■lap80-"教授〜プロフェッサー〜と呼ばれて"/アラン・プロスト物語-
2003.12.19


.....ルネ・アルヌー、ニキ・ラウダ、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル、そしてアイルトン・セナ。これが彼と戦ったライバル達である。実力も、運も、マシンの性能も含め、"絶対に敵にしたくないドライバー達"である。が、彼等もまた、ひとりの男を恐れていた。小柄で静かなそのフランス紳士は、時に美しく、そして時に大胆に、彼等から勝利を奪って行った。その冷静沈着な判断力と理論と計算に基づく独特のドライビング・スタイルから、彼は"プロフェッサー(教授)"と呼ばれた。それが通算4度のF-1世界チャンピオン、アラン・プロストである。

アラン・マリー・パスカル・プロストは'55年2月24日、フランスのサン・シャモンの裕福な家庭に次男坊として誕生。フランスの他の子供達と同様、サッカーが好きな平凡な子供だったが、2歳年上の兄、ダニエルは部屋中をジャッキー・スチュワートやジム・クラークのポスターでうめ尽くす程のレース・ファンであった(ちなみにダニエルは若くして病死している)。しかし、元々スポーツ少年だったプロストは自動車やメカニズムには全く興味を示さなかった。事態が急転したのは'70年、プロスト15歳の時だった。家族で出かけた遊園地でプロストは兄ダニエルと只の一度も経験の無い"ゴーカート・レース"をする事になった。嫌々ながらカートに乗り込んだプロスト少年に衝撃が走った。今まで経験した事の無い感覚であった。そしてすぐに、プロストは地元のカート・クラブに入会した。まだプロのレーシング・ドライバーになる事等夢にも考えなかったが、とにかく走りたくて仕方無かったのだ。プロストは来る日も来る日もカートでの走行に明け暮れ、'72年、700フランで遂に自分のカートを購入。決して早くからキャリアをスタートしたわけでは無かったが、'73年にはフランス・ジュニア・カート選手権で2位となり、翌'74年は早くもカートのフランス国内と欧州選手権の両方を制覇する等、一気に頂点へと上りつめた。翌'75年、20歳の時にフランス・カート・チャンピオンとしてルノーとエルフの主催するウインフィールド・レーシング・スクールのオーディションに招待され、ポール・リカール・サーキットでコース・レコードを記録。プロストはルノー/エルフ公認の奨学生となり、'76年のフォーミュラ・ルノーで四輪レース・デビュー、13戦中12勝のブッチ切りでチャンピオンを獲得した。翌'77年は欧州のフォーミュラ・スーパー・ルノー選手権を制覇し、'78年にかけてF-3/F-2にも参戦、'79年には欧州/フランスの両シリーズでF-3チャンピオンとなった。プロストの名は瞬く間に欧州全土に知れ渡り、F-1モナコ・グランプリの前座F-3でも勝利したプロストの元には、当然のようにF-1チームからの誘いが舞い込んで来た。

まずプロストに来たオファーは、名門マクラーレンから、「'79年の最終戦にマクラーレンでスポット出場してみないか」と言う、一見F-3チャンピオンの若手ドライバーにとってこれ以上ないかのような贅沢なオファーであった。が、プロストは「'79年のマクラーレンは戦闘力が低過ぎる。キャリアに泥を塗るだけだ」と、この申し出を断ってしまった。次に、地元フランスのリジェが'80年のレギュラー・シートの座を持ってやって来たが、またもプロストは「彼等は金が欲しいだけだ」とこれを一喝。他にロータスやブラバム等、多くのトップ・チームと話をしたが、プロストの欲求を満たすチームとは出会わなかった。最終的にプロストが選んだのは、最初にスポット参戦のオファーを持って来たマクラーレンであった。'80年シーズンは'79年に比べれば多少は戦闘力が見込めるのと、セカンド・ドライバー契約では無いジョイント・No.1制度での3年契約、と言うのがプロストの心を動かした。だが、マクラーレン側からは"冬の合同テストでトップ・タイムを出す事が条件"とされた。F-1未経験のプロストはこの条件を了承し、そしてトップ・タイムを叩き出した。かくして、F-1ドライバー、アラン・プロストが誕生した。世間は「小柄で、頭の良い"次世代F-1レーサー"が誕生した」と、プロストを評価した。

