| '03年7月20日、F-1第11戦イギリス・グランプリ決勝。12周目、突如コース上に派手なキルトを身につけた男が侵入、走行中のF-1マシンに向けてメッセージの書かれた紙を広げてハンガ-・ストレートを走り始めた。この男は一通りマシンが過ぎ去った直後にマーシャルによって取り押さえられたが、レースはセーフティー・カー導入で大混乱。この侵入者は56歳のアイルランド人神父(自称)で、連行されたノーザンプトン警察の取り調べに対し「世界平和の為」等と説明しているが、イギリスのTV局ITVに対してレ−ス前に予告状を送っていた事も判明。悪質な侵入罪とレース妨害の罪で罰金刑となった。ちなみに'00年ドイツ・グランプリの決勝レース中にも、背中に何かメッセージを書いてそれをアピールしようとコース上を歩いていた男がマーシャルに取り押さえられて警察に引き渡された。この侵入者は、"20年間勤めたメルセデスに健康上の理由から解雇された47歳のフランス人男性"で、Tシャツの背中にはメルセデスに対する不等解雇への抗議文が書かれていた。真横を通過したミカ・サロ(ザウバー・ペトロナス)は「冗談じゃない。彼の横を通った時、340Km/hは出ていたんだよ」とコメント。この男はフランス・グランプリでも同様の行為を行おうとして逮捕されていたが、実はドイツ・グランプリのスタート直前にもコースへ入ろうとしてマーシャルに一度は阻止されていた。何故FIAは彼の行動を未然に阻止出来なかったのか。 .....これはモーター・レーシング史上、相当な"珍事"である。F-1マシンが300km/hで疾走するコース上に侵入する事自体異常な事だが、両者がどうやってサーキット内に侵入出来たのか、がまた謎である。では、グランプリ53年の歴史の中で、所謂"珍事"と呼べるものはいったいどれ程あったのか。恐らく'03年イギリス・グランプリはF-1史上"最新珍事"であろう。ちなみに、コース上に侵入者が入ったこの2レース、勝者は共にルーベンス・バリチェロ(フェラーリ)であった。 '03年、ブラジル・グランプリ。事故で赤旗終了となったレースで、一旦はキミ・ライコネン(マクラーレン・メルセデス)が優勝とされ、表彰台で優勝トロフィーを受け取ったにも関わらず、5日後にはFIAが"計測ミス"を認めて2位のジャンカルロ・フィジケラを優勝とする、と言う事態が発生した。幸い両チーム主脳同士の仲も良く、ポイント・リーダーであったマクラーレン/ライコネン側も、ライバルのフェラーリが2台ともリタイアして無得点だったのに加え、優勝者と2位のポイント差が今年から2点となった為に大きなダメージが無かった、等の"問題になる理由が少なかった"為にスムーズに事が運んだ(これがマクラーレンとフェラーリだったら、きっと揉めに揉めた事だろう)と言える。過去に優勝者がなんらかの"違反"によって失格、2位が繰り上がり優勝、と言う事は何度かあったが、FIAが「間違いでした」とリザルトを訂正するのは史上初めての事であった。 昨年('02年)、またしても舞台はブラジル・グランプリ。ミハエル・シューマッハー(フェラーリ)とラルフ・シューマッハー(ウイリアムズ・BMW)がドッグ・ファイトの末に兄弟1.2フィニッシュを決め、ファイナル・ラップの最終コーナーを立ち上がって来た。が、なんとコントロール・ラインを通過してもチェッカー・フラッグが振られない(3位デビッド・クルサード(マクラーレン・メルセデス)に対しては振られた)。この日、コントロール・タワーでチェッカー・フラッグを持って待っていたのはサッカーの神様/ブラジルの英雄、ペレ。ペレはトップ2台がフィニッシュしたその瞬間、完全によそ見をしていたのである。ミハエルは記者会見で「ガッツ・ポーズをしようと思ったらチェッカーが無いんで焦ったよ」と笑いながらコメント。当のペレは「役員に『どれがブラジル人レーサーなんだい?』と聞いている内にゴールしてしまったようだ」と、全くルールと自らの役割を理解していなかった様子。