| .....彼は決して大スターでは無かった。そして、天才的なドライヴィング・アーティストだったわけでも無い。更に、グランプリに何か記録的な数字を残したわけでも無い。が、筆者がかつてヒジョーに"エコヒイキ"したドライバーであり、今も彼がいない事を寂しく想っているドライバーである事は間違い無い。.....つまり、"記憶に残る名ドライバー"シリーズにこそ相応しい、って事だ。よし、彼について書く事にしよう。記録なんか無くたって良い。最高にフレンドリーなあの笑顔がサーキットにあれば、僕らはつい応援しようと想ってしまうのだから。ジャン・アレジに続く我等"昭和39年会"代表、二人目はジョニー・ハーバートだ。 ジョニー・ハーバート、本名ジョン・ポール・ハーバートは'64年6月25日、イギリス/エセックスにて誕生。幼少の頃から落ち着きが無く、生まれついての"いたずらっ子"であったジョニーを何とか芯の通った子に育てようと、父ボブはジョニーをカート・コースへと連れて行った。10歳になったばかりのジョニーは当然のようにカートに夢中となり、近所の子供達へのいたずらも減ったと言う。そしてジョニーの走りの才能は天性のものだったのか、あっと言う間にそのカート・コースで最も速いラップ・タイムを出すようになった。しかし、小柄なジョニーは身長が規則に足りず、レース出場の為のライセンスを受ける事が出来なかった。人一倍負けん気の強いジョニーはひとりで腕を磨き、11歳の時にようやくレースに出場出来るようになる。そしてハーバート家は両親がマネージャーとメカニックを兼ねる、典型的な"レース一家"であり、家族のサポートの甲斐もあってジョニーは'79年に15歳で初めて国内のカート選手権を制覇。この時点ではジョニーの頭の中には"将来はF-1ドライバー"と言う構想が出来上がっていた。「ハイ・スクールで先生に『将来は何になりたいんだ?』と聞かれて『F-1ドライバー』って答えたら笑われたんだ。『そんなのは小学生の夢だ』ってね。だから言ってやったんだよ『先生、小学生はF-1ドライバーになれないんだ。だって、背が小さ過ぎるからね』って!(笑)」ジョニーはその後'83年にフォーミュラ・フォード1600へとステップ・アップし、'85年、伝統のフォーミュラ・フォード・フェスティバルで優勝、シリーズ・チャンピオンも獲得する。そしてこのレースで、ジョニーは運命的な出会いをする。後にジョニーの妻となる、レベッカ(愛称はベッキー)との出会いである。公私共に絶好調なジョニーは翌'86年に遂にイギリスF-3へと昇格、F-3デビュー戦を4位フィニッシュする等好走を見せ、翌'87年には好調なジョーダン・チームに移籍。ベルトラン・ガショー、デイモン・ヒルらを下し、ジョーダン・チームと共に初のチャンピオンとなった。そして、ジョニーのF-3での一部始終を見ていたF-1ベネトン・チームのマネージャー、ピーター・コリンズがジョニーにF-1テスト・ドライヴの機会を与える事となった。「彼はとにかく速かったからね。自分の所のマシンに乗せたらどうなるかを知っておきたかったんだ」そしてジョニーはブランズハッチで行われた初めてのF-1ドライヴでレギュラー・ドライバーよりも速いタイムを記録する。「ジョニーは完璧だったよ」その後もベネトンのテストに何度か呼ばれ、'88年にジョーダンと共に国際F-3000に参戦しながら、遂に翌'89年のベネトンからのF-1デビューが決定。この頃ジョニーはイギリスで"ジム・クラークの再来"と呼ばれていた。「実際、何もかもが上手く行ってるように感じていたよ。そう、あの日まではね.....」順風満帆だったジョニーを、突然悪夢が襲う。 '88年8月21日、国際F-3000選手権第7戦ブランズハッチ戦。"噂のジョニー"を一目見ようと、かのフランク・ウイリアムズまでもがサーキットを訪れていた。