| F-1黎明期の'58年、38歳の中村良夫は戦後の日本を支えた、かの"オート3輪"メーカー、クロガネの倒産によって再就職先を探さねばならなくなっていた。ただ、戦時中に中島飛行機で戦闘機の製作を手掛けていた中村にとって、商業用のオート3輪の設計は決して意義のあるものでは無く、むしろ戦闘機のように無駄を一切取り払った、飛ぶ事だけを目的に生まれたと言う"美"に傾倒していた。だが、戦闘機は人を殺す道具であった。そして中村の興味はレーシング・カーへと移行して行く。クロガネの部下達をトヨタやニッサンに紹介し、中村はようやく自らの身の振り方を考え始めた。そして、'07年から始まったオートバイ・レースの最高峰、マン島TTレースへの出場宣言をしていた2輪メーカー、ホンダに目を付けた。中村は早速本田宗一郎の元を訪れ、面接を受けた。が、通常の入社試験とは全く逆で、質問攻めにあったのは宗一郎の方であった。「ホンダは4輪車をおやりになる気はありますか」「あるよ」「では、F-1レースはどうです?」「なんだそりゃ」「世界で一番速い車を決めるレースです。おやりになるのでしたら、ホンダに入ろうと思います」「.....良く解らんが、そんなら俺はやりたいよ」こんなやりとりがあって、極東からのF-1挑戦は始まったのである。 '59年から伝統のマン島TTレースに出場したホンダは独自の4気筒エンジンで'62年に初優勝し、後の'66年には125〜500cc全クラスのチャンピオンとなり、ホンダのレースへの情熱は高まるばかりであった。そしてホンダに入社した中村は4輪部門の責任者となっていた。何故なら、2輪メーカーであったホンダに、4輪の事が解る人間はまるでいなかったからである。とは言え、中村自身もクロガネ時代に4輪を齧った事はあったが、量産するには至っていなかった。ホンダと同じ2輪メーカーのスズキが軽自動車"スズライト"を発表し、ホンダも負けじと4輪へと進出しなければならなかった。が、実際中村はそんな事はどうでも良かった。彼の頭の中にはF-1しかなかったのである。'61年、ホンダの2輪レーサーだったボブ・マッキンタイアが事故死し、ホンダは未亡人への金銭的な救済処置としてマッキンタイア所有の2.5リッターF-1マシン、クーパー・クライマックスを買い取った。中村をリーダーとする本田技研の4輪車開発チームは生まれて初めて目前にするF-1(中村でさえ実物を見るのは初めてだった)をいじくり回し、荒川河川敷のテスト・コースで何度も走らせた。が、このマシンはホンダの連中が想像していたような快走を見せてはくれなかった。そして、このテスト走行中に"ホンダがクーパー・クライマックスを買った"と聞き付けた2度のF-1ワールド・チャンピオン、ジャック・ブラバムが突然ホンダを訪問した。そして、メカニカルな分野にも精通し、自らのコンストラクターを立ち上げていたブラバムはそのエンジンをいとも簡単に調整し、本来の素晴らしい走りを蘇らせたのである。中村は素直にブラバムに感謝した。「多分、ジャックはマン島TTに勝ったホンダは直にF-1へとやって来ると踏み、今の内から仲良くなっておこうと思ったのでしょう」しかしブラバムのおかげでホンダ、いや日本人は初めてF-1を学ぶ事が出来たのである。だが、彼等が実際にF-1エンジンを作る事等、まだ夢のような話でしか無かった。実際、ホンダは初の4輪市販車、AS500の開発に追われており、"スズキに市場を独占されてなるものか"と言う方が大問題だったのである。 '62年、東京モーターショーの取材の為に日本を訪れていた欧州のモーター・レーシング専門誌の記者達がホンダにインタビューを申し込んだ。そして、話題は"マン島TTレースで活躍する極東の2輪メーカーの活躍"から、"F-1マシンを購入したホンダの真意"へと質問が移行して行くと、宗一郎は揚々と話し始めた。通訳をしていた中村はあっけに取られながらも記者達にその内容を伝えた。「ホンダは世界中が驚くような高性能エンジンを擁してF-1で勝利するだろう」.....ホンダ社内はパニックとなった。