| かつてのエンツォ・フェラーリを始め、ジム・クラーク、フランソワ・セヴェール、ネルソン・ピケ、そしてアラン・プロスト。彼等に共通する形容詞のひとつ、それは"遊び人"である。現役時代、サーキットで彼等が流した浮名は数知れず、古き良きモーター・レーシングの優雅な一面としても各人の交友関係はとかく話題にされる事が多かった(ちなみにセヴェールのお相手のひとりは大女優、ブリジット・バルドーであった)。ま、そんな話題から書きはじめるのは少々失礼かも知れないが、彼について語る時に欠かせないのが"遊び人"と言うイメージである事もまた確かであり、チームやスポンサーのイメージ戦略等も様変わりし、誰もが私生活までも厳重に管理されてしまう近代F-1に於いて"最後の遊び人"と称するに相応しい人物。それが愛すべき好漢、ゲルハルト・ベルガーである。 "ゲ・ベ"ことゲルハルト・ベルガーは'59年8月27日、オーストリア/ヴィーグルにて誕生。父は運送業で財を成し、オーストリアで"ベルガー運送"と言えば知らぬ者のいない程であった。幼少の頃からやんちゃだったベルガーは、チロリアンらしくほぼ毎日をスキー三昧で過ごしていた。が、11歳の時にそのスキー中に両足を骨折する大怪我を負い、しばらくスキーを楽しむ事が出来なくなってしまう。両親はそんなベルガーにモペット(ミニバイク)を買い与えた。ベルガー少年はたちまちモペットに夢中になり、自らモーター・ボート用のエンジンに乗せ代えた"モンスター・モペット"を乗り回していた。「別にレーシング・ドライバーになろうなんて思っちゃいなかった。ただ猛スピードで突っ走るのが楽しかっただけだよ。おかげで何度も死に損なったが」そしてベルガーは自動車免許を取得すると一気にストリート・レーサーとなり、友人をナビゲーターに公道を突っ走る毎日を送った。完全にレースの虜になったベルガーは当時のスター・ドライバーだったジル・ビルヌーヴに憧れ、'79年に自らフォード・エスコートを駆ってアルファスッド・ツーリング・カー選手権に出場し、デビュー・ウインを達成。更に'82年、ベルガーはかつてヨッヘン・リントやニキ・ラウダらを育てたオーストリア・モーター・レーシング界の重鎮、ヘルムート・マルコに目を付けられ、ドイツF-3選手権にヨゼフ・カウフマン・チームから出場し、ランキング3位の活躍を見せる。「マルコに『そろそろ世界へ出て行く頃だ』と言われたんだ。でも、その計画の中にF-1が入ってるなんて考えもしなかったよ」'83年、ベルガーはドイツF-3選手権に出場するかたわら欧州ツーリング・カー選手権にBMWのワークス・チームから参戦、見事チャンピオンを獲得する。そして、このBMWとの繋がりこそがマルコの"世界戦略"であった。翌'84年、ベルガーはスポット参戦ではあるが、ATS・BMWチームからF-1デビューを果たすのである。 ベルガーのF-1デビュー戦となったのは'84年第12戦、地元オーストリア・グランプリ。ベルガーの乗るATSチームは同じくBMWが支援するドイツ人ドライバー、マンフレッド・ウィンケルホックを完全なエース・ドライバーとしており、金曜日の予選1回目にウィンケルホックのマシンがミッション・トラブルを起こすと、ベルガー用のマシンが即ウィンケルホック用に回されてしまい、ベルガーはろくに周回を重ねられぬままピットで待つはめになった。「それまで僕はF-1に乗った事なんか無かった。完全なぶっつけ本番だったんだよ!。でも、ウィンケルホックがセッティングをしてくれたようなもんだったからラッキーだった」結局ベルガーは初のF-1グランプリの予選を20位で終え(出走28台)、決勝レースでは12位(完走車中最下位)完走を記録した。