レース中盤、1位ロベルト・モレノを猛追する2位ジョニーと3位のグレガー・フォイテックが高速区間で接触、スピンして激しくウォールに激突したジョニーのマシンに、更に後続のオリビエ・グルイアールが突っ込み、現場は大混乱となった。事故現場を通って来た日本の鈴木亜久里が「あれはヤバイ。ジョニーの足がマシンから出てる」とコメント。現場ではジョニーの母ジェーンの叫び声が響き、ガール・フレンドのレベッカは失神していた。ブランズハッチは凍り付いた。まず、ジョニーのレイナードはフォイテックに弾き飛ばされる形でウォールに激突し、フロント・ノーズが大破。そのジョニーのマシンを避けきれなかったグルイアールのマシンに押される形で、再びジョニーはウォールへ、それも今度もフロント部から激突。つまり、ジョニーはマシン前部で剥き出しになった自分の両足からコンクリートへと突っ込んだのである。このクラッシュでジョニーは両足を足首から粉砕骨折と言う重傷を負った(切断しなかったのは奇跡だ)。すぐにマーシャルに救出されて病院へと直行したが、その間ジョニーは意識を失う事無く、むしろガール・フレンドに「心配するな」と声をかけていたと言う。「でも、ひょっとして僕のレーサー生命は終わったのかな、と思ってもいたよ。何しろ、目を明けて最初に見えたのは、マシンのフロント部が全く無くて、そこから僕の足がぶら下がっていた図だったんだから」数日後、ジョニーは見舞いに来たコリンズに「事故のビデオがあったら観せて欲しい」と頼んだ。コリンズは恐らくジョニーがレーサーとしての道を諦めたのだろうと思い、「ショックを受けるかも知れないぞ」と前置きしてからビデオを観せた。しばらくビデオに観入っていたジョニーは「うん.....なるほど、解った」と言った。「何が解ったんだい?」「僕のラインは間違って無かった、つまり事故の原因は僕のミスなんかじゃないって事がさ」コリンズは決意した。「.....コイツは、ただ者じゃない。きっといつかF-1に乗せてみせる」度重なる接合手術と共に、ジョニーの"地獄のような"リハビリテーションが始まった。 が、コリンズの「いつかF-1に.....」と言う長期に渡る決意は肩透かしを食らった恰好となった。何故なら、翌'89年のF-1開幕戦ブラジル・グランプリで、信じられない事にジョニーは予定通りベネトンからF-1デビューを飾ったのである。「ま、楽観的だったかも知れないね。もしもF-1がダメなら、車椅子レースにでも出ようと思っていたからさ(笑)」もっとも、実際は家族と共に歯を食いしばって厳しいリハビリに耐えて来た成果であった。だが、この時点でジョニーの両足は完治とは程遠い状態であった。それだけでなく、ジョニーは自分の足で走るのはおろか、立っている事も出来なかったのである(ちなみに現在もジョニーは走る事は出来ない)。ジョニーはサーキットを松葉杖で歩き、自転車に腰掛けてインタビューを受けていた。当然、こんな状態のハーバートをF-1デビューさせる事にFISAも簡単には納得しなかったし、それ以前にベネトン・チーム首脳陣がジョニーの起用に反対していた。それら全ての要素を解決し、ジョニーにF-1デビューのチャンスを与えたのは、他ならぬコリンズの功績である。ボスのルチアーノ・ベネトンは「解った。おまえ(コリンズ)がそこまで言うのなら、ジョニーの起用を認めよう。だが、もし足の怪我が悪化したり、それが原因で成績が下がったら、例えシーズン中でも交代させる」コリンズはベネトンの提案を了承した。こうして、グランプリ史上初の"松葉杖F-1ドライバー"が誕生した。 木曜日、ジョニーは何故かスーツにネクタイ姿で自転車に乗り、ネルソン・ピケ・サーキットの下見に現れた。猛暑のブラジルで、ス−ツを着ているのはFISAの技術委員とジョニーだけであった。そして予選が始まり、ジョニーはベネトンのエース、アレッサンドロ・ナニーニをひとつ上回る10番グリッドを獲得。日曜日、決勝。