■lap66-"跳馬を追われた男"/職人マウロ・フォルギエリ物語-
2003.09.12


'87年、モナコで開かれていたモンテカルロ・ヒストリック・カー・フェスティバル。ここでランボルギーニ社長のニノ・ラボダは元フェラーリのチーフ・エンジニア/エンジン及びシャシー・デザイナー/テクニカル・ディレクターのマウロ・フォルギエリと出会った。同じイタリアのスーパー・カー・メーカーと言う意味ではライバル同士であった彼等も、ヒストリック・カーのイベントで顔を合わせれば笑顔で話が弾む。そしてラボダは、フォルギエリが'84年いっぱいでフェラーリのレース部門を外され、市販車部門へと"左遷"された事を知っていた。「マウロ、どうして他のレース・チームへ移らないんだ?。もうレースは嫌になったか、でなければフェラーリと結婚でもしているのかね?」「結婚なんてとんでもない。フェラーリは私をレース部門から追い出した、それだけですよ」その年の6月、ラボダからフォルギエリに1本の電話が入る。「マウロ、ランボルギーニ・F-1を始める。やってくれないか」フォルギエリは「また忙しくなるぞ」とほくそ笑んだ。

マウロ・フォルギエリは'30年1月13日、イタリアにて誕生。父はアルファ・ロメオ・コルセのレーシング・チームのエンジニアであり、幼い頃からレースは当たり前のように身近なもの、として育った。'59年、フォルギエリはボローニャ大学の機械工学で学位を取り、卒業後、一旦教師となる道を歩むが、'60年に父の勧めでフェラーリへ入社、レーシング部門で責任者のカルロ・キティの助手としてレース・キャリアをスタートさせた。「初めて"コマンダトーレ"エンツォ・フェラーリに会った時の印象は、とにかくレースの事しか考えていない人、と言うものだったね。人生とはレース、価値あるものはレース、とにかくレース、レース、レース、そんな感じだったよ」フェラーリ入社後、フォルギエリはすぐさまマシン設計に携わり、キティと共に名車フェラーリ156を製作、'61年にアメリカ人ドライバーのフィル・ヒルがチャンピオンを獲得する。が、最終戦イタリアでウォルフガング・フォン・トリップスが事故死、これを機にチーム内で内紛が勃発、キティを初めとする主要なスタッフが大量離脱し、新たにATSチームを結成すると言う事件に発展してしまった。突然の事態にフェラーリは対策を講じる事が出来ず、設計部門責任者は残ったフォルギエリが担当する事になったのである。こうしてキャリア3年目にしてフェラーリの若きリーダーとなったフォルギエリが直面した最大の問題は、イタリア人特有の気質であった。「イタリア人メカニック達は確かに素晴らしいのだが、レースの結果に比例して働くんだ(笑)。つまり成績が良い時は皆良い仕事をしてくれるのだが、負けると途端にやる気が無くなってしまう。だから、こっちがどんなに忙しくても、負けた次のレースには、サーキットまで行って激を飛ばさなければならなかった。当時手強かったイギリス系チームの連中は、もうちょっとクールに仕事をしていたよ」結局'62年はキティの156を改良して戦ったが、勝つ事は出来なかった。

'63年は第6戦ドイツ・グランプリでジョン・サーティースが1勝(マシンは156/改)するに止まり、フォルギエリはフェラーリ初のモノコック型車、158を製作して第7戦イタリアから投入。このフォルギエリの完全なるオリジナル・マシン第1号は翌'64年のドイツ・グランプリで初勝利を挙げ、サーティーズがワールド・チャンピオンとなり、フェラーリはコンストラクターズ・タイトルをも獲得する。このダブル・タイトルによってフォルギエリの名は瞬く間に世界中に広まり、前述のようにチームの志気も上がってフェラーリはトップ・チームへと返り咲いた。そして'66年、フェラーリの技術分野総監督となったフォルギエリは、スポーツ・カー・レース部門でフェラーリ330SPと言う歴史的な名車を生み出し、'67年に宿敵シャパラルやフォードらを下してチャンピオンを獲得。F-1ではセミ・モノコック構造のマシンにF12エンジンを搭載した新車、フェラーリ312を設計。しかし、対するイギリス勢はこの頃からシャシー/空力/エンジン等の開発をそれぞれの分野のスペシャリストによる"分業"で行うようになり、設計/製作/開発/熟成をフォルギエリがひとりで行うフェラーリは徐々に時代に置いて行かれるようになる。特に'70年代に入るとコスワース製フォードV8エンジンとヒューランド製ギア・ボックスを搭載して様々なアイデアを投入して来るイギリス系チームに完全に遅れを取り、'74年までにフェラーリ312は312B、312B2、312B3と進化して行ったが、時折優勝争いにこそ加わるものの、タイトル獲得とまでは行かなかった。「良く、『何故イギリス・チームのように分業制を取らないのか』と聞かれたが、全く逆だ。フェラーリは自チームで、いや私ひとりでシャシーからエンジン、ミッションまでを作れる唯一のチームだ。その利点を活かさない方がおかしいと思うよ」"コマンダトーレ"エンツォは黙ってフォルギエリを信じ、そして待った。

