■lap86-"記憶に残る名ドライバーvol・7"/ケケ・ロズベルグ-
2004.01.30


'03年のF-1グランプリは、新たに定められたポイント制度によって混乱のシーズンとなった。優勝者10ポイントに対して2位8ポイント('02年までは6ポイント)となった為、クレバーに表彰台に上がり続けた1勝のキミ・ライコネン(マクラーレン・メルセデス)と6勝のミハエル・シューマッハー(フェラーリ)が最終戦までワールド・チャンピオンを争う結果となったのである。如何に前年までのフェラーリ/シューマッハーがダントツの速さでシーズン半ばで選手権に決着が着いてしまうからと言って、このまま通算1勝のライコネンが6勝のシューマッハーを下してタイトルを獲得をしてしまったら、果たして"勝利の価値"はどうなるのか、と論議が巻き起こった。更に、1シーズン8人のウィナーが誕生した事で、'82年の11人に次ぐ記録となった。

.....シーズン1勝でチャンピオンになったドライバーは史上ふたり存在する。最初は'58年のマイク・ホーソン(フェラーリ)、ホーソンは全10戦中第6戦フランスの1勝のみ(8戦入賞)でワールド・チャンピオンを獲った。"無冠の帝王"ことスターリング・モス(バンウォール/クーパー)は4勝を挙げながらも僅か1ポイント差でホーソンの前に敗れたのである。が、これはあくまでもF-1グランプリ黎明期の話、シリーズも全10戦と、現在と比較するにはやや無理がある。そしてもう1例が'82年のケケ・ロズベルグ(ウイリアムズ・フォード)である。ロズベルグはデビューからのべ5シーズンで獲得ポイントは僅か6点。しかし6年目に初優勝し、そしてその1勝でその年(全16戦)のワールド・チャンピオンになったのである。彼は、運が良かったのだろうか。

"元祖フライング・フィン"の異名を持つケケ・ロズベルグ、本名ケイヨ・エリック・ロズベルグは'48年12月6日、スウェーデンのストックホルムにて誕生したフィンランド人である。両親は共にスカンジナビアのラリー・ドライバーであった。が、意外にもロズベルグ本人はラリーにさほど興味を示す事も無く、どちらかと言えばサーキット・レースの方に目を向けていた。17歳の時、完全な"趣味の範疇"でカート・レースに出場し始めるが、あくまでも週末の趣味に過ぎず、学校を出るとコンピューター技師を志し(まだ'65年の事である!)、フィンランド国内のコンピューター関連の研究所に就職する。「両親は俺をラリー・ドライバーにしたかったんだろうと思う。が、多感な年令の時期には、親に逆らいたくなるものだ」「当時、スカンジナビアではサーキット・レースはラリーに比べて知名度も低く、あまり本気でやっている人はいなかったんじゃないかな」ラリーストを両親に持つサラブレッドは、レース等と言う"危険で野蛮な"分野には一線を引く、知的な秀才であった。

.....どこで何が狂ってしまったのだろう。'69年、ロズベルグは突如レースの世界へと舞い戻る。丁度この頃、かつてスウェーデンのカート選手権で無類の速さを見せつけていた"スーパー・スウェード"ことロニー・ピーターソンが、新興チームであるマーチからF-1デビューする事が決定。スカンジナビアから、初めてサーキット・レースの世界的スターが誕生したのである。これに触発されたロズベルグはスカンジナビアのサーキット・レースの在り方そのものに対する考え方を180度改め、本格的にレース活動を行う事にしたのである。当然、研究所は辞めてしまった。

