| '89年10月。彼はいつものように「よし、行って来る。今日こそは勝って来る」そう言って家を出た。向かった先は三重県、鈴鹿サーキット。F-1世界選手権第15戦、日本グランプリへ出場する為である。が、彼と彼のチームは低迷していた。それも、F-1史上稀に見る低迷振りであった。開幕以来14戦全戦予備予選落ち。決勝レースはおろか、予選にすら只の一度も出走出来ずにいたのである。レース・ウイークの金曜日、午前5時30分のサーキット入り。そして、敗退した彼は午前中の間にレースへの出走資格を失う。パドックで彼はいつしか"朝5時半の男"と呼ばれるようになるが、ここまで続くと、周囲も同情の目さえ向けるようにさえなっていた。が、当の本人はいつでも「今日こそ"勝つ"」と妻に告げて家を出た。.....'89年、前人未到の"シリーズ16戦全戦予備予選落ち"の記録を作った鈴木亜久里はその僅か1年後、鈴鹿に伝説を作る事になる。 鈴木亜久里は'60年9月8日、東京/板橋にてフランス人を父に、日本人を母に持つ"ジャッキー"こと鈴木正士の長男として誕生した。当時ジャッキーは日本大学に籍を於く23歳の大学生。自らは日大芸術学科で演劇を学びながらバーテンのアルバイトをし、妻敏江と学生結婚をして3.500円のアパート住いをしていた。一般的に、フランス人クォーターの亜久里は裕福な家庭に育ち、子供の頃から恵まれていたと考えられがちだが、事実はそうでは無い。むしろ当時のジャッキーは"無一文"に近かったのである。だが、環境に恵まれていたのは確かであった。何故なら、ジャッキーの友人の中には日本のレース界の黎明期を支えた人物が多数含まれていたのである。ホンダ創始者である本田宗一郎の息子、博俊。後に海外フォーミュラ日本人初勝利を成し遂げる生沢徹、そして裸足の天才レーサー、浮谷東次郎。元々浮谷とジャッキーは幼馴染みだったが、このメンバーが同時に日大に在学したのである。彼等はレースに没頭していた。そしてジャッキーの長男、亜久里は彼等のアイドルでもあった。父に似て掘りの深い顔立ち、大きな耳、円らな瞳。毋敏江は、亜久里を子供向けファッション雑誌のモデルにした。父ジャッキーは大学卒業後、桶川のホンダ航空に就職し、メカニックとして働いた。「良く幼い亜久里をオートバイに乗せて走ったよ。奴はミルクを吐きながらしがみついてたっけ(笑)。ホンダの飛行場では5歳の亜久里に軽トラを運転(!)させてた。ギアを1速に固定してね。親父さん(本田宗一郎)も良く面倒を見てくれてた.....」ジャッキーは、この時点ではまだ亜久里をレーサーにする気等無かった。 '65年8月20日。鈴鹿での練習走行中に、コース上に停止していたマシンとその傍らに立っていたドライバーを避けようとしてバリアにクラッシュし、浮谷東次郎は帰らぬ人となった。ジャッキーは鈴鹿サーキットのオーガナイズに激怒し、抗議した。親友の死は、きちんとしたルール(今で言う、コース・マーシャルの配置や事故処理時のイエロー・フラッグ、及びヘルメットの着用、等)さえあれば避けられた筈だ、と怒りをあらわにした。次にジャッキーが取った行動はホンダ退社、そして浮谷が残してくれた"カート・レース"と言うカテゴリーの醍醐味への挑戦であった。「浮谷は、俺にゴーカートの楽しさを教えてくれた。でも、日本にはまだちゃんとしたカート・レースの土壌が無かった。俺はタクシーの運転手をしながらメカニックの勉強をし、行きつけの所沢のゴーカート屋と仲良くなり、そこで住み込みで働くようになったんだ」この頃、ジャッキーと妻敏江は別居し、亜久里は敏江と暮らした。幼い亜久里にも、両親の不仲は解っていたようであった。 '68年、ジャッキーは所沢のカート場の横に自らのカート・ショップを開く。そこで彼は"JAMレーシング"と言うカート・チームを結成。8歳の亜久里は板橋の母の元から週末になると父の元へ遊びに来るようになり、やがてチームの一員となる。ジャッキーは亜久里に、いい加減な気持ちでレースをやるのを許さなかった。それは、浮谷の死に起因している事は明白であった。周囲から見た親子は、丁度漫画"巨人の星"の星一徹/飛雄馬親子のようであった。当時、JAMレーシングのエースだった鈴木利男(鈴木性ではあるが血縁関係は無い)は「ジャッキーさんは良く亜久里ちゃんをブン殴ってた。