'75年、フォルギエリが投入した312Tはその名の通り横置きギアボックスを搭載するショート・ホイール・ベース車で、それまでの312シリーズとは明らかにアプローチの違うコンセプトで製作された。シーズン序盤こそトラブルでリタイアが目立ったが、第5戦モナコでニキ・ラウダがポール・トゥ・フィニッシュし、ここからラウダの3連勝を含む計6勝を挙げてフェラーリは'64年以来のダブル・タイトルを獲得。翌'76年はラウダの大事故の影響もあってドライバーズ・タイトルこそ逃したが、312Tの改良型312T/2を擁して'77年まで3年連続でフェラーリがタイトルを獲得する事となった。フォルギエリとフェラーリは完全に時代を掌握していた。少なくとも、ロータスのコーリン・チャップマンによる"グランドエフェクト・カー"が登場するまでは。

'79年、312T/3はジョディ・シェクターとジル・ビルヌーヴの快走でダブル・タイトルを獲得。が、前年ロータスが始めた、マシン全体の空気抵抗とシャシー下部の気流を制御する、所謂"グランドエフェクト・カー・思想"が他のコスワースV8ユーザーにも多大なる影響を与え、フェラーリは中/高速コーナーでの安定性/トップ・スピードでV8勢に完全に遅れを取ってしまった。当然、フェラーリにもグランド・エフェクトの波は押し寄せるが、フォルギエリの、いやフェラーリのトレード・マークとも言えるフラット12気筒エンジンは、その構造/サイズ/更にシリンダーの数に至るまで、徹底的にマシン後部の気流に影響を及ぼす原因となり、他のV8ユーザーのような理想的な効果を生み出しはしなかった。グランドエフェクト・カーはあくまでもコスワースV8エンジン搭載を前提に考えられたアイデアだったのである。'80年はタイトル獲得の翌年にも関わらず未勝利に終わり、フォルギエリはやむなく、ルノーが先陣を付けたターボ・エンジンの開発に乗り出す事にした。が、KKKターボ付き120度V6エンジンを搭載した126Cは車重バランスに苦しみ、'81年は僅かに2勝。フェラーリはウルフ・チームからハーヴェイ・ポストレスウェイトをチームに招き、専任シャシー・デザイナーとしてマシン設計を担当させ、フォルギエリにはエンジン開発に専念させる事を決定。皮肉にもポストレスウェイト製作の126C/2及びC/2B、C/3は高い戦闘力を見せ、ビルヌーヴを事故で失ったものの、'82、'83年と2年連続でコンストラクターズ・タイトルを獲得した。'85年の156/85はフォルギエリの製作したツイン・ターボ・エンジンが780馬力を発揮してミケーレ・アルボレートがタイトル争いを繰り広げたが、このエンジンの設計を最後にフォルギエリは先進開発部門"フェラーリ・エンジニアリング"へと"左遷"されてしまう。真相は定かでは無いが、この決定はエンツォではなく、親会社のフィアットによるものだったと言われている。28年間フェラーリ一筋だったフォルギエリは「不満なんて無いさ。だって、こんなに長くフェラーリで仕事をやって来れたのは私だけなのだから。それに、今まで私とエンツォの間に問題なんて一度も無かったよ。ただ、複数の人間が間に入って来た時、問題が起こるだけさ」と現場を後にした。ちなみにフォルギエリの離脱後、'87年最終戦までフェラ−リは未勝利であった。そして'88年8月14日、90歳で"コマンダトーレ"エンツォは逝った。