"勝ち"を狙いに行ってからのロズベルグは、誰も手を付けられない速さを見せた。'74年までの5年間でカート・フィンランド選手権を3度制覇し、'70年にはスカンジナビア選手権も制した。つまり、本格的にレースを始めたロズベルグはあっと言う間に"北欧で最も速いドライバー"となったのである。'75年、フォーミュラ・ Veeのチャンピオンを獲得、同時にフォーミュラ・スーパーVeeにも参戦し、当時欧州F-2へ参戦していたトイ・チームのエース・ドライバーとなり、ロズベルグは遂に"プロのレーサー"となる。「賞金は別として、レースに金を貰って出るのは初めてだった。だがそうなると逆にあまり自由な行動が出来なくなった。本来なら出たくないレースでも出なくちゃならなかったしね」トイで目覚ましい活躍を見せたスカンジナビアの新星は名門オパート・チームに引き抜かれ、F2/フォーミュラ・アトランティク/フォーミュラ・パシフィック/CanAm等、あらゆるカテゴリーへと進出。'77年のフォーミュラ・アトランティックでは後の伝説のフェラーリ・ドライバー、ジル・ビルヌーヴとタイトルを争った。「一旦"プロのドライバー"となったら、もう後には引けなくなった。変な話、"金さえ貰えるなら何にだって乗る"さ!」ロズベルグは世界中のサーキットへ出向いた。そして、当時スカンジナビア/フィンランドで本来ラリー・ドライバーに対して与えられていた称号がロズベルグに与えられる事となる。"フライング・フィン"。それが、ロズベルグを形容するのに最も相応しい呼び名だった。

'77年、ロズベルグはF-2・JAF鈴鹿グランプリに参戦する為に初来日する。そして、実はこの時、ロズベルグの乗ったドイツのシャシー・コンストラクター、ウイリー・カウーゼンが、'76/'77年と富士スピード・ウェイで行われたF-1日本・グランプリに出走した日本のコンストラクター、コジマと組んでF-1へ進出する計画を持っていた。コジマは'76年のF-1グランプリ・イン・ジャパンで並みいる欧州の強豪達相手に雨の中快走、しかし'77年の選手権第16戦ではタイヤとのマッチングに苦しみ低迷。原因を突き止めたいコジマ側は、パートナーとなるカウーゼンのF-2で印象的な走りを見せたロズベルグに白羽の矢を立て、コジマ009のテストを依頼する事となったのである。同時に、これがロズベルグにとって初めてのF-1走行となった。時折雪の散らつく12月の富士で、ロズベルグは中古のグッド・イヤー・タイヤを使用してレース中の最速ラップに匹敵するタイムを連発する。「手応えはあった。このまま行けば、カウーゼン・コジマ・F-1チームのエース・ドライバーは自分だ、と思っていたよ」ロズベルグの気持ちは固まっていた。これまでフィンランド人F-1ドライバーとしてはレオ・キヌネン(AAW・サーティーズ/'74年5戦)とミッコ・コザロウィツキー(RAM/'77年1戦)のふたりがいたが、いずれもスポット参戦に終わっていた。自らが、フィンランド人初のF-1レギュラー・ドライバーとなる事は、もう現実的な話であった。

ところが、カウーゼンとコジマのジョイント案は立ち消えとなる。カウーゼン側がコジマとの約束を守らずに、両者の契約は無効となってしまったのである。ロズベルグのF-1参戦は一旦白紙となってしまった。しかし、途方に暮れるロズベルグに朗報が舞い込んだ。香港の大富豪、テディ・イップ率いるセオドール・チームが'78年第3戦からのドライバーにロズベルグを指名して来たのである。セオドールはエディ・チーバーと契約したが、第2戦でチーバー自身がヘスケスへの移籍を決め、シートが空いてしまっていたのである。「考える必要なんか無かった。ふたつ返事でOKさ」かくして、'78年第3戦南アフリカ・グランプリで、F-1ドライバー/ケケ・ロズベルグは誕生したのである。

