| フェラーリ639。F-1の歴史に残るこのマシンは、しかし実戦を走る事は無かった。理由は、639があくまでもテスト用/実験車だったからに他ならないのだが、'88年に製作されたこの639の最大の特徴はフォーミュラ・カー初の"セミ・オートマチック・トランスミッション搭載車"だった事である。'88年と言えば最後のターボ車、マクラーレン・ホンダの16戦15勝と言う圧倒的な強さと、翌年からの3.5リッターNAエンジン規定によって全車自然吸気となる新開発のまっただ中であり、各チーム/デザイナー共に翌年からは全く違うコンセプトでの設計が必要とされていた。御大エンツォ・フェラーリの元、この前人未到の領域に突入し、そして完成させた男の名は、ジョン・バーナードである。 ジョン・バーナードは'46年5月4日、イギリス/ロンドンにて誕生、裕福な家庭に育ったバーナードは19歳の時にオースチンA35を親に買って貰ったが、彼の興味はドライビングよりもメカニズムの方にあった。自らスーパー・チャージャーを取り付けたり、シボレー製のV8エンジンへの乗せ変え等、初の車を手に入れた普通のティーン・エイジャーはまずやらないような事にばかり興味を示していた。バーナードはイギリスのブルネル大学でエンジニアの学位を取り、モーター・レーシング関連の就職先を見つけようと奔走。しかし名刺代わりになる自分の作品を何も持たないひとりの学生にそうそうチャンスがあるわけもなく(しかも初めに売り込んだ相手はマクラーレンだったとか)、卒業後一旦は電球を作る会社へと就職。だが'68年、会社へ通いながらもレース関連の企業へアプローチを続けていた所へ、イギリスの名門コンストラクター、ローラ社のエリック・ブロードレイから誘いがあり、バーナードは念願叶ってマシン・デザイナーへの第一歩を踏み出したのである。バーナード22歳の時であった。 当時、ローラは北米のCanAmシリーズのシャシー製作をメインとしていた。バーナードはローラでフォーミュラ・ヴィーやスーパー・ヴィーシリーズのシャシー・デザイン部門へと入り、基本的なレーシング・カー・デザインを身に付けてからCanAmカー部門へと異動。ここではその後F-1ウイリアムズ・チームのテクニカル・ディレクターとなるパトリック・ヘッドが同僚となった。ふたりは「いつか我々のマシンで、世界最高峰のレースで戦おう」と約束する仲となった。'71年のT260はバーナードの手による初のローラ製CanAm・カーとなり、ジャッキー・スチュワートのドライヴでシーズン2勝を挙げた。しかし、バーナードは当時ローラがF-1への参戦を休止しており、ミドル・クラスを中心とした量産コンストラクーとして成功していた事にやや危機感を持っていた。マシン・デザイナーとして、世界最高峰であるF-1やインディ・カーのマシン・デザインを手掛けたい、と思うのは当然であった。このままローラにいてはトップ・カテゴリーへの挑戦は期待出来ない、と感じたバーナードは、トップ・カテゴリー・チームへの移籍を考え始めた。そしてそれは、同僚のパトリック・ヘッドも同じであった。丁度その頃、マクラーレンが"斬新な発想を持つ若手デザイナー"を探している、との情報を聞き付け、バーナードは即座に行動に移した。当然、学生時代に売り込みに行った事は黙っていたが、バーナードはローラでの実績が買われてマクラーレンに採用された。'72年にチーフ・デザイナーであるゴードン・コパックのアシスタント・エンジニアとなり、そこから3年間の間にインディ・カーのM16C、F-1のM23、そしてF-5000用のM25等のデザインに関わった。特にF-1のマクラーレンM23・フォードは'74年にエマーソン・フィッティパルディ、'76年にジェームズ・ハントがワールド・チャンピオンとなり、ジョン・バーナードの名は瞬く間に欧州のモーター・レーシング関係者に知れ渡る事となった。 '75年、バーナードは彼の手腕に目を付けたインディ・カー・チームのパーネリーからのスカウトにより、マクラーレンを離れ、初めてアメリカへと渡る。ここでもバーナードはインディ用のVPJ6B、F-1用のVPJ4のデザインを担当するが、'77年いっぱいでパーネリー・チームそのものが解散。バーナードは「まだやり残した事がある」とそのままアメリカに残り、CanAm時代にはライバルだった、名門シャパラルのインディ・カー部門へと加入する。バーナードのデザインした2Kは車体下部の空気の流れに着目した、所謂"グランド・エフェクト・カー"で、'80年の第64回インディ500でジョニー・ラザフォードのドライヴによって優勝。だが、モーター・レーシングに於いてショー的要素が大きなアメリカでは、"マシン設計者"であるバーナードの功績が評価される事は殆ど無かった。アメリカに失望したバーナードはイギリスへと戻り、ウェンブリーに自らの拠点を置いてフリーのデザイナーとして活動、マーチのインディ・マシンのデザイン等を手掛けていた。