でも、勝てないから殴るんじゃなくて、勝てないって事はミスをした、って事だから、と言ってね。ミスは危険なんだ、って。正直、あの親子には近寄れない絆があった。そして、それは時々羨ましくさえ思えたよ」ジャッキーはあえて他人の見ている前で亜久里を怒った。「人前で恥をかかされる位じゃないと、身に染みないんだよ。本当に、ミスは命さえ落としかねないんだから」亜久里は10歳の時にクラブマン・レースにデビュー。全日本選手権での初レースは2位であった。ちなみに、当時カート・ライセンスは12歳にならないと発給されなかった筈だが、ジャッキーが如何なる"裏技"を使って10歳の亜久里を出場させたのかは謎である。 '73年、ジャッキーは亜久里の通う中学から呼び出しを受けた。聞けば、「とてもじゃないが手におえないので、亜久里をもう学校に来させないで欲しい」との内容であった。ジャッキーは驚いた。亜久里が不良になっていた、とは夢にも思っていなかったのである。だが、多感な時期に両親が離婚、更にそのルックスや混血である事、珍しい名前である事等から同級生等からからかわれる事が多く、通常なら内向的になってもおかしくは無い状況であった。ところが、亜久里は自分を揶揄する不良グループにひとりで立ち向かい、しかも全員をコテンパンにしてしまった、と言うのである。亜久里は校内では既に"伝説の存在"となってしまっていた。「そんな事、奴は俺に隠してた。と言うより、気付いてやれなかった俺が悪いんだな。この時、亜久里を引き取る決心をしたよ」その頃ジャッキーは既に再婚しており、ジャッキーと新しい義母、喜恵子との新生活が始まった。亜久里は所沢の中学へ転校し、後に亜久里自身が"恩師"と語る板橋明教諭と出会う。「"とんでもない悪(ワル)が転校して来る"と言うもんで、内心ドキドキしていました。ところが、会ってみると実に素直で実直な少年。イエス/ノーがハッキリと言える、存在感のある子だったのです」新しく入った中学でも不良グループに睨まれた亜久里だったが、それは板橋の目の前で起こった。亜久里は、たったの一発で勝負を決してしまったのである。「圧巻でした(笑)。浅黒く、ヒョロヒョロとした亜久里君の一発で、ウチの不良が吹っ飛んだんです。私は正直、彼の運動神経/反射神経に感心しました。内心『良くやった!』と思ってしまった(笑)」板橋は亜久里に「君は間違ってなんかいない。自分が正しいと思った方向へ、身体ごとぶつかりなさい」と諭すと、不良少年亜久里は板橋に心を開いて行った。そして、「先生、今度の週末にレースを観に来てよ」と誘う程になったのである。更に、不登校で落ちこぼれだった亜久里の成績は、板橋との出会いをきっかけに急上昇し、やがて新座高校から城西大学へと進学。そして'77年と'78年にはカート最年少全日本チャンピオンとなるのである。 '78年のカート選手権を制し、亜久里はヤマハとドライバー契約を結んだ。つまり、プロのレーシング・ドライバーとなったのである。同時にジャッキーは亡き浮谷の父がJAF(日本自動車連盟)の役員だった故、カート選手権をJAFの組織下に統括し、自ら会長職に着いた。が、周囲にはカート・レースをジャッキー/亜久里親子に"独占"された、として快く思わない者も多数存在した。だが、ジャッキーは「俺は私利私欲の為にやってるんじゃない。ちゃんとした組織が必要だったからやったんだ」と反論した。そう、彼には浮谷の死を繰り返さない為の土壌作りが目的であった。しかし、カートの組織は完成し、亜久里も18歳になり、ジャッキーは自分の役目は終わった、と感じていた。同時に、亜久里は4輪レースへの挑戦を希望していた。ジャッキーはなけなしの金でラルトのF-3マシンを亜久里に買い与え、旧友、生沢徹率いるI&Iレーシングに亜久里を任せ、静かに身を引いて行った。 .....ところが、亜久里は引き続き参戦していたカート選手権での好成績とは裏腹に、4輪レースでは全く成果が出せなかった。原因は、未経験のギア及びサスペンション・セッティングであった。最も、カートから4輪レースへ転向するレーシング・ドライバーは全員が当る壁であり、決して亜久里だけが特殊な経歴では無い筈だった。'