マルコらの後押しでもう3戦分のスポット出場権を得たベルガーは第14戦イタリア・グランプリで6位フィニッシュし、F-1グランプリ2戦目にして早くも入賞を果たす。が、これは選手権ポイントとして記録には残らなかった。何故なら、この年のATSチームは1カーのみのエントリー手続きしかしておらず、記録上はベルガーは"ノン・タイトル・ドライバー"として扱われたからである。が、そのアグレッシヴな走りは多くのF-1関係者の注目を集め、BMWのバック・アップもあって翌'85年はアロウズ・BMWチームのシートを得る。しかも、シーズン・オフに交通事故で首を負傷し、アロウズ・チーム主脳との交渉の席では新人ドライバーであるにも関わらず机に肘を付いて交渉を行ったのは有名な話である。「だって、手で首を支えていなければそのまま横に倒れちゃうんだよ(笑)。アロウズの人達が『交通事故にあったと聞いたが大丈夫なのか』って言うんで『事故?、誰がです?』ってトボけてたんだ。ホントは全然大丈夫じゃ無かったんだけどね」とにかくベルガーはF-1でのレギュラー・シートを獲得した。が、アロウズはATSよりも多少"マシ"なチームに過ぎず、第15戦南アフリカで5位、続く最終戦オーストラリアで6位に入り計3ポイントを獲得するが、サーキットでベルガーが見せるパフォーマンスと実際のリザルトには明らかな差があった。そしてこの頃、翌'86年にトールマン・チームを買収したベネトンの新チームがBMWエンジンを搭載する事が決定、だが'86年のドライバーに内定していたドイツ/BMW期待の若手ドライバー、ステファン・ベロフがベルギー/スパでのツーリング・カー・レース中に事故死。更に同郷の大先輩ニキ・ラウダが現役を引退後BMWのアドバイザーに就任、これにより、急遽ベルガーがベネトン・BMWチームのドライバーに抜擢される事になったのである。 '86年のベネトンB186/BMWはターボ全盛のF-1グランプリにあって驚異的なパワーを発揮し、当時最強のウイリアムズ・ホンダやマクラーレン・ TAGポルシェに続く第三勢力として注目を浴びていた。ベルガーはベネトンでの最初のレースとなった開幕戦ブラジル、続くスペインと連続で6位入賞し、第3戦サンマリノ・グランプリではアラン・プロスト(マクラーレン・TAGポルシェ)、ネルソン・ピケ(ウイリアムズ・ホンダ)に次いで3位表彰台に登った。その後もコンスタントにポイント・ゲットし、第5戦ベルギーでは自己最高の2位フィニッシュ。波に乗るベネトンBMWは遂に第12戦オーストリアでチーム・メイトのテオ・ファビがポール・ポジション、地元のベルガーが2位で遂に予選フロント・ロウを独占。決勝がスタートするとベネトンBMWの2台が圧倒的な速さで他を引き離して1.2体勢のまま独走、しかし17周目にファビがエンジンを壊してリタイア、代わってトップに立ったベルガーは地元での初勝利に向け、総立ちの観客が打ち振るオーストリア国旗の中、ファステスト・ラップを叩き出しながら突進していた。が、レース中盤からベルガーのマシンを襲ったエンジンのミス・ファイアはどうにもならないレヴェルに達し、やむなくピット・インしてコントロール・ユニットの交換を余儀無くされてしまう。結局ベルガーは7位でレースを終え、初優勝は夢と消えた。 第15戦、メキシコ・グランプリ。高地であるが故に薄い空気、途方も無く長いストレートと、バンピーな路面、強烈な横Gを伴う高速コーナーの連続。エルマノス・ロドリゲス・サーキットは誰にとっても過酷なレースを齎した。予選4番手につけたベルガーはこの過酷なレースをタイヤ無交換作戦で戦う事に決めた。