そしてフォルギエリは新天地"フェラーリ・エンジニアリング"で4WD/ボディ換装シャシー/可変バルブ等を特徴とする未来派コンセプト・カー、フェラーリ408を製作。同時にFIA国際技術会委員やACI技術委員等も勤め、フォルギエリは誰の目にも"隠居"と映っていた。そして、冒頭のラボダとの再会によって、フォルギエリは再びレースの現場へと帰って来る事となる。

ランボルギーニはイタリアで一時はフェラーリと人気を二分する市販車メーカーだったが、フォーミュラ・カー・レースへの挑戦は初の事であった。更に、実質的にランボルギーニのF-1プロジェクトは市販車メーカーのランボルギーニとは全く関係無く、買収して親会社となったクライスラー社がサンタ・アガータにある家具工場を使ってF-1エンジン・プロジェクトを始動し、ランボルギーニのブランド名で幾つかのチームにエンジン供給を行う、と言うものであった。更に、実際にフォルギエリが行うのはエンジンの基本設計と組み立てであり、設計された各パーツ類は全て外注業者が製作/加工し、納品されたものをランボルギーニ側で組み上げる、と言う形態を取った。つまり、クライスラーはランボルギーニ系列の受注会社に仕事を与えると共に、ランボルギーニ自社のエンジニアにも職とポストを与える、需要と供給をも兼ねようとしたのである。「そんなわけだから、F-1をやる、と言っても予算はフェラーリから見れば100分の1程度さ。'88年に始めた時はスタッフは全部で8人。私、2人のエンジニア、2人のメカニック、そして3人の図面引き、以上だ」もっとも、この"少数精鋭"と言うスタイルはむしろフォルギエリの得意とする所であった。そして'89年、ランボルギーニはフランスのラルース・チームへV12エンジンを供給してF-1へと参画した。ラルースはジェラール・ラルースのデザインを元にシャシー設計をローラ社へ依託していたが、'89年用のローラLC89ではギア・ボックスのデザインをフォルギエリが担当、結局ラルースとフォルギエリの共同設計マシンとなった。しかし、いざ'89年シーズンが始まってみると、フォルギエリはランボルギーニで出来る亊、ラルース・ローラで出来る事の限界を目の当たりにする事となった。全車NAエンジン規定となったこの年、入賞はフィリップ・アリオーの第4戦スペインでの6位1度だけ、シーズン序盤は予選落ちかリタイア、と言う厳しいシーズンとなったのである。翌'90年はラルースに加えてかつての名門/ライバルだったロータスへも供給が決定。特にシーズン後半は戦闘力も大幅に上がり、第15戦日本・グランプリでラルースの鈴木亜久里が3位を獲得。この'90年シーズンはフェラーリV12が常勝マクラーレン・ホンダV10を脅かす活躍を見せ、ハイ・パワーのV12勢の今後に注目が集まっていた。もちろん、参戦2年目で早くも表彰台を獲得したランボルギーニにも期待が寄せられていたのである。

