| .....F-1史上唯一の6輪車、ティレルP-34。F-1の歴史を語る上で絶対に欠かせないマシンのひとつである。事実、我がno
race, no lifeでもlap19-"名車誕生の舞台裏・vol.1/タイレルP-34"-でその誕生秘話を紹介させて貰っているが、このコラムに限らず、この前代未聞のマシンを紹介するサイトは非常に多い。恐らく写真やプラモデルの紹介等を含めると、全F-1マシン中トップなんじゃないか、とさえ思うのである。ところが、だ。肝心の、この"呆れた発想(少なくとも当時は)"を現実のものにしてしまった当の制作者について書かれているものは全〜然無い事に気が付いた。.....んじゃ、ウチがやっちゃうもんね。その人の名は、デレック・ガードナー。6輪F-1の設計者としてだけで無く、偉大なるF-1世界チャンピオン、ジャッキー・スチュワート黄金期の立役者でもあった、この"奇才"(いや奇人?)デザイナーを紹介しよう。 イギリス生まれのデレック・ガードナーの幼い頃の夢は'40年代当時の他のイギリス少年達と同様、戦闘機のパイロットであった。若きガードナーは兵役に入るとイギリス王立空軍のパイロットを志願したが、あまりの競争率の高さに夢破れ、仕方なく自ら自動車の改造を"趣味として"行っていた。徐々に自動車のメカニズムに興味を示して行ったガードナーは、兵役終了後にイギリスのポップス・トランスミッション社に就職し、そこで製図工としてオートマチック・トランスミッションの設計等に携わっていた。そのガードナーに、4輪駆動開発で有名なハリー・ファーガソン・リサーチ社が目を付け、'67年にヘッド・ハンティング。その頃、アメリカのインディ・カー・レースではアンディ・グラナタリ率いるSTPチームがハリー・ファーガソン製の4輪駆動システムと特異なプラット&ホイットニー製のガス・タービン・エンジンを搭載したマシンの研究/製作を進めていた。'68年、彼等はF-1コンストラクターでもあるロータス・チームのコーリン・チャップマンと手を組み、ガス・タービン・エンジン+4輪駆動のインディ用マシン、ロータス56を製作。もっとも、チャップマン/ロータス自体は既にロータス63で4輪駆動マシンでの手痛い"失敗"を経験しており、途中放棄寸前だった革新的なアイデアの実験の機会として、グラナタリが資金を提供したので継続した、と言う程度のものであった。そしてハリー・ファーガソンでのガードナーの仕事振りに、チャップマンが目を付ける。だが結局ロータスは56Bを最後に4輪駆動から足を洗い、ハリー・ファーガソンはフランスのマトラと組んで4輪駆動マシンを開発して行く事となった。マトラと共にF-1レースの現場へと足を踏み入れたガードナーには、サーキットの雰囲気は新鮮なものだった。 .....そしてこの頃、製図板に向かっていたガードナーは初めて出会う"レーシング・カーの空気抵抗"に、些かショックを受けていた。オープン・ホイールのマシンでは、如何に前後ウイングで気流をコントロールしようとも、剥き出しの4本のタイヤが左右に存在している以上、理想的な空気の流れは望めなかった。実は、ハリー・ファーガソン社はヘリコプターや小型のホバー・クラフトの設計/開発等も行っており、それらを良く知るガードナーにとって、4本のタイヤが剥き出しになったフォーミュラ・カーは実に無駄な造りに見えていたのである。むしろこれでは4輪駆動開発そのものすら意味をなさないのでは、とさえ思っていた。「なんとかタイヤに当る空気の量を減らせないだろうか」ガードナーはスケッチ・ブックにF-1マシンのデッサンを描き、フロント部に実物よりも小さなタイヤを描いた。確かに空気抵抗は減りそうだったが、これでは今度は路面とのグリップが望めない。そこで、スペースも空いていた事だし、隣に同じサイズのタイヤをもうひとつ描いてみた。前4輪/後2輪の6輪車が出来上がった。「.....まあ、良いか」ガードナーは苦笑いをしてこのスケッチを閉じた。 マトラのF-1プロジェクトは母国フランスのナショナリズムへの忠誠を元に、マトラ製V12エンジンを擁して進行していたが、彼等にはセカンド・チームが存在した。マトラのセカンド・チームを率いるのは、元F-3レーサーのケン・ティレル。マトラ製シャシーにフォード・コスワースV8エンジンを使用し、'68年にF-2からF-1へとステップ・アップして来た若いチームであった。