンダはシーズン10回目の1-2フィニッシュも達成した。 .....16戦15勝、15ポール・ポジション、1-2フィニッシュ10回。マクラーレンMP4/4・ホンダはたったひとつ、第11戦イタリアをホンダF-1で死んだ故ジョー・シュレッサーの甥、ジャン・ルイ・シュレッサーによって落とし、カメラマンのジョー・ホンダ氏はこの日のモンツァでの出来事を"20年目の因果応報"と呼んだ。しかし、これがシュレッサーが故意に引き起こした事故である可能性は全く無い。彼には、それだけの技量も経験も無かったからである。プロスト車の、シーズンたった一度のエンジン・トラブル、セナの一瞬の油断、ホンダ因縁の家系。そしてシーズンを通して確実にスピードと信頼性を得たフェラーリと、エンツォの死によるモンツァの空気。.....全ては、偶然と必然が重なったに過ぎないのだ。シュレッサーやエンツォの呪いでも、ティフォッシの願いでも、マクラーレンやホンダの怠慢でも無く、マクラーレン・ホンダはただ、ここモンツァの一戦だけを落としたに過ぎないのである。 では、マクラーレンMP4/4・ホンダRA168Eの戦力を分析しよう。まず、マーレイ/ニコルズ/オートレイによる、完全なる"コンセプトの存在"である。軽量コンパクトなエンジンを中心とした低重心設計に徹底的にこだわり、マーレイの、ブラバムBT55から3年間を費やした低車高のコンセプトが完全に結実した事。そして、マーレイはそこに、アンジェリスの事故から来る教訓として、確固たる"安全性"を求めた事。開幕直前まで、自らが納得行くまでコース上でドライバーに走らせる事をせず、慎重に慎重を重ねた事。そして、ホンダがターボ・レギュレーション最後の年に、開発に全く手を抜かなかった事。開幕戦でライバルより2秒ものアドバンテージが存在しても、シーズンを通して(もちろん最終戦まで)エンジンの熟成に務めた事。完璧主義者ロン・デニスの元、MP4/4に関わった全ての人々が一切の妥協をしなかった事が、この偉大なる記録を齎した事に疑いは無い。 次に、ドライバーズ・ライン・アップである。後年になれば"セナ・プロ対決"等と言う表現が容易くなるが、当時デビュー5年目を迎えた28歳のセナは、将来のチャンピオン候補ではあったものの、"速いが荒削りなドライバー"として、ネガティヴな面も多々指摘されていた。が、結果的に'88年は13回のポール・ポジション獲得とプロストを上回る8勝を挙げ、完全にチャンピオン・ドライバーとしての仕事をこなして見せた。同時に、秀逸だったのはプロストの戦い方である。'88年のプロストはリタイアに終わった2戦(第8戦イギリス/第12戦イタリア)以外、全てのレースで優勝か2位、と言う快挙を達成。レース中、例えセナに追いつけなくとも、粘り強くマシンをフィニッシュさせ続けた、帝王ニキ・ラウダ譲りの戦略でセナに心理的プレッシャーを与え続けたのである。"ジョイント・No.1"と言うマクラーレン伝統の制度は、結果的に'89年以降全く機能せず、セナとプロストの関係は険悪になって行くばかりとなったが、唯一コンビ初年度となった'88年だけは"穏便"でフェアな戦いが繰り広げられたのである(第13戦ポルトガルでのブロック合戦が、翌年の問題への発端となった事は否めないが)。'88年と'02年の最大の違いは、チーム・メイト同士のタイトル争いの有無と言えるだろう。'02年シーズンのバリチェロの抵抗も、無線交信内容が公開された"チーム・オーダー事件"の第6戦オーストリアで砕け散った。エースのシューマッハーがリタイアした時にだけ、No.2のバリチェロにチャンスが与えられた。'78年、コーリン・チャップマンの歴史的名作であるロータス79も、マリオ・アンドレッティ/ロニー・ピーターソンの関係は'02年のフェラーリと同様であり、結局シーズン8勝に止まっている。 .....マクラーレン・ホンダの快進撃はこの後'91年まで続き、結果的に4年連続Wタイトルと言う記録を齎す。セナは3度のドライバーズ・タイトル全てをこのパッケージングで達成、しかしプロストは'89年のドライバーズ・タイトルを手土産にフェラーリへ移籍。マーレイはマクラーレンのロード・ゴーイング・カー・プロジェクト(マクラーレンF1)へと異動、ニコルズはフェラーリのテクニカル・ディレクターへ転職し、桜井は自らの会社RCIを作って独立、後藤はホンダからマクラーレンへ移籍、そしてホンダはウィリアムズ・ルノーに敗れた'92年でF-1活動を休止。そして'94年、セナは帰らぬ人となった。以後今日まで、勝率93%を達成する名車は、もちろん誕生していない。フェラーリF2002ですら超えられなかった、偉大なる記録。それらは、完璧を追い求める人達の、完璧な仕事によって齎された、"必然"以外のなにものでも無いのである。
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