F-1デビュー戦となった'80年開幕戦アルゼンチン・グランプリでプロストは予選12位からスタートし、初レースで6位入賞と言う快挙を達成した。続くブラジル・グランプリでも5位となったが、翌第3戦南アフリカで予選中にクラッシュして腕を骨折、2戦を欠場。しかし第5戦から復帰し、結局イギリス/イタリア・グランプリでも6位入賞し、しばしばエース・ドライバーのベテラン、ジョン・ワトソンよりも速かった。最終的にプロストは5ポイントを獲得してデビュー・シーズンを終えたが、最終戦アメリカ東・グランプリで予選中にサスペンション・トラブルでクラッシュした際、マクラーレン・チームのスタッフがプレスに向かって「タイヤが温まる前にハード・プッシュしたプロストのミスが原因」と説明した。激怒したプロストは自らプレスを集め、「連続アタック8周目に"タイヤが温まっていない"と言う事が、如何に物理的にあり得ない事か」を、プレスの人間に"分かりやすく"、且つ"理論的に"説明して反論。チームに対して信用のおけなくなったプロストはそのまま最終戦を欠場し、マクラーレンとの契約を一方的に破棄した。

翌'81年、プロストは早くもストーブ・リーグの目玉となった。最終的にプロストを獲得したのは、奨学生としてプロストを育て、ようやくF-1でも勝利するようになった母国フランスのルノーであった。ここにはチーム・メイトとして、先輩格のフランス人ドライバー、ルネ・アルヌーがいた。アルヌーは驚異の新人、プロストを恐れていた。実際、シーズンが始まるとまだターボ・エンジンの熟成に苦しんでいた完走率の低いルノーのマシンを巧みに操り、プロストは自分とルノーの地元、第8戦フランス・グランプリでデビュー20戦目の初優勝を飾る。結局プロストは3勝を挙げ、しかも全6回の完走が全て表彰台、と言う大活躍を見せた。対してアルヌーは2位が1度だけ、と新人プロストに完敗を喫した。翌'82年、プロストは友人であるフェラーリのジル・ビルヌーヴがチーム・メイトのディディエ・ピローニの"裏切り"に苦しんでいる事を知った(lap28-"勇者達の肖像・vol.2"/ジル・ビルヌーヴ&ディディエ・ピローニ-参照)。そして無惨な結末が彼等を襲い、プロストはチーム内でのドライバー同志の関係の難しさを知った。ところが、第11戦フランス・グランプリでアルヌーが全く同じ事件を起こす。しかも、たまたまスタート前にルノー・チーム監督のジェラール・ラルースがアルヌーに対して「今日はプロストを勝たせろ」と"チーム・オーダー"を出し、アルヌーが頷く場面を目撃してしまう。が、レースはピットからの再三の指示を無視し、トップを走り続けたアルヌーがトップでゴール。しかも、レース後アルヌーはマスコミに対して如何に自分が不利な状況に於かれているかをブチまけた。フランス中がアルヌーに同情し、プロストは突然"悪者"となった。結局アルヌーはフェラーリに移籍するが、プロストの元には連日脅迫状が送られて来た。街を歩ければ、石を投げられた。ルノーは混乱し、'83年はプロストが4勝を挙げるもブラバムのネルソン・ピケに逆転でタイトルを奪われてしまう。最終戦後のチーム・ミーティングで自らマシンの問題点をチームに意見したプロストは、ルノーから「出て行ってくれ」と、一方的な解雇通告を受けた。プロストは、チーム・メイト/チーム・スタッフと上手くやって行く事の困難さを嫌と言う程思い知り、ルノーを去って行った。

