■lap52-"記憶に残る名ドライバーvol・3"/ミカ・ハッキネン-
2003.06.06


フィンランド。人口僅か500万人、北欧スカンジナビアの"白夜の国"として知られるこの小さな極寒の国からは、幾人もの偉大なレーシング・ドライバーが現れている。中でもラリーに於いては"砂漠のライオン"ことアリ・バタネンを始め、トミ・マキネン、ユハ・カンクネンら優秀なラリー・ドライバーを多数輩出し、フィンランドと言う雪国から受ける"悪路"や"氷上"と言ったイメージから、きっとスライドしながらの運転には慣れているのだろう、と言うのが我々凡人の"あさはかな発想"である。が、この国から世界へと飛び出したレーシング・ドライバーは、トラック上でも幾多の飛び抜けた才能を見せ付けてくれた。元祖"フライング・フィン"ことケケ・ロズベルグは'82年のF-1ワールド・チャンピオン。フィンランド人としては初のF-1チャンピオンである。そのロズベルグが祖国から連れて来た1人の若者が'91年のF-1開幕戦、アメリカ・グランプリの舞台、フェニックスにいた。白い肌、ブロンドの髪、線の細い身体。前年のマカオF-3での戦いを知る者達からは「"泣き虫ミカ"がF-1に来た」と言われた。しかし、ロータス・チームのピーター・コリンズは「彼はアイルトン・セナの再来だ」と感じていた。いずれにしても、ひとりのフライング・フィンがF-1デビューした事に変わりは無かった。ここに、ミカ・ハッキネンの歴史が始まったのである。

ミカ・パウリ・ハッキネンは'68年9月28日、フィンランドのバンターにて海上無線の技術者の父の子として誕生。オリンピックで有名なヘルシンキの近くで生まれ育ったミカは、幼い頃からスピードに取り付かれていたようである。4歳の時に買って貰ったモペット(モーターの付いた自転車)に夢中になり、6歳の時には既に初レースを体験している。そしてそのスピード熱はカート・レースへとミカを誘った。当然、両親は「学校の成績が下がったらレースは禁止」とミカに宣言、ミカは猛然と勉強を始めた。「学校に向かう途中に長い坂道があって、そこを夏は自転車で、冬はスキーで、とにかく全力で駆け抜けるんだ。"昨日よりも速くあのカーブを回ろう"と、毎日チャレンジしていたよ」きちんと勉強するミカに両親は最大限のサポートをした。毎週末はミカのクラブ・レースの為にミカの姉、ニナと共に付き添い、決して裕福では無かったが資金的にも全面的に協力した。何故なら、それはハッキネン家が"ひとつになれる"大切な瞬間だったからだ。「今思えば、両親は決して楽では無かったと思う。'86年に僕が外国でレースをするようになるまで、常に付き添ってくれたんだから」だが、冬の間はトラックでのレースは出来ない。ミカはラリーやジム・カーナへの可能性は考えなかったのだろうか。「多分、泥んこになって森の中を走り回るのが嫌だったんだと思うよ(笑)」結局オープン・ホイールを選んだミカは、'82年のクラブ・チャンピオンを初め、'83年〜'86年まで、4年連続でフィンランド・カート・チャンピオンに輝く。そして'87年にFF-1600にステップ・アップすると、圧倒的な強さでスカンジナビア選手権のほぼ全てを総ナメにする。そしてここで、ミカはある男と出会う。ピット・ロードで堂々とタバコをふかしながら歩くサングラス姿は、ミカにも見覚えがあった。母国フィンランドが生んだF-1チャンピオン、ケケ・ロズベルグであった。ロズベルグはミカに「君のマネージメントを引き受けたい」と申し出た。ミカは感激し、二つ返事で了承した。「ミカは18歳だったが、既にほぼ完璧だった。才能、センス、判断力、そして勝利への執着心。たったひとつ、免許を取ったばかりの乗用車の運転だけは酷いものだったが(笑)」ミカはこれ以上無いサポートを得る事となり、"ファミリー・レーサー"からプロのレーシング・ドライバーへと成長する。「自動車レースが仕事だ、って事をそれまで知らなかったんだよ。レースって言うのは、お金を払ってやるものだと思っていた。それが、初めて"仕事"になった」ミカは、ロズベルグの助けでレースの本場、イギリスへと向かった。