79年から全日本F-3へと参戦した亜久里の成績はシリーズ19位、13位、7位、4位。徐々にコツを掴みつつあるものの、今だ未勝利のままF-3参戦5年目を迎えた。チームもI&I、トムス、ハヤシ・レーシングと移るが、依然として芽は出て来なかった。亜久里自身、レースの合間にアルバイトをしなければ食べて行けない日々が続いていた。'83年、亜久里はチーム・セントラル20のオーナー兼ドライバー、柳田春人と出会う。「まず、亜久里にアルバイトを辞めさせた。そして、レース、いやマシン操縦のアドバイスをしました。ここのコーナーはこう、あそこは何速でこう、とか」亜久里は言われた通りにやって見せた。「たった一度しか言わないのに、言われた通り、いやそれ以上の事をやれるんです。天才だったんでしょうね」亜久里は3月の開幕戦鈴鹿で初優勝し、しかも続く西日本で2連勝して見せた。翌'84年はニスモへ移籍してニッサンに初優勝を齎し、ようやく4輪レーサーとして実績を挙げた。「思うに、彼は初めてジャッキーさんと離れて、どうして良いか解らなかったのでしょう。だから、僕がちょっとしたアドバイスをしただけで『なんだ、そうか』となる。それ以上、彼に教える事はもう無かった」柳田の助言でコツを掴んだ亜久里はようやく日本の4輪レース界で花開き、'84年には全日本F-2へデビュー、'86年には全日本GT選手権/グループAで和田孝夫と組み、チャンピオンを獲得。'87年、由良拓也率いるムーンクラフト・フットワークから全日本F-3000選手権(前年までの全日本F-2)に参戦。"ジャッキーの助言"を卒業した亜久里は、ここでようやく自分なりのマシン・セッティングの存在に気付いたのである。が、気付いてからの亜久里は誰も手が付けられない程、速かった。「彼は格好良かった。レース前にスターティング・グリッドで『勝って来るから』と言ってスタートし、本当にトップでチェッカーを受けるんです」由良は亜久里を"有言実行男"と名付け、そしてフットワーク・マーチ・ヤマハを駆って'87年シリーズ2位、'88年には遂に国内トップ・フォーミュラでチャンピオンに輝くのである。同時に欧州F-3000にもスポット参戦し、確かな手応えを得た亜久里はことあるごとに「目標はF-1」と口にし始めた。'87年から、中嶋悟がロータス・ホンダのレギュラー・ドライバーとなっていた。確かにF-1は、日本人にとってもう夢物語では無かったのである。 .....'88年10月。フランスのF-1チーム、ラルース・ローラのドライバー、ヤニック・ダルマスが外耳炎の治療の為に入院し、ラルースは目前に迫った第15戦日本グランプリにエントリーするドライバーを探さなくてはならなくなった。が、当時は全18ものチームがF-1に参戦しており、ドライバー市場は買い手に有利であった。ラルースは当初、自国フランスのオリビエ・グルイアールに持参金付きのオファーをするが「あまりにも直前過ぎ、テスト走行が不可能」として断られてしまう。グランプリを4日後に控えたチームは、開催国である日本にドライバーを求めた。国際格式のトップ・フォーミュラ出走歴と、自国トップ・フォーミュラのカレント・チャンピオンの肩書きを持つ、スーパー・ライセンス発給資格のあるドライバー.....。予選を3日後に控え、ラルース・チームにも、当のドライバー自身にも、もはや考えている余裕等無かった。金策に走り、ラルースの要求する額を揃え、交渉の席に望んだ。.....そしてここに、F-1ドライバー、鈴木亜久里が誕生するのである。 '88年日本グランプリ予選、亜久里は初めてのF-1の強烈なGフォースで首を痛めながらも、チーム・メイトのフィリップ・アリオーに次ぐ20番手でクォリファイ。日本の無知なマスコミから「トップのアイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)より5秒遅いが?」との質問に「マシンの差だよ!」と堂々と言い切った。10月30日、決勝ではハーフ・ウェットの路面で5回のスピンを喫し、世界のトップ・ドライバー達の進路妨害寸前の洗礼を受けながらも、「こんなに長く(300km)走ったのは初めて」と言いながら3周遅れの16位で完走。