何しろ、F-1参戦計画なんてものはこの時点で全く無く、本田技研に中古のクーパー・クライマックスが1台あるだけなのである。それを調子に乗った宗一郎が、しかも「勝利するだろう」等と言ったものだから大変である。が、ただひとり、中村だけは胸の高鳴りを押さえ切れずにいた。「F-1だ、F-1だ。遂にやれるんだ」'63年、中村を責任者としてホンダ・F-1・プロジェクトは動き出した。 前述の通り、ホンダには中古のクーパー・クライマックスがあるだけだった。しかも、当時のF-1レギュレーションはエンジン排気量を1.5リッターに定めており、実際2.5リッターのクーパー・クライマックスはあまり開発の役には立たなかった。更に'66年からは3リッターとなる事が決まっており、ホンダは1.5リッターF-1最後の2年間の為にシャシーまで作って勝利を目指すのは不可能と考え、結局'64年からエンジン・サプライヤーとしてのF-1参戦を公式に発表。中村は本田技研で1.5リッターF-1用エンジンの製作の指揮を取ると共に、定期的に連絡を取り合っていたブラバムの元を訪れた。中村は手を組むならブラバム以外にいない、と決めていたのである。しかし、ホンダのF-1参戦が発表されるや、続々と欧州のF-1関係者達が日本を訪れた。驚くなかれ、その中には名門、ロータスのコーリン・チャップマンがいたのである。そしてチャップマンは中村に言った。「来年ジム・クラークのマシンに是非ホンダ・エンジンを乗せたいのだが」中村は気絶しそうになった。ブラバムには申し訳無かったが、この申し出を断る事は出来無かった。 '63年6月、全てが手探りの中でホンダ初のF-1用エンジン、RA270Eのベンチ・テストが始まった。このエンジンはホンダの2輪用エンジンと同様に多気筒エンジンとして誕生し、当時主流だったクライマックスやBRMが8気筒、フェラーリが6気筒だったのに対し、ホンダは125ccのシリンダーを6本ずつ、V型60度で並べる12気筒エンジンを製作。12,000回転を誇る超ハイ・パワー・エンジン構想である。この発想はF-1では異端児であったが、宗一郎にとっては当然の事であった。「誰よりもパワーを上げて勝つ」事がホンダにとっての意義だったのである。だが多気筒/横置き/ギア・ボックス一体型、と全てが2輪でのアイデアと同じこのエンジンは、"カーブを曲がったり加減速を繰り返す"F-1レースでどれだけ性能を発揮するか、まだ誰にも解らなかった。そこで、ホンダは中古のクーパーを真似てテスト用シャシーをひとつ作り、日本での熟成テストを行う事にした。東京大学航空学科卒業の若手、佐野彰一がシャシー責任者に任命され、ホンダは順調に開発を進めていた。そして12月、いよいよホンダは実戦用エンジンとなるRA271Eを完成させ、イギリスのロータスへと送った。 .....だが翌'64年1月、ロータスから届いた電報に、中村は目の前が真っ暗になった。「この程、コベントリー・クライマックス社がジャガー配下となり、ジャガー本社からの援助を受けている我々ロータス・チームはホンダ・エンジンで無く、クライマックス・エンジンを使わざるを得なくなった。御了承の程を.....」中村は電報を床に叩き付けた。F-1開幕まで、後たったの4ヶ月しか無かった。年が明けてからもまだエンジン・サプライヤーを探しているようなトップ・チームがある筈も無く、ホンダはF-1参戦を中止せざるを得ない状況であった。が、中村の報告を受けた宗一郎は激怒し、意気消沈する中村に「.....解った。すぐにクルマを作らせろ」と答えた。中村は宗一郎の決断に喜びを隠さずにいられなかった。そして、中村はロータスに向け「了承した。ホンダはホンダの道を行く」との電報を打ったのである。 かくして、ホンダのF-1参戦はエンジン・サプライヤーでは無く、チームとしての参戦と言う大幅な変更を余儀無くされた。まず、シャシーを作らなければならなかった。これは佐野が陣頭指揮を取った。参考になるのは中古のクーパーだけだったが、佐野は全てを理解出来るまでクーパーのシャシーを研究した。