| '94年3月。心地よい風が流れる春のイタリア/イモラ・サーキットでは、開幕に向けたF-1合同テストが行われており、アイルトン・セナとフランク・ウィリアムズは、ピット・ウォールからライバル・チームの走りを観ていた。セナは、一ヶ月後のF-1デビューに向けてザウバー・チームで精力的な走り込みを続けていたハインツ・ハラルド・フレンツェンに注目していた。「.....フランク、もしも急にドライバーが必要になった時は、彼を呼ぶと良い。きっと良い仕事をしてくれるだろう」「何故そんな事を言うんだい?。私には君とデイモン・ヒルと言う、素晴らしいドライバーがいるさ」セナは笑って、そのドライバーの走りを観続けていた。.....誰も、セナの代わりが必要になる事等、考えもしなかった。少なくともこの二ヶ月後までは。 ハインツ・ハラルド・フレンツェンは'67年5月18日、ドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州にて葬儀店を営むドイツ人の父ハインリッヒ・ハラルドと、スペイン/バレンシア生まれの母アンジェラの間に誕生。父ハインリッヒ・ハラルドは大のレース・ファンで、幼いフレンツェンを良くレース観戦へと連れ出した。'79年、12歳のフレンツェンはベルギーのニヴェルでカート・レースを観戦していたが、とあるひとりのドライバーの走りに釘付けになった。「あのレース、あのドライバーの走りを観て、初めて『自分もあんな風に走ってみたい』と思ったんだよ」フレンツェンが釘付けになったそのレーサーの名は、A・S・ダ・シルバ。つまり若き日のアイルトン・セナだったのである。 12歳でカート・レースを始めたフレンツェンはすぐさま頭角を表し、'83年にはドイツ・ジュニア・カート・チャンピオンを獲得。'86年にはドイツ・フォーミュラ・フォード-2000で4輪レース・デビューし、翌'87年には2勝を挙げてランキング2位となる。両親はフレンツェンが8歳の時に離婚したが、父、ハインリッヒ・ハラルドが息子のレース活動をサポートした。「スペインでのレースで優勝し、ドイツに帰る途中、ハインツ・ハラルドは一言も口を開かずにうつむいていた。『どうした、何が問題だったんだ』と聞くと、スペイン人の女の子を好きになってしまい、帰りたくないと言うんだ(笑)。仕方が無いから置いてったよ。だって、私の妻もスペイン人だったからね(笑)。血は争えないって事さ」更に翌'88年はドイツのフォーミュラ・オペル・ロータスに参戦し、7勝で見事チャンピオンに輝く。「ここで、人生初の決断の瞬間が訪れたんだ。父の会社へ入るか、プロのレーシング・ドライバーを選ぶのか」フレンツェンはレースを選び、'89年のドイツF-3選手権へ参戦する事を決める。そして'89年、ドイツF-3選手権はタイトル決定が最終戦までもつれ込む大混戦となった。ランキング首位は前年のオーストリア・F-3チャンピオン、カール・ヴェンドリンガー(オーストリア)、2位にフレンツェン、そして3位にはフレンツェンと同じF-3初年度のミハエル・シューマッハー(ドイツ)。結局各者2勝ずつで最終戦を迎え、ヴェンドリンガーが1ポイント差でタイトルを獲得し、フレンツェンとシューマッハーが同ポイントでそれぞれ2.3位となる大接戦であった。そしてこの血気盛んな3人の若者に、メルセデス・ベンツのレース部門のトップ、ヨッヘン・ニールパッシュと、WSC(世界スポーツ・カー選手権)でメルセデスのワークス・マシンを走らせているペーター・ザウバーが目を付けた。ニールパッシュは以前BMWでジュニア・チームを率いており、メルセデス・ベンツにも有望な若手に経験を積ませる為の部門が必要だと考えていたのである。かくして、ヴェンドリンガー/フレンツェン/シューマッハーの"エリート"3人は、メルセデス・ベンツ・ジュニア・チームへと加入した。 ドイツのレース関係者達は、果たしてこの3人の中で誰が一番速いのか、と言う事を常に議論していた。