そして、これを機に翌'89年、ドイツのザクスピード・チームがヤマハのV8エンジンを搭載するにあたり、レギュラー・ドライバーとして全日本F-3000のタイトルをヤマハと分かち合った亜久里に白刃の矢が立つ事となった。遂に、中嶋悟に続く日本人ふたり目のF-1レギュラー・ドライバーの誕生である。亜久里は「いつかF-1ドライバーになる」事を有言実行したのである。 .....ところが、いざ'89年シーズンが始まるとザクスピードZK891・ヤマハの戦闘力は悲惨な程に低かった。更に、'89年は全部で20チームが参戦し、FISAは予選出走車を絞り込む為の予備予選開催を決定。前年のランキング下位及び新興チームに予備予選出走を義務付け、結果13台中上位4台だけが予選への出走を許されたのである。そして、中でも2年間の活動休止を経てグランプリにカムバックした名門、ブラバムの2台は飛び抜けて速く、実質ブラバムを除くたった2台の枠を巡って11台がしのぎを削った。予備予選開催はグランプリ・ウィーク金曜日の午前8時から1時間。ドライバーが到着する頃サーキットはまだ薄暗く、観客も殆どいない。亜久里のザクスピード・ヤマハは実質的に5〜6番目の戦闘力、つまり最下位から2〜3番目に位置していた。ダッラーラやオニクス、オゼッラ辺りが進出枠を賭けて争い、ザクスピードは予備予選通過に平均3秒は足りない戦闘力しか持っていなかった。いくらシーズンが進んでも資金難に苦しむチームの開発は進まず、チーム・メイトのベルント・シュナイダーが開幕戦ブラジルと第15戦鈴鹿で本予選/決勝に進出しただけで終わった(決勝は共にリタイア)。そして、置いてきぼりを食った亜久里は、16戦全戦で予備予選不通過の、不名誉な記録を作ってしまったのである。他にも戦闘力の低いチーム/ドライバーは存在したが、チームの資金難による途中撤退やドライバー交代等で、亜久里だけが全戦に出場して予備予選を通らなかった唯一のドライバーとなってしまったのである。日本の、いや世界中のマスコミは冷ややかであった。亜久里に対し「金でシートを買った」「口ばかりの奴」.....グランプリのパドックでさえ、亜久里を揶揄する声は聞かれた。ホンダ・エンジンを失いながらも雨のオーストラリアで4位/最速ラップ記録の中嶋と比較し、一躍日本の"ヒール(悪役)"扱いとなってしまった。フジテレビのピット・レポーター、川井一仁はインタビューするのがつらかった、と語る。「F-1のパドックに、日本人に対する差別は確実にあった。が、亜久里はその声に耳もくれずに、ただ必死にマシンをドライヴしていた。アレは亜久里のせいじゃない。でも、亜久里が『俺、このまま終わるのかな』と呟いた時の寂しそうな表情が忘れられない」だが、亜久里は前だけを見ていた。「後を振り返ってたって仕方が無い。次は勝つ」そう自分に言い聞かせて、金曜朝5時半のサーキットに立った。 そして'90年、デビュー・チームであるラルースが日本の不動産業者"エスポ"に買収され、オーナーの伊東和男の指名で亜久里がシートを得た。チームの前年の不振でまたも予備予選からの出走となったが、'90年のラルース・ローラ・ランボルギーニは違った。ジェラール・ドゥカルージュ設計のローラLC90は信頼性が高く、軽量化の進んだコンパクトなシャシーであった。'88年にマウロ・フォルギエリによってグランプリに参入したランボルギーニのV12エンジンも、高出力を発揮した。「今年ダメだったら辞める」そう誓った亜久里は開幕戦アメリカ・グランプリでチーム・メイトのエリック・ベルナールと共に予備予選を突破、本予選でも18位グリッドに着け、17戦振りにF-1グランプリ決勝レースへと帰って来た。亜久里はベルナールと"理想的な"ライバル関係を築き、切磋琢磨しつつグランプリを戦い、成長して行った。第4戦モナコでベルナールがサバイバル戦を勝ち抜いて4位を獲得、第8戦イギリスではベルナール4位/亜久里6位とW入賞し、亜久里は初のドライバーズ・ポイントを挙げた。これでチームも後半戦の予備予選を免除された。第10戦ハンガリーはベルナール6位、第14戦スペインでは亜久里が6位となり、前年に全戦予備予選落ちした男は、シーズン2度の入賞を獲得した"グレーテッド・ドライバー"として、第15戦日本グランプリの舞台、鈴鹿へ帰って来たのである。 