■lap62-"記憶に残る名ドライバーvol・5"/カルロス・ロイテマン-
2003.08.15


"ファンジオの再来"-彼にはいつもこのフレーズが付いて回った。ファン・マニェル・ファンジオは'51〜'57年の間に5度の王座に着いた、アルゼンチンが生んだ偉大なるF-1世界チャンピオンである。そして彼には、国を挙げてそのファンジオの偉業の"再現"と言う夢が託された。母国アルゼンチンの"発展途上国からの脱出"の為、世界へ向けて親善大使の様な役割を託され、そして最後には政治的な理由から引退へと追い込まれた言わば"スケープゴート"であった彼は、祖国を憎むどころか、現在も愛する祖国の為に尽くしているナイスガイである。カルロス・ロイテマンを、筆者は"ファンジオ2世"とは呼ばない。彼にもっとも相応しい称号は"ロイテマン1世"だ。

カルロス・アルベルト・ロイテマンは'42年4月12日、アルゼンチン/サンタフェにて誕生。実家は牧場を経営しており、モーター・レーシングとの繋がりは皆無であった。が、多感なティーン・エイジャー時代に母国の英雄、ファンジオがグランプリ・レースで欧州のトップ・ドライバー達を徹底的にやっつけたのだからたまらない。当然、ファンジオはアルゼンチンの少年達の憧れの的となっていた。だが、それですぐにレーサーとしての道を歩める程アルゼンチンの経済状態は安定しておらず、ロイテマン自身、乗用車の運転免許は18歳の時に"普通に"取得したに過ぎない。「当然、子供達は皆レーシング・ドライバーに憧れていた。が、実際にプロのレーサーになろうと考えるのは余りにも非現実的だったよ」実際、彼等に出来る亊と言えばセダンを使った草レースに出る事程度であった。だが、ロイテマンは出場するレースに連戦連勝。そして'65年、遂にロイテマンはアルゼンチン国内のサルーン・カー選手権を制覇してしまう。そして驚くべき事に、ロイテマンはこの時初めて両親に自分が自動車レースに出場している事を告げたのである。この時まで、せいぜい週末に仲間と草レースに出場している程度だと思っていた息子がアルゼンチンのチャンピオンだと知った両親は唖然とした。が、この"事後承諾"に両親は反対のしようも無く、我が子に好きなようにやってみる事を勧めた。'68年、ロイテマンは名門・テンポラーダのF-2チームに抜擢され、初めて欧州のレースに挑戦。ロイテマン24歳の時であった。

当時のアルゼンチン、いや南米諸国は工業面で欧米諸国に明らかに遅れていた。そして、政府はファンジオの幻影を追い、ロイテマンの活躍で活気づくモーター・レーシングの更なる発展を"利用"し、国内産業の発展に繋げようと目論んでいた。'70年には隣国のブラジルからエマーソン・フィッティパルディがF-1デビューし、活躍を見せた。アルゼンチン政府はロイテマンに夢を託し、ロイテマンの欧州でのレース活動の完全なるバックアップを決定。アルゼンチンが先進国への仲間入りを果たす為の宣伝材料として、ロイテマンが選ばれたのである。「何にしても、レースに金がかかるのは解っていたから、ありがたい事だとしか感じなかったがね」と、ロイテマン本人は前向きに考え、"誰よりも速く走る"事だけを頭において欧州へと旅立った。

'71年、ロイテマンは2年目となる欧州F-2選手権でロニー・ピーターソンに次ぐランキング2位となり、欧州のレース関係者から注目される。そして、F-2時代に乗っていたブラバムのオーナー、バーニー・エクレストンが直々にロイテマンを自らのF-1チームに招き入れ、翌'72年、ロイテマンは遂に念願のF-1デビューを飾る事となった。2度のワールド・チャンピオン、グラハム・ヒルのチーム・メイトとして迎えた開幕戦は地元、ブエノスアイレスで行われるアルゼンチン・グランプリ、ブラバムBT34・フォードを駆るロイテマンはジャッキー・スチュワート(ティレル・フォード)やピーター・レヴソン(マクラーレン・フォード)らを下し、なんとF-1デビュー戦にしてポール・ポジションを獲得、周囲を驚かせる。ブエノスアイレス・サーキットの大観衆は全員ロイテマンに熱狂。レースは1周遅れの7位に終わるが、欧州、いや世界中にカルロス・ロイテマンの名を知らしめるには充分な衝撃であった。が、結局デビュー・イヤーは第11戦カナダで4位入賞しただけで終わり、ロイテマンはF-1の難しさを思い知る事となった。「F-2の時とは何もかもがまるで違うんだ。ここでは、最高のドライヴィングと同時に相当な忍耐力が必要なのだと思う」この年はロータス72D・フォードを駆る南米・ブラジル出身のF-1ドライバー、フィッティパルディが25歳と言う史上最年少でワールド・チャンピオンとなっていた。