タイトルを獲ったのはヴェンドリンガーだったが、結果的には1ポイント差の中に3人がおり、しかもヴェンドリンガーが隣国オーストリア出身であった為に、フレンツェンとシューマッハーのどちらが一番か、との議論が大半を占めた。が、彼等3人は周囲の雑音を全く気にせず、意外に仲良くやっていた。特にフレンツェンとシューマッハーはカート時代から常に戦って来た相手であり、時にはシューマッハーがフレンツェンの自宅にやって来て、夜通しで大騒ぎし、"ベッドが無いから"と父の葬儀店から持って来た棺桶にシューマッハーを泊めた事もあった。'90年、3人はヨッヘン・マス、ジャン・ルイ・シュレッサーらメルセデス・ベンツのワークス・チームのトップ・ドライバー達の指導の元、ドライビング・テクニックからレース戦略のノウハウや駆け引きまでを学んで行った。が、フレンツェンはこの"800馬力のスポーツ・カー・レース"がもうひとつ好きになれずにいた。ザウバーは言う。「一発のタイムではフレンツェンがトップだったと思う。だが、ほぼ同じタイムを出しながらもシューマッハーの方が遥かに燃費が良かった。これは、このカテゴリーでは非常に大事な事なんだ」「正直言うと、スポーツ・カー・レースなんてどうでも良かった。僕は早くF-1に行きたかったんだよ」フレンツェンは決断した。前年、ジャン・アレジにタイトルを齎した国際F-3000の名門チーム、ジョーダンへ加入し、メルセデス・ベンツを離脱したのである。ザウバーは落胆し、そして怒りを隠さなかった。ところが、翌'91年からのF-1参戦準備に忙しいジョーダンは前年の勢いのかけらも無く、フレンツェンは下位集団に埋もれてしまい、'90年16位、'91年14位と言う結果に終わる。反対に、シューマッハーはメルセデス・ベンツのコネクションでたまたま空席が出来たF-1のジョーダンのシートを代打出場ながらゲットしてF-1デビュー、更にここで関係者に強烈なアピールをして次戦からトップ・チームであるベネトンへ移籍。ヴェンドリンガーも終盤2戦にスポット参戦し、翌年からのマーチのシートを獲得。結果的に、ひとり焦ったフレンツェンだけがF-1への道を開けずにいたのである。そしてこの頃、少々厄介な問題がフレンツェンとシューマッハーの間に起こる。 '87年、フレンツェン20歳の頃。フォーミュラ・フォードに参戦していた彼はサーキットでひとりの女性と出会う。彼女の名はコリーナ・ベッチ。意気投合したふたりは付き合い始め、4年間一緒に暮らした。が、'91年にコリーナは突然フレンツェンの元を去り、シューマッハーの元へと向かった(このコラムは芸能ゴシップ的なものでは無いので、3人の間に何が起きたのかは割愛する)。やがてシューマッハーはコリーナと結婚、フレンツェンは怒りに震えた。何故なら、ガール・フレンドだけで無く、F-3000でフレンツェンをサポートしていたタバコ・メーカー、キャメルのスポンサードまでもがシューマッハー/ベネトンへと流れ、フレンツェンへのサポートがストップしてしまったのである。「僕とシューマッハーは全く逆の性格。僕は他人のお古なんか欲しがらない。それに、彼と友達だったのはもう過去の話だ」当時のフレンツェンのコメントである。 '91年、傷心のフレンツェンの元へ日本でF-3000を戦うノヴァ・エンジニアリングの森脇基恭から連絡が入った。「ウチのチームのドライバー、フォルカー・バイドラーが事故で出場出来なくなり、代わりに君を推薦しているんだが」フレンツェンは日本へ向かった。「どうせ仕事も無いし、このままならドイツへ帰って父の仕事を継ぐしか無い、と思っていた位だったから、このオファーには飛びついたよ。そして、この一件が後のキャリア全てに影響したのだから、バイドラーに感謝しなくては(笑)」結局フレンツェンは"予定外の"全日本F-3000を戦う事となった。 '92年、フレンツェンの全日本F-3000は最高位3位でシリーズ17位に終わり、翌'93年は最高位2位でランキング9位。「一発は速いんだけど、安定しない。