'84年、プロストのデビュー・チームだったマクラーレンはロン・デニス率いる"プロジェクト・4"により大改革を敢行し、全く新しいプロフェッショナル集団へと生まれ変わっていた。デニスは才能溢れながらも母国チームを追い出されたプロストをチームに招いた。チーム・メイトはマクラーレン復興の為にカム・バックした元チャンピオン、ニキ・ラウダ。グランプリの全てを知り尽くした帝王、ラウダと共に走る事で、プロストは多くの事を学んで行った。圧倒的な速さを見せるプロストが7勝、着々とポイントを稼ぐラウダは5勝。計12勝を挙げたマクラーレン・ポルシェは最終戦ポルトガル・グランプリへ。ラウダが3位以下となり、自分が勝てばチャンピオンのプロストはレースを独走、しかし下位グリッドからクレバーなレース運びで2位でフィニッシュしたラウダがたった0.5ポイント差でチャンピオンとなった。表彰台の上でラウダはプロストに「チャンピオンとはこうして獲るものだ。来年は君にも出来るだろう」とプロストに囁いた。翌'85年、ラウダの言葉通り着実にポイントを稼いで行ったプロストが5勝ながら遂にチャンピオンを獲得した。フランス人初のF-1ワールド・チャンピオンの誕生に、フランス中が沸き返った。同時に、時が経ってアルヌーの告発が決して真実では無かった事も認知され、当時プロストを攻撃した人達の態度は一転していた。だが、"フランスの英雄"扱いされた当のプロストはいたってクールであった。「オーストリア人の素晴らしいチーム・メイト、イギリスのシャシー、ドイツのエンジン、アメリカのタイヤ。これらのおかげで僕はチャンピオンになれたんだ。フランスの事は来週にでも考える事にするさ」プロストのタイトル獲得を見届けると、帝王ラウダは引退して行った。プロストはラウダを通じて、チャンピオン・シップの戦い方を学んだ。いつしかプロストは、その計算高いキャラクターとラウダ直伝の冷静なドライヴィングで、"プロフェッサー(教授)"と呼ばれていた。

'86年、最強のウイリアムズFW11・ホンダを手にしたネルソン・ピケとナイジェル・マンセルがシリーズを席巻していた。だがライバル心剥き出しのふたりはしばしば同士打ちに合い、6勝のマンセル、4勝のピケに続いて3勝のプロストが追う展開で迎えた最終戦オーストラリア・グランプリ。プロストは3位でタイトル決定のマンセルに対し、マンセル入賞圏外+優勝が絶対条件と言う不利な立場にいた。ところが、レース終盤にマンセルのタイヤがバーストしてリタイヤ、焦ったピケはスピン〜安全の為のタイヤ交換で2位に順位を落とし、終止冷静に走った"プロフェッサー"プロストが大逆転勝利を飾り、2度目のワールド・チャンピオンを奪った。燃費ギリギリでクレバーな走りに徹していたプロストはフィニッシュ直後にコース・サイドにマシンを止め、天を仰いでガッツ・ポーズを繰り返した。着実に走る事でチャンスをものにする、ラウダの教えが2年連続でプロストにタイトルを齎したのである。翌'87年はウイリアムズのピケがタイトルを奪い返すが、プロスト自身は第12戦ポルトガル・グランプリで当時最多となる通算28勝目をマーク。時代はプロスト/ピケ/マンセル、そして新鋭のアイルトン・セナ4人の時代を迎えていた。そして'88年、マクラーレンとプロストはウイリアムズで最強を誇ったホンダ・ターボ・エンジンと、戦闘力の低いロータスで健闘していた若き天才、セナを迎える事になった。セナはプロストにとって、生涯最大のライバルになる男だった。

