| '04年1月20日、衝撃的な発表が行われた。FIAは'05年より、現行の国際F-3000選手権を"フォーミュラGP2"と言う名称へと改め、ルノー・ダッラーラのワンメイク・レースとなる事が決定したのである。確かに何度かこのコラムでも書いている通り、国際F-3000と言う、F-1のすぐ下に位置付けられるこのセカンド・フォーミュラ・カテゴリーは大きな変革の時期を迎えていた。近年、人気/存在意義共にフォーミュラ・ニッサン(旧テレフォニカ・ワールド・シリーズ)やルノーV6選手権と言った新興カテゴリーに押され気味であり、観客やエントリー数も激減。早急な対処が求められていた所への今回の発表である。同時に"フォーミュラGP2"と言う名称が、オールド・ファンには「F-2復活か」と言う、懐かしい響きもあって魅力的に聞こえたりもする(筆者だけか?)。 .....このコラムでも何度か紹介しているが、現在"F-3000クラス"と格付けられるカテゴリーは国際F-3000/欧州F-3000/フォーミュラ・ニッポン、の3つが開催されている(厳密には全て独自のシャシー・レギュレーションを持つ)が、その筆頭と言うべき存在であった国際F-3000が存続の危機に直面し始めたのは'02年の事。それまで次代のF-1ドライバー誕生への最短距離にあったこのイベント、近年F-3やフォーミュラ・ルノー等のミドル・フォーミュラから飛び級でF-1へとステップ・アップして来る若手ドライバー達が増えたのを最大の要因とし、人気が急激な下降線を辿り始めてしまったのである。本来最低催行台数18台であるこのカテゴリー、'03年第9戦ハンガリーでは遂にエントリー僅か13台にまで落ち込んでしまい、このままでは'04年の開催は不可能とまで言われた。しかしどうにか10チームがエントリーし、開催に漕ぎ着けたが、結局'03年が国際F-3000最後の年となる事はもはや決定しているのである。そして、このF-3000と言うカテゴリー以前に行われていたのがF-2であった。'48年に始まったF-2は文字通り排気量2.000ccレギュレーションに基づき.....いや、それはlap57-"崩れ行くフォーミュラ・ピラミッド"/問われる国際F-3000の存在意義-を読んで貰うとして、今日筆者が書きたいのは、そんな事では無いのだ。"我が青春の全日本F-2"なのだ。星野/中嶋/長谷見/松本/高橋健二。更にはリースだヨハンソンだ!.....え?、誰も知らない?。大丈夫、今からじっくりと教えてあげよう。この、日本で最も面白かったフォーミュラ・レースの事を.....。 世界でたったひとつしか無いフォーミュラ企画の頂点カテゴリーであるF-1、その下のF-2やF-3000等のクラスは'70年代から世界各国で独自の選手権が開催されている。我が日本では'73〜'77年が全日本F-2000選手権、'78〜'86年が全日本F-2選手権、'87年〜'95年までが全日本F-3000選手権、そして'96年から現在がフォーミュラ・ニッポン選手権、となる。そして今回紹介するのは'78〜'86年の全日本F-2選手権である。'77年、それまで行われていた全日本F-2000選手権は日本(JAF/日本自動車連盟)独自の規定による、ある意味で"孤立"したカテゴリーであった。が、そのレース内容の濃さ/実績が欧州に評価される形で翌年からのF-2選手権開催が許可され、F-2000シリーズはそのままF-2へと受け継がれる事となった。全日本F-2は鈴鹿名物"ビッグ2&4レース"のメイン・イベントともなり、国内モーター・レーシングの最高峰カテゴリーとして発展して行く事となる。