鈴鹿はタイトルを争うセナ(マクラーレン・ホンダ)とアラン・プロスト(フェラーリ)の直接対決に湧いていた。ベネトン・フォードは前年の鈴鹿の勝者、アレッサンドロ・ナニーニが直前のヘリコプター事故で右腕を切断する重症を負い、代役としてロベルト・モレノが出走。中嶋はロータスからティレル・フォードへ移籍し、翌年のホンダ・エンジン搭載が決定していた。予選はセナとプロストがフロント・ロウを分け、以下上位4チーム(マクラーレン・ホンダ/フェラーリ/ウイリアムズ・ルノー/ベネトン・フォード)のふたりずつのドライバーが4列目までを占めた。そして、4強の次/予選9位に来たのは亜久里であった。ベルナールを1秒弱離し、デビュー以来ベスト・グリッドを得たのである。予選終了後、亜久里はマスコミに囲まれた。が、本人は至ってクールであった。前年まで冷ややかな目線で自分を見ていたマスコミに対し、「こんなモンだよ」と言ってモーターホームに消えた。10月21日、決勝。スタート直後の第1コーナーでセナとプロストが絡み、2周目にゲルハルト・ベルガー(マクラーレン・ホンダ)がコース・アウト、26周目にはナイジェル・マンセル(フェラーリ)がピットでドライブシャフトを破損してリタイア。亜久里はベネトンの2台、ウイリアムズのリカルド・パトレーゼに次ぐ4位へと上がった。亜久里はここから最速ラップを連発し、37周目にパトレーゼがピット作業でもたつく間に3位へと浮上。追撃するパトレーゼを抑え、そのままネルソン・ピケ/モレノのベネトン・コンビに次ぐ3位でフィニッシュしたのである。前年、ただの一度も予選を通らなかった男が、日本人として初めて、鈴鹿の、F-1の表彰台に立つ。 .....正直、鈴鹿を埋めた15万大観衆、テレビ視聴者、関係者、殆どの人が亜久里の活躍を予測/期待していなかった。が、オープニング・ラップのセナ/プロストの接触で沈んだレースで、6周目にロータス・ランボルギーニのデレック・ワーウィックを、1コーナーアウト側からブチ抜き、徐々に順位を上げて行くと、恐らく本来は中嶋/ホンダの為に用意していたものが大半だったであろう日の丸の旗が、カーナンバー30のラルース・ローラに対し、スタンド全体で大声援と共に打ち振られ始めていたのである。沈みかけたムードを、母国の、それもノーマークと言って良い存在(むしろ、年功序列の国、日本では中嶋に表彰台の期待が掛けられていた)によって盛り上げられたのである。「ワーウィックを抜いた時、1コーナーのスタンドの日の丸が一斉に振られたのを見て『ああ、皆喜んでくれてるんだ』と思ったよ。最後の1周は.....涙で良く前が見えなくて大変だった」この涙は、3位になれた事、表彰台に立てる事が理由では無い。それまでの、30年間の亜久里の人生を労う涙だったと筆者は思っている。 '91年、ラルース・ローラは急激に戦闘力を失う。まず、ランボルギーニV12エンジンの供給権を、ラルースと同じフランスのリジェ・チームに政治的な裏工作で奪われ、同時に亜久里の日本グランプリ3位等で得たコンストラクターズ6位の成績を、「登録名称が"ラルース・ランボルギーニ"となっているが、使用シャシーの"ローラ"と言う名称が入っていないのは違反」と言う、リジェからの理不尽な"シーズン終了後の告発"によって剥奪(リジェは11位でシーズンを終えたが、10位以内のチームは各グランプリの輸送費が免除される仕組で、かつラルースはリジェから独立したメンバーが多く在籍するチームであり、更に当時のFISA会長、ジャン・マリー・バレストルとギ・リジェは共にラルースを敵視していた)。そしてチームのメイン・スポンサー、エスポが倒産。ラルースはフォード・コスワースの市販V8エンジンで'91年を戦うが、開幕戦で亜久里は大殊勲の6位入賞。しかしそれ以上の成績を挙げる事は無かった。「仕方が無いよ。それより、来年。来年は良いマシンで走れるから」そう言って亜久里は笑っていた。 '92年、亜久里は全日本F-3000時代に共に戦ったフットワークへと移籍。父ジャッキーの旧友、本田博俊率いる無限-ホンダのV10エンジンを搭載し、アラン・ジェンキンスがシーケンシャル・ギア・ボックスを持つフットワークFA-12を製作。チーム・メイトは元フェラーリ・ドライバーのミケーレ・アルボレート。