翌'73年、ロイテマンは徐々にF-1を理解し、第8戦フランス/第15戦アメリカでの2度の3位表彰台を始め、6度の入賞でドライバーズ・ランキング7位へ躍進。そして3年目となる'74年、第3戦南アフリカ・グランプリでニキ・ラウダ(フェラーリ)やカルロス・パーチェ(サーティーズ・フォード)ら強豪が脱落して行く中ただひとり安定した走りを見せ、ロイテマンは遂にF-1初優勝を飾った。記者会見でロイテマンは「この勝利を故国・アルゼンチンの全国民に捧げる」と笑顔で語った。アルゼンチンは狂喜した。そして"ファンジオ2世"に課せられた宿命は、タイトル獲得に向けて突っ走る事であった。

結局'74年に計3勝を挙げてランキング6位となったが、翌'75年は第11戦西ドイツ・グランプリでの1勝に止まる。しかし全14戦中6度の表彰台、と成績そのものは安定しており、ランキングでは過去最高の3位となっていた。シーズンは水平対向12気筒・エンジンのフェラーリ/ラウダの独走で終わり、混迷するブラバム・チームは'75年用のBT44/Bの開発失敗と、フォード・コスワースの"ロータス優先"を理由に翌'76年にエンジンをアルファロメオへとスイッチする事を決定。ところがアルファが開発したフラット12気筒エンジンがまったく戦闘力を発揮せず、第12戦オランダまで実に9回のリタイア(原因の殆どがエンジン・トラブルであった)を喫し、入賞は第4戦スペインでの1周遅れの4位1度だけ。ロイテマンはブラバム・チームをシーズン中にも関わらず離脱してしまう。アルゼンチン政府は事の収拾に動こうとしたが、ロイテマン本人は落ち着いていた。まず、第10戦ドイツ・グランプリで瀕死の重傷を負ったラウダの代役として第13戦イタリア・グランプリにフェラーリから出走。ティフォッシから"フェラーリの救世主"として大歓迎を受けたロイテマンは翌'77年のフェラーリ入りを勝ち取る。チャンピオン・チームへの加入により、いよいよロイテマンのタイトル獲得への道が開けた、と誰もが思っていた。少なくとも、アルゼンチンでは。

'77年、名門フェラーリで帝王ラウダのチーム・メイトとなったロイテマンは開幕戦の地元アルゼンチン戦で3位(ラウダはリタイア)、南米2連戦の第2戦ブラジルでは優勝する(ラウダは3位)。が、シーズン中盤にロータス・フォードが台頭して来ると、フェラーリは明らかに"ラウダ優先"の体制/戦略を取り始める。第11戦ドイツ、第13戦オランダでも勝利したラウダは結局'77年のタイトルを獲得するが、ラウダ本人がフェラーリ主脳陣と対立して第15戦アメリカ東戦を最後にチームを離脱、後任にカナダの新人、ジル・ビルヌーヴが迎えられた。翌'78年、ロイテマンはフェラーリのエースとなって4勝を挙げるが、シーズンは歴史に残るグランド・エフェクト・カー、ロータス79・フォードが席巻。ロイテマンはロータス勢に続くランキング3位でシーズンを終了。更に翌'79年にはウルフからジョディ・シェクターがフェラーリへと移籍し、ロイテマンはフェラーリを離れる事となる。だが、圧倒的な強さでダブル・タイトルを獲得しながらも、ロニー・ピーターソンを事故で失っていたロータスがロイテマンに"マリオ・アンドレッティとの完全ジョイントNo.1体制"をオファー。無敵のロータスへの移籍に周囲は注目したが、ライバル・チームの戦闘力アップで開幕戦アルゼンチンと第5戦スペインの2位が最高位、中盤以降はノー・ポイント、と予想外に低迷してしまう。ロイテマンは既に37歳を迎えていた。'80年、ロイテマンは"チャンピオン候補No.1"のウイリアムズ・フォードへと移籍。第6戦モナコで優勝するが、チーム・メイトのアラン・ジョーンズが5勝を挙げてチャンピオンとなる。「つまりそう言う事なんだ。ちょっとタイミングがずれただけで、F-1では成功が失敗となるんだよ」ロイテマンを巡る何かが狂っていた。