ちなみに、このレースに出場した3人のブラジル人ドライバーは全員リタイアしていた。 同年ハンガリー・グランプリ、成績不振のアレックス・ユーンに代わってミナルディ・アジアテックをドライヴする事となったBARのテスト・ドライバー、アンソニー・デビッドソン。公式セッション1日目、フリー走行に出て行く際、ピット・レーンの速度制限を3Km/hオーバーし、F-1デビューたった13秒で初ペナルティを受けた。当然過去の"ペナルティ最短記録"である。 同じく'02年、アメリカ・グランプリ。フェラーリ2台の不可解なゴール・シーンを覚えている人も多いだろう。トップのミハエル・シューマッハーは2位のチーム・メイト、ルーベンス・バリチェロと「並んでゴールしたかった」為、ホーム・ストレート上で極端に減速。バリチェロはシューマッハーを"抜いてしまわないように"ゆっくりと斜め後方にマシンをつけるが、シューマッハーがあまりにも遅かった為、フィニッシュ・ラインをほぼ同時に超えた。が、結果は0.011秒差でバリチェロが前でゴール。シューマッハーは「どちらが勝ったのか、自分でも解らなかった」と説明したが、どうやらシューマッハーがフィニッシュ・ラインを1本手前の白線と間違えた、と言うのが真相らしい。シーズン中、フェラーリの1.2フィニッシュに於ける順位操作-所謂チーム・オーダー事件-が問題となっていたが、この時は完全に"間違い"だった。 '00年開幕戦、オーストラリア・グランプリ、幸先良く6位入賞した筈のミカ・サロ(ザウバー・ペトロナス)はレース後の車検でフロント・ウイングの規定寸法違反が発覚し、一転失格となってしまった。原因は、チームが"間違えて"前年型マシン用のフロント・ウイングを装着した為、と言うお粗末なものだった。 '98年にミナルディからF-1デビューを果たしたアルゼンチン人のエスティバン・トゥエロは'78年4月22日生まれ、19歳と320日でのF-1デビューは歴代4番目の年少記録であった(第1位はマイク・サックウェルの19歳182日)。.....が、その後'78年では無く、実は'76年生まれである事が判明、トップ10記録から名前が消えた。年令詐称するF-1ドライバーが他にいたかは不明だが、わざわざ歴代4位の記録を狙った、とは考え難く、現在もその真意は不明である。 '98年イギリス・グランプリ。豪雨の中、首位を行くミカ・ハッキネン(マクラーレン・メルセデス)が51周目にコース・アウト、2位ミハエル・シューマッハー(フェラーリ)がトップに立った。が、シューマッハーに対して"黄旗区間での追い越し"によるペナルティ、10秒間のピット・ストップが命じられた。レースは残り数周、フェラーリのピットは何度もFIAのオフィシャルに説明を求める。明らかに"時間稼ぎ"だ。だが裁決は下り、シューマッハーはピット・ストップしなければならない。だが、当のシューマッハーはファイナル・ラップになってもピット・ロードへは入って来なかった。騒然とする場内。このままでは失格の可能性すらある。だが、チェッカー目前の最終コーナーで、シューマッハーはピットへ向かった。10秒間のペナルティ・ストップを終え、そのままピット・ロードを加速してコントロール・ライン通過。結果はシューマッハーの優勝であった。理由は"FIA側がペナルティをチームに通達するのが遅かった為、ペナルティ自体を取り下げる"と決定したからだった。マクラーレンがFIAに激しく抗議したが却下され、シューマッハーは史上初の"ピット・ロードでの優勝者"となったのである。 '97年最終戦、スペイン/ヘレスでのヨーロッパ・グランプリ。予選で、初のワールド・チャンピオン獲得に挑むジャック・ビルヌーヴ(ウイリアムズ・ルノー)は最初のタイム・アタックで1分21秒072のコース・レコード・タイムを記録。続いてアタックしたのはポイント・ランキング上、ビルヌーヴをたった1ポイントリードするミハエル・シューマッハー(フェラーリ)、タイムはビルヌーヴと全く同じ1分21秒072。