予選時1350馬力と言われるBMWターボ・エンジンのパワーと、ピレリ・タイヤの耐久性に鞭を入れてベルガーは快走、他車がピット・インするのを横目にノン・ストップ作戦で見事に走りきり、プロストやアイルトン・セナ(ロータス・ルノー)を押さえて初優勝を遂げた。F-1参戦25戦目、ベネトン・チームにとっても初の勝利であった。これで完全にトップ・ドライバーの仲間入りを果たしたベルガーには当然のように翌年のシート・オファーが殺到。が、マルコやラウダは慎重に交渉を進め、最終的にフェラーリとマクラーレンと言う超名門2チームに絞られた。そして、ベルガーはフェラーリを選んだのである。F-1にデビューしてたったの1年半で超名門入りを果たすベルガー、彼の契約交渉を見事にまとめあげたマルコ、ラウダらをベルガーは"オーストリア・マフィア"と名付けた。「とにかく、目の前にあのエンツォ・フェラーリがいるんだ。契約書の中身や金額なんて、ろくに見ずにサインしたよ!」'87年、低迷する名門・フェラーリの救世主として、ベルガーは跳馬の一員となった。 だが当時、フェラーリは時代に完全に乗り遅れていた。ホンダ/ポルシェ/ルノー、そしてBMWがしのぎを削るターボ戦争の中、フェラーリのV6ターボは明らかにライバル達に遅れを取り、'85年第9戦ドイツ・グランプリでのミケーレ・アルボレートの勝利を最後に勝ち星にも見放されていた。そこへやって来たベルガーは当初イタリアのティフォッシ達から"期待の新星"として多大な期待をかけられていた。だが'87年、グスタフ・ブルナー設計のフェラーリF187は信頼性に泣き、チーム・メイトのアルボレートと共にリタイアの山を築いた。しかし、このレース界で最も政治色の強いチームに於いて、ベルガーは周囲が心配した"プレッシャーとの戦い"とは無縁であった。フェラーリのエースとして才能溢れるドライヴィングを見せるイタリア人、アルボレートでさえ手を焼く"ジャジャ馬"を、まだまだ新人のベルガーが即座に優勝争いへ導くのは不可能だと、誰もが諦めていたのである。そして、ベルガーの天性の明るさも幸いし、この"王国"さながらに特殊なチームでもベルガーは伸び伸びと走る事が出来ていた。そして舞台は第15戦、10年振りのF-1開催を果たす 日本/鈴鹿へと移る。 予選でウイリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルがクラッシュ、負傷欠場が決定した事により、チーム・メイトのピケがワールド・チャンピオンに決定。ホンダは地元凱旋グランプリであったがやや精彩を欠き、結局誰もが手を焼く極東の難コース、鈴鹿の予選を制したのはフェラーリのベルガーであった。ベルガーは決勝でもポール・ポジションから絶妙のスタートを決め、セナ(ロータス・ホンダ)やステファン・ヨハンソン(マクラーレン・TAGポルシェ)の猛追を退けて優勝。自身2度目、フェラーリにとっては実に2年半/38戦振りの勝利であった。ガッツ・ポーズでコントロール・ラインを横切るベルガーを讃え、フェラーリのスタッフは皆ピット・ウォールで号泣した。イタリアではほぼ全ての新聞に"若き救世主・ベルガー"の字が踊った。「フェラーリで優勝して初めて『俺は大変なチームにいるんだな』と自覚した(笑)」ようやく長く暗いトンネルを脱したフェラーリは、続く最終戦オーストラリアでもベルガーが勝ち、完全復活を遂げた。そしてベルガーは、翌年マクラーレン・ホンダに移籍するセナと共に"次代のチャンピオン候補"と言われるまでになった。だが、'88年はそのセナとプロストを擁するマクラーレン・ホンダが無類の強さを見せ、他チームとの戦力差は余りにも大きく、ほぼ全てのレースを1.2フニッシュで終えていた。