'81年、ロイテマンにとって実質、"最後のチャンス"となるシーズン。ウイリアムズFW07/C・フォードはシーズン前半を前年の勢いそのままに快走し、第2戦ブラジルと第5戦ベルギーで勝利したロイテマンは堂々ランキングトップにいた。が、中盤から古巣ブラバムのネルソン・ピケが3勝を挙げてロイテマンに迫り、最終戦アメリカ東/ラスベガス戦の時点で両者の差は僅かに1ポイントであった。予選はロイテマンが素晴らしい集中力でポール・ポジションを獲得。2位はチーム・メイトのジョーンズ、ピケは4位であった。少なくとも、ピケがリタイアするか自分の後でフィニッシュすればロイテマンのチャンピオンが決定する、と言う、状況としては有利なものであった。ジャック・ラフィー(リジェ・フォード)やアラン・プロスト(ルノー)らにもタイトル獲得の可能性は残されていたが、ロイテマンが予選を制した時点で勝負は決まったように見えた。ところが、レースになるとロイテマンのマシンが立て続けにマイナー・トラブルに襲われ、ズルズルと後退して結局8位/無得点でフィニッシュ。チーム・メイトのジョーンズの方は快調に飛ばして優勝し、そしてピケは淡々と走って5位となり、2ポイントを獲得。結果、ピケが僅か1ポイント差でロイテマンを下して初のワールド・チャンピオンとなったのである。アルゼンチンの全国民が落胆し、ブラジル中が狂喜したレースであった。"よほどの事が無い限り"獲得出来た筈の念願のタイトルを、結局よりによって南米(ブラジル)出身のピケが奪って行ったのだから運命とは皮肉である。

翌'82年春、ロイテマンの母国、アルゼンチンがイギリス領土の西大西洋/フォークランド諸島を占拠、イギリスはこれに応戦する形で戦争状態となった。所謂"フォークランド紛争"の勃発である。ロイテマンは窮地に立たされた。イギリス・チームであるウイリアムズに乗るロイテマンの立場は微妙なものとなり、パドックでは誰も口にしなかったが祖国からはロイテマンに対して激しいプレッシャーが襲った。'82年3月21日、ロイテマンは第2戦ブラジル・グランプリを最後にウイリアムズ・チームを離れざるを得なかった。そして、同時にそれは40歳になろうとしていたロイテマンにとって、F-1ドライバーとしての最後のレースである事をも意味していた。F-1出走146戦、12勝、ポール・ポジション獲得6回、ファステスト・ラップ6回、通算獲得ポイント310点、表彰台49回。連続入賞記録15戦はミハエル・シューマッハーに次ぐ史上第2位。チャンピオンになれなかったロイテマンの残した成績は、記憶に残るには充分過ぎるものであった。

ロイテマンは'72年のデビューからブラバム/フェラーリ/ロータス/ウイリアムズと、いずれも当時の完全な"トップ・チーム"ばかりを渡り歩いた。しかもチーム・メイトはヒル/ラウダ/アンドレッティ/ジョーンズらチャンピオン・ドライバーばかりであった。この当たりに、"常にトップ・チームに迎えられるもののカリスマ性に欠ける"ロイテマンの人柄が表れている。ロイテマンはチーム内の政治的なゴタゴタや人間関係をコントロール出来るようなタイプの人間では無かった。ただ、誰よりも速く走る事だけが取り柄だったのである。