更にこの年、メキシコの実業家、フェルナンド・ゴンザレス・ルナによる"グラス・F-1・チーム"がランボルギーニに対してオリジナル・シャシーとエンジンの製作を依頼した。だが、ルナの経済的な理由からF-1プロジェクトを計画段階で断念する事態が発生。結局カルロ・パトルッコをを筆頭とするイタリア人企業家グループとランボルギーニ/クライスラーが共同出資し、新たに"モデナ・ランボルギーニ・F-1チーム"が結成される事となった。'70年代にフェラーリでフォルギエリと共に戦ったダニエル・オーデットがマネージメントを担当、イタリア期待の新人ドライバー、ニコラ・ラリーニとベルギー出身のエリック・ヴァン・デ・ポールを擁して'91年のF-1世界選手権へ参戦する事が決定。再びフォルギエリの"ワンマン・チーム"が誕生する事となったのである。サンタ・アガータのモデナ・ランボルギーニ・チームに集められたスタッフは65人。テクニカル・ディレクターとなったフォルギエリが全てを掌握し運営する、いわば"チーム・フォルギエリ"である。「'87年にF-1エンジンの製作を依頼された時は、まさかシャシーのデザインも手掛けるとは思ってもみなかった。何故なら、近代F-1でその両方を作って成功したのは、それこそ私のやったフェラーリだけだったからだ」そしてフォルギエリは10年振りのオリジナル・F-1マシン、モデナ・ランボルギーニ291を製作。だがモデナ・ランボルギーニが迎えた'91年シーズン、皮肉にもハイ・パワーV12エンジンの時代は既に終焉を迎えていた。ホンダ/ポルシェ/ヤマハらが新たにV12エンジンへのスイッチを試みたが、対照的にセミ・オートマチック・トランスミッションやアクティヴ・サスペンション等のハイテク装備と独自のアイデアによるエアロダイナミクスの追求と、そしてルノーRS3/V10やフォードHB/V8に代表される、軽量コンパクトなトルク性能に優れたエンジンが徐々に時代をリードし始め、V12勢はマクラーレン・ホンダやフェラーリでさえ苦戦をしいられるようになってしまった。そして、モデナ・ランボルギーニのような少数精鋭/V12エンジンは完全に遅れを取り、結局彼等は開幕戦アメリカの7位完走以上の成績を挙げる亊は出来ず、後半戦は殆どが予選落ちとなってしまった。更にメイン・スポンサーとなっていた日本企業がバブル崩壊の波を受け撤退、チームはたった1年でその活動を終えてしまうのである。

結局ランボルギーニは翌'92年以降再びエンジン・サプライヤーとなり、リジェやミナルディ、ラルースら下位チームへの供給を行うが、'90年の日本・グランプリ3位以上の成績を残す事無く、'93年をもって撤退。クライスラーがインドネシアのメガテック社に設備ごと売却し、ランボルギーニのF-1プロジェクトそのものが解散となった。その後フォルギエリはモデナを拠点とするオーラル・エンジニアリング社のテクニカル・ディレクターとなり、次世代自動車の開発等を担当している。が、これでフォルギエリのレース人生が完全に終わった、とは思えない。

フェラーリ時代も、ランボルギーニ時代も、フォルギエリはチームのトランスポーターの中に専用個室を持ち、ひとり静かに問題解決に集中していた。が、フェラーリ時代にはそのせいでチーム全体の作戦会議に遅れ、後からフォルギエリが全く違った作戦を意見し、ドライバーやエンジニアと揉める事もあった。しかし、帝王ラウダ等はじっくりとフォルギエリの意見を聞き、「それでやってみようじゃないか」とチーム全体を説得、結果的に勝利を齎した事も少なく無いと言う。フォルギエリ自身は「レース、特にF-1のようなレヴェルでは、"共和国主義"では上手く行かないと思う。そして、リーダーは常に技術者で無くてはならない。同時に、短期間で物事を決定出来る人物でなければダメなんだ」これは純粋にフォルギエリ自身のレース哲学なのだろうが、フェラーリに対し資金援助のみならずチーム運営にまで口を出し、更にフォルギエリ自身を更迭したフィアット社への痛烈な皮肉とも受け取れる意見である。

.....筆者にはフォルギエリの、忘れられない一言がある。筆者が初めてF-1グランプリと出会った'76年富士、フェラーリのラウダがタイトル獲得を目前にしながら雨のレースを棄権し、マクラーレンのジェームズ・ハントに1ポイント差で敗れたあのレースだ。当のフェラーリのみならず、世界中がラウダの決断を非難する中、フォルギエリはこう言ったのである。「たった数ヶ月前に死の淵を彷徨うような事故で昏睡状態になっていたドライバーが、とてもじゃないがまともに走れそうも無い大雨のレースに対して自らが身を引いて抗議した。こんな"勇気ある行動"を、他の誰が出来るって言うんだい?」フォルギエリは真っ先にラウダを弁護し、更にこう付け加えた。「最終戦を棄権したから負けたんじゃない。我々のチームがシーズンを通して最強じゃなかったから負けたんだ」長きに渡って、チームの全てを担って来た男だからこそ言える、"完全なる言葉"である。



「私は人生の28年間をフェラーリに捧げ、その間フェラーリは毎週私に給料を払ってくれた(笑)」
-'89年/マウロ・フォルギエリ-


■"no race, no life" top