が、ロン・トーラナック設計のセオドール初のオリジナル・マシン、セオドールTR1・フォードはコンサバティヴ過ぎて他チームと戦えるだけの戦闘力に欠け、イップはシーズン中にも関わらずTR1の使用を中止し、ウォルター・ウルフから購入したウルフWR5にスイッチする。だがそれでもチームの成績は上がらず、ロズベルグのF-1初年度は完走3回(最高位10位)/リタイヤ・周回不足6回/予備予選落ち4回/予選落ち1回、と言う成績に終わった。しかし、ノン・タイトル戦となったイギリス/シルバーストン戦ではドシャ振りの中シャドウを駆って最後尾からスタートし、サバイバル戦を生き残って見事優勝を飾っている(当然公式記録には残らないが)。ロズベルグはマシンのハンディキャップが無ければ、トップ争いをする実力がある事を証明して見せたのである。

翌'79年、イップは一旦自チームの活動を中断。ロズベルグはATSチームからオファーを受けるがこれを断り、北米CanAm選手権へ参戦。ところが、第7戦モナコを最後にウルフ・チームのエース、ジェームズ・ハントが突然引退を決意。理由はマシンの戦闘力不足による選手権への絶望によるもので、ハント自身は'76年覇者、ウルフは'77年デビューの新チームでありながらデビュー戦優勝、と言う記録を持つトップ・チームだったが、'79年のマシン開発は完全に失敗。ハントは傷心でグランプリを去る決意をしたのである。急遽ウルフは翌第8戦フランスから、前年セオドールのプライヴェーターとしてウルフのマシンでの出走経験を持つロズベルグに、残りのシーズンを戦ってくれるよう要請。「一応トップ・チームからのオファーだし、何よりチャンピオンの乗ってたマシンだ。成績が出せれば皆俺の実力を解ってくれる筈だろう」こうしてロズベルグはウルフのドライバーとなる。が、噂に違わずウルフWR7はスピード/信頼性共に低く、ロズベルグは初戦となった第8戦の9位以外全てリタイヤ。それでも予選ではハントと差の無い順位を獲得し、実力をアピールする。ロズベルグは翌'80年、ウルフからようやくフル参戦する契約を結ぶ。

ところが、今度はウォルター・ウルフがチームの撤退を決意。チームはファクトリーごとフィッティパルディ・チームへと売却されてしまう。幸いロズベルグはチームに残れたが、フィッティパルディは'75年に元F-1ドライバーのウイルソン・フィッティパルディが興したチームで、'77年からは実弟で2度のF-1ワールド・チャンピオン、エマーソン・フィッティパルディをエースに据えた、明らかなファースト・ドライバー制度のチームであった。当然ロズベルグはセカンド・ドライバー扱いとなる。しかし、初戦となった'80年開幕戦アルゼンチンでロズベルグは完走7台のサバイバル戦を生き残って3位でフィニッシュ、F-1初入賞で初表彰台を獲得したのである。その後も元世界王者のフィッティパルディを予選/決勝で尽く破り、ロズベルグは一躍ニュー・スターとして脚光を浴びる。だがまたしても、フィッティパルディ・チームは財政難に襲われ、'81年は全15戦中完走僅か3回(最高位9位)と言う低迷振りとなってしまう。「さすがにこの時はF-1の厳しさを痛感した。俺には運が無いのか、と悩みもしたよ」そんな傷心のロズベルグに、フランク・ウイリアムズから1本の電話がかかるのは'81年12月の事である。

ウイリアムズ・チームは'80、'81年と2年連続でコンストラクターズ・タイトルを獲得し、'80年にはエースのアラン・ジョーンズの選手権制覇でWタイトルを達成した、当時のトップ・チームである。電話の内容はこうだった。「実はジョーンズが引退する事になって、もし君にその気があるのなら是非テストしてみたいのだが」ウイリアムズは、ここまで足掛け4年/51戦して獲得ポイントはたった6点、と言うロズベルグに、チャンピオン・チームのシートをオファーしたのである。つまり、ウイリアムズはロズベルグの実力を、実際の数字以上に高く評価していた、と言う事だ。「冬のテストでは1シーズン分位の距離を走り込んだ。ウイリアムズのマシンは、俺の知ってるF-1マシンとはケタ違いに速かったよ!。そうか、皆こんなクルマで戦っていたのか、と感心した位だ(笑)。同時に、コイツを操ってレースに出たいと心底思ったんだ」ロズベルグは念願叶い、'82年のウイリアムズ・チームへの加入が決定、前年最終戦までタイトルを争い、ブラバム・BMWのネルソン・ピケに僅か1点差で敗れたベテラン、カルロス・ロイテマンのチーム・メイトとして、史上稀に見る混迷のシーズン、1982年F-1世界選手権を戦う事となったのである。

