■lap51 -"最強エンジン伝説"/フォード・コスワース-
2003.05.30


筆者がモーター・レーシング/F-1と出会った時、時代は"フォード・コスワースDFV/V8とヒューランド製ギア・ボックスによるキット・カー"の時代であった、と言うくだりで始まるコラムを、いったい何本書いただろうか。実際、市販されていたこのふたつを入手し、"モノコックを組み上げてサスペンションを生やせばF-1マシンの出来上がり、さあF-1に出よう"と言う多くのコンストラクター達を生み、その中から「同じエンジン/ギアボックスでマシン(シャシー)そのものに工夫をこらしてライバルに勝とう」と言う、正にデザイナー冥利に尽きるスタンダード・エンジンがフォード・コスワースだったのだ。ここでは、これまでそのフォード・コスワースDFVを搭載した名車/珍車を数多く紹介して来た。だが、良く考えたら肝心のフォード・コスワースそのものの偉業について触れて来なかった。グランプリ半世紀の歴史の中で、F-1マシンの進化と共に歩んで来たフォード・コスワースの、時代と共に振り返って見よう。

'58年9月30日、共にロータス・チームで働いていたふたりのイギリス人技術者が「自分達で市販エンジンをレース用にチューニングしよう」と、小さな町工場を作った。ひとりは名をマイク・コスティン、もうひとりはキース・ダックワースと言った。仲の良かったふたりはお互いの名字の一部を繋げ、"コスワース・エンジニアリング"と名乗った。彼等は市販車フォード・アングリアに搭載されていた1リッターエンジンをF-J(フォーミュラ・ジュニア)マシン搭載用にチューニングし、'60年代のF-Jレースで無敵の強さを誇った。その後、コスワースは新規定F-2で1.6リッターの"FVA/V4"と言う4気筒エンジンを製作、これもF-2エンジンとして最強の名を欲しいままにする程のシェアを誇った。

同じ頃、アメリカの巨星、フォードがF-1に参戦する事が決定した。'66年からそれまで1.5リッターだったF-1のエンジン規定が3リッターに改められ、更に'60年代前半のF-1での最強シェアを誇ったコベントリー・クライマックス・エンジンが'65年いっぱいで撤退となり、F-1は次なるスタンダード・エンジンを探していた。当時のアメリカは完全に"パワー至上主義"であり、いわゆる"アメ車"といわれる大衆車は殆どがV8エンジンを搭載していた。自社のイメージ・アップを図る為にF-1グランプリへ参戦する事を決めたフォードは、コスワース・エンジニアリングにハイ・パワーなV8エンジンの製作を依頼する。フォードの大衆車は皆V型8気筒エンジンであり、宣伝効果的にもそのものズバリの"フォードV8"でなければならなかった。フォードからの依頼を受け、コスワースはF-2用の1.6リッターFVA/V4を2台横に並べ、バンク角90度のV8エンジンを製作した。つまり、ダブル・FVA(V4×2)で"DFV/V8"となったのである(ちなみにFVは4バルブの意)。フォードはこのコスワース製DFV/V8を"フォードV8"と呼ぶ為におよそ10万ポンド(当時の価値で1億円程度)をコスワースに"設計/開発料"として支払い、ロータス・チームへの独占供給と言う形でのF-1参戦を開始した。