'88年、GMロータス・ユーロ選手権で4勝を挙げてチャンピオンとなり、ブリティッシュ・ボクゾール・ロータスでは3勝を挙げてランキング2位。'89年にはイギリスF-3へ参戦。しかし、ノン・タイトル戦を除いてミカは1勝も挙げる亊が出来ず、ランキング7位でシーズンを終了する。「この時初めて解ったんだ。大切なのはチームとの結束で、決して僕ひとりで戦っているわけじゃない。チーム全員がひとつにならなきゃいけない、って事を、家族のサポートで走っていた僕は解っていなかったんだと思う」翌'90年、名門ウエスト・サリー・レーシングへ移籍したミカは開幕から4連勝を達成。しかし、ミカのイギリスF-3制覇の前に立ちはだかる男がいた。彼の名もまた、ミカ。同郷(生まれた町も一緒)出身で、常にミカと戦って来た1歳年下のレーサー、ミカ・サロである。当時"ミカ・ミカ対決"と言われたライバル、サロは同じく'89年からイギリスF-3へと参戦していたが、フィンランドのカート・レース時代から常に一緒に表彰台へと上がって来た好敵手である。とは言え、決してふたりのミカは仲が良かった、と言う訳では無いようだ。「どちらかと言うと、『またコイツか』みたいな感じ(笑)。でも、彼はいつも速かったよ」ミカは彼等の対決を煽るプレスの言葉に惑わされぬよう、レース前は早めにコックピットに座った。そしてゆっくりと眼を閉じ、これから走るコースをイメージして両手を掲げ、最後に両手を叩いて気合いを入れた。ミカ独特のこの"儀式"は、かつてロズベルグがプレッシャーに曝された時、大先輩のF-1ドライバー、ジェイムズ・ハントから「スタート時に集中力を高めろ」とアドヴァイスされた事を伝えた事を機に始まったものであった。そしてミカは'90年のイギリスF-3のタイトルを獲得した。17戦中9勝、ポール・ポジション11回、ファステスト・ラップ10回は'83年のセナの記録に次ぐものであった。だが、忘れてはいけないレースが残っていた。"F-3世界一決定戦"の別名を持つ、伝統のマカオF-3である。

15周ずつの2ヒート制で行われるマカオF-3で、ミカは第1ヒートを2位に2秒差で勝った。つまり、第2ヒートでは、例えその2位のドライバーが優勝しても、その2秒差以内でフィニッシュすればミカの総合優勝となる。そしてその2位のドライバーこそ、将来のミカの最大のライバルとなるドイツF-3チャンピオン、ミハエル・シューマッハーであった。迎えた第2ヒート、スタート良くトップを奪ったシューマッハーを、慎重にミカが追う。「そのままフィニッシュすれば僕の総合優勝だ、と言う事は解っていた。でも、僕の中の"勝ちたい"と言う欲は、最終ラップで遂に我慢を通り越したんだ」ミカはシューマッハーのスリップ・ストリームから抜け出した。が、シューマッハーは突然走行ラインを変え、ミカはシューマッハーのリア・ウイングへ追突。ガード・レールにクラッシュしてリタイアとなった。ミカ以上に勝利に周着したドライバーに、ミカは負けたのだ。ミカはバラバラになったマシンから飛び出し、そのまま大声でわめきながらガード・レールを殴り続けた。が、ミカはシューマッハーのドライビングに対して怒っていたわけでは無かった。冷静さを欠き、目前の勝利を棒に振った自分を責めていたのである。手が付けられない、と判断したコース・マーシャルが応援を呼び、泣き叫びながらガード・レールを殴り続けるミカをピットまで連れて帰った。表彰台では、マカオ総合優勝を果たしたシューマッハーと2位のサロ、そして3位に入った国際F-3000からスポット参戦したイギリス人、エディ・アーバインが笑っていた。