だがその頃、ひとりの男がバーナードに関心を持っていた。 '70年代にF-2やF-3で成功したロン・デニス率いるプロジェクト3が次に行う事は、F-1への挑戦以外の何物でも無かった。当初デニスはバーナードをチーフ・デザイナーに迎え、独自のイギリス・チームによるF-1参戦を目論んでいたが、デニスはF-2時代にマールボロのF-2チームを率いて好成績を挙げていた事から、当時不振に喘いでいたF-1マクラーレン・チームの再建に力を貸して欲しいと依頼され、新たにバーナードを迎えてプロジェクト4を結成。結局プロジェクト4は'80年、マクラーレンとの合併により、"マクラーレン・インターナショナル"としてスタートする事となった。6年振りにマクラーレンへと再加入する事になったバーナードは、それまでのマクラーレンのマシン設計論(ちなみにデザイナーはバーナードの最初のF-1キャリアに於ける上司、ゴードン・コパックであった)を「全てゼロからやり直す必要がある」と判断。そしてここから、バーナードの本当の意味でのF-1キャリアが始まって行く。 バーナードはまず、当時アルミ・ハニカム素材が常識であったシャシー素材に炭素繊維から成るカーボン・コンポジットを導入した。カーボンは剛性に優れ、かつ軽量と言うメリットを持つが、まだ高価でしかもイギリス国内には開発しているメーカーすら無い状態であった。しかしバーナードはカーボン導入を諦めず、結局アメリカから輸入する事で開発を進めた。完成したF-1初のカーボン・モノコック車、MP4/1・フォードは'81年、ジョン・ワトソンの手でマクラーレン・チームに4年振りとなる勝利を齎した。翌'82年にはそれまでのプル・ロッドに代わり、F-1では初となるプッシュ・ロッド式サスペンションを導入、4勝を挙げてコンストラクターズ・ランキング2位。'83年にはバーナードの希望でエンジンをハイ・パワーのTAGポルシェへとスイッチし、新たに製作したMP4/2が'84年にニキ・ラウダ、翌'85年はアラン・プロストにタイトルを齎す。しかし'86年、最強のホンダ・V6ターボを搭載したウイリアムズFW10に完敗。ドライバーズ・タイトルはプロストが獲得したものの、コンストラクターズ・タイトルを奪われてしまう。そしてこのウイリアムズFW10はウイリアムズ初のカーボン・モノコック車であり、このマシンをデザインしたのはかつての同僚、パトリック・ヘッドだった。 バーナードのデザインの源となるのは常に"新しいアイデアの導入"であった。この時ウイリアムズ・ホンダに出来てマクラーレンに出来なかった事はチャンピオンであるが故の"冒険"であったとバーナードは感じ、徐々にロン・デニスとの関係に影響を及ぼし始めていた。自分は常に新しいアイデアにチャレンジして行きたい、と願うバーナードと、防衛の為に前回勝利したアイデアは次回にも繋げるべき、とのデニスとの意見の食い違いはしばしば激突を生んだ。'86年終盤、バーナードは名門フェラーリからのスカウトを受けた。しかし、当時フェラーリはどん底にいた。バーナードは'85年ドイツ・グランプリでのミケーレ・アルボレートを最後に勝利に見放されていたフェラーリに加入する事に決めた。理由は「チャレンジングだったから」に他ならない。フェラーリでバーナードが最初にやるべき事は、グスタフ・ブルナー設計のF187をモディファイする事だった。'87年シーズン序盤を前年同様に苦しんだフェラーリだったが、バーナードの改良によって終盤の日本・グランプリでゲルハルト・ベルガーの手によってフェラーリに2年振りの勝利を齎した。そして同時に、御大エンツォ・フェラーリからの"今までに無い革新的なマシンを作って欲しい"との要望を受け、バーナードは翌'88年、自らイギリスに設立したGTO(ギルフォード・テクニカル・オフィス)に於いてF-1では前人未到の"セミ・オートマチック・トランスミッション"の開発を行う。フェラーリがマラネロ以外でマシン開発を行う事を認めたのも初めての事だったが、それだけこのプロジェクトが極秘裏に進められた、と言う証でもある。そしてそれはコード・ネーム"639"と名付けられた。 '88年初夏、予定よりも大幅に遅れてフェラーリのテスト車両、639は完成した。翌年からのレギュレーション変更用に3.5リッターNA/V12エンジンに、電磁クラッチを持つ7速セミ・オートマチック・トランスミッションを搭載したこのマシンに従来のシフト・ノブは無く、ステアリングの左右にパドル・シフトが取り付けられていた。現在では当たり前の"右がシフト・アップ/左がシフト・ダウン"と言う、今ではお馴染みの仕組だ。ユーロ・ブルン・チームのF-1ドライバー、ロベルト・モレノがテスト・ドライバーを務め、639はF-1の常識を覆す快走を見せた。最大のメリットは、ドライバーが右手をステアリングから離す必要の無い点と、ミス・シフトによるエンジンのオーバー・レヴを防げる点である。