が、アルボレートが4度の入賞で6ポイントを獲得したのに対し、亜久里は7位が最高で無得点で終わる。翌'93年はマクラーレンからリ・アクティヴ・サスペンションを購入、ハイテク装備となったFA14・無限でワーウィックがチーム・メイトとなるが、こちらもワーウィックが4位1回を含む2度の入賞を果たしたのに対し、亜久里は7位が最高で得点ならず。2年連続でベテラン・ドライバーと組んだ亜久里だったが、全く良い所無しで2年間を終えてしまった。これはフットワークの大橋会長の「亜久里を経験あるドライバーと組ませて学ばせたい」と言う親心もあったが、結局亜久里は実力を発揮する事が出来ず、むしろイライラが募って行ったようだった。「ま、俺は"2年周期"だからさ。次の2年はきっと良い年になるよ」ところが、ホンダのF-1活動休止後の日本のナショナリズムを背負ったフットワークだったが、経営破綻でF-1からこの年限りで撤退。無限は'93年からロータスへのエンジン供給を決めた。亜久里は一旦F-1でのシートを喪失する。'94年、全日本GT選手権に参戦しながらF-1でのシートを探していた亜久里は、第2戦パシフィック・グランプリ(岡山/TIサーキット)に出走停止処分を受けたエディ・アーバインの代役としてジョーダン・ハートを駆ってスポット参戦するが、44周目にコース・アウトしてリタイアに終わる。インタビューアーの「次、頑張って下さい」の一言に対し「次は無いんだよ!」と答えた亜久里は明らかにイライラしていた。また、この年は母国の後輩、片山右京が活躍し、亜久里に対する日本の注目度は明らかに下がっていた。 '95年、本田博俊率いる無限はリジェにエンジンを供給した。そして、博俊の推薦で亜久里がリジェのシートを得る。しかし、リジェはラルース時代に揉めた態勢とは打って変わり、ベネトン・チームの監督、フラビオ・ブリアトーレとTWRのトム・ウォーキンショウのものとなっていた。'94年型リジェJS41は、前年のチャンピオン・マシン、ベネトンB194と瓜二つのフォルムを持ち、高い戦闘力を発揮。だが、策士ウォーキンショウの裏工作により、16戦分の契約をした筈の亜久里は、ウォーキンショウの子飼いのドライバー、マーティン・ブランドルとシートを分け合う事になってしまう。「でもまあ、半分は出れるんだ。そこで結果を出せば良いさ」しかし、開幕から3戦に亜久里が出場し(8位/リタイア/11位)、第4戦でブランドルと交代すると、ブランドルが第7戦フランスで4位、亜久里は6戦振りの出場となった第9戦ドイツで6位入賞するが、すぐにブランドルと交代させられ、第11戦ベルギーで3位、それ以降いつまで立っても亜久里にシートは回って来なかった。怒った無限/博俊がウォーキンショウと直談判し、第15戦パシフィック、第16戦鈴鹿の日本2連戦での亜久里の出場が認められた。そして、上手く行かないF-1に、亜久里はある決断をして鈴鹿に望んだ。 10月28日、予選2日目、残り10分。亜久里は13番手にいた。ピットのウォーキンショウからは「もっとペースを上げろ」の指示。亜久里はS字でバランスを崩し、タイヤ・バリアに激突した。マシンはリア部が大破し、亜久里はコックピットから出られなかった。赤旗が出され、救急隊に引きずり出された亜久里はヘリコプターで鈴鹿中央病院へ。肋骨骨折で3日間の絶対安静。亜久里の鈴鹿は終わった。同時に、亜久里のF-1ドライバーとしてのキャリアも終わりを告げた。実は、この日亜久里は"引退発表"を行うつもりだったのである。しかし、それも叶わなかった。日本人初の、いや只ひとりのF-1表彰台経験者('03年日本グランプリ現在)の最後はあまりにも寂しく、悔しい幕切れであった。F-1出走65回、最高位3位1回、獲得総ポイント8点。F-1引退後の亜久里は'00年までレーシング・ドライバーとして走り続け、'98年ル・マン24時間レースではニッサンR390で3位に入り、'00年の全日本GT選手権第4戦富士で最後の勝利を飾った。その後若手育成に力を入れ、ARTA(オートバックス・レーシング・チーム・アグリ)を結成。