最低重量500kg、6気筒未満の2.000cc/NAエンジンに5速ミッションを搭載するそれは完全なるモンスター・マシンであり、日本屈指のハイ・スピードを誇る鈴鹿/富士/西日本(現MINE)の3ケ所を年間シリーズ8戦で回り、チャンピオンを決定する。また、全日本選手権と同時に鈴鹿で開催されたレースのみの総合成績を競う"鈴鹿F-2選手権"も制定された。シャシーは欧州F-2同様シェブロン/マーチ/ラルト/ノバ等が主流となり、これにBMWを始め、ホンダ/ヤマハ/ハート/ルノー等のパワー・ユニットを搭載し、参戦タイヤメーカーはブリヂストン/ダンロップ/ヨコハマと、豊富なチョイス幅が設けられたハイ・レヴェルなカテゴリーなのである。では、今回のコラムの主役とも言うべき、幾多の名勝負を見せてくれた当時の日本のトップ・ドライバーを紹介しておこう。 星野一義。前カテゴリー、全日本F-2000選手権ではここまで2度制覇の、当時の日本のレーシング・ドライバーに於いてナンバー・ワン的存在。'76、'77年とF-1日本グランプリのスポット参戦も果たし、'76年は雨の中一時3位を走る活躍を見せた。 中嶋悟。'77年、全日本FJ-1300選手権で名車ノバ513・ホンダに乗り、全7戦を全勝(!)と言う圧倒的な強さでタイトルを獲得した、当時の日本のモーター・レーシング界の若武者。後の'87年には日本人初のF-1レギュラー・ドライバーとなる。 長谷見昌弘。15歳でモトクロス・ライダーとしてレース界にデビューし、20歳でニッサンのワークス・ドライバーとして4輪に転向し、デビュー・ウィンを記録した日本の4輪レース第一人者。星野同様'76年富士F-1でコジマを駆り予選初日4位。 松本恵二。'74年、全日本FJ1300でフォーミュラ・カー・レースにデビュー。日本初の"タバコ・メーカー"をパーソナル・スポンサーとしてレースに持ち込んだ、実力と人気のバランスの取れたレーシング・ドライバー。当時の形容は"驚異の新人"。 高橋健二。ニッサン・ワークスのひとり。'74年FJ-1300、'75年からF-2000選手権へと進出。'76年にはランキング5位。チーム・メイトでチーム・オーナー兼エース・ドライバーの高原敬武と遜色の無い走りを見せた実力派のベテランである。 '78年、記念すべき全日本F-2選手権は3月5日、4万人を超える超満員の鈴鹿サーキットで開幕した。開幕前の予想ではヒーローズ・レーシング・チームのエース/星野と若き中嶋の一騎討ち。事実絶好調の星野は前年のF-2000選手権で3勝/全戦ポール・ポジション獲得で'75年に続く2度目のチャンピオンとなり、ヒーローズと星野に死角無し、とまで言われていた。が、この年星野は欧州F-2へ、中嶋がイギリスF-3へのスポット参戦が決まっており、東名自動車の高橋、トミーの長谷見らが一矢を報いようと虎視眈々と王座を狙っていた。しかし、星野は開幕戦からブッチ切りの速さを見せ、スタートからゴールまでの30周、一度もトップを譲らずポール・トゥ・ウィン。フロント・ロウに並んだ長谷見(シェブロン)が2位でゴールし、3位には予選5番手の中嶋が入った。第2戦は5月3日富士、今度は星野/中嶋のヒーローズ・コンビが1.2フィニッシュ、長谷見が僅差で3位となった。5月21日の第3戦鈴鹿では、曇り空の下、中嶋がポール・トゥ・ウィンを成し遂げ、マーチ・BMWの高橋がダンロップのハード・タイヤで中嶋を攻め立て、2位。星野は3位に甘んじた。第4戦鈴鹿を前に、中嶋はヒーローズを離脱、ハラダ・レーシングへと移籍し、マルティニ・ルノーへと乗り変える。レースはポール・シッターの星野がまさかのリタイア。マーチ・BMWのマーク・スレールが初優勝し、2位中嶋、3位高橋。第5戦鈴鹿では中嶋が一旦ヒーローズへ復帰し、星野/中嶋の1.2フィニッシュ、長谷見が3位となり、星野が年間タイトルを早くも決定。