'90年のオフ、ミカはロズベルグから「ロータス・チームと話が付いた。F-1に行け」と言われる。「驚いたけれど、すぐに『OK!』と返事したよ。でも、ブレーキングやGフォース、それに精神的な強さや年間を通じて旅する生活まで、全てが初めての事ばかりだったから、正直言って不安はあった。でも、それ以上にワクワクしていたよ」しかし、当時のロータスは決して良い状態では無かった。むしろ、かつての名門の面影は全く無く、'90年でキャメル・タバコのスポンサードを失い、資金難+テスト不足で戦闘力は望めなかった。そして迎えた'91年開幕戦フェニックス、ろくなテストも無いままぶっつけ本番に近い形でのミカのF-1デビュー戦。初日のブリーフィングで、チャンピオン・ナンバーを付けたセナが「ようこそF-1サーカスへ。good luck!」と、わざわざミカに言いに来た。「最高に嬉しかったよ!。だって、他の誰ひとり、僕に声をかけて来る人なんかいなかったんだから」ミカは予選通過26台中13番手につけた。当時のロータス・ジャッドV8+新人ドライバー(それもF-3からF-3000を飛び越えた22歳)と言うパッケージを考えると、素晴らしい成績である。レースはマシン・トラブルでリタイアとなるが、ミカは不思議に思っていた。「どうしてポール・ポジションじゃないんだろう?。どうして優勝出来なかったのだろう?」ミカにしてみれば、セナと優勝争いをする場面を想像しながら望んだレースであった。現状のロータスでは全くもって不可能な事だったが、ミカはF-1での自らの可能性を信じていたのである。翌第2戦ブラジルで初の9位完走。終盤、トラブルを抱えながらも母国初優勝に向けてひた走るセナに、周回遅れながらピタリと付けてのフィニッシュであった。第3戦サンマリノでは雨で混乱するレースを攻めに攻めて5位入賞。初のチャンピオンシップ・ポイントを獲得して見せた。が、もちろんミカは喜びはしなかった。結局入賞はこれ1度だけで、ランキング15位でデビュー・イヤーを終了。しかし、その非凡な速さから周囲はミカを"フライング・フィン"と呼んだ。その呼び名はかつてのロズベルグのものである。

翌'92年、フォードのHBエンジンを得たロータスは多少戦闘力を増すが、4位2回、5位1回、6位3回でドライバーズ・ランキングは8位。だがロータスをコンストラクターズ・ランキング5位へと躍進させた。「現実的に考えれば、ロータスのマシンで勝利を争うなんて、不可能な事だった。でも、あの頃は自分に対してそう言い聞かせていなければならなかった。世界中でたった20数人しかいないF-1ドライバーになって、『勝てるもんか』なんて思ってたらチャンスは無くなるんだよ」ミカは次なるステップを目指し始めた。F-1で勝利する為には、戦闘力のあるマシン/チームが必要だった。そして、ウイリアムズ、マクラーレン等のトップ・チームからミカにオファーが来た。しかし、ウイリアムズからのオファーは"今後のナイジェル・マンセルとの契約が上手く行かなかった場合"であり、マクラーレンからのオファーは"来季、スポット参戦になるかも知れないセナのリザーブ兼テスト・ドライバーとして"のものであった。ロズベルグは決断した。「例え1シーズンを棒に振ってでも、このチームに加入する事には意味がある。そして、その1年でチーム全体の眼を自分に向けさせろ」ロズベルグが選んだチームは、マクラーレンであった。マクラーレンの総帥、ロン・デニスは「ミカは必ずチャンピオンになる男だ」と断言した。