'67年6月4日、F-1開幕戦オランダ・グランプリの舞台となるザントフィールド・サーキットに、グラハム・ヒルとジム・クラークの駆るロータス49・フォードが現れた。DFV/V8のデビュー戦となったこのレースで、ヒルは予選で圧倒的な速さを見せてポール・ポジションを獲得、決勝はエンジン・ブローでリタイアとなるが、8位スタートのチーム・メイトのクラークがヒルの後を受けて優勝、DFVはデビュー・ウィンを成し遂げたのである。結局'66年シーズンを通して最も速かったのはロータス・フォードだったのだが、予選で最前列につけてもどちらかがマシン・トラブルでリタイアするような展開が続き、タイトルは信頼性で上回ったデニス・ハルム/ジャック・ブラバムの乗るブラバム・レプコに奪われ、フォードのデビュー・シーズン・チャンピオンは成らなかった。翌'68年はクラークがF-2レース中の事故で他界するが、ロータスは混乱の中でヒルが自身2度目のタイトルを獲得、フォードにとっても初のチャンピオン・シップ制覇であった。DFVは完全にコベントリー・クライマックス無き後のF-1・スタンダード・エンジンとなり、尚かつフォードの意向により、ロータスへの独占供給から他チームへ向けての市販と言うスタンスを取る事を決定。マクラーレンやマトラ等がDFVを使用し、巨大なH16エンジンを製作したBRMやフェラーリV12と戦う事となった。同時にホンダやレプコはF-1から姿を消し、'69年にはとうとう全戦DFV車優勝、と言う記録を作る事となった。タイトルはマトラ・フォードのジャッキー・スチュワートが獲得。そして'70年から'74年までの5年間は全く他の追従を受ける事無く、フォード・コスワースDFV/V8搭載車がシーズンを圧倒、時代は完全にフォード・コスワースのものとなった。同時に、'50年代にマセラッテイやメルセデス、BRMやクーパーといった自動車メーカーの参戦で始まったF-1グランプリはこの歴史的エンジンの登場によって"キット・カー"時代へと突入し、マーチ/ティレル/ウイリアムズ等の優秀な"コンストラクター"を生み出す事となった。

だが、高速サーキットでのハイ・パワーを重視したフェラーリV12と天才ドライバー、ニキ・ラウダの出現により、'75年から'79年までの5年間は苦戦、'78年にウイング・カー、ロータス78・フォードがダブル・タイトルを獲得した以外はフェラーリV12の前に制圧されてしまう。更に'80年代に入ると、一時的にロータスの持ち込んだベンチュリー思想によって'80、'81年はウイリアムズ・フォードがタイトルを獲得するが、'70年代後半にルノーが持ち込んだ"ターボ・エンジン"と言う発想が徐々にグランプリを席巻して行く。

'80年にフェラーリがルノーに続いてターボ・エンジンの開発に着手、'83年にはその後のグランプリ・エンジンのニュー・スタンダードとなるホンダがターボ・エンジンを引っさげてF-1にカムバックし、BMWやポルシェもこれに続いた。が、'83年デトロイト・グランプリでティレル・フォードのミケーレ・アルボレートが優勝を記録し、結局これがフォード・コスワースDFVの最後の勝利(155勝)となる。'84年には遂にノン・ターボのフォード・コスワース搭載車はティレルのみとなってしまった。'85年には遂にDFVエンジン搭載車が消え、一時代を築いたDFVは完全にF-1から消えた。