ドライバーにはF-2時代から蜜月状態にあったジャッキー・スチュワート(スチュワートはBRMのF-1チームとティレルのF-2チームを掛け持ちしていた)を招き、初年度の'68年にランキング2位、2年目の'69年にはスチュワートが初のワールド・チャンピオンを獲得する等、本家マトラ・チームを完全に凌駕してしまっていた。その辺りの"世間体"もあってか、マトラは'69年いっぱいでセカンド・チーム・プロジェクトを廃止し、ティレルはやむなくマーチのシャシーを使用して'70年のグランプリに参戦した。が、マーチ701はスチュワートを納得させるような戦闘力を発揮する事が出来ず、チームは低迷して行った。ティレルは考えた。どの道、「いずれは自家製オリジナル・シャシーで戦いたい/タイトルを獲得したい」と願っていたティレルにとって、この不振はむしろ決断するには最適なタイミングかも知れなかった。ティレルはマトラのピットへ行き、ある男の顔を探した。そしてその男を見つけると、歩み寄ってこう囁いたのである。「ウチのチームで、F-1マシンを作ってくれないか」昨年までは共に働きながら、今はライバル・チームとなったティレルの言葉に驚いていたその人物こそ、ガードナーだったのである。 さて、当のガードナーは困惑していた。何しろ、本格的にF-1マシンを設計した事等、もちろん無い。しかも相手は前年のチャンピオン・チームである。更に、レーシング・カーのデザインともなれば航空力学の専門家クラスの人物がやる事で、言って見れば"足回り屋"に車体を造れ、と言っているようなものだったのである。しかしティレルはガードナーがハリー・ファーガソンで培って来た知識と、不馴れなレースの現場で見せた的確な仕事振りに全幅の信頼を寄せていた。そして、何より実績の無いガードナーは、"F-1デザイナー市場"では格安である事もティレルの選択の理由であった。従って、ガードナーにF-1マシンを設計させる事は、ティレルにとっても未知の領域だったのである。ともあれ、ガードナーはこの申し出を受ける事にした。何故なら、ガードナー自身、仮にこのF-1マシン設計が失敗に終わっても、失うものは何も無かったからである。その時はホバー・クラフトかひとり乗りの小型ヘリコプターの設計でもしよう、と腹を決め、'70年の春、ガードナーはティレル・チームへと加入した。 そしていざマシン設計が始まると、ガードナーはティレル自身が驚くような集中力で仕事を行った。ガードナーは自宅の寝室に用具一式を持ち込み、公私の区別無くマシン設計に没頭した。夏になると、自宅から300km以上も離れたサリーのティレル・チームのファクトリーへ通い、マシンの組み立てを行った。そして秋、第11戦カナダ・グランプリの舞台、モン・トランブラン・サーキットに、秘密裏に製作されたティレル001は現れた。そして、ろくなシェイク・ダウン・テストも無いまま望んだ予選で、ティレル001とスチュワートは2位フェラーリのジャッキー・イクスに0.1秒差で驚愕のポール・ポジションを獲得してしまう。前戦まで使用していたマーチはフランソワ・セヴェールが0.9秒差で4位、マトラ勢に至ってはヘンリ・ペスカローロの8位(1.4秒差)が最高であり、ティレル001は誰も予想していなかった快挙を成し遂げたのである。決勝ではトップ快走中にメカニカル・トラブルでリタイアするが、シーズン残り2戦で連続予選2位を獲得、レースはやはりリタイアとなるが、シェイク・ダウンと初期トラブルを解消する為のテスト期間、と考えれば出来過ぎな内容であった。そして、ティレルもまさかこれ程の出来とは、と驚きを隠さなかったが、この事実に最も驚いたのは他ならぬガードナー本人だった。パドックは騒然とし、ガードナーの実力に気付かなかったマトラ首脳陣は大恥をかく事となった。しかしこれでガードナー本人は俄然やる気を出し、チームのファクトリーに程近いサリーに家族で引っ越して来た。そして翌'71年、速さに加え信頼性をも確保したティレル001の快進撃が始まる。 開幕戦南アフリカではスチュワートがマトラのクリス・エイモンに0.6秒の大差を付けてポール・ポジションを獲得し、レースではフェラーリのマリオ・アンドレッティに次ぐ2位で初完走を果たす。第2戦スペイン、スチュワートは予選4位からイクス/クレイ・レガッツォーニのフェラーリ勢とマトラのエイモンを抜いてトップに立ち、終盤のイクスの追撃を交わして遂に優勝。ガードナーの処女作は出走5戦目で早くも初勝利を挙げたのである。