| コーリン・チャップマンのロータス79の登場により、F-1がグランド・エフェクト・カー時代へと突入した'70年代後期。当然のようにライバル・チームのデザイナー達はロータス79の持つ空力性能に驚愕し、この画期的なアイデアに遅れを取ってはならない、と追従を始める。そして'78年にロータス79がダブル・タイトルを奪った翌'79年、開幕戦アルゼンチン・グランプリのグリッドには"ロータス79のコピー"としか思えないマシン達が勢揃いしていた。ティレル009、マクラーレンM28、ウルフWR7.....。そのどれもが、シルエットだけではロータス79と区別が付かないような"そっくりさん"であった。更に、彼等が搭載するエンジンもまた、ロータスと同等のスペックを持つコスワースDFV。いったい誰がこの"そっくりさんレース"を勝ち抜けて来るのか、世界中が注目していた。が、レースは意外な結果に終わる。予選ではフロント・ロウを独占し、決勝でも圧倒的な速さを見せて勝ったのはフランスのリジェが送り込んだニュー・マシン、リジェJS11だったのである。 リジェ・チームのオーナーであるギ・リジェは'30年7月12日フランス生まれ。'40年代にラグビー選手として活躍、その後ブルドーザーを販売する会社の経営やフォード・フランスのディーラー、更にフランソワ・ミッテラン大統領の運転手兼ボディ・ガード等を経験、自ら2輪レースやF-1に出場経験もある('66年/クーパー)。だがリジェと共に走っていた同国の親友、ジョー・シュレッサー(ホンダ)が'68年に事故死し、それを機にリジェ自身もレーシング・ドライバーを引退。その後ミッテラン大統領との繋がりからフランス国営企業のバックアップを受け、デザイナーのミッシェル・テツと共に"フランス・ナショナル・チーム構想"を目論んでリジェF-1チームを設立、'74年に同国のマトラ・エンジンを搭載したリジェJS1でコンストラクター・デビューを飾った(マシン型式番号の"JS"は亡き親友、シュレッサーのイニシャルである)。チームは'76年スウェーデン・グランプリでフランス人ドライバーのジャック・ラフィーが初優勝するが、'78年まではラフィーのみの1カー・エントリーを続け、F-1にターボ・エンジンを持ち込んで来た同じフランスの国営企業であるルノーに対し、体制面では一歩遅れを取っていた。更にV12エンジンをリジェだけにワークス供給していたマトラ社が'78年いっぱいでのF-1撤退を決め、'79年に向けてリジェは苦境に立たされてしまう。ジェラール・ドゥカルージュとミッシェル・ボージョンを中心とした開発チームは、結局他チームと同様のスペックを持つコスワースV8を使用した'79年型のニュー・マシンを、"ロータス79のコピー"、グランド・エフェクト・カーで乗り切る事にする。アルミハニカム・モノコックにロッキング・アーム式サスペンション、と言うアイデアは当時のライバル・チームとなんら変わらないものであった。しかし、初めて軽量コンパクトなコスワースV8エンジンを搭載するにあたり、リジェ・チームには他に選択肢等見当たらなかったのである。だが、こうして完成したリジェJS11は、結果的にロータス79とはルックス的にはかなり異なったデザインとなっていた。'78年11月に行われた新車発表会でドゥカルージュとボージョンは自信を見せた。エッフェル研究所の風洞施設から誕生したこのマシンを、ドゥカルージュは「このマシンは設計以前にまず風洞実験からスタートした。前作JS9は空力面の失敗が大きかったから、まず風洞でデータを出して、そこからデザインを煮詰めて行ったんだ」と説明。ロータスより明らかにふっくらとした印象のJS11の最大の特徴は、ショート・トレッドとロング・ホイール・ベースから来る、"短いノーズ"と"長いサイド・ポンツーン"であった。フロント・タイヤのすぐ前に突き出たノーズと、後方へ向かって逆翼型に大きく跳ね上がるボディ・カウル。実は結果的にこの2点がJS11の性能を決定的に左右する事になるのだが、チームはこの時点でまだシェイク・ダウン・テストを行っていなかった。「ひょっとしたら、フロント・ウイング無しで走るレースもあるかも知れないね」とボーションは笑った。更にチームはエース・ドライバーのラフィーに加え、新たにティレルから移籍のパトリック・デパイエを迎え、チーム初の2カー体制で'79年シーズンを戦う事となった。シェイク・ダウン・テストが行われたポーリ・リカール・サーキットでデパイエは「乗り込んでほんの5〜6周でこのマシンの全てが解ったんだ。とんでもなく"速い"って事がね」とJS11をベタ誉めした。ラフィーの方はクールにニヤけるだけであった。 '79年開幕戦アルゼンチン・グランプリ。開幕前の予想では前年の覇者であるロータスが今年も圧勝、次点でマクラーレンかフェラーリ、と言うのが周囲の意見であった。少なくとも、リジェがタイトル争いをする程の力をつけて来る、と予想した者は皆無に近かった。が、いざ開幕戦が始まるとリジェ2台はあっけない程の速さで予選でフロント・ロウを独占。3位カルロス・ロイテマンの"本家"ロータス79はポール・ポジションのラフィーから1秒以上も離されてしまっていた。以下前述のマクラーレンM28/ティレル009ら"ロータスのそっくりさん"組と、我が道を行くハイ・パワーV12のフェラーリ312T3が続く。決勝はスタート直後に8台がクラッシュする多重事故で赤旗となり、再スタートが切られるとデパイエがトップを奪う。11周目にはラフィーがデパイエをパス、その後デパイエ車にエンジン・トラブルが発生し、緊急ピット・インするが修復のしようも無く、そのまま4位でコースへと復帰。