'82年シーズンはアラン・プロスト/ルネ・アルヌーを擁するルノーと、ジル・ビルヌーヴ/ディディエ・ピローニのフェラーリ、そしてピケ/リカルド・パトレーゼのブラバム・BMWと言う"ターボ3大勢力"の戦いで幕を明けた。が、NAエンジンのフォード・コスワースDFV勢であるウイリアムズやマクラーレンにも、信頼性と言う大きな武器があった。ではこの混迷のシーズンを、開幕から順を負って見る事にしよう。

第1戦南アフリカ、優勝プロスト、ロズベルグ5位。
第2戦ブラジル、優勝プロスト、ロズベルグ2位フィニッシュ〜失格。同僚のロイテマン、政治的事情により引退。
第3戦アメリカ西、優勝ニキ・ラウダ(マクラーレン・フォード)、ロズベルグ2位。ビルヌーヴ失格。
第4戦サンマリノ、優勝ピローニ、ロズベルグ出走せず(英国系チームはストライキの為殆どがエントリーせず)。
第5戦ベルギー、優勝ジョン・ワトソン(マクラーレン・フォード)、ロズベルグ2位。予選中にビルヌーヴ事故死。
第6戦モナコ、優勝パトレーゼ、ロズベルグリタイア。
第7戦アメリカ東、優勝ワトソン、ロズベルグ4位。
第8戦カナダ、優勝ピケ、ロズベルグリタイア。リカルド・パレッティ(オゼッラ・フォード)事故死。
第9戦オランダ、優勝ピローニ、ロズベルグ3位。
第10戦イギリス、優勝ラウダ、ロズベルグリタイア。
第11戦フランス、優勝アルヌー、ロズベルグ5位。
第12戦ドイツ、優勝パトリック・タンベイ(フェラーリ)、ロズベルグ3位。ピローニが予選中に両足切断の事故。
第13戦オーストリア、優勝エリオ・デ・アンジェリス(ロータス・フォード)、ロズベルグ僅差(0.05秒)の2位。

.....この状況を見て、'82年が如何に混迷/混乱したシーズンだったかがお解り頂けるだろうか。ここまでの13戦で実に9人のウイナーが誕生し、ロイテマン/ビルヌーヴ/ピローニの3人のチャンピオン候補が戦線離脱。この時点でランキング首位は既に大怪我でドライバー生命を絶たれたピローニ(39点)で、2位は33点のロズベルグ、3位は30点のワトソンであった。つまり、実質的にチャンピオン・シップをリードしていたのは未勝利のロズベルグだったのである。前述の通り、9人の各ドライバーが星を分け合ってしまい、ここまでの8戦で最多入賞(8戦)/表彰台5回のロズベルグがワトソン/ラウダ/プロストら、2勝しているドライバー達をポイントで上回っていたのである。そして迎えた第14戦、フランス/ディジョン・サーキットを舞台に開催されたスイス・グランプリ。