チャンピオン・シップもセナとプロストのふたりだけで争われ、このままでは16戦全てをマクラーレンが勝ってしまうのではないか、と誰もが思った。そして8月14日、総帥エンツォ・フェラーリがこの世を去る。直後に迎えた第12戦は失意のフェラーリの地元、イタリア・グランプリ。フロント・ロウはここまで全勝のマクラーレン・ホンダ勢、3位にベルガー、4位にアルボレートのフェラーリ勢が続く。満員のスタンドはフェラーリのふたりにエンツォの弔い合戦を望み、固唾を飲んでレースを見守った。レースがスタートするといつものようにマクラーレンの2台が先行し、フェラーリも3.4番手の位置を守る。34周目にプロストがリタイア、ベルガー2位浮上。そして残り3周となった49周目、1コーナーを抜けた所で悠々トップのセナが周回遅れのジャン・ルイ・シュレッサー(ウイリアムズ・ジャッド)をパスしようとして接触、両者リタイア。これによってまさかのフェラーリ1.2体勢が完成、モンツァ・サーキットのスタンドは史上空前の熱狂の舞台と化した。チェッカーが振られ、フェラーリとイタリアはエンツォの魂を天に召す事が出来た。奇しくもベルガーは"エンツォが選んだ最後のフェラーリ・ドライバー"であり、'88年16戦中15勝のマクラーレン・ホンダが唯一落としたグランプリがエンツォ死後のモンツァ、それもフェラーリの1.2フィニッシュだったのだからたまらない。 '89年、アルボレートに代わってウイリアムズからマンセルがフェラーリに移籍し、昇り調子のチームはキャリア豊富なマンセルを優先させた為にベルガーの立場は微妙なものとなった。そして第2戦サンマリノ・グランプリ、ベルガーの身にとんでもない事が起こる。4周目の高速コーナー、タンブレロでベルガーのマシンはコントロール不能となり、250Km/hのスピードで真直ぐにコンクリート・ウォールへと激突。マシンは瞬く間に炎に包まれ、ベルガーはコックピットに閉じ込められたままであった。事故発生から10数秒後、信じられないスピードで現場へ駆け付けたマーシャルが果敢に消化/救助活動を行い、ベルガーは急死に一生を得た。しかも、翌第4戦モナコを欠場しただけで、ベルガーは手に包帯を巻いたままグランプリに復帰。その様はまるで、'76年ドイツでやはり瀕死の大火傷を負いながらも奇跡の復活を遂げた同郷の偉大なるチャンピオン、ラウダのようであった。結局この年ベルガーは第13戦ポルトガルで勝利を挙げるが、セナとの確執でマクラーレンを離脱するプロストが'90年のフェラーリ入りを発表、ベルガーはプロストとスワップする形でマクラーレンへと移る事となった。'90年、ベルガーは最強・マクラーレン・ホンダでセナとタッグを組んだが、セナが6勝を挙げてワールド・タイトルを獲得し、チームもコンストラクターズ・タイトルを手にしたにも関わらずベルガーは未勝利に終わる。翌'91年もセナが連続でタイトルを獲得、しかし第15戦鈴鹿までベルガーの勝利は訪れなかった。それも、この勝利はセナから"譲られた"勝利だったのである。 ポール・ポジションは鈴鹿を得意とするベルガー。2番手のセナはスタート前、ベルガーに対し「スタートでトップに立った方が優勝する権利を持つ」と言う提案をした。セナは予選3番手でポイント上のライバルであるウイリアムズ・ルノーのマンセルをスタートで抑え、ベルガーに先行させてタイトルを獲る作戦に出たのである。ベルガーは1コーナーへトップで入り、セナは"予定通り"マンセルを封じ込め、ベルガーとの差は1周1秒ずつ広がる。苛立ったマンセルは10周目の1コーナーで自滅、この瞬間にセナの3度目のタイトルは決定した。