続く第6戦は西日本へと舞台を移すが、星野/中嶋らが欧州遠征の為不在、僅か7台のエントリーとなった。レースは長谷見が制し、シェブロン・BMWのニュー・カマー、松本が自己最高の2位、高橋が3位に続く。最終戦となった第7戦鈴鹿はベテランの高橋国光が国産シャシー、コジマ・BMWで優勝、2位は中嶋、3位には招待選手として参戦した現役F-1ドライバー、リカルド・パトレーゼ(シェブロン・ハート)が入った。かくして、全日本F-2選手権初年度は前年の勢いそのままに星野が連続制覇を飾ったのである。 '79年、中嶋は新たに生沢徹率いるi&iレーシングと契約。が、メーカーの"ワークス・ドライバー"と言うスタイルが主流だった当時の日本のモーター・レーシング界に於いて、中嶋の"チーム移籍"と言う行動は極めて異端児的に扱われた。「このまま星野さんと同じチームで戦っていてもチーム体勢的に不利な状況は変わらない」が中嶋の移籍理由であったが、これで星野に火が着いた。が、シリーズはチーム・ルマンが誇る若手No.1の松本(マーチ・BMW)が第2戦西日本でポール・トゥ・ウィンで初優勝し、その後も第4戦富士で2勝目、第6戦鈴鹿で3勝目を挙げる。そして結局、開幕戦以外の全てのレースで入賞した松本が星野を1ポイント差で下し、初の王座に輝いたのである。中嶋は富士GCレースでタイトルを獲る一方でF-2ではランキング7位に沈み、シリーズ3位は第3戦鈴鹿を制した高橋が獲得した。 '80年、3年目を迎えた全日本F-2は富士スピード・ウェイがGCシリーズ開催とのバッティングと開催権でもめ、結局富士でのF-2開催を断念し、鈴鹿と西日本のみの開催となる。そして、選手権の方は星野/松本/長谷見/中嶋の4者による壮絶なタイトル争いとなった。まず開幕戦鈴鹿を中嶋が制し、2位長谷見、3位星野。第2戦は長谷見が独走で勝って星野/松本と続く。第3戦鈴鹿は中嶋が雨の中快走して勝ち、長谷見が2位。第4戦鈴鹿では長谷見が2位藤田直広(ルマン)、3位中嶋を1.9秒差内で押さえて辛くも勝ち、ランキング首位に立つ。第5戦鈴鹿で松本がシーズン初勝利を挙げ、星野が2位で続き、第6戦鈴鹿で星野が勝って長谷見は3位フィニッシュし、ランキング2位となった星野に6ポイント差を着けて王座に着く。このF-2制覇によって長谷見は日本のモーター・レーシング界初の4冠(全日本F-2/鈴鹿F-2/全日本F-P/富士GC)と言う快挙を成し遂げたのである。 '81年、BMWの天下だったF-2エンジン市場に、突如ホンダが参戦して来る。同時に、この年から開催は鈴鹿サーキットのみとなり、"富士GC"/"鈴鹿F-2"との呼び名でライバル関係となる。ラルトと組み、中嶋を擁するホンダは開幕戦で松本/星野(トールマン・BMW)に続く3位でフィニッシュ。第2戦では藤田に続く2位、第3戦は雨の混戦を星野が松本と中嶋を僅差で押さえて勝ち、第4戦でポール・ポジションの松本がまさかのリタイア、中嶋がホンダに全日本F-2初勝利を齎す最終第5戦でも中嶋がティエリー・ブーツェン/ステファン・ヨハンソンらを押さえて2連勝、中嶋は遂に日本のトップ・フォーミュラの頂点に立ち、ホンダもまた参戦初年度からタイトルを獲得して見せたのである。 '82年はラルト・ホンダ/中嶋が完璧な完成度でシーズンを圧倒、6戦中4勝を挙げて2年連続の王座に着く。星野は第4戦からシャシーをトールマンからマーチへと変更するが時既に遅く、屈辱的な4年連続ランキング2位に終わる。3位はシーズン未勝利の松本、4位に1勝の高橋。また、富士が1戦のみF-2開催に復活した。 '83年、シリーズは再び鈴鹿/富士/西日本の転戦による全8戦で行われる。