'86年はハース・ローラに、'87年はベネトンに対し、フォード・コスワースは遅まきながら初のターボ・エンジン"DFZ"を供給する。が、既にホンダが"完璧な"V6ターボを開発し、マクラーレンと組んだ'88年には16戦15勝でシーズンを圧倒する。だが、ホンダの独走を危惧したFISAのレギュレーション変更により、'89年からの3.5リッターNAエンジン化が決定。フォードは新たにDFVの後継機種であるDFRを製作、DFV時代と同じように市販と言うスタンスを取りながらも、75度の最新型HB/V8エンジンをベネトンに独占供給する事を決定。'89年日本グランプリではベネトン・フォードのアレッサンドロ・ナニーニが1位セナの失格により優勝、フォード・コスワースに6年振りの勝利を齎す。続く'90年はベテランのネルソン・ピケがベネトンで2連勝、この年の日本グランプリではチーム・メイト、ロベルト・モレノとの1.2フィニッシュを飾った。そして翌'91年に彗星のごとくデビューした新人、ミハエル・シューマッハーが登場。'94年にベネトン・フォード・ゼテックR/V8で8勝を挙げてドライバーズ・タイトルを獲得、フォードにとっては'82年にたった1勝ながら入賞回数の多さで逆転チャンピオンとなったウイリアムズ・フォードのケケ・ロズベルグ以来、実に12年振りのタイトル獲得となった。そしてこの頃から、F-1グランプリは完全に自動車メーカー同士の戦いの場となり、コンストラクター+市販エンジンと言う図式は消えて行った。だが、コスワースだけは大メーカーとのワークス契約を持たない下位チームへのエンジン供給を続け、フォードは遂に自らのワークス・チームを持つ事を決心する。
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'97年、かつてフォード・コスワース・エンジンで3度のワールド・チャンピオンに輝いたジャッキー・スチュワートがフォード・ワークスとなるスチュワート・フォードを率いてF-1グランプリへと打って出た。'99年第14戦、ヨーロッパ・グランプリでスチュワート・チーム独占使用の新型CR-1/3リッターV10でジョニー・ハーバートが優勝し、フォード・コスワース・エンジンは3年振りの175勝目を記録。更にフォードは翌年からスチュワート・チームを完全買収する事を決め、更に若年層へのアピールを望むフォード社は名称を自社のスポーティー・ブランドである"ジャガー"へと変更。だが途端にチーム成績は低迷、以降ジャガーは毎年のようにチーム・ディレクターが代わり(ジャッキー・スチュワート〜ニール・レスラー〜ボビー・レイホール〜ニキ・ラウダ〜トニー・パーネル)、ミナルディやアロウズら資金難に苦しむ下位チームへのカスタマー供給も継続されるが、時にはカスタマー・チームに遅れを取る事もあった。そして今年、フォード・ワークスであるジャガー(エンジンは90度のCR-5)は"ジャガー・コスワース"と名乗り、1年落ちの72度CR-4エンジンが供給されるジョーダンは"ジョーダン・フォード"の名称で参戦、第3戦ブラジル・グランプリでは多重クラッシュによりレースが赤旗中断され、レギュレーションにより赤旗の2周前にトップを走行していたジョーダン・フォードに乗るジャンカルロ・フィジケラが初優勝(もっとも結果が確定したのはレースから1週間後であったが)、フォード・エンジンは5年振りの176勝目を達成した。しかし、"本家"ジャガーが予選で光る速さを見せながらもレースで結果を出せず、カスタマー・チームに遅れを取ったのは事実であり、次戦サンマリノ・グランプリで行われたフィジケラの優勝セレモニーにフォードの関係者は誰も出席しなかった。現在、フォードに求められるのはワークス・チームであるジャガーの勝利以外の何物でも無いのである。

フォード・コスワース・エンジン、F-1通算176勝は歴代1位(2位フェラーリ/162勝、'03年オーストリア・グランプリ現在)。チャンピオン獲得13回('68〜'74、'76、'78、'80〜'82、'94年)も1位(2位フェラーリ/12回)の大記録である。'60〜'70年代にかけての大活躍には大きな秘密があった。コスティンとダックワースが心掛けたのは、性能を追求するあまり複雑になって行くF-1エンジンの中で、自分達のエンジンだけは"シンプルで、誰もが扱いやすいエンジン"であった。実際、BRMが作ったH16エンジンは複雑で巨大なだけで無く開発/生産コストもかさみ、実用性は全く無かった、と言っていい。更に、不特定多数のチームへの"市販"と言う目的が冒険よりも信頼性の向上に繋がり、更にコンパクトなV8デザインだった事も手伝ってマシン・デザイナー達に好まれたのである。しかし、現在でもカスタマー供給の最大手として中堅/弱小チームを支えているのは他ならぬフォード社なのだが、フェラーリ/ルノー/トヨタらがメーカー参戦し、メルセデスやBMW、ホンダらがコンストラクター/チームとほぼ一体化している現状では、いっそ、"フォード・コスワース"として参戦する事が、彼等の唯一の"生き残り方法"なのかも知れない。



「DFVのおかげで、私達ドライバーが皆同じ条件で競えたんだ」
-'00年/ジャッキー・スチュワート-


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