そして、チームとしての参戦はシャシーを作る事だけでは無く、レース・チームをひとつ運営する事をも意味していた。タイヤ、ドライバー、運搬、宿泊、そしてマネージメント。何もかもが突然必要になった為、ホンダは大混乱に陥っていた。しかも、実際にF-1をやった事のある人物等、ひとりもいなかったのである。それでも宗一郎は「良いか、我々には経験は無いが、技術がある。我々を馬鹿にした連中を見返してやるんだ」と叱咤し、毎朝のように製作現場で陣頭指揮を取って怒鳴り散らしていた。中村は欧州へ出かけ、F-1参戦に必要なライセンスや契約事項に追われた。が、この時点で既に5月の開幕戦モナコ・グランプリへの出場は絶望的であった。ホンダは目標をを8月の第6戦ドイツ・グランプリに定め、何もかもが手探りのままにF-1マシンを作っていた。 '64年6月、遂にホンダ初のF-1マシン、RA271が完成した。ドライバーにはアメリカ人の若手ドライバー、ロニー・バックナムが選ばれ、'62年に完成した自社コースの鈴鹿サーキットでのテストに入った。220馬力の横置き12気筒エンジン、モノコック型シャシー(当時は鋼管フレームが主流)、エンジン一体型サスペンション.....。ホンダが手探りの中で出した答は、相当に個性的なF-1マシンであった。総重量は525kg、他のチームのマシンは平均460kg程度で、12気筒エンジンが車重にかなりの影響を及ぼしていた。連日のようにバックナムは鈴鹿でRA271を走らせた。だが、過去に鈴鹿をF-1マシンが走った事等もちろん無く、彼等が幾ら走行データを溜めても、自分達の車が果たして速いのか遅いのか、全く解らなかった。バックナムもF-1は初めてであり、RA271が実際にF-1レースに出てどうなのか、と言う疑問に答えられる者は誰もいなかったのである。そんなホンダに救いの手を差し伸べたのは、ブラバムであった。「オランダのザントボールド・サーキットへ行くと良い。あそこは色々なコーナーがあるし、F-1でのデータも豊富、テストにはもってこいだ」今やライバルとなった筈のブラバムの優しさに、中村は涙をこらえ切れなかった。 7月12日、ドイツ・グランプリを1ヶ月後に控えたホンダはオランダのザントボールド・サーキットへと到着した。彼等はF-1初参戦となる為にFOCA(F-1製造者協会)からのサポートも無く、羽田〜ニューヨーク〜オランダと言うとんでも無い距離を自力で移動しなければならず、日本と欧州の距離を思い知った。サーキットに到着すると、ホンダF-1チームは早速マシンを組み上げ、バックナムが轟音を轟かせながらコースへ出て行った。テスト走行は順調に進み、最高タイムは1分36秒で、その2ヶ月前に行われたF-1オランダ・グランプリのコース・レコードは1分31秒であった。「初めてのF-1が、新人レーサーの運転でレコード・タイムの5秒落ち。これならいける」中村はほっと胸を撫で下ろした。そして、ストレートを駆け抜けるRA271の独特のエンジン音を、集まっていたグランプリ関係者やジャーナリストは絶賛した。「素晴らしいサウンド。まるでミュージックだ」ホンダのF-1挑戦は目の前に迫っていた。 '64年7月31日、F-1第6戦ドイツ・グランプリ公式予選が始まった。ロータス、フェラーリ、BRM、クーパー.....。ホンダは日の丸カラーのRA271を誇らしげにコースへ送り出した。が、1周22kmのニュルブルク・リンクで、RA271とホンダはいきなり弱点を露呈した。コースがバンピーなニュルのサーキットを全く知らないホンダは、RA271をザントボールドでのセッティングのまま走らせたが、激しく車底を擦ってあっと言う間に操縦不能となった。他チームはキチンと車高を上げてニュル用に調整したマシンで走行しており、経験の無いホンダらしい、しかし重大なミスであった。そして、マシンを修理する為にチームは徹夜作業となったが、それでも予選2日目のセッションに間に合わず、ホンダは危うく予選落ちを喫する所だったが、中村が主催者の所へ嘆願に行き、どうにか予選時間外での走行が認められた。