なんとジョニーは優勝したナイジェル・マンセル(フェラーリ)から10秒遅れ、3位マウリシオ・グージェルミン(マーチ・ジャッド)からたった1秒遅れの4位でフィニッシュ。誰もが猛暑の中、61周を走り切る事すら不可能だろうと予想していたデビュー戦を、ジョニーは後一歩で表彰台、と言う驚異の成績で終えたのである。「足?、もちろん痛かったよ。だからコックピット内でわざと足をぶつけて、感覚をマヒさせて走ったんだ(笑)」第5戦アメリカ・グランプリでもジョニーは5位入賞。しかし、こんなやり方がいつまでも通用する程、F-1は甘く無かった。次の第6戦カナダでは激痛に耐えられず、予選落ち。ベネトンはこれ以上ジョニーに無理をさせる事は出来ないと判断、ジョニーを降ろしてエマヌエーレ・ピッロと交代させる事を決定。やむを得ぬ事態であった。その後更に、ジョニーの件を機にコリンズも責任を取る形でベネトンを更迭されてしまう。無茶が祟って二人を取り巻く状況は最悪のものとなった。その後ジョニーは国際F-3000でタイトルを争いながらF-1に出場していたジャン・アレジの代役としてティレルから2戦だけF-1に出走するが、見るべきリザルトを残す事は出来なかった。「仕方が無い、まず足を直す為にもっとリハビリをしよう」'90年、ジョニーが選んだ"リハビリ"法は、何故か "全日本F-3000選手権への出場"であった.....。 '90年、ジョニーはチーム・ルマンから全日本F-3000選手権にエントリーするが、全日本F-3000特有のタイヤ性能等に翻弄され、目立った成績は残す事が出来なかった。「全日本F-3000は大変だった。特に3種類ある予選用タイヤの使い方が難しくて、グリップ・レベルも殆どF-1並みだったよ」また、グループC(全日本プロトタイプ・スポーツカー)選手権にも武富士ポルシェを駆ってエントリー、更にはル・マン24時間レースにベルトラン・ガショー/フォルカー・バイドラーと共にマツダ787で初出場(結果はリタイア)。とにかくジョニーにとって、リハビリとは"ドライヴすること"だったのである。 その頃コリンズは、着々と"ロータスF-1チーム買収"に動いていた。このかつての名門チームも、今や資金難と成績低迷で存続が危ぶまれる程となり、'90年にジョニーを追うように日本へと渡り、バーン・シュパン率いるポルシェ・チームのマネージャーをしていたコリンズはピーター・ライトと共にロータスの救済に乗り出す事となった。当然、ジョニーに白羽の矢が立つ事となったが、'90年のF-1第14戦スペイン・グランプリ予選でこの年ロータスからF-1デビューしたマーティン・ドネリー(ちなみにジョニーが大クラッシュしたF-3000ブランズハッチ戦の優勝者)が大事故を起こし、第15戦日本、第16戦オーストラリアの2戦でジョニーが代役出場。このままジョニーはロータスのNo.1ドライバーとしてF-1復帰か、と誰もが思っていた。 ところが、なんと当のジョニーは既に翌'91年の全日本F-3000(引き続きチーム・ルマン)の契約を済ませ、更にル・マン24時間への出場をも希望しており、カレンダー通りF-1グランプリを転戦する事は不可能であった。呆れたコリンズは、"仕方なく"イギリスF-3出身のミカ・ハッキネンと契約し、セカンド・シートに持参金ドライバーを乗せ、ジョニーがF-1に出られる時は交代させる、と言うスタンスを取った。もっとも、この年F-1では8戦のみ出場して最高位7位/ノー・ポイント、しかし全日本F-3000では2位を最高に入賞3回、前年と同じメンバーで望んだル・マン24時間はロータリー・エンジンのマツダ787/Bで初優勝。これら全てのレースをじっと見守る形でジョニーを待ち続けたコリンズに対し、ジョニーは恩返しの意味も含めてロータスと4年と言う長期契約を締結。ジョニーの本当の意味でのF-1デビューは、翌'92年からとなる。 