でも、初めて走るコースでいきなり最初からあんなに速いヤツは見た事が無い」と言うのが森脇のフレンツェン評であった。「ところが、安定しないものだからどこかで必ずポカをやらかす。名付けて"一発スピン病"(笑)。アレさえ克服すれば、F-1でも充分やって行ける筈」また、'93年にフレンツェンの元にはマーチF-1・チームからオファーが来る。が、彼はこれを断り、もう1年日本で戦う事を決めた。「カール(ヴェンドリンガー)から電話があったんだよ。『あそこは絶対倒産するから、辞めた方が良い』って(笑)」事実、マーチは'93年に資金難で消滅してしまう。 その頃、シューマッハーはF-1で初優勝を記録し、既に"次代のチャンピオン候補"と騒がれていた。また、'93年にはザウバーとメルセデス・ベンツが手を組み、F-1へと参入。エースにヴェンドリンガーを抜擢し、初年度から中堅チームとして好成績を挙げていた。シューマッハーとヴェンドリンガーの活躍で一躍'91年のメルセデス・ジュニア・チームの存在が取り上げられ、F-1ファン達にも知れ渡り、関係者は"メルセデス3人衆の残るひとり、フレンツェンのF-1デビューはいつなのか"を常に話題に上げていた。だが、ペーター・ザウバーはまだフレンツェンを許せないでいた。しかし、フレンツェンの速さを誰よりも良く知っているのもザウバーだった。更に、当時のセカンド・ドライバー、J.J.レートがチーム内で上手く立ち回れていない事を知ったザウバーはフレンツェンをテストに呼んだ。そして、あらためてフレンツェンの速さにド肝を抜かれたのである。「あれは、忘れもしない10月12日の朝8時。時差ボケで苦しんでいた僕にペーターから『あらためて宜しく』って電話が来たんだよ!」'94年、フレンツェンは遅まきながらF-1デビューする事が決定したのである。 '94年F-1開幕戦、ブラジル・グランプリ。予選終了後、ザウバーのピット前に人だかりが出来ているのを見たシューマッハーがジャーナリストに訊ねた。「彼は何位?」「5位さ!凄いだろう」「なんだ、そんなもんか。もっと行くと思ったけど」シューマッハーは大真面目に答えた。決勝レース、スターティング・グリッドは3列目。2台前のポール・ポジションには、自身がレーシング・ドライバーを目指すきっかけとなったセナ(ウイリアムズ・ルノー)、その隣にシューマッハー(ベネトン・フォード)、自分の真後/7番グリッドにはチーム・メイトのヴェンドリンガーがいる。「遂にここまで来た、と思った。一時はドイツへ帰る事を覚悟していた位だったからね」レースは5位走行中に"一発スピン病"が出てリタイアとなったが、フレンツェンはF-1デビュー戦で鮮烈な印象を残したのである。翌第2戦パシフィック・グランプリでは5位でフィニッシュし、早くもポイント・ゲット。ザウバー・メルセデスも開幕戦でヴェンドリンガーが6位入賞しており、幸先良い2戦連続入賞でシーズンをスタートしていた。 .....5月1日、第3戦サンマリノ・グランプリ/イモラ・サーキット。フランク・ウィリアムズは心の中で叫んでいた。「何故だ」セナは自らの最期を知っていたとでも言うのか。そんな筈は無い。が、グランプリを戦うチャンピオン・チームのボスには、急いで"セナに代わるドライバー"を探す義務があった。 第4戦モナコ。ウィリアムズ・チームは亡きセナに敬意を表し、デイモン・ヒルひとりだけをエントリーした。そして、チーム内では残りのシーズンをどう戦うか、が連日議論されていた。選択肢は、セナに代わるエース・ドライバーを招き入れてシーズンを戦う事と、セカンド・ドライバーのヒルをエースとし、援護出来るドライバーを加入させる事であった。更に、大手スポンサーのひとつは"スター・ドライバーとの契約"をチームに迫った。テクニカル・ディレクター、パトリック・ヘッドはテスト・ドライバー、デビッド・クルサードのレギュラー昇格を提案した。チーフ・デザイナー、エイドリアン・ニューウィーもヒルをNo.1に据え、クルサードに援護させる案に賛成だった。が、ウィリアムズの頭の中には、春のイモラ・テストでのセナの言葉がグルグルと回っていた。