マクラーレンはプロストとセナを"ジョイントNo.1"として扱う事を発表、ゴードン・マーレイ設計の新車マクラーレンMP4/4、ホンダのRA166E・ターボ・エンジン、そしてプロスト/セナと言う最強の布陣で全16戦中15勝を記録。チーム・メイト同志だけのタイトル争いは"セナ/プロ対決"と呼ばれた。結局ドライバーズ・タイトルは若く、速いセナが持って行ってしまい、プロストは2戦リタイヤした以外全て優勝か2位でフィニッシュしたにも関わらず、2位でシリーズを終える事になる。ラウダから学んだ戦略は、セナには通用しなかったのである。更に、セナはプロストに対して決して心を開こうとはしなかった。むしろ、開かない事で自分を追い込み、勝つ事だけに向かって行くタイプであった。それでも始めは上手くやっていたふたりだったが、第13戦ポルトガル・グランプリで問題が起きた。スタート直後、セナは並びかけるプロストを、ピット・ウォールに向かって幅寄せしたのである。一歩間違えば大事故につながるセナのブロックに、プロストは怒りをあらわにした。だが、翌'89年はもっと深刻であった。第2戦サンマリノ・グランプリ、フェラーリのゲルハルト・ベルガーがタンブレロ・コーナーで大クラッシュ、レースは赤旗再スタートとなった。その際、セナはプロストに「スタートでトップに立った方がレースをリードし、第1コーナーでの無理な追い越しはしない」との提案をした。プロストはこれを受け入れたが、いざ再スタートが切られると、リードしたプロストをセナが強引に抜いてしまった。俗に言う"紳士協定"事件である。そしてこれは、'82年のビルヌーヴとピローニ、そしてルノー時代にアルヌーが自分にした事と同じ意味を持っていた。プロストはセナを信じる事が出来なくなり、以後サーキットでふたりが会話する事は無くなってしまった。チームはなんとか事態を沈静化しようとするが、当のセナも全く譲る気配が無かった。プロストは、チーム全体がセナ寄りになって来ている事も感じ取っていた。2年連続でタイトル争いを繰り広げるふたりは第15戦日本・グランプリ、シケインでプロストのインに突っ込んで来たセナとブロックしたプロストが接触、その瞬間プロストの3度目のワールド・チャンピオンが決定した。しかし、ピットで笑顔を見せるものは誰ひとりおらず、後味の悪い結末となった。プロストはマクラーレンを追われるようにしてフェラーリに移籍。奇しくも、かつてアルヌーが辿ったのと同じような流れの中に、プロストはいた。

'90年、フェラーリはジョン・バーナード製作の641/2がセミ・オートマチック・ギヤ・ボックス等の最新兵器で快走、マクラーレンのセナと熾烈なタイトル争いをしていた。が、チーム・メイトとなったマンセルがプロストのNo.2として援護してくれる筈も無く、幾つかの勝利を阻まれる。結局前年と同じ鈴鹿で、今度はセナがプロストを弾き出してセナがタイトルを獲得。プロストは手痛い"逆襲"に合った。'91年はフェラーリが低迷、タイトル争いはマクラーレンのセナとウイリアムズに復帰したマンセルが繰り広げ、プロストは1勝も挙げる事無くシーズン終盤を迎えた。タイトル争いもままならないフェラーリに一喝するつもりでプロストはマスコミを使って公然とチーム批判を行うが、マラネロの伝統集団フェラーリには通用せず、逆にプロスト本人が最終戦を前にチームを解雇されてしまう。傷付き、疲れたプロストは'92年の1年間を休業する事を宣言。世間には「このまま引退か」と騒がれた。だが、"プロフェッサー"プロストには策があった。

'91年のオフ、プロストは真っ白なレーシング・スーツでリジェ・ルノーのテストに現れた。理由はふたつ。ひとつは引退後に買収する秘密裏な計画のあるリジェのマシンを体験する事、そしてもうひとつはマクラーレン・ホンダ/フェラーリを脅かす存在にまで成長したウイリアムズ・ルノーとの'93年の契約に向け、密かにルノーV10エンジンをテストする事であった。