結局ラフィーが2位ロイテマンのロータス79を15秒リードし、リジェJS11はデビュー・ウィンを飾った。レース後、ラフィーは「あと1秒速く走る事も可能だった」とコメント。続く第2戦ブラジル・グランプリ、またもフロント・ロウからスタートしたラフィーとデパイエは他車をまったく寄せつけず、今度こそ完璧な1.2フィニッシュでレースを終えた。リジェは丁度1年前のマリオ・アンドレッティ/ロニー・ピーターソンのロータス79の再現を見るかのような、無敵のスタートを切ったのである。 リジェJS11の速さの秘密は、前述の通り"ショート・トレッドとロング・ホイール・ベース"であった。何故なら、当時一般的に用いられた手法では前方からの空気の流れを最大限にマシン後方へと流す為には、ある程度のサイズ/トレッドが必要であるとされた。だが、JS11は前輪を前方に配置した為にフロント部に大きなスペースを持つ事が出来ず、結果的に前輪後方のマシン横部分から後輪へ向けて後方が長くなるロング・ホイール・ベース車となった。その分、本来エンジン部を通ってマシン後方へと流れる空気を、長くなったマシン後方へ向けて跳ね上がる形状の"スパッツ"を使ってリア・ウイング付近へと送り出す必要が出て来た。何故なら、マシン下部のベンチュリー効果を期待しても、エンジンとギア・ボックス部分の整流はその長さ故、不可能だったからである。しかし、これがJS11に決定的な"空力性能"を齎した。他チームがマシン下部の整流効果に気を取られている間に、マシン全体を使って後方へ空気を流す手法を、リジェは風洞によって発見していたのである。リジェはこの"大発見"によってチーム創設以来4年目にして、遂に念願のダブル・タイトル獲得へ向けて"楽勝ムード"さえ漂わせていた。ギ・リジェは「これでフランス・ナショナル・チームによるタイトル獲得は確実」と信じた。 ところが、第3戦南アフリカ、第4戦アメリカ西・グランプリではリジェは全く振るわず、2戦連続してジル・ビルヌーヴ/ジョディ・シェクターのフェラーリ勢に1.2フィニッシュを許し、第5戦スペインでデパイエが勝利するものの、第6戦ベルギー、第7戦モナコとフェラーリのシェクターが連勝。第8戦地元フランス・グランプリを前に、あろうことかデパイエがハンググライダーの事故で両足を骨折、戦線離脱となってしまう。急遽デパイエの代わりにジャッキー・イクスがラフィーのチーム・メイトとなるが、結局この年リジェはこれ以上の勝利を挙げる亊は出来ず、更に2台ともリタイアしたレースは6戦を数え、念願のダブル・タイトルはまんまとフェラーリにさらわれてしまうのである。順風満帆に見えたリジェに、いったい何が起こったのか。 とりわけ、JS11の弱点が顕著に現れたのが"バンピーな高速コース"であった。あまりにもグランド・エフェクト/ベンチュリー効果に依存していたJS11は、当然の弱点として"シャシー剛性とサスペンション・バランス"と言う問題を抱えていた。つまり、極度のダウン・フォースを必要とするサーキットではマシンそのものの安定性が非常にナーバスになり、アップ・ダウンを繰り返すバンピーな路面での高速走行時にはダウン・フォース量の変動によってマシンが跳ねてしまうのである。所謂、典型的な"ポーポシン現象"であった。もっとも、これはどのチームも抱えていた問題だったのだが、リジェはシーズン途中に風洞施設を設計段階のエッフェル研究所から別の場所へと移してしまい、結果的にそれまでの蓄積データを全く使い物にならない物にしてしまう、と言う大失態を犯してしまったのである。迷走を始めたリジェはこの問題を解決する事が出来ず、皮肉にもシーズン前にボーションが語った通り、第13戦イタリア・グランプリではフロント・ウイングを取り外してレースに望むが効果は全く現れなかった。最終的にチームはコンストラクターズ・ランキング3位、ラフィーはドライバーズ・ランキング4位、と言う過去最高の形で'79年シーズンを終えるが、JS11の開幕2戦での衝撃は、最終戦では既に過去のものとなっていた。 翌'80年、リジェはJS11の改良・発展型であるJS11/15を製作。だがJS11のモノコックに新しいサスペンションとサイド・ポンツーンをレイアウトしたこのマシンは相変わらずコースによってその特性に左右され、今度はリジェよりも先にポーポシン問題を解決したベンチュリー・カー、ウイリアムズFW07とアラン・ジョーンズにタイトルを獲られてしまう。リジェはコンストラクターズ選手権こそ過去最高の2位となるが、これ以降、リジェがタイトル争いに絡む活躍を見せる事は無かった。オーナーであるギ・リジェのフランス・ナショナル・チームによる世界制覇の夢は、ここから徐々に低迷の道を歩んで行くのである。 リジェはJS11で完全にF-1を"掌握"した。だが、どのチームも試行錯誤を繰り返す過度期に於いて、ある種の"発見"に近いこのようなアイデアは他チームに対する"更に明確な答への大きなヒント"となってしまった。そのヒントを最大限に活かす事で最高のマシンは生まれ、それを模倣し、研究/学習する事によって更に上を行く傑作が誕生する。タイトルを獲得するコンストラクター達はその流れを自分達のチーム内で回して行く事が可能であり、それが出来なかったリジェは結局、チームそのものが"二流"であった事を意味する。いずれにしても、'79年と言うグランドエフェクト全盛期に於けるリジェJS11は傑作中の傑作であった。それは、翌年JS11を"最大のお手本"とした"一流"、ウイリアムズFW07のチャンピオン獲得、と言う事実が証明しているのである。
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