ウィリアムズは決断し、フレンツェンに連絡を取る。 .....ところが、フレンツェンはこの申し出を断った。「チームが大変な時期だったんだ」実は、モナコ・グランプリのフリー走行でチーム・メイトのヴェンドリンガーがトンネル後のシケインで激しくクラッシュ、頭部を強打して意識不明の重体となり、病院で生死の境を彷徨っていたのである。「ザウバー・チームはドライバーが僕ひとりになってしまい、結局モナコ・グランプリには出走せずに帰ったんだ。もし僕がウィリアムズの申し出を受けていたら、ザウバー・チームは大変な事態になっていただろう。それに、一度は"裏切った"僕に再びチャンスをくれたのはザウバーだったから、もう裏切る事は出来ないし、したく無かったんだ。確かに、光栄なオファーだったし、チャンスだったのだろうけれど.....」もちろんこの時、フレンツェン自身は春のイモラ・テストでセナが呟いた言葉等、知る由も無い。 結局ウィリアムズは引退した"スター・ドライバー"、ナイジェル・マンセルとテスト・ドライバーのクルサードを交互に使い、ヒルのタイトル獲得を援護したが、最終戦でシューマッハーが初のタイトルを奪った。フレンツェンは揺れるザウバー・チームの牽引役として立派にデビュー・イヤーを戦い、4度の入賞で7ポイント/ランキング13位でシーズンを終えた。2年目の翌'95年、ザウバーの心臓部とも言うべきメルセデス・ベンツが電撃的にマクラーレンと契約、代わってザウバーはフォードのエース・チームとなり、第12戦イタリアで初の3位表彰台を獲得する等、8戦入賞でランキング9位。だが翌'96年はシャシー/エンジン共に信頼性に乏しく、完走7回/入賞3回でランキング13位へ後退。そしてこの'96年で、フレンツェンのザウバーとの契約は満了となった。 .....律儀で真面目なフレンツェンを、ウィリアムズは待っていた。そして、フレンツェン自身も、今度こそは胸を張ってトップ・チームへの移籍を果たす事が出来た。「ザウバーは新しいチームだったし、色々な事があって混乱していた。だから、すぐに出て行く事は出来なかった。でも、僕の最終的な目標はワールド・チャンピオンだから、ウィリアムズに行く事にしたんだ」'97年、フレンツェンは前年の覇者、ジャック・ビルヌーヴのチーム・メイトとしてチャンピオン・チームへと移籍。シューマッハーはフェラーリでの2年目を迎えていた。 トップ・チームへ加入したフレンツェンを待ち受けていたのは、今までよりも遥かにプロフェッショナルなチーム体勢と、そしてチーム・メイトの手荒い歓迎であった。ビルヌーヴは自らのセット・アップをチーム・メイトに授ける事は無く、むしろ前年築き上げた"エース"としての立場を守る事に必死になっていた。テクニカル・ディレクターのヘッドはそんなビルヌーヴを気に入っており、反対にフレンツェンに対しては"闘争心に欠ける"との見解を持っていた。ビルヌーヴは走行を終えてピットへ戻るとメカニック達に怒鳴り散らし、フレンツェンは事細かにレポートをまとめてエンジニアに提出した。が、ヘッドは「そんなのはレーシング・ドライバーの仕事では無い」とフレンツェンの行為を受け入れなかった。"ドライバーは走っていれば良い、マシンの技術的な分野に口は出すな"と言うのがヘッドの理論だったのである。確かに物静かなフレンツェンの行動はアグレッシヴさに欠けるが、チーム内にはむしろドライバーからの技術的フィード・バックを歓迎するメカニックも存在した。第4戦、サンマリノ・グランプリ。運命のイモラ・サーキットでフレンツェンはF-1初優勝を遂げた。が、チームはビルヌーヴのタイトル争いに必死で、ヘッド以下主要スタッフからの祝福は皆無であった。フレンツェンは"勝利を義務付けられた"トップ・チームの現実を目の当たりにした。'98年、ルノーとニューウィーがチームを去り、特に空力面で他チームに遅れを取り始めた事に気付いたフレンツェンは新車のデザインの行われているファクトリーへ出かけて行くが、「ドライバーは走りに集中せよ」と言われて追い返されてしまう。