'93年、セナは前年いっぱいでホンダを失ったマクラーレンとの契約を更新せず、1戦ごとのスポット契約とした(と言われている)。セカンド・ドライバーにはアメリカからCARTチャンピオンのマイケル・アンドレッティが鳴り物入りでマクラーレンに加入し、実際ミカの出番は用意されていなかった。シーズンが始まると、セナは当時最強のウイリアムズ・ルノー/アラン・プロストに対し、非力なマクラーレン・フォードV8で果敢に挑み、シーズン中盤までタイトル争いを繰り広げた。一方のアンドレッティはチームに/F-1になかなか馴染めず、何かにつけてセナと比較され、シーズン途中での解雇が噂される程となった。そして、それは現実のものとなる。第13戦イタリア・グランプリを最後にアンドレッティはマクラーレンを解雇され、第14戦ポルトガル・グランプリでリザーブ・ドライバーであるミカに出番がやって来たのだ。「セナはシーズン中は大きな変更が無い限りはテストに参加しないし、マイケル(アンドレッティ)はアメリカから"通勤"してたから、必然的に僕のテストでの仕事量は増えていた。そして、おかげで完全にチームに溶け込む事が出来た。いつもの事だけど、ケケ(ロズベルグ)の判断は正しかったよ」ミカはようやくやって来た出番で予選3位につけ、4位セナを上回るグリッドを獲得。「別に驚かなかったよ。だって、その為に我慢して来たんだから」レースではフェラーリのジャン・アレジとサイド・バイ・サイドのバトルを見せ、結果は31周目にクラッシュ/リタイアとなったが、終止セナを上回ったミカの走りに、誰もが驚嘆した。続く第15戦日本・グランプリでは初の表彰台となる3位でフィニッシュ。しかし、ここでもミカは「OK。確かに初めてのポディウムだ。でも、優勝したのはアイルトンなんだから、負けは負けだろう」と、決して手放しでは喜ばなかった。ただ「レースに出られないフラストレーションから解放されたのは嬉しいけどね」ミカは、ようやく戦える体制を手にした-筈だった。

'94年、セナがウイリアムズへと移籍したマクラーレンはミカをNo.1ドライバーとし、チーム・メイトにマーティン・ブランドルを迎えて体制を一新。紆余曲折の末、新たにプジョー・エンジンと契約。しかしこのV10エンジンは前年のフォードV8を上回るパワーを発揮してくれはしなかった。「それに、すぐにブロウしてしまうんだ。だから毎週のようにシルバーストンでテストして、毎回どこかで壊れてやり直し、の繰り返しだった」迎えた第3戦サンマリノ・グランプリでセナが事故で病院に運ばれ、このレースで3位となったミカは表彰台で安堵から微笑んだ。そしてこの行為は世界中のプレスから非難を浴びた。「アイルトンの事故がそんなに酷いものだなんて、知らなかったんだ。だって、あのアイルトンが死ぬなんて、考えもしない事だもの」その後、ミカが"アイス・マン"と呼ばれる事となるきっかけが、この騒ぎであった。ミカは、表彰台の下で自分に対して拍手を贈るチーム・クルーに、笑顔で応えただけだった。その時セナがどう言う状態だったのかなど知らなかっただけなのに、だ。「全ての人達が僕を十字架に架けたんだ。『もう2度と、人前で微笑んだりしない』と思った。多分、あの出来事を僕は一生引きずって行くだろう」結局、マクラーレンでのフル参戦1年目は2位1回、3位4回でランキング4位と健闘したが勝利には結びつかなかった。チャンピオンは、4年前にマカオF-3で"やられた"シューマッハーが獲っていた。

翌'95年、マクラーレンはエンジンをメルセデスにチェンジ。毎年のように代わるエンジンにマシン・デザインが追い付かず、ここでもマクラーレンは苦戦を強いられる。チーム・メイトもF-1に復帰したマンセルがチームと揉めて途中離脱し、急遽マーク・ブランデルに交代する等落ち着きが無かった。メルセデス・V10エンジンも信頼性に乏しく、完走率は大きく後退。更にミカ自身、シーズン終盤に盲腸の手術でパシフィック・グランプリを欠場。ミカ自身とチーム全体歯車が狂ったまま迎えた最終戦、アデレイドでのオーストラリア・グランプリ。予選初日、高速コーナーで突然ミカのリア・タイヤがバーストし、そのままタイヤ・バリアへと突っ込んだ。頭部を強打したミカは意識不明の重体となり、ピクリとも動かない。前年から続いた不幸な事故を知る周囲は、ミカのレース・キャリアは終わった、とさえ思った。しかし、迅速な対応をした医療スタッフのおかげでどうにか意識は回復した。「最初に聞こえたのは『脳の手術の必要は無い。ラッキーだった』と言う声。何が起きたのか、さっぱり解らなかった」タイヤ・バーストの原因は、コース上の異物を拾ったタイヤが徐々にエア漏れを起こし、緑石に乗った途端に破裂した、と言うものだった。「病院のベッドで、ロンが『君のせいじゃない。我々の整備ミスだった』と謝ってくれたんだ。でも、安心した。もしこれが自分のミスだったら、きっともう走る事をしなくなっていただろうから。回復するに連れて、『早くレースがしたい』と言う衝動が押さえられなくなっていった」3ヶ月後、ミカはポール・リカール・サーキットでのプライヴェート・テストに参加。周囲が心配そうに見守る中、ミカは完璧なラップで最速タイムを出した。ピット・ウォールではデニスとアドバイザーのプロストが握手を交わした。プロストは「感動したよ。ミカは依然として走る事を愛している、と言う事実は、正に奇跡とも言えるだろう」そして'96年の開幕戦は、クラッシュした同じアデレイド。世界中が注目する中、クラッシュした同じコーナーを難無く抜けたミカは5番手のタイムを記録。マクラーレンのスタッフが拍手でミカを迎えるが、ミカは珍しく、チームに激を飛ばした。「おいおい、5位だぞ?。ポールを獲ったわけでも無いのに、何を騒いでいるんだ。こっちは勝つ為に走ってるんだ!」デニスは、ミカは変わった、と感じていた。