ポイント上、ロズベルグ(33点)のライバルと成り得るのはワトソン(30点)/ラウダ(26点)/プロスト(25点)/デ・アンジェリス(22点)の4人。が、計算上はまだ12人ものドライバーにチャンスが残されていた。もちろん、全員が残り3戦の得点で上回れなければピローニ(39点)がそのままタイトルを獲得する。予選はプロスト/アルヌーのルノー勢が驚異的なタイムでフロント・ロウを独占、2列目にはパトレーゼとラウダ、ロズベルグはルノー勢に2秒以上離されて4列目8番手に終わった。8月29日、決勝。オープニング・ラップはアルヌーが制し、2周目にプロストが前へ。ルノー勢は共に順位を争い、熾烈なバトルが続く。ロズベルグはピケ/パトレーゼのブラバム勢を抜き、ポイント圏内へ進出。レース中盤、プロストがリードを築き、アルヌーはトラブルで後退。2位はレース巧者のラウダ。だがラウダは無理にプロストを追わない。ワトソンがスピンして後退し、ロズベルグが3位に上がる。30周目、既にプロストは2位ラウダに30秒近い差を付けて独走。だが、ロズベルグがラウダを抜いて2位に上がると、前半飛ばし過ぎたプロストのペースが落ちた。ロズベルグはここぞとばかりに加速。見る見る差は縮まり、残り5周と言う所で遂にプロストの背後に迫る。そして78周目、残り2周と言う所でロズベルグが前へ。そしてチェッカー。ロズベルグのF-1初優勝である。レースは完璧だった。「前半のルノーのペースじゃ、確実に最後までタイヤがもたない。だから、温存して最後に勝負に出る事にしたんだ」9点を加算したロズベルグはこれで42点となり、2位ピローニを差し引いて3位は31点のプロスト、4位にワトソン/ラウダが30点で並んだ。未勝利であったが故に、ランキングをリードしていてもまだ本命視されていなかったロズベルグは、一躍'82年のNo.1チャンピオン候補となったのである。

続く第15戦イタリアはアルヌ−が勝ち、ロズベルグは8位で無得点(計42点のまま)。ランキングは4位でフィニッシュしたワトソンが3点加算して33点となり、続く最終戦アメリカ東でロズベルグを上回る可能性を持つ唯一のドライバーとなった。仮にワトソンが優勝して42点となれば、同点でも勝利数(ワトソン3勝/ロズベルグ1勝)でワトソンに逆転チャンプの座が転がり込んで来るのである。つまり、ワトソンは優勝が絶対条件、ロズベルグは6位1ポイントさえ取れればワトソンが何位でもチャンピオンとなる。

最終第16戦、アメリカ東・グランプリの舞台はラスベガスのシーザース・パレス・ホテルの駐車場に作られた特設サーキット。予選はまたもプロスト/アルヌーのルノー勢が席巻、ロズベルグは6位、ワトソンは苦手なストリート・コースに戸惑い、9位。9月25日、決勝。3番手スタートのダーク・ホース、ミケーレ・アルボレート(ティレル・フォード)がルノー勢をかわしてトップへ。ワトソンは猛然とスパートし、自力で2位まで上がる。他のドライバー達も、"タイトル争いの邪魔はしない"と言うレース前のミーティングに基づき、不要なブロック等の行為は自粛した。しかし、グランプリ2年目の新人アルボレートは"そんな事は御構い無し"とばかりにトップを快走し、そのまま2位ワトソンに大差で初優勝。ロズベルグは淡々と5位を走り(しかも後方6位はチーム・メイトのデレック・デイリーだった)、計44点で見事'82年のワールド・チャンピオンに輝いたのである。F-1史上ふたり目の、"1勝チャンピオン"の誕生であった。「正直、チャンピオン・シップの事は考えていなかった。少なくとも、ディジョンで勝つまではね」そして'82年は、最終戦のアルボレートを含めて11人のウイナーが誕生し、5人の初優勝者(パトレーゼ/タンベイ/デ・アンジェリス/ロズベルグ/アルボレート)が誕生した。確かに、本命ビルヌーヴが逝き、ピローニが去った。しかし、歴史に残るのは"'82年ワールド・チャンピオン、ケケ・ロズベルグ"と言う事実である。

