■lap65-"ある4人の英雄達"/'76年ドイツ・グランプリの真実-
2003.09.05


モーター・レーシング/自動車競争に於いて、当然事故はつきものである。あれだけのスピードで先を争うのだから、例え他車やコース・サイドのバリアやウォールに激突しても決して文句は言えない。が、一部にレース中のクラッシュを"スペクタクル"であるとする考え方が存在するのが筆者は許せない。過去に日本でもTV局がレース中のクラッシュ場面のみを派手なロック・ミュージックに乗せ、延々と放映していたような時期があった。が、'94年にアイルトン・セナの悲劇が起きるとそれも無くなった。簡単である。"レース中の事故で人が死ぬ"と言う感覚が、当時は麻痺していたのである(それも関係者ですら、だ)。今年もMotoGPでの加藤大治郎の悲劇が起きたが、その本当の意味を理解しているのは真のレース・ファンのみであり、過った解釈の持ち主達(しかも多くが"大人達"だ)が、サーキットと一般道の区別すらつかない愚かな"偽レーサー達"を生み出すのである。またレースそのものに於いても、主催者側が"安全性向上"を目的として定めたレギュレーションの幾つかに対し「レースが面白く無くなった/スペクタクル的要素が減った」等と、軽々しく口にすべきでは無いと断言する。レーシング・ドライバー達は、命を賭けて戦っているのでは無い。勝利を賭けて走っているのだ。

.....これから紹介する4人の男達は、真のレーシング・ドライバーである。恐らく、その誰もが"英雄"と言う表現を嫌うだろうが、モーター・レーシング界に於いて彼等の行った行為は特筆に値する。

アルトゥーロ・メルツァリオ、本名アルトゥーロ・フランチェスコ・メルツァリオ。'43年3月11日にイタリアの裕福な家庭に生まれたメルツァリオは、'70年から欧州スポーツ・カー選手権に出場し、コンスタントに勝利を重ねる堅実なドライバーであった。'71年にフェラーリ・チームから参戦していた功績から、クレイ・レガッツォーニが離脱したフェラーリF-1チームに急遽抜擢され、'72年イギリス・グランプリでフェラーリ312B/2に乗りデビューし、6位入賞。その後ウイリアムズやマーチ等から参戦するがさほどの成績は残せず、平行して参戦していたスポーツ・カー・レースでの活躍とは反対にF-1でのメルツァリオは完全な"二流"であった。やがて他チームのシャシーを購入して参戦するプライヴェーターとなり、'77年には自チーム、メルツァリオを結成してオリジナル・マシン、メルツァリオA1・フォードを投入するがロータスを筆頭とするトップ・チームの空力開発の前に惨敗し、'79年アメリカ・グランプリの予選落ちを最後にF-1を引退、チームも撤退した。F-1グランプリ85レースに出走、4位3回/6位2回で獲得ポイントは11。予選落ち28回、リタイア39回、と成績的に見るべきものは無かったが、パドックではカーリー・ヘアにマールボロのテンガロン・ハット、と言う独特の風貌で人気者となった。

ガイ・エドワーズ、'42年12月30日、イギリス生まれ。大学生の時に趣味で始めたレーシング・カートに夢中になり、'72年にはマクラーレン・チームからF-5000選手権に参戦。ここでの活躍が注目され、'74年開幕戦アルゼンチン・グランプリに元F-1ワールド・チャンピオン、グラハム・ヒル率いるエンパシー・ヒル・レーシングからローラ・フォードを駆ってF-1デビュー。第11戦ドイツの予選中に負傷し、'75年は参戦を休止。その後'76年にヘスケス、'77年BRMとイギリス・チームを渡り歩いたが、戦績は全17戦で入賞ゼロ、デビュー前は"イギリスの新星"と称されたが、結局目立った活躍も無くレーサー活動にピリオドを打った。'76年の"ペントハウス・カラー"のヘスケス308D(ボディ・カウルに寝そべるグラビア・ガールの絵をペイントしていた)はそのセンスに賛否両論となったが、エドワーズのトレード・マークとなった。また、かつて日本の富士GCシリーズへの参戦経験もあり、英国紳士らしい落ち着きと甘いルックスでファンも多かったレーサーである。