だが、この画期的な639の年内実戦投入を巡り、推進派のエンツォ/バーナードと保守派のチーム首脳陣との間で確執が起きた。チーム内での統率を取るのが苦手な事で知られる当時のフェラーリでは、冒険的なアイデアを導入する際に意見を取りまとめる者が不在であった。更に8月にはエンツォが急逝し、バーナードの立場は更に弱くなってしまう。結局セミ・オートマチック・トランスミッションは翌'89年からの実戦投入に向けてモディファイする事となり、バーナードはGTOで更なる開発を行った。しかしチームとバーナードの間には完全に溝が出来てしまっていた。バーナードは「フェラーリはマクラーレンにみすみす15勝をプレゼントしたようなものだ」と皮肉たっぷりに語った。結局バーナードは'89年用に639の発展型、640を残してフェラーリを去り、新興のベネトン・チームへと移籍する事となった。だが皮肉にも、彼のフェラーリ640はセミ・オートマチック・トランスミッションの初期トラブルが解決されたレースでは快走を見せ、開幕戦のナイジェル・マンセルを初めとし、'89年シーズンに3勝を挙げる活躍を見せたのである。 '90年、バーナードがロリー・バーンと共に手掛けたベネトンB190は、非力なフォードV8エンジンを使用しながらも時折マクラーレン/フェラーリ/ウイリアムズらを凌駕する活躍を見せた。が、水面下で密かにF-1進出を目論む日本のトヨタのオファーにより、バーナードはベネトンを離れてトムスでトヨタF-1のデザインに関わる事となる。しかし結局トヨタのF-1参画そのものが大幅に遅れる事となった為、このマシンが実際に製作される事は無かった。'93年からは再びフェラーリへとカム・バック、新たにFDD(フェラーリ・デザイン&ディベロップメンツ)でF93A、412T1、412T2の設計に関わるが、パトリック・ヘッド/エイドリアン・ニューウィー率いるウイリアムズにフェラーリは完敗、バーナードは責任を取らされるような形で'95年にチームを離脱。だがこの頃のフェラーリの最大の問題は、既に時代遅れとなっていたV12エンジンに他ならない。 '97年、バーナードはかつての部下となる人物達と新たに起こした"B3・テクノロジー"の代表として、F-1では常にB級でしかなかったアロウズ・チームでマシン・デザインを手掛ける。しかしバーナード設計のA19は、従来のアロウズのマシン製作費用の3倍とも言われる予算を掛け、結果的にエンジン代金に回す予算を食い尽くしてしまった為に成績を残せず、バーナードは1年でアロウズを離脱。次に、マクラーレン時代にタイトルを分かち合ったアラン・プロストのチームへと参加するが、こちらも慢性的な資金不足に振り回され、思うような戦闘力を発揮するには至らなかった。結局その後アロウズ/プロスト共にチーム破産と言う結果となるが、これがバーナード及びB3・テクノロジーの"巨額の開発費用"と無関係である、とは決して言い切れないのも事実である。 その冷静な態度と、自らの新しいアイデアへの野望の為には人間関係や金銭感覚を無視する冷たい"機械優先人物"のようなイメージのあるバーナードだが、人間臭いエピソードももちろんある。'90年、ベネトンで共に戦ったアレッサンドロ・ナニーニはイタリア人としてこれ以上の名誉は無い、と言っても過言では無い程の"フェラーリからのオファー"に対し、「来年もバーナードのマシンで走りたい」と、ベネトン残留を選択。だがその心意気も空しく、ナニーニは第15戦日本・グランプリを前にヘリコプター事故で右腕を切断。丁度その頃、かつてフェラーリ639のテスト・ドライバーを務めたロベルト・モレノの在籍する"万年予備予選落ち"チーム、ユーロ・ブルンが経営破綻し、チームは日本・グランプリへの不参加を決定。突然F-1浪人となったモレノにバーナードが声を掛け、急遽ベネトンのセカンド・ドライバーとして起用。迎えた日本・グランプリではエースのネルソン・ピケが優勝し、モレノも2位でフィニッシュしてベネトン初の1.2フィニッシュを達成。翌'91年に主脳陣との確執も覚悟でモレノを正ドライバーとして採用する事をチームに直訴、ところがシーズン半ばでモレノが一方的に解雇(所謂、ミハエル・シューマッハーを巡るジョーダンとの一件である)されると、「サンドロ(ナニーニ)もモレノもいないチームに未練は無い」と、ベネトン・チームに辞表を叩き付けて辞めて行ったのである。 プロスト・チーム解散後、その動向が伝わって来なかったバーナードだったが、'03年、バーナードは突如MotoGP世界選手権のチーム・ロバーツへ加入し、テクニカル・ディレクターとしてプロトン・KRのV5/4ストローク・マシン開発を手がけている。新たな挑戦にバーナードが選んだのは全くの新天地だったのだ。数年後、今までの2輪の常識を覆すような革新的なアイデアを持ったMotoGPマシンが登場するかも知れない。
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