|
'82年のF-1グランプリ最終戦、ラスベガスで行われた第16戦アメリカ西・グランプリ。この日"コマンダトーレ"エンツォ・フェラーリはイタリアの自宅におり、このレースをTVで観戦していた。そして、ソファに沈む彼の手には「尊敬する、偉大なるコマンダトーレ、エンツォ様。もしも御会い出来れば光栄です。そして、いつか貴方のマシンをドライヴするのが私の夢なのです」と書かれた一通の手紙が握りしめられていた。そして、その手紙の主はTVの中で、エンツォの目前で勝利して見せた。それも、ターボ全盛のF-1グランプリに於いて、恐らく150馬力は劣る、この上無く"非力"なNAエンジン、コスワースDFYを搭載したティレルを駆って、当時最強のブラバム・BMWやルノーらのターボ勢を打ち負かしたのである。エンツォはこのグランプリ2年目に過ぎないイタリアの若者に注目し始めていた。彼の名は、ミケーレ・アルボレート。コマンダトーレ自身が選んだ、最後のイタリアーノである。 ミケーレ・アルボレートは'56年12月23日、イタリア/ミラノにて誕生。全てのイタリア人にとってそうであるように、彼もまたサーキットを疾走する真紅のフェラーリの魅力に取り憑かれて行った。'76年、技術設計を学んでいたアルボレートは友人達と共にオリジナルのレーシング・カー、CMRを製作。このマシンでサルバティ・レーシング・チームから自国のマイナー・カテゴリー、フォーミュラ・モンツァへと出場、アルボレートがドライバーを務めた。「別に、どうしても自分がドライヴしたかったワケじゃ無い。もちろんイタリアの子供達は皆フェラーリに乗る事を夢見るが、この時は単に皆の中で最も速かったのが私だったからなんだよ」が、仲間達と趣味で始めたような実験的なマシンで勝利を飾る事は到底不可能で、ステアリングを握っていたアルボレートは徐々に戦闘力のあるマシンに乗って自らの技量を試したいと思うようになって行く。「'78年のF-1イタリア・グランプリを観にモンツァへ行ったんだ。しかしそこで、私の子供の頃からのヒーロー、ロニー・ピーターソンがスタート直後の事故で帰らぬ人となってしまった。私は泣きながら自分のヘルメットをロニーと同じカラーリングに塗り、そしてレースと共に生きて行く事を決めたんだ。ロニーは今でも私の最高のヒーローであり、彼を超えるレーシング・ドライバーは存在しない」'78年、アルボレートはフィアット・アバルトでのタイトル獲得を経てフォーミュラ・イタリア、イタリアF-3へと参戦したアルボレートは共にシリーズ・ランキング4位の成績を残し、翌'79年にはイタリアF-3でシリーズ2位、同時に欧州F-3へと進出してシリーズ6位。'80年には4勝を挙げ、遂に欧州F-3チャンピオンを獲得する。その頃、母国イタリアのジャンカルロ・ミナルディから「来年、ウチのチームから欧州F-2選手権へ出場しないか」との電話が入る。「ビックリしたよ。でも、ようやくチャンスが巡って来たんだ。ミナルディは当時最強のBMWエンジンを搭載していたから、何も考えずにOKしたんだ」アルボレートは後の第11戦ミザーノでF-2初優勝を飾る事になるのだが、欧州F-2シリーズが開幕した途端、なんと今度はF-1のティレル・チームからもオファーが来る。成績不振のリカルド・ズニーノに代わり、第4戦サンマリノ・グランプリから出場する、と言うものであった。そして、'81年のティレルはイタリア系のスポンサーを幾つか獲得しており、出来ればイタリア人ドライバーを乗せたかったのである。「信じられないよ!。ようやくF-2に進出出来たと持ったら、今度はF-1だなんて。しかもこの年ティレルは既に1度ドライバー交代をしていたから、イモラから始まる欧州大陸横断シリーズは、実質的にその年のレギュラー・ドライバー決定を意味していたんだ」こうして急遽ティレルに抜擢されたアルボレートはグランプリ本番数日前にフィオラノのテスト・トラックでほんの1時間程のシェイク・ダウンを行っただけで、F-1デビュー戦となるサンマリノ・グランプリへと望む事となったのである。 