結局予選タイムは9分34秒、ポール・ポジションのフェラーリからは実に1分程遅れていた。8月2日、決勝。バックナムは予選22位から追い上げ、9周目には11位まで上がって来ていた。中村は手に汗握って見守っていたが、12周目にマシンがバンプに乗って大きく跳ねてコース・アウト、サスペンションを壊してリタイアとなった。駆け付けた中村にバックナムは謝っていたが、中村は逆にバックナムに感謝した。「格好良かったぞ。ホンダのF-1が、レースで他のマシンを抜いて行ったんだ」記念すべき、ホンダRA271のデビュー・レースは今後に期待を抱かせるものであった。 が、見様見真似で作ったRA271は、それ以上の成果を出す事は無かった。第8戦イタリア、第9戦アメリカの両レースでも時折目を見張る速さは見せるものの、完走すらままならなかった。ホンダは最終戦メキシコ・グランプリへの出場を取り止め、急ぎ日本へ帰って'65年用のニュー・マシンの設計へ取りかかる事にした。ホンダがF-1で学んだ事は、たった3戦ではあったが、膨大であった。そして、最終戦の後に、今年もブラバムがやって来た。しかも、今度はアメリカのタイヤ・メーカー、グッドイヤーのレース部門責任者、フレッド・ギャンブルを連れて来たのである。「来年から、グッドイヤーがF-1をやる事になり、ウチのチームは契約したんだ。ホンダもどうだろうか」事実、F-1新入生のホンダはダンロップから"冷遇"されていた。しかも、ブラバムがわざわざ紹介してくれたのだから、中村も断る理由が無い。'65年、ホンダは新鋭グッドイヤー・タイヤを使用する事が決定した。 .....ところが、ホンダが'65年の体制を発表した時、チーム監督に中村の名は無かった。ホンダは、多くの人間にレースを通じた育成プログラムを経験させる為、2年目のF-1チーム監督には中村の中島飛行機時代の後輩であり、ホンダF-1初年度にチーフ・メカニックを務めていた関口久一を任命したのである。しかし中村はF-1チームを離れようとはしなかった。関口は天才的な技術者であったが、チームの牽引役となると全くの初体験で、しかも当時のホンダF-1チームの欧州での人脈は全て中村が築いたものだったからである。そして、ニュー・ホンダF-1チームは前年のRA271をモディファイしたRA272を製作、基本スペックはRA271とほぼ一緒であった。何故なら、1.5リッターF-1最後の年に全くのニュー・コンセプトを打ち出せば、たった1年の為だけに全てがゼロからやり直しになるからであった。当然、ホンダの苦戦は続いた。開幕戦南アフリカ・グランプリを欠場し、第2戦モナコへ投入したRA272はバックナムと、BRMから移籍して来たアメリカ人、リッチー・ギンサーの2人のドライバー共にリタイア。だが続く第3戦ベルギーではギンサーが6位でフィニッシュし、ホンダは5戦目でF-1初入賞を果たす。ところが、レース後になってホンダがレースへのエントリーをうっかり忘れていた事が発覚し、ホンダは失格になる可能性が出て来た。関口らは慌てたが、この時自ら主催者にかけあって交渉し、どうにか正式にエントリーを承諾させたのは中村であった。「とにかく、いても立ってもいられなくて毎戦レースの現場へは出かけていた。本社の仕事なんか放ったらかしだった」こうしてようやく選手権ポイントを獲ったホンダだったが、宗一郎は日本で激怒していた。「いったい何をしてるんだ?、勝つ為にやってるんじゃないのか!」宗一郎は号を煮やし、関口に代えてかつて2輪チームの監督だった河島喜好を監督として現場へ送った。イギリス・グランプリはギンサーが予選3位からスタートでトップに立つが、徐々に後続のマシンに抜かれて行った。エンジンがミス・ファイアを起こしていた。やがてギンサーはピットへ戻り、マシンを降りようとするが、「データを取る為に走行を続けろ」と言う河島と口論となってしまう。更に、ギンサーとバックナムのふたりのドライバーの"ライバル意識"は闘志剥き出しで、チームの誰も彼等に近付けないでいた。