■lap61-"レイトン・ブルーの真実"/ジャパン・マネーとF-1-
2003.08.08


'86年11月2日、全日本F-2選手権最終戦、鈴鹿サーキット。約6万人の大観衆は星野一義とジェフ・リースの激闘の興奮も冷めぬ中、ネルソン・ピケ+ウイリアムズFW10・ホンダによる"F-1デモ・ラン"に酔いしれていた。ホンダはこの年、日本製エンジン・メーカーとして初のF-1ワールド・チャンピオンを獲得しており、更に翌年から10年振りに日本でのF-1開催が決定、中嶋悟のロータス・ホンダのレギュラー・ドライバー契約も含め、日本に空前のF-1・ブームがやって来るのは明らかであった。ピットではこの日のF-2レースで3位入賞したイタリア人ドライバー、イヴァン・カペリと、彼のスポンサーであるレイトン・ハウスのオーナー、赤城明が眼の前を疾走するF-1マシンに釘付けになっていた。カペリはこの年国際F-3000のチャンピオンも獲得した期待の若手レーサーであり、'84年からモーター・レーシング界に参入したアパレル・メーカー、レイトン・ハウス代表の赤城はカペリを高く評価していた。そして、赤城はこの日を境にF-1進出を夢見るようになって行った。それは、当時の日本経済を考えれば決して不可能な事でも夢物語でも無かったのだ。

レイトン・ハウスは当時の日本経済を象徴するような会社であった。オーナーの赤城は父の経営していた不動産会社を退社後、'81年に自ら起こした丸晶興産を率いて日本経済の中で急成長し、主に不動産とレジャー施設経営等のグループ産業として業績を伸ばしていた。'85年にレイトン・ハウスを設立、徐々にブームとなりつつあったモーター・レーシングに目を付け、自動車レースとファッションとを結び付けたビジネスをスタートさせた。ちなみに"レイトン"と言うネーミングはイギリスの地名から取られ、マシンやドライバーのレーシング・スーツを初め、チーム・ウェアやキャンペーン・ガールまでを統一したチーム・カラーで染め、サーキットで注目された。むしろ、レイトン・ハウスの登場が国内のモーター・レーシング・ムーヴメントの火付け役となった、とも言えるだろう。'86年時点でレイトン・ハウスは国内レースの殆どのカテゴリーでスポンサードを行っており、レースを観に行けば必ず"レイトン・ブルー"を見かける程であった。そしてこの頃、'77年で一時撤退していたイギリスの名門コンストラクター、マーチが'87年から本格的にF-1グランプリへと復帰する事となり、1台体制でのF-1エントリーが決定した。ドライバーにはマーチのF-2ドライバーで'85、'86年にF-1にスポット参戦していたカペリに白羽の矢が立ち、マーチ側から"持参金5億円"でのシート・オファーがされた。カペリのパーソナル・スポンサーであったレイトン・ハウスはこれを了承。当時年商250億円企業となっていたレイトン・ハウス/丸晶興産にとってこれは決して高い金額では無く、むしろ赤城にしてみればチャンスが向こうからやって来た形となった。'87年、レイトン・ハウスはマーチのF-1マシンをレイトン・ブルーに染め、F-1へと打って出た。

たが、ターボ・エンジン全盛の当時のF-1の中でフォード・コスワースDF-R/V8では勝負にならず、第4戦モナコで6位入賞した以外は入賞無し、と言う"惨敗"で1年目を終えた。赤城は戦闘力アップの為に更なる先行投資を決定。翌'88年、チームはブラジルのマウリシオ・グージェルミンを迎えて2カー体制とし、'87年中盤にインディから招聘した奇才、エイドリアン・ニューウィーをチーフ・デザイナーに据え、エンジンをジャッドV8へとスイッチ。レイトン・ハウスは前年の2倍以上の投資を行う事となった。だがニューウィーは非力なNAエンジンを搭載しながらも他チームのデザイナーとは違った視点でマシンを設計、空力性能に大きく傾倒したマーチ881を完成させ、第13戦ポルトガルでは予選3位からこの年16戦15勝を記録するマクラーレンMP4/4・ホンダV6ターボを駆るアイルトン・セナを堂々とパスして2位、更に第15戦鈴鹿では16周目のホーム・ストレート上でトップのアラン・プロスト(同じくマクラーレン)をオーバー・テイク、第1コーナーでは抜き返されたが'83年以来のNAエンジン車のトップ走行、と言う偉業を成し遂げた。更に翌'89年からは全車NAエンジンと言うレギュレーション変更があり、レイトン・ハウス・マーチは一躍チャンピオン争いに加わる可能性を持ったチーム、として注目を浴びる事となった。国内でもエースのカペリと共にレイトン・ハウス人気は爆発し、サーキットにはレイトン・ブルーのウェアを見に纏ったファンが溢れていた。波に乗るレイトン・ハウスはマーチのF-1部門の買収を決定し、新たに"レイトン・ハウス・レーシング"として参戦、'90年にはコンストラクター名もレイトン・ハウスとなった。しかし、'89年は混乱の開幕戦ブラジルでグージェルミンが3位に入るものの戦闘力はズルズルと後退。翌'90年は第6戦メキシコで2台とも予選落ち、しかし翌第7戦フランスでは1-2走行(結果はカペリ2位/グージェルミンはリタイア)、と言うチグハグなシーズンとなった。原因となったのはニューウィーの空力哲学とサーキットとの相性で、フラットな路面で効果を発揮する整流設計が一転バンプの多い荒れた路面となった時には全く性能を発揮しない、と言う点であった。'90年夏にニューウィーがチームを離脱(その後ニューウィーはウイリアムズへ加入、アクティヴ・サスペンション搭載車で大成功を収める)、翌'91年はグスタフ・ブルナーとクリス・マーフィーの合作による新車で戦うが、第10戦ハンガリーでカペリが6位となった以外に入賞は無し、チームは'87年当時と同じ状況となってしまった。