結局ミカは12回の入賞でランキング5位、チーム・メイトのデビッド・クルサードと共にマクラーレン・メルセデスは'96年も未勝利で終える事となる。更に、'93年のセナ以来勝利に見放されたマクラーレンは、ここでメイン・スポンサーであるマールボロをも失う事となった。しかし'97年、新たに銀色のカラーリングを纏ったウエスト・マクラーレン・メルセデスは開幕戦オーストラリア・グランプリで50戦ぶりの勝利を手にした。だが、その勝利は若きチーム・メイトのクルサードによって齎された。自らはリタイアし、パルクフェルメにクルサードを迎えに行ったミカは複雑な心境であった。長く待ち望んだチームの復活の勝利だったが、自らがそれに貢献する事が出来なかった苛立ち。その後、クルサードはイタリア・グランプリでも勝ち、反対にミカは初のポール・ポジションを獲得するも、トップ走行中にリタイア、と言う展開が続いた。チームの燃料選定ミスで、3位でフィニッシュしたレースを失格になったりもした。「まったくイライラしたよ!。このまま一生勝てないんじゃないか、とさえ思った」しかし、最終戦ヨーロッパ・グランプリで、歪んでいた歯車はシンプルな形で繋がった。タイトルを争うフェラーリのシューマッハーとウイリアムズ・ルノーのジャック・ビルヌーヴが48周目に接触、シューマッハーはリタイアし、ビルヌーヴは足回りを傷めてペースを落とした。トップに立ったクルサードに、チームから無線が飛ぶ。「デビッド、ミカを前に出してくれ。ミカは君よりラップ・タイムが速い」クルサードは困惑したが、指示に従ってミカにトップを譲った。デニスは、既に前年ウイリアムズで初勝利を飾ってから移籍して来た"勝ち方を知っている"クルサードが今季2勝を挙げている為、ミカに対して"勝利への欲を煽る"方法を取ったのである。「遂に優勝した、って実感はまだ無いよ。きっと、冬になったら感じるんじゃないかな」かくしてミカは96戦目のF-1初優勝を飾った。いや、"貰った"と言った方が良いかも知れない。デニスは確信していた。「これで、来年はふたりともタイトル争いの資格を持った」と。