更に、ビルヌーヴのチーム・メイト、ハインツ・ハラルト・フレンツェンがコントロール・ラインを通過、タイミング・モニターに表示されたタイムはまたしても1分21秒072。タイム計測は千分の一秒単位にも関わらず、"予選3者同タイム"はF-1史上初の出来事である。当然、「計測ミスでは?」との疑いが出るが、タグ・ホイヤーは「断じてあり得ない」と宣言。ちなみに、スターティング・グリッドは「同タイム記録の場合は先に記録した者が前」と言うレギュレーションに基づき、ビルヌーヴ、シューマッハー、フレンツェンの順となった。 '95年、フットワーク・ハートを駆る我等が日本の井上隆千穂は、第5戦モナコでコース上にストップしたマシンに、第10戦ハンガリーでは炎上したマシンを消化しようと消化器を持っている所を直接、マーシャル・カーに追突された。F-1マシンとマーシャル・カーの接触事故はまれに起こるが、1シーズンに2度も追突されたドライバーは他にいない。 '92年、カナダ・グランプリの予選中、最終シケインのサンド・トラップにマシンが突入、自力で動けなくなって赤旗中断。.....どうって事の無い話のようだが、実はこのマシンは"ペース・カー"。10人以上のマーシャルが5分程かけてようやく救出した。 '91年最終戦、オーストラリア・グランプリは決勝日午前中のウォーム・アップ走行後からドシャ降りの雨となり、スタートが強行されたもののスピン/クラッシュが続出、16周目の時点で赤旗が振られて中断。そのまま天候が回復しなかった為、赤旗2周前の14周目でレースは終了。優勝したアイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)の走行タイムは24分、F-1史上最短レースとなった。 '91年、カナダ・グランプリ。ティレル・ホンダを駆るイタリア人、ステファノ・モデナは3位走行中にタイヤ交換の為ピット・イン、その際「水温が上がりエンジンがオーバーヒート気味なので、ラジエーターに付着した砂を取り除いて欲しい」旨をクルーに伝えるべく、モデナは無線を通じて「water,water!」とクルーに向けて叫びながらラジエーター・パネルを指差していた。すると、ひとりのクルーが大急ぎでピット奥から飛び出し、ミネラル・ウォーターの入ったボトルをモデナに差し出した。.....もちろん、モデナはレース中なのでヘルメットとバラクラーバを着用しており、タイヤ交換が終わり次第コースへと復帰して行ったのでこの水は飲んでいない。 '89年ポルトガル・グランプリ、フェラーリのナイジェル・マンセルはピット・レーンで自分の位置を勢いあまって通り過ぎてしまい、レギュレーションでは禁止されている"リバース・ギア使用"によって、つまりバックしてピット・イン。コースへ復帰したものの、当然失格となった。コントロール・タワーからは"カー・ナンバー27/失格"のボードと黒旗が提示されるがマンセルは走り続け、ピットからのサイン・ボードも無視。挙げ句の果てにトップのアイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)と接触して両者コースアウト。レース後、マンセルは「神に誓って気付かなかった」と弁明するが、罰金+1戦出場停止処分を受けた。セナは"走っていてはいけない者"によってリタイア、'89年のタイトルを逃した。 '87年第10戦オーストリア・グランプリ。ニュースに事欠かない男、ナイジェル・マンセル(ウイリアムズ・ホンダ)はチーム・メイトで最大のライバル、ネルソン・ピケを下して見事に優勝。表彰台へ向かうパレード・カー(トラック)の荷台で興奮して立ち上がり、観客に手を振っていたマンセルは立体交差橋に頭を強打。もちろんヘルメットは脱いでしまっていた。表彰台では喜ぶどころか、濡れタオルで巨大な"タンコブ"を冷やす事に終止していた。 '80年スペイン・グランプリは、実は記録上存在しない。