そしてこの年の9月、チームはあっけない終焉を迎える事となる。丸晶興産と富士銀行との有印私文書偽造による不正融資事件で、赤城が逮捕されたのである。レイトン・ハウスは空中分解し、翌'92年にチームは再び"マーチ"となり、サーキットからレイトン・ブルーは消えた。

.....さて、今回のコラムは実はレイトン・ハウスだけの問題では無く、'80年代後半から'90年代初頭にかけてのF-1ジャパン・マネーを検証して行くのが主旨である。まず、"'80年代後半から'90年代初頭"と言うのが最大のキーワードだ。その時代はつまり、"F-1ブームとバブル崩壊"である。御存じの通りモーター・レーシング、ことにF-1には莫大な資金がかかる。特に'80年代のターボ・エンジンとカーボン・モノコック車の開発には'70年代と比較にならない程の金額が必要となっていた。そして戦後の高度経済成長を終え、空前の好景気となった日本には、その証として自動車技術があった。F-1に於いて象徴的だったのは間違い無くホンダである。高度な技術と潤沢な資金投入が好結果を呼び、'86年のF-1ワールド・チャンピオンを初めとして欧州の自動車メーカーを相手に世界一の名を欲しいままにした。同時に、不動産(マイホームや高額マンション)/服飾産業(デザイナーズ・ブランド)/娯楽(ディスコやグルメ)と言った要素が日本経済の成長の証となり、各家庭レヴェルに於いても日本人には"余裕"があった時代である。当然、F-1は金持ち日本人の格好の娯楽要素となり、本来のモーター・レーシング・ファンとは明らかに違う"F-1ファン"を数多く生み出して行った。そして丸晶興産/レイトン・ハウスは、前述の自動車産業/不動産/服飾産業/娯楽、の全てに該当する、言わば典型的な"バブル会社"であったと言えるだろう。モーター・レーシングへのスポンサードと服飾産業は言うに及ばず、ゴルフ場経営やテナントビル展開をも行う多角経営で財を成し、'89年には年商450億円を挙げ、当時としては当たり前の方法論である"銀行からの貸し付け"によって莫大な金額を動かしていたのである。

