■lap48-"ウーマンズ・パワー"/F-1と女性ドライバーの関係-
2003.05.09


'02年F-1アメリカ・グランプリ。IMS(インディアナポリス・モーター・スピードウェイ)でIRL(インディ・レーシング・リーグ)参戦中のサラ・フィッシャーがマクラーレン・メルセデスを駆り、3周のデモンストレーション・ラップを行った。普段はオーバル(楕円形)・コースを専門とするIRLドライバーが初めてのF-1マシン/初めてのクローズド・サーキットを走り、タイムはその日のフリー走行でトップだったフェラーリのミハエル・シューマッハーに遅れる事約20秒。走行後、フィッシャーは「とてもエキサイティングだった。チャンスがあれば、是非F-1にもチャレンジしたい」とコメントした。.....と書くと、如何にもIRLのトニー・ジョージらしい、F-1を使った上手な宣伝イベントだね、程度にしか思えない。だが、ここには見逃してはいけない重要な事実が隠されている。

何故なら、サラ・フィッシャーは21歳/160cm/54kgの、女性レーサーだったからである。とは言え、同年のケンタッキーのIRL戦でポール・ポジションを獲得、前年のホームステッド戦では2位フィニッシュしている有望な若手ドライバーなのである(共に女性ドライバーとしてはIRL史上初)。無論、ここで「マクラーレンから女性F-1ドライバーがデビューか?」なんてウワサが出るわけでも無く、単純なデモ・ランに過ぎない事は確かだったのだが、マシンは実際にレースに持ち込まれたスペア・カー、チームからは「絶対に壊さないでくれ」と言われ、しかもシート合わせをしただけでいきなり乗った初めてのF-1、初めてのサーキット、そしてイン/アウト・ラップ合わせてたったの3周、それでシューマッハーの"たった"20秒落ち.....もしや、彼女はそんじょそこらの男性レーサーには出来ないような事を見せてくれたのではないのだろうか。完全なる男性社会に見えるF-1に挑戦する女性レーサー、そんな"非現実的"なチャレンジをした女性ドライバーは、'50年からの歴史の中で、これまでに5人いる。

現在、最も最近F-1に乗った女性ドライバーは、イタリア人のジョバンナ・アマティ。アマティは'62年7月20日生まれで、'92年にブラバム・ジャッドで参戦、当時29歳。本来、ブラバム・チームには日本のF-3000ドライバー、中谷明彦が乗る予定だったが、シーズン開幕までにスーパー・ライセンスが発給されずに参戦を断念、急遽国際F-3000参戦中だったアマティに白羽の矢がたった。だが、スーパー・ライセンス発給に於いて、"国際規格での優勝経験"と言う項目を中谷が満たしている(全日本F-3000)のに対し、アマティは国際F-3000最高位7位。恐らくアマティの決め手は"女性ドライバーであるが故の話題性"が当時資金難に喘いでいたブラバム・チームを救う事に繋がると判断されたからだろう。事実、アマティの周りは常にマスコミが取り囲み、話題性には事欠かなかった。だが、肝心のアマティ本人はデビュー戦から常に予選最下位で予選落ちを喫し、チーム・メイトに遅れる事平均3秒、と言う状況。アマティはのレース・キャリアは、'81年、イタリア国内のフォーミュラ・フィアット・アバルトでレース・デビュー、'85年にイタリアF-3 へステップ・アップし、'87年から国際F-3000へ参戦していた。F-1では'91年にベネトン・フォードのテスト・ドライヴ経験が1日あるだけだった。結局アマティはF-1を3戦してチームを解雇され、決勝への出場は果たす事が出来なかった。その後'93年には欧州ポルシェ・スーパー・カップに参戦し、ウーマンズ・カップ・チャンピオンに輝いている。セダンのレース、そして女性ドライバーの中では、と言う条件を満たせたアマティだが、F-1で戦う事は出来なかった。

アマティ以前にF-1にチャレンジした女性はその12年前のデジレ・ウィルソン。'53年11月26日、南アフリカ共和国出身のウィルソンは'80年の第8戦イギリス・グランプリにローカル・シリーズの"オーロラ選手権優勝"の実績を持ってたった1戦のみスポット参戦し、カルロス・ロイテマン/アラン・ジョーンズに続く3台目のウィリアムズ・フォード(プライヴェートのRAMチーム)を駆り、結果は最下位で予選落ちを喫した(もっとも、ウィルソンの前で予選落ちしたのは後のワールド・チャンピオン、ケケ・ロズベルグだったが)。ウィルソンは当時27歳。母国のスター、ジョディ・シェクターの力添えもあってF-1ドライヴのチャンスを得るが、実力の程が解る程の時間さえも与えられなかった。むしろ、ウィルソン自身がF-1でのレギュラー・シートを望んでいたわけでも無く、たまたまやって来たチャンス、程度のものだったようである。その後アメリカでインディ・ライツを経験後、CARTへと参戦。'93年にオープン・ホイール・レースを引退し、後に北米GTカー選手権等に参戦。彼女もまた、F-1の歴史にその名を刻む事は出来なかった。