バックナムが良いタイムを出すと、ギンサー担当のメカニックがギンサーに罵声を浴びせられていた。.....ホンダF-1チームは、今やガタガタの状態であった。そして、この状況を打破出来る人材は、当時の現場にはいなかった。 第6戦オランダで2度目の6位入賞を果たしたホンダは、翌第7戦ドイツ・グランプリを欠場し、宗一郎の指揮の元、エンジンの大改修を行う事となった。ホンダはチームはおろか、屋台骨の宗一郎自身ですら完全に我を失っていた。天才技術者であった宗一郎は何が問題なのかを解っていた。ストレートではパワーを最大限に活かして最高速を記録するものの、コーナーでは途端にスムースさを失った。そして、この年からF-2選手権に乗り出したホンダで指揮を取る久米是志と川本信彦は、F-2でコンビを組むブラバムからオイル・トラップの必要性を指摘されていた。コーナーの連続するサーキットでは、マシンが曲がる際のG・フォースでオイル・タンクが傾く事によってエンジンに必要な量のオイルが流れず、パワーが失われている、と言う事であった。従って、彼等に必要なのはそのオイルの流れを一定に保つ仕組みであり、コーナリング時のエンジン・パワーを正しく伝達するタンク構造であった。ホンダはなるほど、と思ってこれに伴い、重心を下げたりエキゾースト・パイプのデザインを変更したり、とRA272はシャシーにも大改造が施された。宗一郎とホンダF-1チームは、またしてもブラバムに助けられたのである。 中村は面白く無かった。残りのレースは3戦、今頃になって本田技研所長から「F-1チームの監督に戻ってくれ」と言われたのである。「勝手にクビにしておいて、今さら戻れなんて虫が良過ぎる」中村は反発した。しかし、チームはイタリア・グランプリでもリタイア、続くアメリカではギンサー7位、バックナム13位と、相変わらず奮わなかった。残りはたった1戦、誰もが1.5リッター時代のF-1を諦めかけた。そうこうしている内に、ブラバム/久米/川本らのF-2チームは、最終戦フランスでロータス・コスワースのジム・クラークに次いで2位を獲得した。遂に中村の感情は爆発した。「F-1最終戦の指揮を取らせて下さい」もちろん、反対する者等誰もいなかった。 '65年最終戦、メキシコ・グランプリ。1.5リッターF-1の、最後のレースの舞台に、ホンダと中村の姿はあった。そして、混乱していたホンダ・チームを、中村は大改造した。チーフ・メカニックには最も若い岸晴男を起用し、社内での上下関係とは関係無く、チーフへの絶対服従を全員に命じた。そして、中村は岸に「メキシコは標高2.000mの高地だ。当然、燃料を薄くしないと低い気圧でキチンとエンジンが燃焼しない。混合比を薄くするんだ」岸はなるほど、と思った。中村は元々飛行機屋であり、気圧変化に応じて燃料の混合比等、お手のものだったのである。そして、他のF-1チームでは、誰もその事に気付いていないようであった。ギンサーは予選で最速タイムを記録。ロータスのクラークやブラバムのダン・ガーニーらクライマックス勢がそれを塗り替えると、ギンサーは「絶対にポール・ポジションを奪い返してみせる」と意気込んだ。が、中村はギンサーを止めた。「このサーキットでは、レースで彼等のスリップ・ストリームを使って前に出た方が有利だ」ギンサーは納得し、アタックを止めた。中村でなければ、こんな采配は出来無かった。ドライバーが「行く」と言えば、何も言わずに送り出していた筈である。それによってマシンを壊してしまう事さえ起こり得た。中村は、チームをまとめる事に専念したのである。 '65年10月24日、1.5リッターF-1の最終戦、メキシコ・グランプリの決勝レースはスタートした。ギンサーのホンダRA272は、スタートでクラークのスリップ・ストリームから抜け出すと、悠然とトップに立った。そして、65周の長いレースを、只の一度もトップを譲る事無く快走した。メキシコの高地にV12による"ホンダ・ミュージック"が鳴り響き、大歓声の中、日の丸カラーのホンダF-1にトップ・チェッカーが振られた。ホンダF-1、初優勝。