'90年当時、レイトン・ハウスを率いる赤城以外に、日本人F-1チーム・オーナーは3人いた。エスポ・ラルースの伊東和夫、ミドルブリッジ(ブラバム)の中内康児、フットワーク・アロウズの大橋渡である。が、当然彼等は自らF-1チームを興したのでは無く、既存の欧州チームを買収したのである。この事は海外メディア等から強烈に叩かれた。実際、日本企業による買収劇は'89年に三菱地所がニューヨークの"象徴"、ロックフェラー・センター・ビルを買収したのをピークに、日本の経済成長レヴェルのひとつの具体像だったのだ。そして先の4つのF-1チームに於いて典型的だったのは、チーム本拠地/現場は買収以前と同じ(ラルースはフランス、他はイギリス)、更にチーム・スタッフや体制等も従来通りのまま、日本企業は完全な"資本参画"と言う形だった点である。もちろんオーナーに全ての決定権や発言権はあるのだが、長年現場でやって来た生え抜きのメンバーに全てを任せ、自らは黙って金を出すと言う、所謂"餅は餅屋"の発想であった。決して方法論として間違っているわけでは無いこのやり方も、ひとつひとつが莫大な金で動くF-1に於いては危険極まりない行為であった。実際、中には意味をろくに理解出来ぬままチームの要望に対してひたすらOKを出していたケースも多々ある。例えば、丸晶興産にイギリスのチーム・ファクトリーから資金要請の連絡が入り、担当者がファクトリーに確認すると、「これが無いと次のレースに出られないかも知れない」と言う答が返って来る。会社側は当然資金を調達するが、実際にはその金で行われていたのは開発であって、翌レースに直接反影されるものでは無い。ただ、イギリス側は目の前にある資金を使い果たし、更なる金額が必要になった時点で初めて日本に連絡を入れるのである。だがこれが社長/代表に報告されると、彼等の答は「黙ってやらせてやろう」となる。結果的にレイトン・ハウスでは"気が付いたら風洞実験施設が出来ていた"と言う事態に発展していた。当時の関係者は、「現場からのオーダーの内容は、実際には我々には全然意味の解らないものばかりだった」と告白している。更に、チーム側から「ワークス・エンジンがなければ勝てない」と言われて'91年から契約したイルモアに対し、レイトン・ハウスから「勝つ為にいくら必要なのか」と尋ね、「100億円」と言われてそれを黙ってイルモアに支払った、と言うのは象徴的な話であろう。現場から見れば、オーナー会社は単なる"パトロン"にすぎないのである。

サーキットでレイトン・ハウスが持つマイアミ・ブルーの美しいイメージとは裏腹に、丸晶興産そのものは決して良いイメージだけで見られていたわけでは無かった。実際、当時の多くのモーター・レーシング・ファンにとって、レイトン・ハウスと丸晶興産と言う名前は決して結び付かぬものだった筈である。'80年代に不動産関連で丸晶興産と赤城が付けられた不名誉な称号は"地上げ屋"であった。今や死語となったこの言葉も、バブル経済当時には地価高騰による土地/物件買収策として公然と行われていた方法論であった。また、'88年に店内の照明施設の落下によって死亡事故を起こし、管理体制の問われたディスコ、"トゥーリア"も丸晶興産の経営によるものであり、サーキットでのレイトン・ハウスの活躍とこれらの件は、当時決して結び付くものでは無かった。

'90年10月、急激な株価下落が日本経済を襲う。大蔵省(当時/現財務省)が銀行に対して不動産関連への融資に規制を敷き、日本の土地価格は一斉に下落。所謂"バブル崩壊"が日本を襲ったのである。

だが、この時点で企業側に"日本経済の屋台骨が崩れた"と言う意識はまだ無かった。ただ、4人の日本人オーナーの中で、40億円をチームに投資していた不動産業のエスポの伊東がもろに経済崩壊の煽りを食らっていた。が、10月の日本・グランプリで鈴木が日本人初の3位表彰台を獲得する等、目に見える形では伊東は"成功"しており、F-1ファンにとっては裏の台所事情等知る由も無い。が、実際に資金操りが上手に行かなくなっていたのは事実であり、更にエスポ・ラルース・チームの最大のライバルにして同じフランスの老舗チーム、リジェからランボルギーニのワークス・エンジンを政治的/資金的な問題で奪われ、しかも'90年のエントリー名(チーム名=エスポ・ラルース、コンストラクター名=ローラ)を、規則上はローラである筈のコンストラクター登録をラルースで行っていた、とシーズン終了後にリジェ側がFISAに告発、実際は手続き上の勘違いに過ぎない問題を楯に、ラルースは'90年のコンストラクターズ・ポイント剥奪に加え、翌'91年度の"機材輸送費免除権"を失う事態へと発展した。つまりラルースはリジェから"罠にかけられた"のである。結局'91年のラルースは戦闘力を失い、日本企業、エスポは欧州からの手痛いしっぺ返しを食う形となった。最終的にエスポの負債は一千億円を超えていた、とされる。

'91年、ミドルブリッジは自社だけの融資でブラバム・チームを運営して行く事が出来なくなり、保険会社/百貨店/不動産等、多数の日本企業からのバックアップを乞うが結果に結び付けられず、更に'92年には日本人ドライバー、中谷明彦をデビューさせようとするがFISAがライセンスを発給せずに実現せず、チームのあまりの不甲斐無さとワンマン経営に対してチーム創設者のジャック・ブラバムからは、「チーム名称であるブラバムの名称を無断で使用している」と告発される事態に至り、'92年いっぱいでミドルブリッジは失脚、名門ブラバムそのものも消滅した。