'92年のF-1を席巻したウイリアムズ・ルノーの'93年シートは、チャンピオンを獲得したマンセル、ホンダを失って低迷するマクラーレンを見切ったセナ、そして1年間の休養を取ったプロスト、の3人が争うと言う、前代未聞の事態となっていた。誰が弾き出されるのか、そして、誰と誰がチーム・メイトとなるのか、世界中のメディアが注目した。マンセルは当然自分に有利な契約のまま(エース・ドライバーとして)残留を希望。セナは公然と「タダでも良いからウイリアムズに乗りたい。チーム・メイトがプロストでもマンセルでもかまわない」と宣言。しかし、プロストは黙して語らず、を貫いていた。そして、発表は行われた。'93年のウイリアムズ・ルノーに乗るのはプロストとテスト・ドライバーのデイモン・ヒルであった。"プロフェッサー"は、マスコミに一言もアピールせず、更に'92年一度もレースを走る事無く、最強チームのシートを射止めたのだ。そしてその決定の大きな理由として、引退間近の38歳となっていたプロストと、圧倒的な強さを誇るルノーにとって、たったひとつ、やり残した事が一致していたからである。フランス人プロストが、フランスのルノーでチャンピオンになる。これこそが、彼等がやり残した最後の仕事だったのだ。一度はケンカ別れしているルノーとプロストの交渉は、実は'92年の1年間を通じて水面下でじっくりと行われて来たのだ。そして'93年、プロストは引退する覚悟を決めていた。5度のチャンピオンに輝いた偉大なるファン・マヌエル・ファンジオに続く4度目のタイトルを、自身のF-1へのステップと初優勝の原動力となったチームと共に達成した時、全てのわだかまりは過去のものとなる。

'93年、セナはベネトンと同じ非力なフォードV8を積んだマクラーレンで果敢に最強のウイリアムズ・ルノーとプロストに挑んで来た。誰もが待ち望んでいた3年降りの"セナ/プロ対決"は白熱した。第6戦モナコ終了時、セナ42ポイント/プロスト37ポイント。だが、最終的にセナが勝つとはもちろん誰も思ってはいなかった。マクラーレン時代と同じように、冷静なプロストに挑んで行く若きセナ、と言う図式に、人々は酔いしれただけなのである。そして'93年9月26日、ポルトガル・グランプリの舞台となるエストリル・サーキット。既にコンストラクターズ・タイトルはウイリアムズ・ルノーに決定し、7勝/81ポイントで4度目のタイトルに王手をかけたプロスト、ランキング2位は成長目覚ましく、中盤のハンガリー・グランプリの初優勝から波に乗り3連勝/58ポイントでチーム・メイトのヒル、そして3勝/53ポイントで3位のセナ。プロストは、ここで2位に入ればチャンピオン決定であった。だが予選初日、ウイリアムズが緊急記者会見を開く。タイトル獲得を目前にして、プロストが突然今シーズン限りの"引退"を発表したのだ。ここ最近、セナは公の場で"'94年ウイリアムズ入り"を宣言していた。そしてそれは事実である事を、プロストは知っていた。更に、プロストはシーズン初めから、4度目のタイトルをルノーと分かち合って引退する事を決めていた。セナの発言により、引退発表が予定より少々早まる事になったが、プロストは気にしなかった。

"冷静沈着"なイメージで知られる"プロフェッサー"、プロスト。しかし、ラウダと出会う以前のプロストは正反対のドライビング・スタイルであった。1コーナーでは前を行くマシンを突き飛ばし、ストレートではオーバー・テイクした直後に相手の目前にマシンを振ってブロックする。「奴は危険なドライバーだ」皆がそう言っても、プロストはそのスタイルを変えようとはしなかった。それはまるで、セナだ。プロストは、セナにラウダと出会う前の自分の影を見ていたのかも知れない。

プロフェッサーが機嫌が悪い時は、誰にでもすぐ解った。彼は何か上手く行かなくてイライラしている時、爪を噛むクセがあった。予選で、記者会見で、パドックで。が、そのクセをマスコミに知られた事を悟ったプロフェッサーは、後年都合の悪い事があるとわざと爪を噛んで見せ、インタビューアーを遠ざけた。その内カメラが見えなくなると、マネージャーとふたりで笑った。

当時のFISA(現在のFIAにあたる)会長、ジャン・マリー・バレストルは同国人であるプロストを溺愛した。時には、ライバルであったセナに不利な裁定を下し、プロストの成績をコントロールした。ところが一般的にはプロストが自分を有利にする為にバレストルを利用したかのように受け取られて来た。しかし、プロストがこの件について弁明/言い訳しているのを見た事は、ただの一度も無い。