予選が始まり、絶好調のジル・ビルヌーヴ(フェラーリ)がただひとり1分34秒台に入る快走でポール・ポジションを獲得。アルボレートのチーム・メイトでフル参戦2年目のアメリカ人、エディ・チーヴァーは1分38秒266で19番手。この年のティレル010・フォードの実力からすれば妥当なラップ・タイムであった。が、セッション終了間際にアルボレートは1分37秒台へ入り、チーバーを凌ぐ17番手グリッドを獲得して見せたのである。「全てが上手く行った。それまで、私はレースと言うものは難しい、と考えていたのだが、この時は意外にもとても簡単なものに思えていた。『そうか、こうすれば良いのか』と言う感じで、初めてのF-1マシンにも特に難しさを感じなかったんだよ」そして決勝レースではスタートから果敢に攻め、32周目にトサ・コーナーでオゼッラのベッペ・ガビアーニと接触し、リタイアした時点で8位を走行して見せたのである。結局アルボレートはこの年の残り11レースに出場し、ポイント・ゲットはならなかったものの、翌年チーヴァーがリジェへと移籍して行くとチームのエースの座を任され、いよいよ本格的なF-1グランプリ参戦を迎えるのである。 '82年、前年型から改良されたティレル011は非力なフォード・コスワースDFVを搭載しながらも時折速さを見せ、アルボレートは第2戦ブラジルで予選13位から4位初入賞。デビュー1年となった第4戦サンマリノでは3位で初の表彰台を獲得。しかしその後マシンの信頼性不足に泣き、4位/5位/6位が各1回ずつと、前半戦を超える成績を挙げる亊無く、最終戦ラスベガス・グランプリを迎えた。予選で自己最高の3番手を獲得したアルボレートはコース幅が狭く、コンクリート・ウォールに囲まれた特設サーキット(ラスベガスはシーザース・パレス・ホテルの巨大な駐車場に作られた、まるでゴーカート・コースのように曲がりくねったサーキットであった)でアラン・プロスト/ルネ・アルヌーのルノー勢を交わしてトップへ。後方では、ケケ・ロズベルグ(ウイリアムズ・フォード)に対して優勝で逆転チャンプを狙うマクラーレン・フォードのジョン・ワトソンが猛然と追い上げるが、タイム差を知ったアルボレートは逆に引き離しにかかり、結局ワトソンに27秒もの大差をつけてトップでゴール。タイトル争いには程遠いマシンで、見事にグランプリ26戦目の初優勝を飾った。「夢みたいだったよ。でも、何もかもが上手く行った。F-1では、全てが上手く機能した時、それはとても簡単に起こるものなんだ」決して自らのドライヴィングをアピールする事無く、アルボレートは淡々と語った。そして、このレースをTVで観ていたエンツォ・フェラーリは、今後この若者を強烈に意識する事になる。 '83年、資金難から新車を製作する事の出来なかったティレルがシーズンに持ち込んだのは、既に3年目となる改良型の011とコスワースの新型エンジン、DFYであった。しかしもはや原形をとどめない程に手の入れられた011は速さこそ持っているものの耐久性に優れず、アルボレートはシーズンの半分をリタイアで終える事になる。しかし6月の第7戦デトロイトではまたもストリート・サーキットを制し、2勝目を挙げた。そしてこの時、エンツォは決断した。フランス人のパトリック・タンベイを放出し、翌'84年シーズンからルネ・アルヌーのチーム・メイトとしてアルボレートをフェラーリに迎える、と言うものであった。 しかし、エンツォのこの決定に、マラネロのフェラーリ上層部は揺れた。何故なら、フェラーリにイタリア人ドライバーが乗るのは実に10年振りの事であり、既にイタリア国内でそれは"タブー"と思われていたからである。しかも実際何故イタリア人を取らないのか、と言えば他ならぬエンツォの「イタリア人ドライバーがフェラーリに乗るとマスコミが過剰反応し、チーム運営に支障をきたす」と言う言葉が発端だったからである。実際、'73年のアルトゥーロ・メルツァリオ以来イタリア人フェラーリ・ドライバーは存在せず、しかも勝者ともなれば'66年のルドビコ・スカルフィオッティ、チャンピオンは'53年のアルベルト・アスカリ以来輩出されていない。