ホンダの強さは相変わらずだったが、この年は新興チーム、スピリットからエントリーした元F-1ドライバーのイギリス人、ジェフ・リースが大暴れする。開幕戦は中嶋、第2戦は星野。しかし第3戦でリースが燃料切れの星野を下して勝つと、残り5戦中3勝を挙げてシリーズ制覇。星野はまたしてもシリーズ2位に終わり、中嶋は3位高橋に僅差の4位。 '84年はマーチ842・ホンダの中嶋とヨハンソンの大接戦となる。開幕戦中嶋、第2戦ヨハンソン、第3戦星野と続き、第4戦から第7戦までは中嶋/ヨハンソンが交互に星を分け合った。迎えた最終戦、実に8万人の大観衆を飲み込んだ鈴鹿で両者は一歩も引かぬデッド・ヒートを演じ、最後は僅か2秒差で中嶋が逃げ切り、3度目のタイトル獲得となった。星野はランキング3位へ後退、時代は完全にホンダのものとなっていた。 .....'85年は全8戦中5勝/2位3回の中嶋が大差で4度目のタイトルを獲得。2位は開幕戦の1勝のみに終わった松本、星野は4位。翌'86年、遂に星野、長谷見らもホンダ・エンジンへと乗り換え、松本/高橋/リースらはヤマハ・ユーザーとなった。だが中嶋はホンダのエースとして僅か1勝ながら全戦入賞で3年連続5度目の総合チャンピオンとなり、3勝を挙げながらリタイアも3回の星野はまたも涙を飲んだ。そして翌'87年に中嶋はロータス・ホンダのレギュラー・ドライバーとしてF-1へと進出し、新たに"全日本F-3000選手権"へと生まれ変わった新シリーズで、星野はこの後3度の王座に着く事になるのである。 .....とまあ、こんな風に結果だけ記して、「へえ〜、凄いカテゴリーだったんだね」なんて事が解るワケも無い。その魅力は、最初に記した星野/中嶋/長谷見/松本/高橋、更にリース/ヨハンソンらの"ドライバー同士の激突"にあったのである。.....そうだな、所謂"エフワン"ファンの人には"セナ・プロ・ピケ・マン"あたりを想像して貰えば解りやすいかも知れない。それぞれがそれぞれの持ち味を活かして、遠くからのシルエットでも「アレは星野だ」とか「抜け出して来たのは松本か?」な〜んて事が見えていたカテゴリーだったのである。筆者の住む東京でも日曜日の午後のTV中継があり(確か録画だったが)、毎回手に汗握って観戦。'78年5月の第2戦富士では、現地で星野/中嶋のヒーローズ・デュオ1.2フィニッシュの目撃者となる事が出来た(4位松本/5位国さんは殆ど同時ゴールだったのが印象的であった)。'77年の事故で日本でのF-1開催が絶望的になったこの頃、目の前に魅力的なフォーミュラ・カー・レースがある事を、我々は知ったのである。 さて、ここであらためて全日本F-2選手権9年間のランキング上位を振り返ってみる事にしよう。
.....こうして見ると、中嶋の9年中5度の選手権制覇と6度の2位に泣いた星野、と言う図式が目立つが、実際には前カテゴリーの全日本F-2000選手権では'73年黒澤元治/'74年高原/'75年星野/'76年高原/'77年星野、と続いて来た後であり、実質的に星野は'78年のF-2シリーズ初年度をディフェンディング・チャンピオンとして迎えたのである。中嶋がF-1へと旅立ち、全日本F-3000選手権となった'87〜'95年の間にも3度のチャンピオンを獲得しており、結局星野は日本のトップ・フォーミュラを計6度も制覇した事になる(ちなみに'96年、フォーミュラ・ニッポンとなった記念すべき第1戦の勝者も星野である)。つまり、星野は"全日本F-2"と呼ばれていた時代、もっと極端に言えば"中嶋時代"に苦しんだ、と言えるだろう。ここから何が解るのかと言うと、"ニッサン・ワークス勢とプライベート・ドライバー"と言う図式が見て取れるのである。 前述の通り、中嶋は「星野サンと同じチームにいても勝ちに行けない」と常勝チームであるヒーローズを辞め、これが当時の日本の"義理人情"を重んじるレース関係者から大ヒンシュクを買った。