ジョニー初のF-1フル参戦となった'92年シーズン、ロータスは非力なフォード・コスワースV8エンジンを搭載し、ハッキネンとジョニーの布陣で戦い、ジョニーは開幕戦を含む入賞2回でドライバーズ・ランキング14位。だがチーム・メイトのハッキネンがランキング8位の活躍を見せ、常勝マクラーレンへと移籍して行く。もっとも、この年のロータスのマシン・トラブルは圧倒的にジョニーの方に多く、随所で目立った走りを見せてはいた。「ミカが良いリザルトを残す時は、僕のマシンは大抵トラブルでストップしてしまっていた時だった。時には僕の方が前を走っていたのに」'93年、アレックス・ザナルディ/ペドロ・ラミーらをチーム・メイトにロータスのエースとして走り、3度の4位を含む11ポイントを挙げてドライバーズ・ランキング9位となる。この頃、ロータス・チームは完全にジョニーを中心に回っており、ジョニーの明るい人柄も手伝ってチーム・スタッフの多くと信頼関係を築き上げていた。しかしその影で、ジョニーの身に大変な事が起ころうとしていた。'90年代前半のロータスは、トップ・チームに対する技術的な遅れを取り戻す為に"ハイ・テクノロジー分野"への活発な投資を行った。特に、ウイリアムズ・ルノーをチャンピオンへと導いたリ・アクティヴ・サスペンション機能は元々ロータスが'80年代に開発していたものであり、ロータスは独自のアクティヴ・サスペンション開発に相当な金額を費やした。だが、'93年いっぱいで幾つかのハイテク機能が禁止となり、ロータスは"叶わなかった"先行投資の為にまたも資金難に陥ってしまった。'94年、無限ホンダエンジンを搭載したロータスは実質的に"破産状態"であった。コリンズは持ちもの全てを"売り払う"必要に迫られた。そして、コリンズの持ちもので最も高く売れるもの、それが"ジョニーとの契約"であった。 実は、'93年にウイリアムズから、'94年にはマクラーレンからコリンズに対し「ジョニーと契約したい」との申し出があった。しかし、ロータスに必要なその実力とチームの牽引力、更に溺愛心からコリンズはジョニーを手放す気にはならなかった。また、コリンズをひとりのビジネス・マンとして見た際、まだまだジョニーの"売り時"では無かったのだろう。ジョニー自身も「いつかはトップ・チームで走りたかったんだ。僕はこのチャンスを活かしたい」とコリンズに願い出るが、何しろジョニーはロータスと4年と言う長期契約を結んでしまっていた為、コリンズが首を縦に振らないのではどうしようも無かった。 ロータスがドライバー6人をエントリーする悲惨な'94年シーズン、第12戦イタリア・グランプリ開催の裏で、チームは管財人の管理下に置かれた事が発表となった。遂にロータスはその36年の歴史に終止符を打つ事が決定的となったのである。そして予想通り、ジョニーの契約は"売られる"事となった。売却先は、ベネトンのマネージング・ディレクターでありながら、この年リジェ・チームを買収してオーナーとなったフラビオ・ブリアトーレであった。ジョニーはまず、シーズン中にも関わらず第14戦でまずリジェ・ルノーから出走、残る第15.16戦はベネトン・フォードへと移籍する事となった。ブリアトーレはこの3戦で翌年からのジョニーの"配属先"を決めるつもりであった。「たらい回しにされた気分だったね。でも、僕に出来るのは限界ギリギリのドライヴィングだけだった」結局ジョニーはろくなテストも無いまま3戦全てで快走を見せ、'95年シーズン、ブリアトーレはジョニーを新たにチャンピオン・エンジンのルノーV10を搭載するベネトン・チームへと配属した。チーム・メイトは'94年のワールド・チャンピオン、ミハエル・シューマッハー。つまり、ジョニーは"No.2ドライバー"となる事が決定したのである。 ジョニーにとって、ベネトン・チームは決して居心地の良い場所では無かった。確かに"念願のトップ・チーム"との契約だったが、チームは完全にブリアトーレとシューマッハーを中心に回っていた。