セナは本来のペースでベルガーを追い、ピット・ストップ後の24周目にベルガーに代わってトップへ。ベルガーはレース中盤からエンジンの排気管に亀裂が入り、ペース・コントロールを余儀無くされていたのである。そして最終ラップ、トップのセナが見る見るスロー・ダウンし、ベルガーを待つ。そして最終シケインを抜けた所でセナがベルガーを先行させ、チェッカーを受けた。既にチャンピオンに決定していたセナは余裕でベルガーに勝利を譲ったのである。このセナの行為は様々な反響を呼んだ。セナは「タイトル獲得に協力してくれたベルガーに対する感謝の気持ち」と発言したが、ゴール目前での意図的な順位入れ替えは決して賞賛には値しなかった。同時に、レーシング・ドライバーとしてのベルガーの存在意義にも関わる問題であった。ジャーナリストの多くがベルガーに"その瞬間の気分"をリサーチしようと試みるが、当のベルガーは「優勝は優勝さ。気にしてないよ」と、クールに受け流すだけであった。実際、大観衆の目前でこれ見よがしに勝利を譲られた者の気持ちは、当人にしか解らない。 翌'92年、ウイリアムズ・ルノーに惨敗したホンダがこの年いっぱいでのF-1活動休止を発表。この年セナは明らかに苛立ち、精彩を欠いた。反対にベルガーはリラックスしてシーズンに望み、2勝を挙げる。ホンダのラスト・レースとなった最終戦オーストラリア・グランプリではベルガーがホンダに有終の美を飾る勝利を齎した。そしてベルガーはシーズン中盤、早々に翌'93年のフェラーリ移籍を発表。長いフェラーリの歴史の中で、"出戻り"を果たしたドライバーはベルガー只ひとりだ。「政治的な事に巻き込まれるのはゴメンだからね。なるべく早く来年の事を決めてスッキリしたかったんだ」とはベルガーらしい決め方である。しかし'93年、ジャン・アレジとコンビを組んだベルガーはまたしても低迷するフェラーリF93Aの戦闘力に苦しみ、獲得ポイント12点でシリーズ・ランキング8位と落ち込んだ。更に翌'94年、ベルガーに更なる試練が待ち受けていた。 第4戦、サンマリノ・グランプリ。予選で同郷の後輩、ローランド・ラッツェンバーガー(シムテック・フォード)が、決勝レースではかつてのチーム・メイト、セナ(ウイリアムズ・ルノー)が事故死した。これらはベルガーにとってあまりにも重く、そして受け入れがたい事であった。フェラーリの監督、ジャン・トッドはドライバー本人に次のレースに出場するか否かの決断を委ねた。ベルガーはブラジルでセナの棺を担ぎ、翌日はラッツェンバーガーの葬儀に出席した。誰もが「ベルガーは引退するのでないか」と想像していた。そして翌モナコ・グランプリで、ベルガーは決断した。GPDA(グランプリ・ドライバーズ協会)を結成し、自らがリーダーとなってドライバーの安全を守る為の戦いを、もちろんドライバーとしてコース上で戦いながら始めたのである。サーキットの改修、レギュレーションの変更、そしてドライヴィング・マナーの徹底。「あの事故が起きるまで、誰もドライバーの声なんか聞いてもくれなかった。が、アイルトン(セナ)はいつもコースの安全性について気にしていたんだ。僕達は、彼等の死を無駄にしちゃいけないんだよ」そしてベルガーは第9戦ドイツ・グランプリをポール・トゥ・フィニッシュで飾った。フェラーリにとって実に4年/59戦振りの勝利。堕ちた跳馬は、またしてもベルガーの手で2度目の復活を果たしたのである。 翌'95年は再びフェラーリの戦闘力低下に悩まされ、ベルガーはアレジと共に'96年のベネトン・ルノーへの移籍を決断。フェラーリに続き、F-1初勝利を挙げたベネトン・チームへの"復帰"である。だが前年ミハエル・シューマッハーが築いた"ベネトン帝国"は既に終焉を迎えており、ふたりのドライバーは未勝利のまま'96年を終了。