筆者選出、カルロス・ロイテマンのベスト・レースは'78年、ブランズハッチでの第10戦イギリス・グランプリ。アンドレッティ/ピーターソンのロータス・デュオがフロント・ロウに並び、フェラーリのロイテマンは8番手。ミシュランの新設計タイヤが予選に間に合わず、決勝当日朝のフリー走行でシェイクダウン・テストを行ったフェラーリはこのタイヤの決勝への導入に消極的であった。ビルヌーヴは旧タイプで行く事を決めたが、ロイテマンは敢えて使用する事に決定。レースがスタートすると、ピーターソン(エンジン)とアンドレッティ(タイヤ)のロータス勢、ウルフのジョディ・シェクター(ギアボックス)らが次々と脱落、トップはブラバムのラウダ、2位にアロウズのリカルド・パトレーゼ、淡々と走っていたロイテマンは3番手となった。.....が、ロイテマンはただ淡々と走っていたわけでは無かった。このレース、アンドレッティを始め、ジェームズ・ハント(マクラーレン)、ジャン・ピエール・ジャブイーユ(ルノー)、そしてチーム・メイトのビルヌーヴまでもがタイヤの磨耗が原因で優勝争いから脱落していたのである。更にロイテマンの目前で2位パトレーゼがタイヤのブロウでピット・イン、ロイテマンはミシュランの新型タイヤの耐久性を計算しながらタイヤの温存を図り、着実に上位へと進出して来たのである。50周目、トップのラウダとの差は2秒、55周目には1.5秒、58周目には1秒差となった。当然、ラウダもタイヤのグリップ低下を感じ取っており、ペースを上げられなかった。残り18周、ここまでタイヤをいたわって来たロイテマンがこのレース初めてマシンを左右に振ってラウダを脅かす。帝王ラウダはトップを守り切ろうと必死であった。59周目、7位ブルーノ・ジャコメリ(マクラーレン)が周回遅れとなってラウダの前に現れた。コース・サイドではマーシャルがジャコメリに対し、トップが後に来ているので抜かせるよう、ブルー・フラッグを振り回していた。ジャコメリはミラーで確認すると、クラーク・コーナーでアウト側の左へマシンを振り、インを明け渡した。だが、焦ったラウダもまた、アウトからジャコメリを抜こうと左へマシンを向けた。「チャンスは1度しか来なかったよ」ロイテマンは一瞬僅かに空いたインへ飛び込み、バトルに熱狂するグランド・スタンド前をトップで駆け抜けた。結局ラウダを1秒差に従えてロイテマンはシーズン3勝目を挙げたのである。

南米から欧州へとやって来たドライバー達は、皆揃って"ホーム・シック"にかかると言う。フィッティパルディ等は暇さえあればブラジルに帰っていたが、ロイテマンはイギリスでの生活に慣れようと必死だった。「アルゼンチンから来たばかりでろくに英語も話せない僕に、イギリスの人達はとても好意的だった。イギリスがまるで"第二の故郷"のように思えるよ」イギリス・グランプリでの勝利を、ロイテマンは母国アルゼンチンにでは無く、イギリス国民に捧げた。

F-1ドライバーとしての10年間、パドックではいつもひとりで行動し、決して他の連中のように誰とでも仲良くなれるタイプでは無かったロイテマンは、チーム・メイトと親しくする事が大の"苦手"であった。ブラバム時代のヒル、ジョン・ワトソン、カルロス・パーチェ。フェラーリ時代のラウダ、ロータスでのアンドレッティ。そしてウイリアムズでのジョーンズとの関係はもはや"確執"とさえ呼べるものであった。が、ただひとり例外がいる。フェラーリ最後の年、'78年の僚友、ビルヌーヴである。「ジルは良い奴だった。決してチーム・メイトを敵視しなかったし、いつも陽気で明るかった。いつだったかジルに『私は南米から"ひとりで"やって来たから』と言うような話をした時、ジルは『僕だってカナダからひとりで来た。きっと仲良くなれるね』と言われたんだ。デビューしたばかりの若僧にだよ!(笑)。奴は本当に素直で優しい奴だった」ロイテマンが引退した'82年、いみじくもビルヌーヴはチーム・メイトとの確執の末、天に召された。ロイテマンはまるで弟が逝ってしまったかのように悲しんだ。

.....アルゼンチン国民としてF-1で戦い、アルゼンチン国民としてF-1とイギリス・チームを去ったロイテマンは引退後、政界に身を置き、'99年には生地、サンタフェ州知事に就任。また、アルゼンチン国民の後押しで'03年の大統領選挙には支持率2位で選出(本人は体調不良で辞退した)。"ファンジオ2世"にはなれなかったロイテマンはアルゼンチン国民にとって、唯一無二の英雄、"ロイテマン1世"となったのである。



「第二の故郷、イギリスでの勝利を誇りに思う」
-'78年、イギリス・グランプリにて/カルロス・ロイテマン-


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