この頃からフレンツェンは完全にチームから浮いた存在となってしまった。「ザウバーのようなチームしか知らない僕は、ファミリー的な雰囲気に慣れ過ぎていたのかも知れない」'98年、フレンツェンはチームを離脱する事を決意。それを聞いたウィリアムズは「ウチのチームでは、彼の才能を引き出す事は出来なかった。済まないと思っている」と異例のコメントを出している。結局フレンツェンの2年間のチャンピオン・チーム在籍時の成績は僅か1勝に終わった。そして、誰もがフレンツェンと言うドライバーを忘れ始めるには丁度良いタイミングであった。 翌'99年、フレンツェンはF-3000時代の古巣、ジョーダンへと移籍。チャンピオン・シップはフェラーリのシューマッハーとミカ・ハッキネン(マクラーレン・メルセデス)が激突。しかしフレンツェンも無限ホンダ・エンジンの高い信頼性を武器に伸び伸びとレースを戦い、開幕からコンスタントにポイントを重ねて行った。迎えた第7戦フランス、予選からドシャ降りの雨がグリッドを混乱させる。ポール・ポジションはルーベンス・バリチェロ(スチュワート・フォード)、2位ジャン・アレジ(ザウバー・ペトロナス)、3位オリビエ・パニス(プロスト・プジョー)。普段下位に埋もれているドライバー達が、雨でマシン性能差の減ったチャンスに素晴らしい走りを見せた。フレンツェンは5番手につけ、タイトルを争うシューマッハーは6位、ハッキネンに至っては14位と言う結果。決勝はドライ・コンディションでのスタート、だが19周目に突然のスコール。ここでフレンツェンはピット・ストップ作戦を変更、本来2ストップの予定を1ストップにし、他車よりも30kgも重い燃料を積んでコースへと復帰。つまり、このまま雨は止まず、もう一度タイヤ交換をする必要は無い、と確信したのである。シューマッハー、ハッキネンらが終盤続々と2度目のピット・インをすると、最後の7周と言う所でフレンツェンがトップに立っていた。「とにかくマシンが重くてハンドリングが大変だった。後は、チームと無線でずっと天気予報みたいなやりとりを続けていたよ!」フレンツェンは2年振りの2勝目を挙げ、ランキング首位のハッキネンに17点差でシリーズ4位に着けた。 翌第8戦イギリスで、チャンピオン大本命のシューマッハーがクラッシュし、骨折。長期療養の為タイトル獲得は絶望となった。フェラーリは急遽ミカ・サロを代役に抜擢し、セカンド・ドライバーのエディ・アーバインにタイトル争いをさせる事にした。第13戦イタリア・グランプリ。ここまでフレンツェンは全戦入賞(しかも2位か3位)。タイトルのプレッシャーと戦うハッキネンは"つまらない"ミスでリタイア、追うべきアーバインは良い所無く6位、そして勝ったのはまたしてもフレンツェンであった。予選2番手からハッキネンの離脱の後をクレバーに走り、10ポイントを加算、なんと残り3戦でランキング3位(トップとの差は10点)となり、フレンツェンは一躍'99年のチャンピオン候補となったのである。 第14戦、ドイツ/ニュルブルクリンクでの欧州グランプリ。「乗れてる」フレンツェンは絶好調を維持し、自身2度目となるポール・ポジションを獲得。地元ドイツの観客は熱狂した。レースは悪天候で大混乱となり、リタイアするマシンが続出。ハッキネン/アーバインのふたりもタイヤ交換での混乱で下位に沈む。ブッチ切りでトップを快走するフレンツェン。が、32周目にトップのままピット作業を終えコースへ戻るが、"小さな"電気系トラブルでマシンが突然ストップし、リタイア。観客から大きな溜息が洩れた。「ジョーダンは、それまでは何しろ"節約"の事しか考えてなかった(笑)。それが、"自分達がチャンピオンになるかも知れない"って思い始めて、チームはかなり落ち着きを失っていたよ」結局フレンツェンは3位/54ポイントでシーズンを終えた。 翌'00年、ジョーダン・チームは深刻な資金難に陥り、成績も低迷(11点/ランキング9位)。