翌'97年、ベルガーは試練の年を迎える事となった。 '97年第7戦、カナダ・グランプリにベルガーの姿は無かった。近年患っていた蓄膿症の手術後の経過が思わしく無く、結局3戦を欠場。更に、長年ベルガーを応援して来た父、ヨハンが飛行機の墜落事故で死去。失意のベルガーは親しいジャーナリストらに「来年の事は解らない。レースを続ける可能性は五分五分だ」と語るようになった。実際、38歳になったベルガーが、現状でチャンピオン争いの可能なチームへ移籍出来る可能性はもう残されていなかった。そしてベルガーは第10戦ドイツ・グランプリに久し振りに姿を現した。そして、"誰も予想しなかった"ポール・トゥ・ウィンを成し遂げたのである。それも、フェラーリのシューマッハー、マクラーレン・メルセデスのミカ・ハッキネンを従えてのブッチ切りの勝利であった。欠場、病み上がり、そして父の死。「今日のファイナル・ラップの事は忘れないよ」そう言って微笑んだベルガーに、もう悔いは無かったのかも知れない。10月17日、ベルガーはウィーンで記者会見を行い、"F-1休止"を宣言した。「今年、僕に起きた事はモチベーションに大きく影響した。休暇が必要だ」事実上の引退宣言であった。F-1出走210戦、優勝10回、ポール・ポジション12回、最速ラップ21回、獲得ポイント385点。ベネトン/フェラーリ/マクラーレンと、常にトップ・チームを渡り歩き、しかし彼がチーム内でNo.1ドライバーとしての待遇を受けた事は、恐らく只の一度も無かった。だが、'87年鈴鹿、'88年モンツァ、'92年アデレイド、'94年ホッケンハイム等、彼の勝利はいつもそのチームにとって歴史的な一勝だったのは事実である。その成績以上に、正に"記憶に残る"ドライバーであった。 若くしてチャンスを掴み(それもフォーミュラでのチャンピオン経験無しに、だ)、F-1でも早くから才能溢れる走りを披露したベルガーだったが、後年は"最強のNo.2ドライバー"と言うイメージが強く持たれ、決してチャンピオン争いに加わる活躍をする事は無かった。彼と親しい人物は、'89年イモラのアクシデント以来、ベルガーは"変わった"と言う。「あれ以来、死を恐れずにコーナーへ突進するカリスマ性が欠けた」と評される事が増えた。'94年、まったく同じ場所で同じようにコントロール不能に陥ったセナの悲劇を目の当たりにし、ベルガーはドライバー自身のコントロールを超えたメカニカルなトラブルに対して、明らかに恐怖を感じていたのだ。が、それでも果敢にレースに向かって行ったベルガーを、誰も攻める事等出来ない。そして、このセナの存在が少なからずベルガーのレース・キャリアに影響を与えたのも事実である。セナはテスト/フリー走行/予選/レース等、全てのセッションが終わった後もエンジニアと長時間のブリーフィングを行った。ベルガーだけでなく、他のドライバーにもセナ程"勝利に固執する者"はいなかった。そして、セナは次のセッションで必ずその効果を表すリザルトを残した。結果的に、チームはセナに優先的な戦略/セット・アップを行うようになる。「仕方無いさ。もし僕がチーム・オーナーでも、セナの方に良いモノを与えるよ。だって、彼の方が速いんだから」この言葉に、ベルガーの性格の一端が見える。また、185cmとフォーミュラ・カー・ドライバーとしては高過ぎる身長も成績と無関係とは言えない。'90年開幕戦アメリカ・グランプリ、セナよりも10cm以上背の高かったベルガーは狭いコックピットの中でペダル操作を誤りクラッシュ。既にエース・ドライバーが君臨するチームに加入するには、ベルガーはあまりにも不利であった。 