セナは"レイン・マイスター"と呼ばれ、雨のレースでは危険をかえりみない果敢なドライビングで無敵を誇った。反対にプロストは雨を極端に嫌った。一般的に「プロストは臆病だ」と言われる事も多かったが、これには理由がある。'82年ドイツ・グランプリ予選、大雨でアタックを中断し、スロー走行中のプロストを、視界不良で確認出来なかったフェラーリのピローニが猛スピードで彼のマシンのリアに突っ込んで来た(lap28-"勇者達の肖像・vol.2"/ジル・ビルヌーヴ&ディディエ・ピローニ-参照)。この事故でピローニは両足を切断する重傷を負い、グランプリを去って行く。以来、プロストは雨の中の走行を嫌い、時には主催者にレース中止を求めさえするようになった。'76年の富士で、目前にタイトルがぶら下がっているにも関わらず「危険だ」としてレースを棄権した勇気あるラウダのように。

4度目のタイトルに王手をかけたポルトガル・グランプリのレース前、プロストの元に"いつもの3人"がやって来た。「やあ」プロストは陽気に声をかけた。パリからやって来たこの3人の若者は、プロストの熱狂的なファンであった。'93年シーズン、殆ど全てのレースにやって来た。が、学生でお金の無い彼等は、実は1度も金を払ってサーキットには入っていない。かと言って、プロストが招待しているわけでもない。あらゆる手段を使って、彼等3人はサーキットに"忍び込む"のだ。プロストはそれを知っていて、彼等と仲良くなった。時にはマネージャーを使って、警備員に捕まった彼等をそっと助けた事もあった。だが、決して招待券を渡したりはしなかった。パドックまで"無事に"辿り着けたら、プロストがパスを渡す。それは3人の若者とプロストの、素敵なゲームだったのだ。前戦のイタリアでは、プロストがタイトルを決めたらコース上でフランス国旗を直接渡す約束をしていた。だが、イタリア・グランプリでプロストはリタイアし、タイトルを決められなかったのである。「アラン、僕らには日本まで行くお金が無いんだ。だから、ここ(ポルトガル)でチャンピオンを決めてよ」「わかった。じゃ、旗を用意してくれるかい?」この日の夕方、グランプリ2勝目となる勝利をミハエル・シューマッハーが飾り、プロストは2位でチェッカーを受けた。プロストが4度目の世界チャンピオンに輝いた瞬間であった。パレード・ラップ中、エストリル・サーキットの観客席から3人の若者が飛び出し、それを見つけたプロストがマシンをスロー・ダウンさせ、フランス国旗を受け取った。国旗はウイリアムズFW15C・ルノーのインダクション・ポッドを鮮やかなトリコロール・カラーで彩った。3人の若者は涙を流しながらガッツ・ポーズを繰り返していた。

'93年11月7日、最終戦オーストラリア・グランプリ。レースはセナが勝ち、2位でレースを終えたプロストと共に表彰台に立った。長年共に戦い、時には憎しみ合ったふたりだったが、セレモニーの最後でセナとプロストは固い握手を交わした。'89年以来、表彰台でセナはプロストと目を合わせる事さえ無かった。プロストが握手を求めても、常にセナは無視して来た。だが、戦いは終わった。もう、憎しみ合う必要は無い。いや、ふたりは決して憎しみ合ってなどいなかった。ただ、勝利の為に、そうせざるを得なかったのだ。この歴史的な握手を、"茶番"だと罵る人もいた。だが、その戦いを見守って来た我々には、ひとつの時代の終焉を告げる大切なワン・シーンなのである。199戦51勝、通算獲得ポイント798.5点、ポール・ポジション獲得35回、ファステスト・ラップ獲得41回、ワールド・チャンピオン4回。全て、165cm/61kgの小柄なプロストが成し遂げた偉業である。

.....翌'94年、TVコメンテーターを勤めるプロストの目の前で、セナは逝った。プロストは泣いた。生涯最大のライバルは、前日のフリー走行中、マシンから無線でプロストに向かい、「君がいなくなって寂しいよ」と呼び掛けたばかりであった。プロフェッサーは、ビルヌーヴを失ったピローニの動揺を、少しだけ解ったような気がしていた。



「"6度目は?"と聞かれるに決まってるさ(笑)」
-'93年、引退会見で「もし5度目のタイトルを獲ったら」と聞かれて/アラン・プロスト-


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