続く第3戦、伝統のモナコではスチュワートがポール・ポジション/最速ラップ/優勝のハット・トリックを決め、この年チームに加入したセヴェールも2位に入ってティレルの1.2フィニッシュとなり、ガードナーは一躍F-1グランプリの"トップ・マシン・デザイナー"となったのである。しかしガードナーは開発の手を緩めず、この年001の改良ヴァージョンである002、003を登場させた。主な開発コンセプトはハリー・ファーガソンにいた頃と同じく、やはりフロント部の空力処理であった。003ではその後のF-1マシンのトレンドとなる"スポーツ・カー・ノーズ"を搭載。マシンのノーズとフロント・ウイングが一体型となったこの形は、以前からガードナーが問題視していた"フロント・タイヤによる空気抵抗値を最小限に押さえる事"を目的に考えられ、その後多くのF-1チーム/デザイナー達が模倣したアイデアである。結局この年スチュワートは6勝を挙げてチャンピオンとなり、最終戦アメリカ東ではセヴェールも初優勝を決め、チームは初のWタイトルを獲得したのである。 が、それでもガードナーは開発の手を緩めなかった。日進月歩のF-1社会に於いては、市販車やヘリコプター等の技術のようにトレンドが固定する事は無く、常に新しいアイデアを取り入れて行かなければ即敗北を意味する事を、既にガードナーは解っていたのである。事実、'72年は若きエマーソン・フィッティパルディの駆るロータス72D・フォードが'70年のデビューから2年を掛けて無敵の速さを備えてタイトルを獲得、ガードナーの004/005と進む開発スピードも追い付かず、ティレルはコンストラクターズ2位でシーズンを終えた。後半戦に登場した005は、更にシャープになったノーズとショート・ホイール・ベース化でコンパクトなシャシーに仕上がり、スピードも格段に上がったにも関わらず、ロータスはそれ以上の開発スピードでマシンを熟成していたのである。そして、この頃スチュワートはガードナーの良き相談相手となっていた。ガードナーが改良のアイデアで悩んでいると、スチュワートが的確なアドバイスと自分のドライヴィング・スタイルに合った解決法を提案した。こうして、ガードナーのマシンはスチュワートの操作し易いものとなって行った。翌'73年、ロータスはフィッティパルディとロニー・ピーターソンが高速コースで無類の速さを見せる72Eで活躍するが、ティレルは006まで進化したマシンでこれを迎え打ち、スチュワートが5勝を挙げて自身3度目のドライバーズ・チャンピオンを獲得した。時代は、ティレル/ガードナー/スチュワートの3人を"黄金のトリオ"と呼び、もはやフェラーリやロータス、BRM等の名門チームが羨む、正に"黄金時代"を迎えていた。 だが、スチュワートは体力的/年齢的な理由で'73年いっぱいでの引退を決めていた。チームは成長著しいセヴェールを翌年からのエースとして戦う事を決めるが、最終戦アメリカ東戦、自身の初優勝と同じワトキンス・グレンで予選中にガードレールに突っ込んでマシンが大破し、セヴェールは還らぬ人となってしまった。チーム全員が悲しみに暮れた。ティレル・チームが味わう初めての挫折であった。翌'74年、ドライバーにはマクラーレンから移籍のジョディ・シェクターと、フランスの新人パトリック・デパイエが選ばれた。ガードナーはここまでのスチュワートの好みに合わせたマシン造りを一変し、"誰もが操作し易いマシン"の製作を心掛けた。そうして誕生した007は、サイド・ラジエーターを備える事でよりコンパクトなフロント部を実現した。操作性にも優れ、シェクターがこの年2勝を挙げてティレルはコンストラクターズ3位となるが、ガードナー自身は不満であった。更に、'75年にはマクラーレン/フェラーリ/ブラバムらが独自のアイデアで戦闘力を発揮し始め、ティレルは1勝のみでランキング7位へと転落。ガードナーは"運転し易いマシン"よりも"独創的なマシン"の必要性を強く感じ始めていた。 .....'68年にガードナーがスケッチ・ブックに描いたアイデアを、何気無く思い出すには絶好のタイミングであった。元々レーシング・カーの設計を学んでいたわけでは無いガードナーに、"常識"等と言う言葉/判断基準は存在しなかったのだ。'73年、ガードナーはこのアイデアをティレルに伝えた。ティレルは驚きながらも、ガードナーの好きにやらせる事にした。その後、水面下で進んだニューマシンのプロジェクトは'75年秋、ロンドンのヒーローズ・ホテルで初公開された。