筆者選出、ゲルハルト・ベルガーのベスト・レースは言うまでも無く最後の勝利となった'97年ドイツ・グランプリである。チームは既に翌年のドライバーズ・ラインアップを決め、38歳のベルガーに移籍出来るトップ・チームは無かった。3戦の欠場による恐怖感、万全で無い体調、そして父の死、その後の身の振り方。レース前に「今はまだ、将来の事について正常な判断が出来ない。とにかく走るだけだ」と語ったベルガーの胸に去来したものは何だったのか。スタートが切られると、ベルガーは真直ぐ1コーナー、いやゴールへ向けてアクセルを踏んだ。ジャンカルロ・フィジケラ(ジョーダン・プジョー)、シューマッハー(フェラーリ)、ハッキネン(マクラーレン・メルセデス)らが前を伺うが、ベルガーは1度もマシンを振って後続のマシンから進路を守ろうとする事無く、前だけを見て突き進んだ。そして、ポール・ポジション/最速ラップ/優勝のハット・トリックを達成したのである。ベネトンのテクニカル・ディレクター、パット・シモンズは「正直、彼が何でこんなに速かったのか解らない。今のウチのマシンの実力からして、あそこまでコンスタントに速く走る事は出来ない筈だったんだが(笑)」と驚いていた。'94年、同じここホッケン・ハイムでフェラーリに"2度目の復活"を齎して以来、丁度3年振りに得た勝利。そして'86年にベネトンに最初の勝利を齎したベルガーは、その最後の勝利(ベネトンは'01年いっぱいでルノーにチームを売却)も自らの手で飾ったのである。 .....と言った波乱万丈のレース人生を送ったベルガーのもうひとつの顔、それは"イタズラ"である。中でもベルガーと長きに渡ってチーム・メイトとなったドライバー、セナ('90〜'92年)、アレジ('93〜'97年)のふたりは、いつもベルガーのイタズラの"被害者"であり、時には"共犯者"でもあった。常識では考えられないようなエピソードを、幾つか紹介しよう。 '90年からのマクラーレン入りが決まったベルガーは、シーズン・オフのエストリル・テストで泊ったホテルで、新たにチーム・メイトとなるF-1ドライバー史上最も"気難しい"男、セナの部屋のベッドの上に一面、魚を敷き詰めたらしい(当然、生だ)。第12戦イタリア・グランプリへ向かうヘリコプターの中、ベルガーは突然セナのアタッシュ・ケースを上空から投げ捨てた。呆然とするセナにベルガーは「イタリアじゃ、あんな高そうなモンはどうせ盗まれる運命なんだよ」と笑い飛ばした。'92年開幕戦、南アフリカ。レース終了後にセナがブラジルへ帰る為空港に行き、パスポートを差し出すと、セナの顔写真があるべき場所になんと女性のヌード写真が貼られていた。おかげでセナは空港で3時間も足止めを食った。犯人は当然、ベルガーである。 '88、'89年のプロストに代表されるように、チーム・メイトや他のドライバーと仲良くする事が苦手だったセナがパドックで"友人"と称するのはベルガーだけであった。'91年にマクラーレン・チームがマイアミの"アリゲーター・ファーム"(その名の通り"ワニ園"である)でバカンスをしている時、ベルガーがあろう事かチーム監督のロン・デニスを橋の上から池に突き落とし、ワニに慌てるデニスの頭をセナが押さえ付け、ふたりで「来年の契約の話をしようか」とデニスをからかった事もあった。気難しいセナが、ベルガーと共にイタズラの計画を練っている所が想像出来るだろうか(ちなみにデニスが落ちた池にワニはいないらしい。ベルガーは事前にちゃんと調べていたのである)。そしてデニスも逆襲に出た。現金/カード類がギッシリ詰まったベルガーの財布を盗み、電動ドリルで穴を開け、ボルトで締め上げてホテルのフロントに預けておいたのである。