'98年、開幕戦。マクラーレンMP4/13・メルセデス/ブリヂストンのミカとクルサードは結果的に3位以下(つまり他車全て)を周回遅れにする圧勝でレースを終えた。だが、順位は多少の混乱を招いた。スタート前、フロント・ロウに並んだふたりは「第1コーナーを獲った者が優勝する権利を持つ」と言う約束をした。所謂"紳士協定"である。スタートで先行したのはミカだったが、チームからのピット・インの指示を誤解し、余計なピット・インを行った為にクルサードに先行を許し、約束を守ったクルサードからまたも譲って貰う形でミカが勝ったのである。ミカは初めて表彰台で涙を流した。嬉しかったのでは無い。楽勝だった筈のレースでつまらないミスを犯し、更に周りに協力して貰っての勝利だったからだ。だが、このクルサードの行動は、シーズンを通しての自分の立場を決定付けてしまった。ミカの連勝で幕を明けたシーズンだったが、中盤からフェラーリ/グッドイヤーのシューマッハーが猛然と追い上げて来た。クルサードは完全にミカのサポートへと回る事となる。「僕はデビッドにサポートを求めた事なんか1度も無いんだ。でも、結果的に彼のサポート無しでは勝てなかったレースも幾つかあった」しかし、ライバルのフェラーリもまたセカンド・ドライバーのアーバインがシューマッハーを確実にサポートし、第7戦カナダから第9戦イギリスまでシューマッハーが3連勝。まるで'90年のマカオF-3の続きとも思えるような戦いであった。最終戦日本・グランプリを前に7勝のミカ90ポイント、6勝のシューマッハー86ポイント。シューマッハーがチャンピオンになる為には、優勝しつつミカが3位以下でなければならない。もしこれが'90年だったら、ミカは意地でもシューマッハーを抜いて勝つ事を考えただろう。しかし、ミカは慌てる事無く、決勝までほぼ全セッションでトップだったシューマッハーに続く2番手を確実にキープしていた。11月1日、決勝。スタートやり直し後、2度目のフォーメイション・ラップでなんとシューマッハーのフェラーリがオーバー・ヒートからエンスト。最後尾から猛然と追い上げるシューマッハー、淡々と首位を行くミカ。シューマッハーは3位まで巻き返すも、32周目にタイヤ・バーストでリタイア。まるで、'90年マカオと立場が逆転したかのような結果だった。ミカは第1コーナー脇にフェラーリがストップしているのを確認すると、大声で歌い始めた。デニスが無線で「ミカ、気を抜くんじゃない!」と怒鳴るが、ふたりとも溢れる笑いを押さえ切れないでいた。ミカは遂にF-1ワールド・チャンピオンとなった。パルクフェルメに戻ると、デニスが「happy?」と問いかけて来た。ミカは何も言わずにデニスに抱きついた。そこには涙等無く、ただただ笑顔のチャンピオンがいた。

'99年、フェラーリは巻き返しを誓い、新車F399を投入。そしてマクラーレンではチーム・メイトのクルサードが「去年の鈴鹿で、ミカは僕に『来年は君の番だ』と言ったんだ。驚いたけど、今年はミカに挑戦しようと思っている」と、サポート役からの脱却を宣言。そしてシーズンが始まると、フェラーリのシューマッハー、アーバイン、そしてチーム・メイトがミカに挑戦して来た。中でもクルサードはスタート直後にミカと順位を争い、結果的に両者同士打ちとなるケースさえあった。そして、ミカ40ポイント/シューマッハー32ポイントで迎えた第8戦イギリス・グランプリ。スタート直後にグリッドで立ち往生していた車の為に赤旗が振られたが、トップ・グループは赤旗を知らずにストウ・コーナーへと進入、4番手のシューマッハーがコントロールを失ってタイヤ・バリアに激突。シューマッハーはノーザンプトンの病院で右足の脛骨と腓骨の骨折と診断され、なんと3ヶ月の欠場と言う事態となった。が、これでミカが楽になったわけでは無かった。フェラーリのジャン・トッドはシューマッハーの代役に、なんとミカ・サロを選んだのだ。トッドはミカの精神的に弱い部分への攻撃を兼ねたのかも知れない。実際サロの代役出走は素晴らしく、ポイント上のライバルとなったフェラーリNo.2、アーバインを開幕戦以来の2連勝へと導く、中でもドイツ・グランプリは完全にサロが制圧、終盤アーバインを先行させての1.2フィニッシュを飾った。第13戦イタリア・グランプリではトップ快走中に自らのシフト・ミスでコース・アウト、マシンを降りてモンツァの森の中で声を上げて泣いた。「自分自身に腹が立って仕方が無い。これが今年最後のミスだと約束するよ」ミカはこの楽勝とも思われた天王山を落とし、アーバインは遂に60ポイントでミカと同点となってしまった。この年、またしてもミカはシューマッハー/サロ/アーバインの3人を敵に回したのである。まるで9年前のマカオのように、だ。