「ミハエルとも最初は上手く行ってたんだ。でもシーズンが開幕して少しした頃、僕がミハエルと違うセッティングで良いタイムを出すと、彼は僕と話をしなくなった。コリーナ(シューマッハー夫人)にも、『レベッカ(ジョニー夫人)と口をきくな』と言ったりしていた。理解出来なかったよ。でも、恐らくその辺の事はみんなフラビオが決めた事なんだ。彼等は"チーム・シューマッハー"を作ろうとしていたんだよ」ジョニーは徐々にチームのブリーフィングへも参加させて貰えなくなり、スペア・カーや予選用タイヤの優先権も全てシューマッハー中心となって行った。それでも、第4戦スペイン・グランプリではシューマッハーに続く2位でゴールし、1.2フィニッシュを達成。黙って速く走る事以外、ジョニーに出来る亊は無かった。 '95年7月16日、F-1第8戦イギリス・グランプリの舞台はシルバーストン・サーキット。地元レースでジョニーは予選5番手。シューマッハーはウイリアムズ・ルノーのデイモン・ヒルとチャンピオン・シップを賭けて戦っていた。フロント・ロウに並んだふたりはスタートから46周目まで接近戦を戦い、最後はヒルがシューマッハーに突っ込んで両者リタイアとなってしまう。ジョニーはレース序盤にデビッド・クルサード(ウイリアムズ)とアレジ(フェラーリ)をかわし、順調に3位を走行していた。つまり、シューマッハーとヒルが脱落し、ジョニーは初めてF-1グランプリをリードしていたのである。後のアレジはピット作戦が上手く行かずに後退、クルサードに至ってはピット・レーンのスピード違反でペナルティ・ストップを食らって脱落。「これは『もしかして、僕が優勝なのでは.....?』と思っていたよ」ジョニーは61周のチェッカーをトップで受けた。F-1初優勝の瞬間であった。だが、表彰台の一番上に立ったジョニーを最も祝福したのはベネトンの首脳陣では無かった。ガッツ・ポーズを繰り返すジョニーを肩車するのは同世代/同国人としてジョニーの魅力を最大に理解している仲間、2位のアレジと3位クルサード。表彰台の下で涙を浮かべるのは、チーム撤退によって今はそれぞれ別々のチームで働くロータス時代のメカニック達。そして、ひっそりとジョニーを見守っていたコリンズと妻レベッカ。ジョニーは記者会見で「今日、こうして勝てたのも、妻とコリンズ、そして今まで僕を支えてくれた全ての人達のおかげだ。ありがとう」と、感謝の気持ちを述べた。その夜、ジョニーの初優勝記念パーティーはベネトンではなく、ジョーダン・チームが主催するパーティーで行われた。ジョニーは友人であるクルサードやヒルらと共に、一晩中"JONNY B GOOD"を歌い続けた。 シューマッハーは翌年フェラーリへと移籍する事が決まり、チームと上手く行かなかったジョニーも翌年はベネトンが契約しない事を発表した第12戦イタリア・グランプリ、上位陣が続々とリタイアする中、予選8位からクレバーに走ったジョニーが2勝目を達成。記者会見席上では「聞いてくれよ、なんと今日は初優勝のシルバーストンの時と同じ下着なんだ!(笑)」とブチかました。結局'95年は2勝を含む45ポイントを獲得してランキング4位となり、ジョニーは"晴れ晴れと"ベネトン・チームを去った。 翌'96年、ジョニーはフォード・エンジンを搭載するザウバー・チームへと移籍。チーム・メイトはハインツ・ハラルト・フレンツェン。戦闘力では劣りながらも、トップ・チームでの経験を活かして若いチームを引っ張り、第6戦モナコで3位、ランキングは14位。翌'97年はジョニー本人の"ベスト・シーズン"、1年落ちのフェラーリ・エンジンを"ペトロナス"ブランドで使用、3位1回/4位2回の入賞6回でランキング10位、チーム・メイトはニコラ・ラリーニ/ジャンニ・モルビデッリ/ノルベルト・フォンタナ。決して華々しい成績では無いにも関わらず、ジョニー自身はこのあたりがもっとも充実したシーズンだったと言う。