ホテルに帰ったベルガーが財布を受け取った時、その財布にはデニスのサインがしてあったそうだ。 '97年鈴鹿。自らの引退(休止)会見の数日前、ベルガーの来季の去就を巡ってパドックでは様々な憶測が乱れ飛んでいた。フェラーリのエディ・アーバインはアレジに呼び止められ、「エディ、大変だ。すぐにピットへ帰れ」と言われ、急いで自分のピットへ帰ると、そこにはなんとフェラーリのレーシング・スーツを着て報道陣に囲まれ、シューマッハーと談笑しているベルガーの姿があった。呆然とするアーバイン。が、これはもちろんベルガーの発案によるジョークであった。アレジ、シューマッハーだけで無く、かのスクーデリア・フェラーリまでも巻き込むそのスケールの大きさには脱帽するが、マイルドセブン・ベネトンのドライバーがフェラーリのレーシング・スーツを来ている時点で、既に常識の枠を超えている。 '97年最終戦、ヨーロッパ・グランプリ。レース前のドライバーズ・パレードでトラックの荷台にドライバーが立ち、コースを1周するこのお決まりのイベントで、これがラスト・レースとなるベルガーはなんとトラックの運転手役を買って出た。そして予想通り、グランド・スタンド前でベルガーは急ブレーキを踏み、荷台で手を振っていたドライバー達はほぼ全員ひっくり返った。運転席でひとり高笑いするベルガー。フェラーリのシューマッハーとウイリアムズ・ルノーのジャック・ビルヌーヴのタイトル争いでピリピリするグランプリのムードを、一瞬にして明るくしたのである(怪我人は出ていない。念の為)。 '94年第12戦、イタリア・グランプリ。決勝レースのスタートに向け、グリッド・ガールがカー・ナンバー28のプレートを持って立つ2番グリッドにフェラーリを着けるベルガー。スタンドからは大歓声が沸き起こり、この年ようやく長いトンネルを抜け出したフェラーリと、その立役者たるベルガーに大声援を贈った。その様子は、グリッドでインタビューを受けていた俳優のシルベスター・スタローンでさえも振り返る程であった。マシンを降り、グランド・スタンドに手を振るベルガー。たちまち報道陣がベルガーの元に殺到し、スタローンすらも翳んでしまった。そして、ベルガーはいつものように時折ジョークを交えながらレースに対する意気込みを語り始めた。記者達がニヤニヤしているのを不思議に思っていたベルガーに、あるジャーナリストが声をかけた。「鈍いな、ゲルハルト!。後を見てみろよ」ベルガーが振り返ると、彼のフェラーリの横でグリッド・ガールを務めているのは、なんとベルガーの愛娘、クリスティーナだったのである。驚いたベルガーはインタビューそっちのけではにかむクリスティーナを抱き締め、微笑みながらキスをした。これは、ベルガーの親しいジャーナリストとマックス・モズレー、バーニー・エクレストンらFIAの重鎮達が仕組んだ"イタズラ"だったのである。このレースでベルガーは2位でフィニッシュし、ティフォッシで紅く染まったモンツァを熱狂させ、14歳のクリスティーナは表彰台での父の勇姿に涙した。 '98年、ベルガーはBMWのスポーティング・ディレクターとなり、'00年にはBMW・ウイリアムズの一員としてサーキットに帰って来た。そして今年、9月30日をもってベルガーはBMWを離れる事を宣言した。「少し、急ぎ過ぎた。25年間ずっと放浪者のように常に旅して来たんだ。これからしばらくは家族とゆっくりと過ごすよ。また我慢出来なくなったら、その時に戻って来れば良い」我々はいつだって、自由奔放に生きるベルガーの陽気な笑顔を待っている。
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