そこへエンツォ直々に指名されたイタリア人ドライバーが入る事になれば、イタリアのマスコミがどのように反応するのか、想像も出来なかったのである。何度と無くフェラーリ内で話し合いが持たれたが、エンツォがアルボレートを諦める事は無かった。「あんなに非力なマシンに乗って、奴はこの1年で2勝もした。常に物事を楽観的に考え、そして実行出来る、天才的な男だ」エンツォの決定は、すなわちフェラ−リの決定であった。マラネロはこの発表を慎重に扱った。が、待ち切れないエンツォ自身が、マスコミに情報を流してしまったのである。ところが、この決定に最も驚いたのはアルボレート自身であった。?82年に、エンツォに手紙を書いたんだ。『私はフェラーリを愛しています。いつかフェラーリに乗りたいと夢見ていますが、そうなれるよう頑張ります』とね。別に『フェラーリに入れて欲しい』とか言う事はまるで考えて無くて、単に憧れのエンツォ・フェラーリに挨拶のつもりだっただけなんだよ。それがどうだい、フェラーリから『エンツォが君を欲しがっている』って言って来たんだ!」'83年9月、アルボレートのフェラーリ入りが公式に発表された。エンツォのコメントは「彼こそがフェラーリに相応しい、パーフェクトなレーサーだ。まるで若い頃のウォルフガング・フォン・トリップスを想い出させる」と言う、最大級の讃辞であった。そして、イタリア中が諦めかけていた母国人フェラーリ・ドライバーの誕生に沸き上がった。 ところが、アルボレートが加入したフェラーリは決して良い状態では無かった。全てはビルヌーヴとディディエ・ピローニを失い、そしてターボ・エンジン開発に乗り遅れた'82年に始まっていた。'84年、アルボレートは第3戦ベルギーで初のポール・ポジションからスタートし、フェラーリ移籍後初、自身3勝目を挙げるが、フェラーリ126C4の信頼性は著しく低く、チームがそれ以上の成績を収める事は無かった。シーズンはニキ・ラウダとプロストのマクラーレン・TAGポルシェ勢が席巻し、アルボレートはポイント上大きく離されたドライバーズ・ランキング4位でシーズンを終了。しかしチーム・メイトのベテラン、アルヌーが6位に終わった為、アルボレートに対してマラネロが心配したような攻撃がマスコミから浴びせられる事は無かった。翌'85年、シーズンは渾沌としていた。アルボレートと新車フェラーリ156は第5戦カナダ、第9戦ドイツと2勝を挙げ、第10戦オーストリアの時点で2レースをリタイアした以外は全て表彰台、と言う活躍を見せ、シリーズ・ランキングでトップに立っていた。イタリアは狂喜した。何故なら、このまま行けば確実にイタリア人・フェラーリ・ドライバーによる世界制覇が確実だったからである。「やはり偉大なるコマンダトーレ、エンツォの選択は間違っていなかった」イタリア中がアルボレートに注目したが、当のアルボレートは相変わらずの楽観主義であった。「まあ、どうなるかは解らないさ。良い時もあれば、悪い時もある」そして、その"悪い"時期がアルボレートとフェラーリを襲う。 マクラーレンが使用するポルシェとフェラーリは、共にドイツのKKK社製のターボ・システムを使用していた。そしてシーズン中半から、マクラーレン・ポルシェに乗るプロストがアルボレートを猛追して来た。ポルシェはKKKに対し、これまでF-1に於けるターボ・エンジン開発に力を注いで来た実績と、同国である事を理由にフェラーリへの技術供与を止めるよう圧力をかけ始めたのである。KKKは既に完成したシステムを両者に供給しているだけ、とこれを拒否したが、この事実を知ったエンツォは事態の深刻化を避ける為、急遽ターボ・システムをアメリカのガレット社へと変更した。ところが、このシステムの信頼性が低く、あれ程の完走率/信頼性を誇ったフェラーリ156は第12戦イタリア(記録上は完走扱い)から最終戦まで、全てリタイアと言う大失態を犯し、タイトルはプロスト/マクラーレン・ポルシェに奪われてしまったのである。