全日本カート選手権、JGTC等を始め、欧州フォーミュラ・ルノー選手権、ドイツF-3選手権、フォーミュラ・ニッポンでの脇坂寿一、金石年弘らのサポートを経て、'03年から元CARTドライバーのエイドリアン・フェルナンデスと組み、スーパー・アグリ・フェルナンデス・レーシングを結成、日本人ドライバー、ロジャー安川を擁してオーバルの最高峰、IRLに参戦。安川はルーキー・オブ・ザ・イヤーまで後一歩の活躍を見せた。亜久里は、「夢はF-1チーム結成」と公言する。自ら育てた若手ドライバーと共に、F-1でチャンピオンを獲る。その目は、若き日の父、ジャッキーのように澄んでいる。 .....亜久里はF-1現役当時、「フェラーリでチャンピオンを獲って35歳で引退する」と公言していた。フットワークへと移籍した'92年、32歳の頃である。「ロン・デニス(マクラーレン)の所へ行って、『来年乗せてくれ』って言ったんだ。そしたら『もうちょっと実績を残してから来てくれ』って言われた」「フットワークへの移籍を決めた時、周囲は『何で?』って聞いて来た。マクラーレンがダメなんだから、じゃあフットワークでしょ。金はあるし、無限エンジンだし」亜久里を称して"有言実行"と言ったのは由良拓也だったが、「必ず結果を出す」との亜久里の発言はその後のF-1テレビ中継/関連番組でも取り上げられ、"有言実行亜久里"が亜久里のキャッチ・フレーズとなっていた。同時に、当時中嶋ファン(ちなみにここで指すのはブームとしてのF-1ファンであって、真のモーター・レーシング・ファンでは無い)に"アンチ亜久里派"が数多く存在し、彼等は亜久里に対し、「口先だけ」「生意気」「すぐクルマのせいにする」等の評価をした。が、「この先の事は解らない」とか「クルマは速いが自分が遅い」等と発言するドライバーにF-1パイロットとしての素質があるとは思えない。亜久里は、欧州のトップ・ドライバーに引けを取らない"心意気"を持った、国際派のレーシング・ドライバーだったのである。亜久里がフル参戦した最初の3シーズン、日本人の興味は完全に中嶋に向いていた。当然であろう。彼はホンダのオフィシャル・ドライバーとして日本中の期待を背負って(背負わされて)いた"サムライ"だったからだ。当時、日本の雑誌が読者に"アナタは中嶋派?それとも亜久里派?"と言うようなアンケートを特集で行い(如何にもムーヴメントである)、統計的に見ると"中嶋派"が圧倒的に多く、且つ"中嶋派"とする人の大半が"アンチ亜久里派"である事が解る。中には「中嶋より先に表彰台に乗るなんて生意気」等と言う意見すらある。しかし、実際F-1グランプリを開催している欧州側の意見は全く異なり、F-1ドライバーとしての素質/可能性は亜久里が遥かに上だ、とする意見が圧倒的であった。もちろん、年齢的な部分も含めての統計ではあるが、その差の意味する所、答は簡単である。初めて日本人として世界を相手に戦い、無口で(英語も苦手で)孤独を背負い、"年令"と言う名の、残された時間と戦う中嶋を、日本人は応援せざるを得なかったのである。そして、同時期に"二番目の男"として出て来た亜久里が若く、明るく、そして精神的にも強い。当然のように亜久里には"ヒール"役が回って来てしまったのだ。 反面、こんな事もあった。'91年第5戦カナダ・グランプリ、燃料漏れから炎上する自らのマシンに、怯むコース・マーシャルを押し退けて自ら消火器を持って駆け寄り、消火。テレビ解説をしていたレーシング・カー・デザイナー、森脇基恭は「素晴らしい行為だ」と讃えた。亜久里自身は「だって、このマシンが燃えちゃうと自分のクルマが無くなるから」と言うが、耐火スーツを着たドライバー本人が消火にあたるのは実は最も効率的なのである。更に、レーシング・ドライバーの中にはリタイアするとマシンを蹴飛ばすような者もいるのだから、亜久里の行動は賞賛に値する。「実際、この時のモノコックは最終戦で使ったんだよ。その位、ウチのチーム(ラルース)は貧乏だったからね」 .....金銭搦みの話と言えば、亜久里の元には'90年鈴鹿での3位獲得後、様々なチームからオファーが殺到した。そしてその中には、このレースで1.2フィニッシュを飾ったベネトンも含まれていた。「もう後はサインするだけ、って言う状態まで話は進んでた。今でもウチに契約書がある」では何故、亜久里はベネトンに移籍しなかったのか。 