| 現在、IRLやCART、更にF-3000、F-3等のフォーミュラ・カーは通常幾つかのシャシー・メーカーが製作したものを選び、チームそれぞれが購入して参戦するもので、ローラやレイナード(昨年倒産)、ダッラーラやGフォース等がそれにあたる。逆に、"各チームはオリジナル・シャシーで参戦しなくてはならない"なんて決まりがあるのはF-1ぐらいのもの。が、かつてはF-1にも"既製のシャシーを購入して参戦出来る"時期があったのは既に御存じかと思う。そして、ひょっとしてこのコラムの読者の方がそろそろ聞き飽きた組み合わせかも知れない、"フォード・コスワースDFV+ヒューランド・ミッション"による'70年代のF-1マシン。コスワース製のV8エンジンと、ヒューランドのギア・ボックスを買ってくれば誰にでもF-1マシン(っぽいもの)が作れる、と言う時代だ。が、当時は"金もチャンスもあるが設計者がいない"と言うプライヴェーターも多数いた。つまり、「誰かF-1を売ってくれ」と言うオーダーの存在である。そして、その後のF-1/モーター・レーシング史にその名を残す偉大なチャンピオン達も、初めはこの"'70年代F-1セット"で出場したものだった。セッティング幅が広く、DFVとヒューランド・ミッションを搭載したこの典型的キット・カーの名はマーチ。そのマーチの創設者のひとりであり、その後の全てを担っていたのがデザイナー、ロビン・ハードである。 ロビン・ハードは'39年イギリス生まれ。幼い頃からメカニカルな分野に興味を示し、特に飛行機に大いに傾倒していたハードは名門オックスフォード大学で物理学と工学を学び、卒業後'61年にロイヤル・エアクラフト社に入社、ここでかの有名な超音速旅客機・コンコルドの設計/開発に関わっていた。が、元々自動車のメカニズムにも興味を持っていたハードは、丁度航空力学の専門家を探していたブルース・マクラーレンのチームにスカウトされ、'65年にチームに加入。マクラーレン初のF-1、M2Bの設計に関わる事となった。更にハードはCanAm用マシンの設計に複合材料のマライト(バルサ+アルミ)を使用し、独自の発想で関係者からの注目を浴びた。その後マクラーレンでの経験をフルに活かして設計したアルミ・モノコックのF-1用シャシー、M7Aが'68年に3勝を挙げてコンストラクターズ・ランキング2位の成功作となり、ハードの名は一躍モーター・レーシング界に広まって行った。この時搭載していたDFV/V8エンジンの生みの親、コスワース社が翌'69年に"四輪駆動F-1"を開発する事となり、ハードに声がかかる。ハードは新たなる分野への挑戦の為マクラーレンを退職し、コスワースへと移籍。が、素晴らしいV8エンジンを製作するコスワースもシャシー・コンストラクターとしては三流で、彼等の製作したコスワース製4WD/F-1は資金不足と経験不足でまともにサーキットを走らぬままプロジェクト終了、と言う結果を招いてしまった。 '69年、ハードは当時F-2ドライバーだったマックス・モズレーと、同じくレーサーでマネージメント業も行っていたアラン・リース、飛行機会社のエンジニアを勤めていたグラハム・コーカーの3人から、「一緒にグランプリ・チームを作らないか」と声をかけられる。実際、このままコスワースにいてもシャシー・プロジェクトが終了してしまった以上、何の魅力も感じられなかったハードは彼等のアイデアに賛同し、チーム結成に加わる事となった。チームの名はモズレーのM、リースのイニシャルAR、コーカーのC、そしてハードのHを繋げて"MARCH"とした。これは若き4人の精鋭達が、既存の"巨大ワンマン経営チーム"に挑戦状を叩き付ける意味を持っていた。誰もがそれまでの体質に不満を持ち、グランプリに新たな革命を齎そうとしていたのである。 ハードの設計したマーチ初のグランプリ・マシンはF-3用の693であった。ドライバーにはスウェーデン出身の新鋭、ロニー・ピーターソンを起用。彼等の挙げた好成績はそのままマーチをF-1へと押し上げ、翌'70年には早くも初のマーチ製F-1マシン、701を完成させた。701は当時主流のコスワースDFV+ヒューランド・ミッションを搭載していたが、独創的な長方形の通称"バスタブ・モノコック"を採用し、更にコーカー、ハードら航空力学の専門家を擁する強みでもある空力処理の分野で他のコンストラクターの一歩先を行っていた。