フットワークは海外投資の失敗と、ライバル社との価格競争に破れ'01年3月に事実上倒産したが、今回紹介した4社の中では"最後まで粘った"存在である。アロウズ・チームは'89年にフットワークに買収され、'91年にはチーム名もフットワークとなり、ポルシェのV12エンジン独占供給で話題となった。が、'80年代にマクラーレンに供給して一時代を築いたターボ・エンジン以来のF-1復帰に当たり、B級チームでしか無いフットワークとの契約に周囲からは「チームに金だけ出させて、実際はル・マン用のスポーツ・カー・エンジンを開発したかっただけなのではないか」との憶測が飛んだ。事実、完成したV12エンジンはF-1マシンに搭載するにはあまりにも"重く、長く、大きい"ものであり、開幕から連戦予選落ち。フットワークが捻出した開発費用(契約時80億円、年間開発費50億円/4年契約)は完全に"騙された"に近いものであった。結局ポルシェはたったの6レースで撤退するが、ポルシェの手元には"タダで"V12エンジンが残ったのである。その後もフットワークは総売上の半分以上をF-1に費やし、ワンマン社長大橋の溺愛する鈴木亜久里と日本の無限エンジンを擁して"ジャパン・ナショナル・チーム"での勝利を目指し、'93年いっぱいまでF-1活動を続けた(その後'96年まで"フットワーク"の名称は残ったが、チームそのものは'94年に創設者であるジャッキー・オリバーのものとなっている)。

.....そして'91年に中嶋が引退し、'92年いっぱいでホンダがF-1活動を休止、更に'94年にはセナが事故死。プロストやナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケと言った一時代を築いたスター・ドライバー達も続々と引退して行き、日本の"F-1ブーム"は一旦完全に終焉を迎えた。時期的にも内容的にも、日本のF-1ブームは完全にバブル経済と共に歩んでいたのである。

丸晶興産は'90年5月、M&A(合併/買収)によりドイツのヒューゴ&ボスを400億円で手中にしていたが、実は本来日本の大手商社との合併話が進められていた中に丸晶興産が乱入し、強引に奪って行った形となった。これにより、丸晶興産は一時的にマクラーレンのスポンサーとなってもいたのである。しかし、その時点で既に丸晶興産は"火の車"だった、と言う。更に、これだけの強引なビジネスを繰り広げていれば、当然ライバル社からの告発も覚悟しなければならない。かくして'91年、富士銀行から丸晶興産への不正融資額は'87〜'90年の間に2千億円に及ぶと推測され、赤城は懲役10年の判決を受けた。常識的に、2千億円と言う金額が都市銀行の上層部も知らぬ間に動く筈が無く、また当時銀行側が企業に対して積極的に融資を働きかけていたのもまた常識であり、決して赤城だけが犯罪者、と言うわけでも無い。が、本件の銀行側の逮捕者は課長及び課長代理の2名だけで、バブルのツケが回って来るのは常に企業とその代表取締役であった。

では日本人がF-1で行って来た事は、果たして"金を出す"事だけだったのか、と言うとそうでは無い。何故なら、ホンダが技術とレーシング・スピリットで世界の頂点に立った事実があるからだ。しかし、F-1がマネー・ゲームである事もまた事実であり、近代モーター・レーシング(レギュレーション的な意味で)では既に"他者を出し抜く発想"だけで勝利するのは不可能であり、技術/組織/施設等、全ての要素を最もバランス良く保つ事が必要となっているのはフェラーリが証明した通りである。その為には人材や技術を"熟成"して行く事が不可欠であり、前述の4社に足りなかったものは"継続"であった、と言う答が導き出される。正に'87〜'91年が日本経済もF-1人気も頂点であり、そこしか関わっていない彼等にF-1で結果を出す時間がある筈も無かったのである。そして、ホンダは"良い時も悪い時も"、常にレースを続けていた。'65年にF-1での初勝利を挙げ、'86年に世界チャンピオンになるまでには実に21年の歳月があったのである。そう言った意味では、エイドリアン・ニューウィーはレイトン・ハウス時代にとことんまで空力を突き詰め、結果は出せなかったがその後移籍したウイリアムズ・ルノー/マクラーレン・メルセデスに於いて最強のマシン・デザイナーとなったのは、当時自由にやらせてくれたレイトン・ハウスのおかげだった、と言えるだろう。たった千分の一秒を、ほんの数グラムを稼ぐ為にどれだけの実験が必要なのかは我々の想像を遥かに超える世界であり、恐らく赤城の投資無くしてその後のニューウィーの活躍も無かったのでは無いだろうか。



「よし、アレやるぞ」
-'86年、F-2鈴鹿戦後のF-1デモ・ランを観て/赤城 明-


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