'83年、ターボ・エンジンへの移行に完全に乗り遅れたウイリアムズ・チームは苦戦。それでも第5戦、雨のモナコでロズベルグは大本命のピケを下して2勝目。この年最終戦南アフリカで、ウイリアムズは試験的に翌年からのエンジン供給契約を結んだホンダV6ターボを搭載。ランキングは12位へと落ち込んだが、翌年への期待を抱くには充分な態勢であった。翌'84年第9戦アメリカ東。猛暑のダラスでサバイバル戦を生き残り、自身3勝目/ホンダ第二期初勝利を挙げる。だがシーズンを通してホンダV6ターボには信頼性が足らず、ランキングは8位。'85年は第6戦アメリカ東(デトロイト)と最終戦オーストラリアで優勝、プロスト(マクラーレン・TAGポルシェ)、アルボレート(フェラーリ)とタイトルを争い、ランキング3位を獲得するも、新たにチームに加入したナイジェル・マンセルと折り合いが悪く、この年いっぱいでウイリアムズ・ホンダを離脱。'86年、ロズベルグはマクラーレン・TAGポルシェへと移籍。チーム・メイトはチーム3年目のプロスト。プロストは前年までのチーム・メイト、ラウダから"グランプリの全て"を学んでいた。勝ち方、チームの引っ張り方、そしてチーム・メイトの使い方も、だ。プロストはチーム全体の信頼を勝ち取り、常にロズベルグ以上の成績を挙げた。結果、ロズベルグの役目は"サポート"であった。第10戦、ドイツ。この時点で選手権はマンセル(ウイリアムズ・ホンダ)51点/4勝、プロスト44点/2勝、アイルトン・セナ(ロータス・ルノー)42点/2勝、ピケ(ウイリアムズ・ホンダ)38点/2勝。ロズベルグは未勝利の19点でランキング5位。ロズベルグに出来る亊は、プロストの援護だけだった。「これ以上の事は、プロのレーシング・ドライバーとしての自分には受け入れられない」ロズベルグは'86年いっぱいでの引退を決意した。

最終戦オーストラリア・グランプリ。マンセル70点/ピケ63点/プロスト61点。コンストラクターズ・タイトルは既にウイリアムズ・ホンダが決めていた。ドライバーズ・タイトルはマンセル初か、ピケ2度目か、全世界が注目していた。プロストも、計算上は自身優勝/マンセル無得点/ピケ2位以下、ならチャンスが残されていたが、決して現実的では無かった。ポール・ポジションはマンセルが奪う。プロスト4位、ロズベルグ7位。ロズベルグはプロストと策を練る。決勝スタート。ピケがトップ、マンセルは入賞圏内を走ればタイトル獲得、とあっていつもの猪突猛進スタイルでは無かった。そこへロズベルグが猛然とスパートし、6周目にピケをも抜いて遂にトップへ。ロズベルグは異常なハイ・ペースでレースをリードする。プロストは無理せず、自分のペースを守って4番手を走行。ピケ/マンセルのウイリアムズ勢はやや焦り、ロズベルグに離されまいと抵抗。が、これはロズベルグの仕掛けた"罠"だったのだ。62周目、ロズベルグは序盤のハイ・ペースが祟ってスロー・ダウンし、リタイア。翌63周目、今度はストレート・エンドで3位マンセルの左リア・タイヤがバースト。慌てたウイリアムズ・チームはピケにタイヤ交換の指示を出し、ピット・イン。これでプロストがまんまとトップに立ち、奇跡の大逆転でタイトルを獲得したのである。つまり、ロズベルグは自らのラスト・レースを棒に振ってレース前半を撹乱させ、チームにドライバーズ・タイトルを置き土産にして行ったのである。

F-1出走128戦/5勝/ポール・ポジション獲得5回/最速ラップ3回/通算獲得ポイント159.5点。'82年、フォード・コスワースDFVエンジン最後のワールド・チャンピオン。通算5勝の内4勝はストリート・コース、更に3戦は初開催地。コンクリート・ウォールをも恐れぬ豪快なドリフトで魅せたストリート・ファイター、ロズベルグ。彼は"運が良かった"のでは無く、"運を引き寄せた"のである。引退後、ロズベルグはSWC(国際スポーツ・カー選手権)等で活躍し、同郷のミカ・ハッキネンのマネージメント等でF-1と関わり合いを持ち続けた。