「何より、チームが良くまとまっていたんだ。雰囲気もとても楽しかったしね。でも、'98年には状況が変わってしまった.....」ペーター・ザウバーは、'98年のスポンサーからの"スター・ドライバーの獲得"と言う条件を満たす為にジャン・アレジと契約した。そして更に、アレジをエースとして扱う事が条件とされた。これによってまたも居場所を無くす事となったジョニーはこちらも若いチームであるスチュワート・フォード・チームへの移籍を決断。「もう政治的な駆け引きはウンザリだったんだ。ベネトンも、ザウバーも、結局は"誰かを中心に"回って行ったんだよ」ある意味、ジョニーは既に"古いタイプ"のレーサーだったのかも知れない。 '99年、第14戦ヨーロッパ・グランプリ。ドイツ/ニュルブルク・リンク・サーキットでは予選からチャンピオンを争うハッキネン(マクラーレン・メルセデス)/エディ・アーバイン(フェラーリ)/クルサード(マクラーレン・メルセデス)/フレンツェン(ジョーダン・無限)の4人が火花散るバトルを繰り広げていた。スチュワート・チームは元々フォードのワークス・チームとして'97年に元F-1ワールド・チャンピオンのジャッキー・スチュワートが興したチームだったが、翌年はフォードが完全買収し、ジャガー・チームとなる事が決まっていた。レースが始まるとフレンツェンとクルサードはリタイアし、ポイント1.2位のハッキネンとアーバインが下位に低迷、続いてトップに立ったラルフ・シューマッハー(ウイリアムズ・スーパーテック)やジャンカルロ・フィジケラ(ベネトン・プレイライフ)らが次々と脱落し、終わって見れば予選14番手スタートのジョニーが創設3年目のスチュワート・チームで自身3勝目を飾った。チーム・メイトのルーベンス・バリチェロも3位でフィニッシュし、チームの初優勝に歓喜するジャッキー・スチュワートと共に表彰台はスチュワート・チームの鮮やかな純白で染まった。「残り3戦で、ジャッキーに勝利をプレゼント出来て嬉しい。このチームは最高にフレンドリーだった」.....ここまで3勝、全て"幸運"によるものだったのは確かかも知れないが、ジョニーの勝利は、常にあまりにもドラマティックなものばかりであった。 筆者選出、ジョニー・ハーバート、ベスト・レース。3つの勝利ももちろんそれぞれが印象深いが、それまで"フレンドリーな金髪のモテ男"だったジョニーが、筆者の中で強烈に"レーサー"へと変貌を遂げたのが'93年ブラジル・グランプリ。レース終盤、型落ちのフォードHB(シリーズ5)でフォード・ワークス(シリーズ8)のベネトンを駆るシューマッハーと壮絶な3位争いを繰り広げたレースだ。最終コーナーの立ち上がりからパワーで並びかけるシューマッハーを、何度となく1コーナーで押さえるジョニー。ノーズひとつ分ベネトンが先行しても、ブレーキング勝負では負けずに何度も抜き返して行く。残り4周と言う所まで延々ふたりの戦いは続き、最後に抜かれはしたが、あのレースでジョニー/ロータスのファンになった人は多い筈だ。 日本が"F-1バブル"だった頃、日本のTV局によるF-1関連番組にもジョニーは数多く登場した。パドックでも1.2を争うユーモア・センスの持ち主で、ピット・レポーター川井氏とのやりとりは多くのファンを誕生させたに違い無い。ロータス時代にはシャイなチーム・メイト、ハッキネンをからかい、名コンビぶりを発揮して人気者となった。また、全日本F-3000参戦時から日本のレース誌でも特集される等、マスコミを通して"人気者"となった最後のF-1ドライバーかも知れなかった。事実、チャンピオン・クラスのドライバー達が上位を占める人気投票でも、アレジやゲルハルト・ベルガーと共にジョニーの名前は必ず見かけた。近年「昔はドライバーそれぞれが個性的だった」と言う"過去論者"の意見を良く耳にするが、ジョニーはそのキャラクターでファンを魅了したNo.1F-1ドライバーだった。 .....