フロント・ウイング一体型のノーズと逆翼断面状のサイド・ポンツーン処理は、まだまだ"ハマキ型"が主流だった当時のF-1に旋風を巻き起こした。更に、新鋭マーチは自らのワークス・チームだけで無く、ティレル、アンティーク、そしてSTPの3チームにもマシンを供給、"市販コンストラクター"としても活動を始めた。迎えた開幕戦、南アフリカ・グランプリではティレル・マーチのジャッキー・スチュワートがポール・ポジションを獲得し、マーチ・ワークスのクリス・エイモンが2番手(ちなみに両者は同タイム)と言う活躍を見せた。そして続く第2戦スペインでスチュワートがマーチにF-1初優勝を齎し(開幕戦との間に行われたノン・タイトル戦でもスチュワートが勝利している)、入賞車の半分がマーチ勢、と言う素晴らしい結果を残した。結局'70年シーズンは1勝/3ポール・ポジションで、マーチはコンストラクターズ選手権でロータス、フェラーリに続いて3位と言う素晴らしいデビュー・イヤーとなった。 翌'71年もマーチの快進撃は続き、ハードのデザインしたニュー・マシン、711は7人のドライバーが使用し、ピーターソンが優勝こそ無いものの33ポイントを挙げ、ドライバーズ選手権で2位を獲得。コンストラクターズも前年と同じ3位を確保し、マーチは押しも押されぬトップ・チーム/コンストラクターの仲間入りを果たした。しかし、ハードが711でトライした新しい空力パッケージ("ティー・トレイ"と呼ばれる特徴的なフロント・ウイングを搭載していた)を発展させる事に対してチーム内に反対勢力があり、紆余曲折の中で生まれた'72年用シャシー、721とその改良型、721Xは完全な失敗作となった(以前このコラムでも紹介した、'70年代の代表的"失敗作"だ/lap49-"大失敗"/偉大なる挑戦と挫折の記録-参照)。ホイール・ベースを短くする為に、エンジンやギア・ボックス等、重量のある物を徹底的にマシン中央に集め、上下方向の慣性モーメントを最小限に押さえようと設計/改良された721Xは低速コーナーで"止まらない/曲がらない/加速しない"と言う決定的な弱点を持ち、やむなくハードはF-2用に作った722をたったの9日間(!)でF-1用に改造し、721Gとしてレースに投入。721Xよりは戦闘力を発揮した721Gだったが、エースのピーターソン、期待の新人ニキ・ラウダ、そしてチーム創設者であったコーカーとリースまでもがチームを離脱。'73、'74年は完全な"低迷期"となってしまう。'73年に新興ヘスケスからデビューしたジェームズ・ハントがマーチ721G-73で第15戦アメリカ・グランプリで2位を獲得するが、これを最後にマーチは単なる"新人ドライバー育成マシン"と言われるようになってしまう。 '75年、ハードが全てを一新して製作したニュー・マシン751はトレッドが狭く、美しい曲線を描くスポーツ・カー・ノーズを持った秀作となり、第7戦スウェーデンでイタリアのベテラン、ヴィットリオ・ブランビラがポール・ポジションを獲得、ドシャ降りの第12戦オーストリア・グランプリではそのブランビラがマーチに4年振りの2勝目を齎した。また第4戦スペインでは女性ドライバーとして史上唯一の入賞をイタリアのレッラ・ロンバルディがマーチで記録している。翌'76年はかつてのエースであるピーターソンがマーチに復帰し、751を軽量/コンパクトにした発展型761を駆って第13戦イタリア・グランプリに勝利。再び優勝戦線に復帰したマーチは今度こそ完全なトップ・チームとなったかに見えたが、ハードが量産部門であるF-2へと移った翌'77年用の761Bと新車771は完全な戦闘力不足を露呈し、8人のドライバーを擁しながらも屈辱のノー・ポイントとなってしまう。更にグランプリはFOCA(F-1製造者協会)の"プライヴェーター締め出し案"に動き、遂にチームは撤退を決め、ATSチームにF-1部門の全てを売却し、一旦F-1を去る事を決意した。 '79年、マーチはアメリカのインディ・カー用シャシー製作を依頼され、'83〜'87年には伝統のインディ・500マイル・レース5連勝と言う快挙を成し遂げる。