ハラルド・アートル。'48年8月31日オーストリア生まれ。オーストリア貴族家庭の出で、モーター・ジャーナリスト兼アマチュア・レーサーだったアートルは'75年、プライヴェーターのバルシュタイナー・ブリュエリー・チームからヘスケス308を駆ってF-1デビュー。翌'76年には同じ貴族出のアレクサンダー・ヘスケス・チームの正ドライバーに抜擢される。その後'77年にエンサイン、'78年と'80年はATSに乗りスポット参戦するが、全28戦出走で入賞無しのノー・ポイント、最高位は7位1回('76年イギリス・グランプリ)のみでキャリアを終えた。貴族の家庭出身らしく、顎にリッチなカイゼル髭を蓄えた個性的なルックスと、反対にジャーナリストらしく誰とでも気軽に話す性格で人気者であった。

ブレッド・ルンガー、本名ロバート・ブレッド・ルンガーは'45年11月14日生まれのアメリカ人。'68年、ベトナム戦争の米海軍特殊部隊に加わっていた過去を持つ。帰国後にアメリカのCanAmシリーズやF-5000、欧州F-2選手権等に参戦し、'75年第12戦オーストリア・グランプリでヘスケス・フォードを駆ってF-1デビューを果たした(予選17位/決勝13位)。この年3戦にスポット出場し、翌'76年にはサーティーズ、'77年はマーチとプライヴェ−タ−契約し、BSファブリケイションズのスポンサー契約を獲得してからはチャンピオン・マシン、マクラーレンM26・フォードを購入して参戦。しかし結果は残せず、'78年のエンサインを最後にF-1ドライバーとしてのキャリアを終え、結果は出走43戦、完走23回で入賞は無し(最高位7位)。

.....彼等4人に共通するもの、それは'40年代生まれで、成績的には"あまりパッとしない"中堅クラスのF-1ドライバーである事と、そのドライヴィングでは無く、キャラクター的に人気のあった者達、一言で言うならば"古き良き時代のレーサー達"とでも言えば良いだろうか。そんな彼等が、その後のモーター・レーシング史を左右しかねない壮絶な事故に遭遇するのは、'76年のF-1第10戦、ドイツ・グランプリに於いてであった。

ドイツ・グランプリの舞台となるニュルブルクリンク・サーキット(当時)は、ワイン産地としても有名なモーゼル地方のアデナウ山中にあり、ニュルブルクリンク城を中心とした1周22.835kmと言う広大な広さと、計176ものコーナーを持つ、世界最大のクローズド・サーキットであった。アップ・ダウンも激しく、コースは至る所で違った性格を持つ難しいサーキットでもある。前年のワールド・チャンピオン、フェラーリのニキ・ラウダはここまで10戦5勝と、ポイント上のライバル、ジェームズ・ハント(マクラーレン)とジョディ・シェクター(タイレル)を圧倒的にリードしていた。予選でトップに立ったのはハントで、タイムは7分6秒5。ラウダは1秒差の7分7秒4で2番手に着け、決勝に望む事となった。が、決勝日の天候は雨、しかし全長22kmのニュルブルクリンクでは雨が降っている箇所と降っていない箇所、更に路面がドライな箇所とウェットな箇所が完全に入り乱れており、各チーム/ドライバーはタイヤ・チョイスとセッティングで悩んでいた。かくして'76年8月1日午後1時、全車ウェット・タイヤ装着で運命のスタートは切られた。