ランキング2位でシーズンを終えたアルボレートは「ガッカリはしていないさ。また来年がある。運が良ければ、チャンピオンを獲れるだろう」と翌年に望んだ。しかし、'86年にはホンダが究極のターボ・エンジンを擁してシーズンを席巻し、フェラーリは未勝利、アルボレートはアルヌーに代わって新たにチームに加入したステファン・ヨハンソンに終始遅れを取り、ランキング8位へ没落(ヨハンソンは5位)。翌'87年、ベネトンから若きゲルハルト・ベルガーが移籍すると、チームは完全にベルガー優先の姿勢を取り、第15戦日本で優勝したベルガーは5位、アルボレートはまたも遅れて7位でシーズンを終えた。 '88年8月、兼ねてから病状の悪化が伝えられていたエンツォが死去。アルボレートはフェラーリに自らの完全に居場所が無くなった事を知る。そして、フェラーリは'89年をベルガーとナイジェル・マンセルで戦う事を決めた。「エンツォが亡くなれば、マラネロに変革が起きる事は予想していた。だからそれ程驚かなかったし、私は"エンツォあってのフェラーリ・ドライバー"だったと思っている」マクラーレン・ホンダが16戦中15勝したこの年、エンツォ没後の地元イタリア・グランプリでベルガーに続いてフェラーリを1.2フィニッシュに導き、イタリア/フェラーリに伝説を残してアルボレートはフェラーリを去って行った。 '89年に古巣ティレルに戻ったアルボレートはまたも非力なコスワースDFRエンジンで第4戦メキシコで3位表彰台を獲得。だが、このレースを最後に、アルボレートがポディウムに立つ事は二度と無かった。その後ラルース〜アロウズ(フットワーク)〜スクーデリア・イタリア〜ミナルディと弱小チームばかりを渡り歩き、その間たったの7ポイントしか獲得出来ず、'94年いっぱいでF-1グランプリを引退。F-1出走194戦、通算5勝、ポール・ポジション2回、総得点186.5ポイント。しかし、アルボレートのレースはここから第二章を迎える。 '95年、アルボレートはDTM(ドイツ・ツーリング・カー選手権)にアルファロメオで参戦、同時にWSC(世界スポーツ・カー選手権)にフェラーリ333SPを駆ってデビュー。翌'96年にはそれに加えてサイモン・レーシングからIRL(インディ・レーシング・リーグ)インディ500マイルに出場。更にル・マン24時間にヨースト・ポルシェで参戦。'97年は遂にル・マンで総合優勝を飾った。'99年にヨースト・チームがアウディと合併し、アルボレートはアウディのエース・ドライバーとなり、ALMS(アメリカン・ル・マン・選手権)にも参戦。'00年のル・マン24時間ではアウディR8を3位表彰台へと導いた。 .....'01年、3月のセブリング12時間を制したアルボレートは、ドイツ/ラウシツリンク・サーキットで6月のル・マン24時間へ向け、アウディの'01年仕様のR8のテストを行っていた。4月25日夕刻、順調に周回を重ねていたアルボレートは突然ストレートでコントロールを失い、コース・アウト。その勢いでマシンは100m程宙を舞い、横転しながら金属製のバリアへと激突した。即死であった。後日、アウディは事故原因を「何か鋭利なものがタイヤに突き刺さり、走行中にパンクした為」と発表した。以下は、その際寄せられたコメントである。
.....アルボレートがフェラーリを追われたのが'88年。それから実に6年間に渡って弱小F-1チームで奮戦し、時には金曜午前8時からの予備予選への出場が義務付けられていた事さえあった。一度はタイトルを争った元フェラーリ・ドライバーとしては、異例のキャリアである。通常なら、自らのキャリアに傷を付ける前に引退を選ぶ筈だが、アルボレートは違った。心からレースを愛し、マシンをドライヴする事を生きがいにした男だった。そして、常に「いつか上手く行くさ」と、楽天的に生きた典型的なイタリア人でもあった。いや、そうでなければイタリア人フェラーリ・ドライバーは勤まらなかったかも知れない。ミケーレ・アルボレート、享年44歳。彼はきっと今も天国で走り続けているに違い無い。
|