最終戦、日本・グランプリ。前戦マレーシアから復帰したシューマッハーはアーバインのサポート役を務め、ミカを押さえ込んでアーバインを勝たせる、と言う展開でミカ66ポイント、アーバイン70ポイント。タイトルを獲る為にミカは勝たねばならなかった。もし2位なら、アーバインは5位以下でなくてはならなかった。ミカは予選2番手、ポール・ポジションはシューマッハー。絶体絶命のピンチに、ロズベルグは「周りが何を言おうと、誰であろうと、集中して自分のレースをするんだ」とアドバイスし、デニスは「心配するな。今日、ミカより苦しい奴は予選5番手のアーバインだ。ミカはただ、前を見て走れば良い」と助言を与えた。ミカはコンセントレーションを高め、絶妙のスタートを切ってシューマッハーを交わし、トップに立った。後は、最速ラップを出しながら突っ走るだけだった。中盤、既にタイトルの可能性が消えていたクルサードがピット・アウト後のアーバインをブロック、更に1度コース・アウトしてコースに戻った際、周回遅れになりながらもシューマッハーのペースを乱す事にも成功。ミカが前だけを見て突き進んでいる時、今シーズンは敵でもあったチーム・メイトがその役目を見事に果たした。ミカはトップでチェッカーを受け、2年連続チャンピオンとなった。表彰台では2位シューマッハー、3位アーバインがミカを祝福した。「今日は忘れられないレースになった。スタートが全てだと言う事は解っていたし、後は本当に前だけを見て走った感じだ」コンストラクターズ・タイトルは"チーム・プレー"のフェラーリが獲得したが、ミカは孤軍奮闘でタイトルを獲った。しかし、その影には多くの協力者もいたのである。

'00年、完全に復調したシューマッハーとフェラーリの強さには誰も付いて来れず、ミカは4勝と食い下がったが遂にダブル・タイトルを奪われた。翌'01年、ミカは完全なるスランプに陥り、第5戦スペイン・グランプリでは優勝間違い無しと思われた最終ラップにエンジン・ブロウでストップ、ブラジル/オーストリア/フランスではマクラーレンのスタート・システムの不具合からグリッドで立ち往生し、スタートすら出来なかった。それでも第11戦イギリス/第16戦アメリカで優勝。だがこの年はクルサードがランキング2位となり、ミカは5位であった。周囲は、マクラーレンの不調も原因だが、ミカのモチベーションが下がったのでは無いか、と心配する。メディアはミカの"引退"を囁き始めていた。そしてその周囲の不安は現実のものとなった。第15戦イタリア・グランプリで、ミカは'02年シーズンの"休養宣言"を行ったのである。「先の事は解らない。ただ、とにかく今はこのままの状態で走り続けるべきでは無いと思ったんだ。少し休めば、また走りたくて仕方が無くなるかも知れない」しかし、周囲はこのままミカがF-1へは戻って来ないであろう事を予測していた。更にミカは、この年ザウバー・チームからデビューした同郷のキミ・ライコネンを自らの後釜に推した。マクラーレンはライコネンと契約し、ミカには「いつでも戻って来い。我々は待っている」と約束した。だが、結局'02年ドイツ・グランプリ初日、ミカはビデオを使って正式に引退を表明、'01年モナコ・グランプリの時点でデニスに"辞めたい"と申し出ていた事が明らかとなった。F-1出走161戦、優勝20回/ポール・ポジション26回/最速ラップ25回。'98、'99年ワールド・チャンピオン。フライング・フィンは、余りにも静かにグランプリを去って行った。結果的にラスト・レースとなった'01年日本・グランプリでは、3位走行中に4位クルサードに進路を譲り、自らは表彰台に立つ事も無くレースを終えた。