そして、ギンサー自身、グッドイヤー・タイヤ、更には日本人にとっても初めての勝利であった。 ウイニング・ランを終えて帰って来たギンサーに、ホンダ・チーム全員が駆け寄った。中村は真っ先に駆け出していたが、コースに溢れる人込みにもみくちゃにされ、ギンサーに近付く一歩手前で人の波に呑まれていた。そして、その中村の肩を後から叩く人物がいた。振り返ると、そこにロータスのチャップマンが立っていた。「おめでとう」そう言って、チャップマンは右手を差し出した。1年9ヶ月前、ホンダを"裏切った"チャップマンに、中村は感謝すらしていた。誰も想像していなかったオール・ホンダでの参戦、宗一郎からの罵声、エントリーから契約まで、全てが手探りだった日々、自らの解雇、ブラバムの友情.....。中村はチャップマンの手を固く握り返し、「ありがとう」と呟いた。後は涙で声にならなかった。そして、中村はあの有名な言葉〜古代ローマ、ジュリアス・シーザーの戦況報告〜である「来た、見た、勝った」と言う3つの文章を日本のホンダ本社に打電したのである。 .....RA270〜272と移行したコード・ネーム、RAはレーシング・オートモビルの略、数字はホンダ・チーム内の「最高速は恐らく270km/h程度」と言うエンジン性能に基づいて付けられ、RA271はその1号車、RA272は2号車、と言う意味であった。そして、ホンダがRA270のテスト用エンジンをシャシーに乗せてテストする際、テスト用に作られたマシンは宗一郎の大好きな金色に塗られていた。そして、中村がRA271をFIAに申請する際、ホンダは金色を希望していた。ところが、ナショナル・カラーが原則だったF-1に於いて、金色は既に南アフリカ共和国のカラーとして認定されており、交渉に当った中村は困り果てていた。第2希望としてアイボリー・ホワイト案があったものの、ドイツ/メルセデスのシルバーと見間違え易かったのである。当時のFIA事務局長は中村に「では、日の丸を書いてはどうだろう」と提案した。そんなアイデアは無かったホンダだったが、時間も無かったのでそれで行く事にした。我等が日の丸カラーのホンダF-1は、実に"妥協案"として誕生していたのである。 ホンダF-1の第1戦、'64年ドイツ・グランプリではトップ・ドライバー達から「F-1未経験のチームに、F-1未経験のドライバーが乗るのは危険だ」として抗議が行われた。しかし、バックナムと同じアメリカ人ドライバーのギンサー、フィル・ヒル、ダン・ガーニーらがバックナムの能力を保証し、バックナムの出走が可能となった。また、このドイツでは主催者のドイツレース連盟が、締め切りを過ぎたホンダの出走権を確保したり、予選落ちの危機に特別周回を許したり、と常にホンダに協力的であった。「その代わりに零戦の話を聞かせてくれ、と言われていた(笑)」戦時中に中島飛行機にいた中村はドイツ国民から見れば"零戦製作の立役者"と言う英雄だったのである。事実、決勝レースで地元ポルシェが出走を取り止めると、スターティング・グリッドに向かう日の丸ホンダに対し、スタンドからドイツ国民の大声援が送られた。ホンダF-1のデビューに、友好国ドイツが一役勝った事は事実であった。 初勝利から3年後の'68年、ホンダは宗一郎の推し進めた空冷エンジン案が失敗に終わり、またレース中にドライバー、ジョー・シュレッサーを事故で失い、F-1からの撤退を決定した。その後'80〜'90年代にホンダはエンジン・サプライヤーとして10年間で6度の世界王座に着き、現在が3度目のF-1チャレンジである。新興BARチームとのジョイントでこれまで思うような成果の上げられ無い第三期ホンダF-1活動だが、全てが手探りの中、急遽マシンまで製作するハメになり、それでも結果を出した偉大なる先輩達の偉業を前に言い訳は許されない。「ホンダはホンダの道を行く」この言葉でRA271が誕生するまで、日本にF-1マシンを作った者等ひとりもいなかったのである。
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