また、'84年にはCARTの全エントリー車33台の内29台がマーチ製、と言う程のシェアを占め、IMSA選手権(スポーツ・カ−部門)も含めてアメリカのモーター・レーシング界を席巻した。そして、F-1を撤退したと言いながらも、'81年にドイツのジョン・マクドナルド率いるRAMチームの依頼を受けてハードがF-1用シャシーを設計。チームそのものの規模も小さかった事から活躍する事は無かったが、RAMとの活動はチームが撤退する'85年まで続いた。そしてこの間、F-2(F-3000)/F-3/FF(フォーミュラ・フォード)-1600等のシャシーのシェアはマーチが独占。欧州F-2選手権を6度制覇(77勝)し、各国のF-3選手権でも計14ものタイトルを獲得していた。特に国際F-3000選手権では'85〜'87年とマーチが3連覇し、'86年チャンピオンのイタリア人レーサー、イヴァン・カペリを擁してマーチがF-1へと復帰する案が出た。しかし社内の勢力でハードは開発部門からチーム主脳のひとりとなり(一般的には昇進だが、技術者であるハードにとっては実質的な"左遷"であった)、'87年にレイトン・ハウス・マーチとしてF-1に復帰したチームはインディ・カー・デザイナーのエイドリアン・ニューウィーをチームに招き入れた。これにより、居場所の無くなったハードは日本のレイトン・ハウスにチームを売却した後、'89年に自らの会社"ロビン・ハードLtd."を立ち上げ、F-1マシンのデザインを請け負う"フォメット-1"と言うプロジェクトをスタート。その後'91年にフォンドメタル、'92年にラルース・チームと提携してマシン製作を行うも、いずれも開発資金に乏しいチームであった為に程なく撤退。一旦祖国イギリスのサッカー・チーム、オックスフォード・ユナイテッドのスポンサーとなってレースから離れていたが、'00年にハードはステファン・ヨハンソンをドライバーにマーチの名でインディ・カー・チームを発足。しかし結局スポンサーが付かずに参戦を断念。しかし今尚、"生涯1マシン・デザイナー"であるハードは虎視眈々とモーター・レーシング界に返り咲く機会を狙っている。 当初ハードが目指したものは、"基本設計がしっかりとしている、長く使えるもの"であった。事実、'60年代後半から'70年代にかけてのレーシング・カーは現在のように毎年モデル・チェンジする事も無く、マクラーレンM23やフェラーリ312T/2等が約3シーズンに渡ってモディファイされ続けていたように、基本設計のしっかりとしたマシンはいつまでも速かった。少なくとも、ロータスのコーリン・チャップマンがグランプリに"グランドエフェクト"を持ち込むまでは通用した方法論である。が、時代はハードの思う通りには動かなかった。'70年代後半から徐々にグランド・エフェクト思想とターボ・エンジンがグランプリを席巻し、DFVとヒューランド・ミッションを搭載した"キット・カー"の出番は徐々に減って行った。マーチは、その"キット・カー"以上でも、以下でも無かったのだ。 そんな"保守派"の印象の強いハードだが、'76年にティレル(タイレル)のデレック・ガードナーが製作した6輪車、P34に触発され、ティレルとは逆の"前2輪/後4輪"の6輪車"マーチ240"を開発。前4輪よりも後4輪で接地面を増やし、後輪を小さくする事で空気抵抗を減らす、と言う考え方だったが、結局発表された6輪車は2日間のテストだけでその姿を消し、幻となった。 .....かつてプライヴェーター・チームからマーチのF-1マシンを駆ってグランプリに出場したドライバーは前述のスチュワート/エイモン/ピーターソン/ラウダ/ハントらを始めとし、マリオ・アンドレッティ、フランソワ・セヴェール、カルロス・パーチェ、ハンス・スタック等、蒼々たる顔触れである。また、プライヴェーターとしてマーチのシャシーを使用した新興チームにはウイリアムズやティレル、ペンスキーらその後の名門達が名を連ねており、正にマーチはF-1の登竜門として、そしてハードはフォーミュラ・カーの父としてその地位を確立していたと言える。F-1出走332戦、3勝。決して輝かしい数字では無いが、マーチがモーター・レーシングに与えた影響/功績は特筆に値する。
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