更に翌'01年はエンジンを無限ホンダからホンダ・ワークスへと変更するが、これが裏目に出て戦闘力は更に低下。エンジニア達もチームに見切りを付け、続々と他チームへ移籍。フレンツェンは状況を改善する為、オーナーのエディ・ジョーダンにフレンツェン自身が自腹を切ってでも、マシン開発を行うよう進言。だがこれがジョーダンとの確執の原因となり、有ろう事か地元グランプリとなる第12戦ドイツの直前にジョーダンを解雇されてしまったのである。フレンツェンは新たにジョーダンへ加入するアレジとスワップする形でプロスト・チームへと移籍。だがプロストも資金難で瀕死の状態であり、チームもフレンツェン自身も翌年の契約更新を望んだが結局チームが破産。フレンツェンは'02年のアロウズ加入を決めるが、こちらも資金難で第12戦ドイツを最後に活動停止。しかし、これだけ"貧乏チーム"ばかりで戦いながらも'01年のジョーダンでは3度の入賞を成し遂げ、全チームの中で唯一パワー・ステアリングを持たないプロストでは難コースのベルギー/スパ-フランコルシャンで予選4番手に着け、'02年シーズン終了までもたなかったアロウズでは2度のポイント・ゲットを果たして見せた。そしてアロウズが撤退し、行き場を失ったフレンツェンに、古巣ザウバーから第16戦アメリカのスポット参戦のオファーが来る。レギュラーのフェリペ・マッサが前戦でペナルティを受け、アメリカ・グランプリで予選順位を10下げられる事が決まっていたからである。フレンツェンはアメリカで6年振りにザウバーをドライヴする。「少し、F-1の政治的な部分に疲れていたのかも知れない。ペーターは僕を温かく迎えてくれたよ」フレンツェンは翌年のザウバー復帰を決心する。 '03年、ザウバーは空力面の開発で遅れを取り、更にブリヂストンのドライ・タイヤのナーバスな挙動に上手く対応出来ないでいた。そして、ザウバー・チームは在籍3年目のニック・ハイドフェルドを中心に開発が進んでおり、178cmのフレンツェンは小柄なハイドフェルドに合わせて開発されたマシンと格闘した。そして、パドックではシーズン中から来季のラインアップが噂され、ザウバーの"親チーム"とも言うべきフェラーリがジョーダンのジャンカルロ・フィジケラと、フェラーリのテスト・ドライバーのマッサをザウバーに乗せたがっている事を知る。ペーター・ザウバー自身は何も語らなかったが、フレンツェンは悟っていた。そして、そう言った動きに逆らうつもりも無かった。チーム・メイトのハイドフェルドのシート獲得に協力し、自らはF-1との決別を覚悟した。第15戦、アメリカ。1年前、この場所で自分に再びシートを与えてくれたザウバーに感謝するようにフレンツェンは雨の中快走し、3位表彰台に立った。続く最終戦鈴鹿をリタイアで終え、フレンツェンはF-1を去った。F-1出走回数159戦、3勝/174ポイント。ポール・ポジション獲得3回、最速ラップ6回。数字が示すように、速いが勝てなかった。F-1は、フレンツェンには向いていなかったのかも知れない。 .....筆者選出、ハインツ・ハラルド・フレンツェンのベスト・レースは、ウイリアムズ移籍初戦となった'97年開幕戦オーストラリア・グランプリである。初のトップ・チーム、初のフロント・ロウからのスタートでフレンツェンは見事にチーム・メイトのビルヌーヴをかわしてトップに立ち、他車に1周1.5秒ずつリードを広げて行く。10周目には2位デビッド・クルサードに16秒の大差。39周目、2度目のピット・インでウイリアムズのクルーが右リア・タイヤの着脱に手間取り、3位へと転落。フレンツェンは最速ラップを記録しながら猛追、50周目には2位シューマッハーを抜いて2位へ上がるも、56周目にブレーキ破損で無念のリタイア。本人には申し訳無いが、"馬鹿っ速いが、運が無い"フレンツェンを象徴するような、正に"記憶に残る"レースであった。 "帝王"ミハエル・シューマッハーはドイツのジュニア・カート時代からフレンツェンのライバルであった。そして、シューマッハーがF-1で最も恐れていたのもフレンツェンだと言われている。