マシンに掛けられていたヴェールがゆっくりと剥がされると、フロント部に小さなタイヤが左右に2個ずつ付いた、6輪車が現れた。集まった関係者/報道陣は、一瞬言葉を失った。そして翌日の新聞には"ティレル/ガードナー、血迷う"の文字が踊ったのである。 "P34"と名付けられたこの6輪車は、グッド・イヤーに特注した10インチ(25cm)のスペシャル・タイヤをフロントに4個装着し、従来のサイズのタイヤによる空気抵抗を飛躍的に軽減すると共に、小径化によるグリップ不足/ブレーキ性能劣化を"数を増やす"事によって解決しようとしたマシンであった。P34は様々な実戦用モディファイを加えられ、'76年第4戦スペインから投入された。ライバル・チームやマスコミの失笑を他所に、4戦目となる第7戦スウェーデンでシェクター/デパイエは1.2フィニッシュを決めた。6輪車は、決してフロック等では無かった事を証明して見せたのである。'76年をコンストラクターズ3位で終えたティレル/ガードナーだったが、翌'77年はP34の速さを維持しつつ操作性を向上させようとあらゆるアイデアを試みた。ガードナーの課題は、もっぱら前輪に目が行きがちなこのマシンの、リア部の挙動を安定させる事であった。エース・ドライバーのシェクターはウルフ・チームへと移籍して行き、新たにピーターソンが加入してデパイエとコンビを組んだ。が、実はデパイエはこのP34の開発に協力的だったが、他のドライバーには不評であった。シェクターもP34投入時には旧車007の方を好み、そして最後はチームを離脱して行った。ピーターソンも同様で、翌'78年のロータスへの復帰を既に決めていた。そのような状態で、ガードナーは毎戦のように孤軍奮闘した。経験の少ないデパイエだけでは、スチュワート時代のように性能向上の為のモディファイが思うように進まなかったのである。更に、小径タイヤを供給していたグッド・イヤー社の開発にも陰りが見えていた。他の古くからのクライアント/有力チームから圧力が掛かったのである。かくして'77年のP34/2は開発の方向を見失い、リア部が大きく/重くなって行くのを止められず、オリジナル・マシン1年目の'70年以来となる未勝利でシーズンを終えた。 そして'77年シーズン後半、FIAは"車輪の数は4輪とする"新レギュレーションを発表、'78年開幕戦からの適用を決定した。ガードナーは失望していた。それはP34に、では無く、F-1グランプリそのものに対してであった。同じ頃、アメリカのミッション/クラッチ開発で有名なボルグ・ワーナーから、ガードナーにトランスミッション開発のシニア・エンジニアとしての座がオファーされていた。ガードナーは考えた。F-1に、少々疲れていた。世界各国を転戦するレース漬けの日々を送り、家族に対しても申し訳なく思っていた。そしてガードナーは決断した。ティレルに辞表を出し、同時にガードナーはレースにも別れを告げたのである。ティレルはこれを快く受け、これまでの感謝をガードナーに伝えた。そして、以後ティレルが再びチャンピオン・シップを制する事は無かった。 .....良く考えて貰いたい。ガードナーは4輪駆動の開発がきっかけでレースの世界へと入って来た。そして、最終的に彼が創ったのはマシンに装着されたタイヤの存在を否定する考え方のマシンだったのである。自らは駆動系のスペシャリストでありながら、これからのレーシング・カーに必要なものは空気抵抗との調和である、と考え、それでも接地面を増やす為に前輪を"倍に増やす".....誰がこんなアイデアを考え、しかも効果を計算出来ただろうか。事実、その後マーチやウイリアムズ、更にはフェラーリまでもが6輪車開発に手を出し(レギュレーション上禁止である為、実戦登場は無かったが)、発表当時誰もが嘲笑した斬新なアイデアを、結局は認めざるを得なかったのである。もしあのままガードナーがF-1に留まっていたとしたら、今日のレーシング・カーはいったいどうなっていたのだろうか。例えば今度は後輪のドラッグを解決しようと小径化し、接地面の減少に対応する為リア・ウイングを大型化して、リアの車重を軽くしようとエンジン設計に手を出し.....いや、考えても無駄だ。"奇才"ガードナーの考える事は、凡人である筆者には想像も付かない。
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