筆者選出、ミカ・ハッキネンのベスト・レース。語り種となっている'00年ベルギー・グランプリだ。スタート前の名物"スパ・ウェザー"で路面はウェット、セーフティ・カー先導のスタートとなったこのレース、トップ争いは共に3度目のタイトルを争うミカとシューマッハーの戦いとなった。レース中盤、広いスパ・フランコルシャン・サーキットは場所によってドライとウェットの混同する難しいコンディション。トップを行くシューマッハーはタイヤのタレを嫌って濡れている場所を選んで走行、追うミカは何度と無くシューマッハーのテールを脅かす。39周目、オー・ルージュからレ・コンブへのロング・ストレートでミカが仕掛ける。が、シューマッハーは得意のブロックでこれを押さえた。40周目、今度は前方に周回遅れのリカルド・ゾンタ(BAR・ホンダ)がいる。シューマッハーはミカに張り付かれながらもゾンタのアウト側へ。突然目の前にBARのマシンが現れたミカは迷う事無くインへ。しかしイン側はまだコースがビショ濡れであった。3台横一線のままレ・コンブへ進入、時速330kmからのブレーキングでレ・コンブを制したのはミカであった。歓喜するマクラーレンのピットと、呆然とするフェラーリのクルー。そしてBARのピットには、真ん中で全てを目撃したゾンタの「クレイジー!」と言う叫び声が無線で聞こえていた。

全てが均一化されつつある近代F-1に於いて、仮にそのドライビングがシルエットであったとしても誰なのかが判るドライバーは3人しか浮かばない。アイルトン・セナ、ジャン・アレジ、そしてミカ・ハッキネンである。ミカのコーナリング・アプローチは非常に鋭角的だ。コース幅をいっぱいに使うミハエル・シューマッハーと違い、ターン・イン直前まで真直ぐ来たかと思った次の瞬間、直角とも思える角度でコーナーを曲がって行く独創的なそのスタイルは、ミカが如何にリズムに乗れているかをも示してもいる。初タイトルをミカと分かち合ったブリヂストンの浜島裕英は"カミソリの切れ味"と呼んだ。そして筆者には"カミソリのように鋭角的なコーナリング"で思い浮かぶ人物がかつてもうひとりいた。誰あろう、ケケ・ロズベルグその人である。

メルセデス・V10エンジンを製作するイルモア・エンジニアリングのマリオ・イリエンは「ミカの走行データを見てまず驚くのは、その速度なんだ(笑)。ミカは我々のデータ解析/コンピュータ・シミュレーション上、あり得ないタイムでコントロール・ラインを通過する事がある。こんなドライバーは他に知らないね」もっともミカのドライビングを間近で見て来たのはチーム・メイトのクルサードであろう。彼はミカの引退を聞いて「マクラーレンは基本的に同じマシンを用意してくれるチームだ。なのに、彼がタイトルを2度獲り、僕はゼロ。それが全てさ。だけど、これからは.....(略)」帝王ミハエル・シューマッハーもミカに対しては最大級の讃辞を贈った。「知っての通り、僕は何人ものライバル達と争って来た。正直言って、一番手強かったのはミカだ。そして、彼は非常にフェアなレーシング・ドライバーだ。事実、レース中にミカとの間に問題を感じた事は一度も無い。もちろん、F-3時代からね」

ミカはTV中継にも度々登場した恋人、イリヤ・ホンカネンと'98年に結婚し、その後長男ヒューゴ・ハッキネンが誕生。現在は家族と共に過ごす時間を何よりも大切にしている。また、ミカには独身時代から"キャロライン"と言う名のルーム・メイトがいた。ちなみに、キャロラインは亀である。「僕が時速300kmのレースをしてアパートに帰ると、キャロラインは朝スタートした場所からまだ3mほどしか進んでいないんだ(笑)。最高に心が和むんだよ」決して楽天家でもプレイ・ボーイでも無く、純粋にスピードと家族を愛した北欧の紳士、ミカ・ハッキネン。特筆すべきは、彼がそのドライビングを「危険だ」と非難された事は只の一度も無かった事だ。そして、「アンフェアだ」と言われた事も無い。ミカと争ったライバル達は例外無く「ミカは最もフェアなレーシング・ドライバーだ」と宣言する。筆者自身、ミカが他車をブロックする光景は記憶に無い。ブロックするのでは無く、抜き返す。それがミカのスタイルであった。"昨日よりも速くあのカーブを回ろう"と、幼い頃にミカが目指した"スピードの追求"は、決して"誰かに勝つ"事では無く、あくまでも自らの限界への挑戦だったに違い無い。



「フィンランドは冬が長い。でも、解ってるんだ。太陽は必ず輝く、とね」
-'98年、初のF-1チャンピオンとなって/ミカ・ハッキネン-


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