当時、ブラバム・チームのオーナー、バーニー・エクレストン中心としたFOCA(F1コンストラクターズ協会)が開催者側のFISA(国際スポーツ自動車連盟/現在のFIA)と金銭的な権利を巡って衝突、第5戦スペイン・グランプリ初日のフリー走行が終わってからFISAが「当グランプリを選手権から除外する」と発表。FOCA側もストライキを決行し、イギリス系のチーム以外(フェラーリ/アルファロメオ/ルノー/リジェ等)は全てレースをボイコットしてしまった。結局スペイン・グランプリは"ノン・タイトル戦"として行われ、翌第6戦ベルギー・グランプリが公式に第5戦となったのである。 '77年第9戦フランス・グランプリにスイスのジョリークラブ・チームが"アポロン"の名でエントリー。が、実は彼等の持ち込んだマシンは1年前に購入したウイリアムズFW03である事が発覚。オーナー兼ドライバー、ロリス・ケッセルは「これはオリジナル・マシン、アポロンである」と言い張ったが認められず、出走を断念。が、同じマシンで第14戦イタリア・グランプリにもエントリー、この時ケッセルが申請したマシン名は"ウイリアムズFW03"であった。 '77年西ドイツ・グランプリ。地元出身のスポーツ・カー・レーサー、ハンス・ヘイヤーはATSチームから念願のF-1グランプリにスポット参戦するが、無念の予選落ち。しかし、迎えた決勝レース、ホッケンハイム・サーキットのグリッドから24台のマシンがスタートした瞬間、ヘイヤーのATS・フォードがピット・ロードから突如スタート。コントロール・タワーはパニックとなったが、観客は大熱狂。急いで"失格"の黒旗が用意されるが、それ以前にギアボックス・トラブルでリタイア(リタイアも何も、出場資格が無いのだからただ"止まった"に過ぎないが)。長いF-1の歴史の中で、出場権の無い者がレースに出た唯一の事件である。 '75年第12戦オーストリア・グランプリ。"モンツァ・ゴリラ"の愛称で親しまれたビットリオ・ブランビラ(マーチ・フォード)は豪雨のエステルライヒ・リンクでレース短縮が決定し、29周終了時にチェッカーが振られて予期せぬ初優勝。が、興奮のあまりパレード・ラップ中に両手を振り上げ、ガッツ・ポーズをした途端にコントロールを失い、ガードレールにクラッシュ。両足を強打してそのまま病院へと運ばれた。繰り返すが、ブランビラはこのレースに優勝したドライバーである。 '66年、イギリスのA.J.ピアーズは自らのコンストラクター、ピアーズを立ち上げ、4月のF-1ノン・タイトル戦にエントリーし、F-1デビューを飾る事が大々的に発表された。ところが、レースの2日前に2台のマシンを含む"チームの全て"を乗せたトランスポーターが炎上し、ピアーズは一瞬にして全てを失ってしまった。発表直後にロンドンのモーター・ショーに出展して飾られていた際のマシンの写真数点が残っただけで、ピアーズのF-1参戦は夢に終わってしまったのである。 '61年第2戦オランダ・グランプリは、"珍事件"と言うよりも"快挙"と表すべきかも知れない。何故なら、53年におよぶF-1グランプリの歴史の中で、唯一の"出走車全車完走"、つまりリタイア車無し、と言うレースだったからだ。ザントフィールド・サーキットでスタートしたマシンは15台、75周/2時間後のチェッカーを受けたのも15台。逆に、完走率100%がこの1戦しか無い、と言う事実がF-1の過酷さを物語っている。ちなみに優勝はウォルフガング・フォン・トリップス(フェラーリ)、最下位15位はハンス・ヘルマン(ポルシェ)、ただの1度のピット・ストップも無い、完全な"レース"であった。 .....'50年から始まった"F-1世界選手権"だが、実は'51、'52年のレースはF-2マシンで争われていた。これはF-1の規定がハッキリとしていなかった為だが、このように遡れば遡る程、今では考えられないような出来事も"珍事件"では無くなってしまう。当然であろう、まだ何もかもが手探りであったのだから。
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