非公式な情報ではあるが、'96年にシューマッハーがフェラーリ入りした際、契約条項に"絶対にフレンツェンをチーム・メイトにしない"との一文があった、との噂がある。それがビルヌーヴでもハッキネンでも無くフレンツェンである事に、何か深い意味でもあるのだろうか。それとも、単純にシューマッハーはフレンツェンの速さを恐れていたのだろうか。 .....さて、前述した現シューマッハー夫人のコリーナを巡る一件だが、フレンツェンはかつてのセナ/プロのように表彰台でシューマッハーを無視するようなあからさまな行動は取らなかった。だが、パドックでシューマッハーとフレンツェンが会話している所を見た者は極端に少ない。フレンツェンは傷付いていた。そして、その傷は遂に癒える事は無かったのだろう。フレンツェンがF-1デビューした時、シューマッハーの属するベネトン・チームのボス、フラビオ・ブリアトーレは「偉大なるF-1ジャーナリストの諸君、決して"ふたりの男がひとりの女性を巡ってコース上で激突"等と言う下らない記事を書かないでくれ」とマスコミに釘を刺した。が、当時日本でも"恋敵対決"等と紹介されたのは、非常に残念な事である。ちなみに'99年、フレンツェンは5年間交際していた元麻酔技師の女性、ターニャと結婚し、二女を授けている。 .....恐らくは日本のファンですら連想出来たであろう、彼の子供の頃のニック・ネームは"ケチャップ"である。「友達の家に電話を掛け、電話に出た父親に名乗ると『おい、何だかケチャップみたいな名前の人から電話だぞ』って聞こえて来るんだ(笑)」更に、'90年代に爆発的なヒットを記録したアメリカのTV映画"Xファイル"の主人公、モルダー捜査官ことデビッド・ドゥカヴニーがフレンツェンにうりふたつである事も、彼をパドックで"モルダー"と呼ぶのに十分な理由であった。「彼(ドゥカヴニー)も僕と同じ、大の和食党だって知ってるかい?」.....気になって調べたのだろうか。 ....."良い奴は勝てない"、それが、フレンツェンに対するパドックの評価であった。「彼は日本でつらい時期を過ごし、少し性格が丸くなったようだった」とは、メルセデス・ベンツ・ジュニア・チーム時代の恩師、ヨッヘン・マス。ジョーダン時代に共に戦った無限の坂井典次エンジニアは「彼はマシンの挙動を伝える表現が非常にエンジニア的。"ドライバーとして感じた事"と言うより、"ここをこうするべきだ"と言う理論を伝えて来る。こちらとしては非常に助かるんだけど、ウィリアムズのパトリック・ヘッドみたいなタイプには嫌われるんでしょうね」と苦笑いする。また、ジョーダン時代のテクニカル・ディレクター、マイク・ガスコインも「彼は考え過ぎるタイプなんだ。"気にせず突っ走って来い"と思った事が何度もあったよ」'96年にフレンツェンがザウバーを離れる時、メカニック達から"フレンツェンがノコギリでマシンのリヤ・ウイングを切断している人形"がプレゼントされた。如何にフレンツェンがマシン改良に熱心だったが解るエピソードだ。 F-1に別れを告げたフレンツェンは、'04年からオペルを駆ってDTM(ドイツ・ツーリング・カー選手権)に出場する事となった。ここには、かつての僚友、ヴェンドリンガーがいる。アレジやベルント・シュナイダーら、かつてのF-1ドライバーらも多数参戦している。「まだ走り足りないからね」とフレンツェン。「確かに、F-1では良い時期に良いチームにいる事が出来なかったかも知れない。最初にF-3000を選んだ時とか、ウィリアムズのオファーを断った事とか.....。でも、F-1ではそれが全てなんだ。でもこれで、ここ数年の"トップ3でフィニッシュする事は絶望的"と言う週末の感覚とお別れ出来る(笑)。セダンのレースは久し振りだけど、とても楽しみだよ!」彼には、F-1では得られなかった輝きを発するチャンスが、まだ待ち受けている。
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