スタートでトップを奪ったのはハント、2番手スタートのラウダは激しくマシンをホイール・スピンさせて順位を落とし、9位まで後退した。トップはハントとチーム・メイトのヨッヘン・マス、マーチのロニー・ピーターソンらが激しく争っており、ラップ・タイムは上がらない。1周目に何人かのドライバーがドライ・タイヤへの変更を決断し、ピット・ロードへと駆け込んで来た。ラウダもそのひとりであった。ほぼ最後尾まで落ちたラウダは猛然と追撃を開始。"スーパー・ラット"の異名を持つ彼の頭の中には、ここからドライ・タイヤでペースを上げて行けばライバル、ハントを捕らえられる筈だった。しかし、北側コースに入り、フォックス・フォース・カーブを抜けたラウダの記憶はここで一旦途切れてしまう。次にラウダが覚えているのは、ヘリコプターのローターが回る音と、固いベッドのようなものに横たわっている感覚であった。

ラウダのフェラーリ312T/2は緩い左コーナーへ差し掛かる直前に突如リアが右へ流れ、200km/hものスピードでガード・レールに激突した。弾みでコースに戻った次の瞬間、突然目前で起きたアクシデントを避け切れなかったルンガーのサーティーズがラウダのフェラーリに突っ込み、フェラーリは炎を吹き上げながらコース脇に止まった。ルンガーはフロントが破壊されたマシンからどうにか脱出したが、ラウダは炎上するマシンの中でピクリとも動かなかった。ルンガーは辺りを見回したが、現場にコース・マーシャルの姿は無かった。確かに全長22kmのニュルブルクリンクで、全てのポイントを網羅するのは不可能な事だった。恐らく係員は、立ちのぼる炎を見てどこからか駆け付けて来る事になるだろう。しかし、状況は一刻の猶予も許さなかった。燃え盛るマシンに、気を失ったラウダが閉じ込められているのだ。辺りにいるのは、柵の向こうで呆然と立ち尽くす数名の観客だけだった。ルンガーは意を決して、ラウダのマシンに駆け寄った。その場で、耐火服に身を包んでいるのは自分だけだったからである。しかし、800度を超える炎がルンガーの行く手を阻んだ。そこへ、後続のエドワーズとアートルが差し掛かり、急いでマシンを止め、彼等もまたラウダの元へ駆け寄った。炎上するフェラーリとルンガーの姿を見たエドワーズとアートルもまた、即座に状況を把握したのである。3人は燃え上がるラウダの身体をコックピットから引っぱり出そうとした。が、激しく燃え上がる炎がハーネスを外すのを邪魔していた。既に事故から1分近くが経過し、通常30秒程度しか効力を発揮しない耐火レーシング・スーツは、既に意味をなさない
ものとなっていた。ようやくフェラーリのハーネスが3人によって外された頃、彼等の耐火スーツもまた、限界を迎えていた。このままでは3人の命も危険であった。エンジン付近で大きな炎が上がり、誰もがもうダメかと思った。だがその時、3人の後から手が伸び、ラウダの肩を鷲掴みにしてコックピットから引きずり出す事に成功した。その手の主はメルツァリオだった。彼もレースを捨て、灼熱の炎の中に飛び込んで来たのである。ラウダはこの勇気ある4人に抱きかかえられて現場を離れ、ようやく到着した医療チームによってヘルメットを外された。が、既にラウダの顔半分は焼け爛れ、右耳は燃えて欠けてしまっていた。誰もがラウダの死を覚悟した。

.....が、ラウダは6週間後の9月12日、第13戦イタリア・グランプリでレースに復帰し、しかも4位入賞でレースを終えたのである。そしてラウダはこの年、最終戦までハントとチャンピオンを争ったのだ。