当時、空前のF-1ブームに湧く日本で、亜久里は東芝の"顔"であった。が、ベネトンのスポンサーにはライバル社、サンヨーが付いていた。更に、バブル崩壊で破産寸前だったエスポも、亜久里が離脱すれば破綻は必死であった。そして、自分に表彰台獲得を齎してくれたラルース・チームは資金難から撤退の運命を辿るだろう.....。例えば"昨日までマールボロ・ドライバーだった者が今日からロスマンズ・ドライバー"、等と言うのは、欧州での"出世"を考えた時には当たり前の決断である。が、亜久里/日本人にはそれが出来なかった。少なくとも、'90年には倫理的に無理があった、と言えるだろう。結局亜久里は1年間のラルース残留を決断した。また'91年シーズンに頑張って結果を出し、'92年にトップ・チームに移れば良い、と計画した。だが、亜久里の'91年は上手く行かず、結果的にはF-1最大のチャンスを逃した事になる。亜久里が消火器を持って走った'91年カナダを制したのは、誰あろう、ベネトンのピケだったのである。 '91年鈴鹿、金曜日のフリー走行中、ラルースでのチーム・メイト、ベルナールがヘアピンでクラッシュし、左足骨折の重傷を負った。壊れたフロント部分に足を挟まれたベルナールは失神寸前になりながらレスキュー隊に「足だけは切らないでくれ」と叫んでいた。亜久里も急ぎ現場へ駆け付け、救出作業中ベルナールの手を握りながら「大丈夫だ、大丈夫だ」と声を掛け続けていた(ちなみにベルナールは3年後の'94年にF-1へ復帰する)。また、J.J.レートやベルトラン・ガショー、ミハエル・シューマッハーらとも仲が良く、彼等の亜久里評は揃って「日本人ぽくない奴」であった。これは、ある意味シャイな中嶋と好対称なキャラクターであった事を意味するのだろう。 .....亜久里がフランス人のクォーターである事を置いておいても、気になるのはその"亜久里"と言う名の由来である。その由来について、父ジャッキーは「理由はふたつ。まず、俺が子供の頃好きだった漫画.....タイトルは忘れちまったけど、主人公が"アッチャン"と"クリチャン"だった。で、どっちかの名前にしようと思ったんだが、結局両方使っちまった(笑)。もうひとつは、ドイツでは犬のシェパードに子供が生まれると、第一子にはAで始まる名前を付けるんだ。つまり"血統書付き"って意味さ」更に、鈴木正士は何故"ジャッキー"なのか。「親父の名はヨセフ・ナイム、俺は鈴木正士。ジャッキーってのは、単に俺が子供の頃のあだ名。皆が俺がジャッキー・ロビンソン(アメリカ/メジャー・リーグ初の黒人選手)に似てるからそう呼んだだけなんだ。以来、今でもジャッキーなんだよ」ちなみに、ジャッキー4歳の時に伊藤忠で輸入の仕事をしていた父ナイムが、第二次世界大戦の為にフランスへ強制帰国させられてしまい、以後消息は不明のままだそうである。「親父もまさか自分の孫がF-1ドライバーになってフランス(モナコ)に住んでるとは、夢にも思わないだろうな.....」 .....筆者選出、亜久里ベスト・レースは'91年開幕戦、フェニックスのアメリカ・グランプリである。シーズン・オフは悲惨であった。リジェによるポイント剥奪劇、エンジンの突然の変更とパワー・ダウン、そして資金難から来るテスト不足。ラルース・チームはフェニックス入りしてからファイヤーバード・レースウェイと言うゴーカート・コースを借りてLC91・フォードのシェイク・ダウンを行う有り様であった。皆、亜久里に同情していた。レース前、「俺は"待ち"のレースなんてしないよ。攻めるだけだ」と決意を語り、そして予選21位から見事なスタートで"宿敵"、リジェ・ランボルギーニのティエリー・ブーツェンをパスし、攻めに攻めて6位入賞を果たしたのである。フィニッシュ後、興奮覚めやらぬ川井レポーターに「とにかく.....良かった」と落ち着いて呟いた亜久里は、最高に格好良かった。初めてF-1に乗った'88年鈴鹿よりも、1年振りに予備予選を突破した'90年アメリカよりも、そして表彰台で笑っていた'90年鈴鹿よりも、汗ビッショリの亜久里が"F-1ドライバー"として頼もしく見えたレースだった。
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