そして、その頃日本のモーター・レーシングには所謂"ワークス・ドライバー制度"が幅をきかせ、当時日本のモーター・レーシングの中核を担っていたニッサンは多くの契約ドライバーを抱えていた。が、ニッサン同様トヨタ等も、各社の契約ドライバー達には基本的に自社のエントリーの無いレースに出るチャンスはあまり無く、富士GCシリーズには出られてもフォーミュラに出場する事は難しかったのである。つまり、逆を言えばワークス・ドライバーで無いフリー/プライベートのドライバーに対し、全日本F-2は大きく門を開いていた、と言う事にもなる。そして、星野/黒澤/長谷見/高橋らがニッサン・ワークスの筆頭であるのに対し、高原/中嶋/松本ら若手は比較的自由なスタンスを求めてレースに望んでいた、と言えるだろう。そして結果は御覧の通りである。後年、しっかり"ガイジン"選手にしてやられてしまっているのも非常に興味深い。同時に、これだけの長きに渡り、常にチャンピオンを争うポジションに居続けた星野の"レーサー魂"に、あらためて脱帽する。 他にも、ベテランの高橋国光や桑島正美、生沢徹、和田孝夫と言った個性豊かなドライバー達が時折上位に絡み、後年は鈴木利男、関谷正徳、鈴木亜久里等、その後世界を舞台に活躍する日本人ドライバー達も全日本F-2へとチャレンジして来た。また、この9年間の間に参戦した外国人選手の名を列ねるだけで、このコラムの読者ならヨダレが出る筈である。主要なあたりだけでも、ルネ・アルヌー/リカルド・パトレーゼ/ディディエ・ピローニ/ブルーノ・ジャコメリ/ジェフ・リース/デレック・ワーウィック/ピエルカルロ・ギンザーニ/マーク・スレール/ケケ・ロズベルグ/アレックス・リベイロ/テオ・ファビ/デレック・デイリー/エディ・チーバー/マイク・サックウェル/アンドレア・デ・チェザリス/ステファン・ヨハンソン/ティエリー・ブーツェン/フィリップ・ストレイフ/ジョナサン・パーマー/ロベルト・ゲレーロ/クリスチャン・ダナー/ジョニー・チェコット/ロベルト・モレノ/イヴァン・カペリ.....。これ、全部F-1ドライバーである。この豪華なメンツが、星野/中嶋にブチ抜かれて行く様を想像して貰いたい。 .....それからね、.....お見せ出来ないのが残念なんだけど、マシンのカラーリングが文句無くカッコ良かったんだよね.....。JPS(ジョン・プレイヤー・スペシャル)・カラーの中嶋、CABINレッドの松本、星野のペンタックス。"スタンレー"とか"スピードスターホイール"とかの"カタカナ"が白や黄色等の原色に塗られたカウルにデカデカと描かれているのがまたインパクトがあって、正直言って現在の某・国内トップ・フォーミュラより全然スタイリッシュでカッコ良かったのである。筆者が富士で見たペンタックス・カラーの星野/中嶋のオープニング・ラップは、例えるなら他車を既に2秒後方に追いやったアイルトン・セナ/アラン・プロストのマクラーレン・ホンダ・デュオに匹敵するインパクトがあったように思う。 .....さて、何度も何度も書いて来た事だが、現在のフォーミュラ・カテゴリー(特に日本)は何か足りない。筆者はなるべくここでは「昔は良かった」みたいな事は書かないようにしているのだが、事実こんな見応えのあるカテゴリーが、20年前には我が日本にも存在していたのだ、と言う事を知っていて欲しいのである。.....ああ、グラチャン(GC)・シリーズも書きてえ。でも、"オープン・ホイール"じゃ無いから書けねえ.....(書きゃ良いじゃねーか)。
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