救出されたラウダはヘリコプターでハイデルベルグの病院へ搬送され、即座に集中治療室へと入れられた。ラウダは火傷だけで無く、出血多量、更に大量にガソリンの炎と煙を吸い込んでしまった為、肺にも重症を負っていた。4日間、意識不明の状態が続いた。「私が覚えているのは、ピットから出てコースに戻って、そして.....ヘリコプターのローターのような音、固いベッドに横たわっている自分、包帯に巻かれている感覚、眠気。そして.....ラテン語だ」ラウダの元には神父が呼ばれ、その絶望的な状況に臨終の祈りを捧げていたのである。マスコミにはラウダ死亡説が流れ、フェラーリ・チームは「事故の原因はラウダのドライビング・ミスによるもの」と発表、TV映像も存在しない事から事故原因はラウダのミス、と誰もが信じた。そしてフェラーリにはラウダの代役として既にカルロス・ロイテマンが迎えられていた。

しかし4日間の昏睡状態の後、奇跡が起きた。ラウダは意識を取り戻し、僅か3週間後には退院し、オーストリア/ザルツブルグの自宅へと戻ったのである。そして、ラウダは観客の少年が偶然撮影していた事故の瞬間のビデオを観た。そこには、サスペンション近辺のトラブルとしか思えない急激なオーバー・ステアで横滑りしながらクラッシュするラウダのマシンが映っていた。そして、自らのレースを捨て、燃え盛る炎に飛び込んで行く4人の男達。「.....私に出来る恩返しは、彼等の最強のライバルであり続ける事だけだ」イタリア・グランプリでの記者会見でラウダは壮絶な風貌でこう語った。痛み止めの注射を打ち、レース中にも顔の火傷痕から出血するような状態でありながら、たった2戦を休んだだけでグランプリに復帰したのである。

その後、メルツァリオ/エドワーズ/アートル/ルンガーの4人の勇気ある行動は各方面で取り上げられ、彼等を表彰する団体が後を絶たなかった。しかし、4人の誰もがその行為について自ら口にする事は殆ど無かった。誰もが、レーシング・ドライバーとして本能的に行動しただけだ、と主張した。ルンガーは「だって、もし冷静でいたとしたら、誰が800度の炎の中に飛び込んで行けるんだい?(笑)」と笑い飛ばし、メルツァリオに至っては「そう言えば勲章やらトロフィーやらを貰ったけど、コレクターに売っちまったよ。そんなモン持ってるより、その金で次のレースに出た方がマシだろ?」余談だが、メルツァリオからトロフィーを買ったコレクターは日本人である。

.....筆者は'76年F-1世界選手権イン・ジャパン当時、ニキ・ラウダと言うレーサーが何故いつも帽子を被っているのかを知らなかった。その後、雑誌等の情報により、レース中の事故によって大火傷を負った事を知るが、'78年の映画"ポール・ポジション"でその事故場面のビデオ、救出劇、その後のラウダ及び当時の妻、マルレーンとのリハビリテーション、そして奇跡の復帰劇を知る事となり、スクリーンを見つめながら涙が止まらなくなったのを覚えている。F-1/モーター・レーシングとはこれ程までに過酷なものなのかと、少年時代の筆者は深い感銘と衝撃を受けた。同時に、メルツァリオ/エドワーズ/アートル/ルンガーの4人は、この少年にとって真の"ヒーロー(英雄)"となったのである。ちなみに4人のその後だが、アートルは'82年4月7日、家族の見ている前でライト・プレーンの操縦中に墜落死。エドワーズは引退後、モーター・レーシングに於けるスポンサー・シップ紹介業で成功(シルクカット・ジャガーやカストロール・ロータスは彼の功績である)、ルンガーは現在でもマラソンや自転車レースへ、メルツァリオはイタリア国内のスポーツ・カー・レースに参戦し続けている。そしてラウダは.....その後'77年、'84年と2度F-1ワールド・チャンピオンとなり、死の淵から生還した偉大なるレーシング・ドライバーとして語り継がれている。



「ビデオを観て思ったのは.....きっと私には出来なかっただろう、と言う事だ」
-'76年、復帰会見にて/ニキ・ラウダ-


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