もしも'93年にデイモン・ヒルでは無く、ジョニーがウイリアムズ入りしていたなら状況はどうなっていたのだろうか。アラン・プロストやアイルトン・セナと組んで戦う事は、ジョニーにとってはシューマッハーと組んだ"悪夢の"'95年と同じだったのだろうか。チーム・メイトと優先権を巡る戦いが勃発した時、ジョニーは常に確実に不利であった。それはドライバーとしての腕前では無く、あまりにも政治的な駆け引きに弱い、フレンドリー過ぎるその性格が原因であった。だが、ファンはそんなジョニーを愛して止まなかった事もまた事実である。それはつまり、"ジョニーはタイトル争いをする器のレーサーでは無かった"と言う事になるのだろうか。 '00年、スチュワート・チームがフォードに買収され、チームは"ジャガー・レーシング"となった。ジョニーはフェラーリから移籍のアーバインと共にその初年度のドライバーとなった。が、これは同時にF-1ドライバー、ジョニー・ハーバート最後の年でもあった。第11戦ドイツ・グランプリでジョニーは「来年はアメリカへ行こうと思う。現実的に、僕がF-1のチャンピオン・シップにチャレンジ出来る可能性は、もう無いと思う。長くF-1で戦って来たけれど、そろそろ別の事にもチャレンジしてみたいんだ。もちろん、レース以外の事は考えられないけどね」ジョニーはマスコミを通じてCART及びIRLの各チームに自らをアピールし、'00年いっぱいでF-1から去る宣言をした。第16戦日本・グランプリ、レース終了後、陽が落ちても鈴鹿のグランド・スタンドからジョニー・コールは鳴り止む事は無かった。親友でもあるカメラマンのキース・サットンがジョニーを呼び、ジョニーがピット・ウォールによじ登って手を振ると、グランド・スタンドにはウェーヴが起こった。最終戦マレーシア・グランプリではイギリスのTVコメンテーター、マレー・ウォーカー主催による"ジョニー・ハーバート・フェアウェル・パーティー"が開催され、妻レベッカや両親を初め、パドックで最も人気者である事を証明する200名(!)と言う出席者が集まった(と言うより、その時間パドックはもぬけの殻となり、F-1ドライバー/関係者はほぼ全員出席していた、と言っても過言では無かった)。ハッキネンやクルサードが暴露話を披露し、イギリスのTV局で解説を務める元F-1ドライバーのマーチン・ブランドルはグリッド・インタビューで涙ぐんでいた。しかし、ジョニーは最後まで人前で涙を見せる事は無かった。ラスト・レースでジョニーのマシンはリア・サスペンションが突然破損してバリアに激しくクラッシュ、メディカル・カーで運ばれる結末となった。レベッカは眼を背けず、祈るようにモニターを睨み付けていた。幸いジョニーは自力でマシンから脱出したが、当初は打撲と思われていたが結局足を骨折していた事が判明。レース後ジョニーは「結局、僕のF-1人生は骨折に始まって骨折に終わったよ(笑)。でも、これも運命なのかな」と笑い、F-1を去って行った。足掛け12年のF-1ドライバー生活、出走161回、優勝3回、通算獲得ポイント98点。曲がらぬ足首を使わず、膝から下でアクセル/クラッチ・ワークを行って3度のグランプリ制覇は偉業と言っても良い。だが、ジョニーがF-1に残したものは、数字よりもその笑顔だったのかも知れない。 .....その後新天地アメリカでの契約が思う様に進まなかったジョニー、'01年はシート難民のままアロウズF-1のテスト・ドライバーを務め、再び優勝経験を持つル・マン24時間レースへ復帰し、アウディ・チームからアメリカン・ル・マン・シリーズに参戦。そして先日行われた'03年ル・マン24時間にはベントレーから出走し、見事総合2位を獲得。表彰台で人なつっこく笑うその笑顔は相変わらずジョニー・ハーバートそのものである。
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