ロズベルグのドライヴィングの特徴は、何と言ってもその豪快なドリフトである。典型的なファイター・タイプのロズベルグは、オーバー・ステアなセッティングを好み、コーナーへ進入する際はフル加速からフル・ブレーキングし、強引にステアリングを切り込んでマシンをねじ伏せる。そして、カウンターを当ててマシンの姿勢を保ち、再びフル・スロットルでコーナーを抜けて行く。観る者にはたまらないスタイルである。'80年のフィッティパルディに代表されるように、ロズベルグは走らないマシンでも見事に走らせ、乗れないマシンでもまんまと乗ってしまうのである。ところが、'85年にウイリアムズ・ホンダを出て行く理由がここにもある。「ケケは出来の悪いマシンでも上手く乗りこなしてしまう。でもそれだとテスト/開発になんない。逆にマンセルは文句を言いたいだけ言う(笑)。だから、ケケに出て貰った」とは、当時のホンダ総監督、桜井淑敏の後日談である。

.....ケケ・ロズベルグと言えば、もうひとつ。"煙草"だ。自他共に認めるヘヴィ・スモーカーの彼が愛飲するのはマールボロ・ライト。それも、ピット内/グリッド上/表彰台(!)と、コックピット以外では時と場所を選ばずに吸っていた。そして、誰かに注意されると「わかってるって」と言いながら後を向き、平然と吸い続ける。'86年第14戦ポルトガルでは、引退を決めたロズベルグにマールボロが粋な計らいをした。彼のマシンのみ、通常の赤と白では無く、黄色と白のマールボロ・ライト・カラー(実際のパッケージは金色)にペイントしたのである。言わば、ロズベルグの喫煙はサーキットで公認されていた、とも言える。

パトリック・ヘッド(ウイリアムズ/テクニカル・ディレクター)や故・中村良夫(ホンダ総監督)等、F-1のパドックでもロズベルグ・ファンは多い。元F-1メカニック/現ジャーナリストの津川哲夫氏もロズベルグの大ファンだと公言する。「俺がトールマンで働いてた頃、マシンの押し掛け中に勢い余ってコースに倒れ込んだんだ。そこへ、最終コーナーから250km/hオーバーで突っ込んで来るケケが来た。見る見る内にケケのマシンが大きくなり、俺は神に祈った。『動けない、もうダメだ』そう思った次の瞬間、ケケはズバッとギアを入れ直し、ステアリングを軽く切って俺を避けて行った。その差僅か数センチ(!)。そのまま奴は加速して走り去った。以来、ケケの大ファン(笑)」津川はこの事をロズベルグ本人には伝えていないらしい。「今でも、タイヤで髪の毛が揺れた感覚を覚えているよ!」

.....'03年12月、F-1ウイリアムズ・BMWのテスト走行に現れたふたりのドライバーは、あまりの報道陣の多さに共に顔を見合わせていた。彼等の名はネルソン・アンジェロ・ピケ('02年南米F-3王者)、そしてニコ・ロズベルグ('02年フォーミュラ・BMW覇者)。もうお解りだと思うが、ピケの父は'81、'83、'87年の3度のF-1ワールド・チャンピオン、ネルソン・ピケ。ロズベルグの父は'82年王者ケケ・ロズベルグで、ふたりとも18歳。共にウイリアムズ・チームでタイトルを獲った父(ピケは'87年のみウイリアムズ、他2回はブラバム・BMW)を持つ、F-1ドライバーのサラブレッドである。少なくとも、パトリック・ヘッドが共同オーナーでいる限り、数年後にウイリアムズF-1のレギュラー・シートに座るのはニコの方なのでは無いだろうか。



「俺の5勝以外に、"F-1名勝負"なんてあったか?」
-あるジャーナリスト著の"F-1名勝負15選"と言う本の前書きで/ケケ・ロズベルグ-


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