ディビナ・ガリカ。'46年8月13日、イギリス生まれのガリカは、元々スキー/ダウンヒル競技のオリンピック代表選手で、'72年の札幌オリンピックでは来日も果たしている。スキー選手引退後レーサーへと転身、イギリス国内のF-5000やF-2等を経て、イギリス国内のみのF-1選手権(いわゆる"ヒストリック・カー・レース"で、当然ノン・タイトル戦)で活躍後、'76年の第9戦イギリス・グランプリでサーティーズ・フォードを駆ってF-1デビュー。結果は予選落ちだったが、この時ガリカは'26年にマセラッティに乗るグゥリオ・マセッティが事故死して以来、欧州のモーター・レースでは欠番となっていたカー・ナンバー13を自ら希望。50年もの封印の歴史を破った事で有名になった。'78年にヘスケスから開幕2戦(アルゼンチン/ブラジル)に出場するも、予選落ち。その後'80〜'90年代にかけてもあらゆるカテゴリーのレースに挑戦し、イギリスのKMLレーシングから'99年にはイギリス国内のスポーツ・カーの女性GT・カー選手健のロード・アトランタ戦でポール・トゥ・ウィンを飾った。現在でもチャンスさえあればカー・ナンバー13を好むガリカにとって、F-1は人生の様々なチャレンジの中のひとつに過ぎなかったのだろう。英国王室の勲章も持つ(スキーヤーとして)、貴族階級の女性である。

ここまで見て、「やはり女性レーサーはダメか」と思っている人も多いだろう。だが、レッラ・ロンバルディは違う。本名マリア・グラズィア・ロンバルディは、'43年3月26日にイタリアにて誕生。家族の誰も自動車を運転せず、学生時代、ハンド・ボールの試合中に鼻を骨折、病院へ向かう為に初めて自動車に乗って以来、スピードの魅力に取り憑かれた、と言う話は有名だ。ラリー・ドライバーからGT選手権、F-5000を経て'74年、APG(Allied Polymer Group)チームからブラバム・フォードに乗り、カー・ナンバー208を付けてF-1デビュー(208は現在までの最多番号記録)。結果は予選29位で不通過。翌'75年、第3戦南アフリカからマーチ・フォードでフル参戦、予選26位で初めての決勝進出。次戦スペイン・グランプリでは予選24位からスタート、大雨でクラッシュが続出、レースは29周目で赤旗終了となり、6位入賞を果たす。現在までのF-1の記録に公式に残る、女性ドライバーの唯一のポイントを獲得(レース距離が半分に満たなかった為、0.5ポイント)している。この年、次戦モナコを除いて全てのグランプリで予選を通過、翌'76年はマーチとブラバムで4戦に出走、第9戦イギリス・グランプリは奇しくもガリカとロンバルディ、ふたりの女性ドライバーがエントリーした史上唯一のレースである。結局ロンバルディはF-1通算17戦中13戦で予選を突破、6位入賞1回。その後は'77年にNASCARへ挑戦し、スポーツ・カー選手権やGT選手権等にも参戦、アマティのF-1参戦が決まった'92年春、癌の為死去。49歳の早すぎる死であった。

最後に紹介するのは、マリア・テレーザ・デ・フィリッピス。彼女こそ、史上初の女性F-1ドライバーであった。フィリッピスは'26年11月11日生まれのイタリア人、兄弟との車の競争で勝った事を機にレースの世界へ足を踏み入れた彼女は、'49年の750スポーツ・クラス・チャンピオンを初めとしてタイトルを総嘗めにし、'55年にマセラッティの公式ドライバーに選ばれる。'59年のカタニアーエトゥナでの平均時速100km/hは新記録となり、3年後にフェラーリのピエロ・タルフィが破るまで誰もフィリッピスより速く走る事は出来なかったのである。'58年、マセラッティからF-1デビュー。ノン・タイトル戦のシラクーザ・グランプリで、フィリッピスは初のF-1レースを5位でフィニッシュ。「初めてF-1に乗った時、前のマシンのブレーキ・ランプがつかないから、皆ノー・ブレーキでコーナーを回ってるんだと思ったわ」とは晩年のフィリッピス。その後、公式戦のモナコ/ベルギーにも出走し、モナコは予選落ちを喫するものの、ベルギーでは予選通過。レースはリタイヤとなるが、F-1の歴史に於いて最初の女性ドライバーとしてその名を残した。また、フィリッピスは当時のトップ・ドライバー、ルイジ・ムッソの恋人としても知られるが、ムッソ、ピーター・コリンズ、ジャン・ベーラら親しいドライバー仲間を次々とレース中の事故で失い、フィリッピス自身は失意を持って'59年に引退を決意。現在はマセラッティ社の名誉会長を務め、当時を知る者達から"鉄の女"と呼ばれている。

サラ・フィッシャーの参戦するインディ・カー・レースでは、'11年から'71年までの60年間に渡り、ピットもパドックも女人禁制と言う規則であった。これは、本来モーター・レーシングが男性社会だった事を意味している。ところが現在、IRL会長のトニー・ジョージが冒頭のIMSでのF-1開催に於けるイベントや、更には昨年、ツインリンクもてぎにて行われた第1回インディ・ジャパン発表会に送り込んで来たのも女性ドライバーのフィッシャーであった。理由は単純に時代の移り変わりだけなのだろうか。だがこうして欧州に目を向けると、どうやらF-1は常に女性ドライバーに対してオープンであった。決して男女差別は存在していないように見える。問題は、その女性ドライバー自身の実力なのであろう。だが、他の競技のように男女が別クラスになっているわけでも無く、例えるならマラソンで男子/女子が同時にスタートしたなら、ゴール時には15分程度の記録差が生まれて当然である。かつて鈴木亜久里のトレーナーを務めた清水茂幸は「反射神経と筋力。これは鍛える、と言う以前に男女では余りにも構造そのものに差がある」と分析する。パワー・ステアリング装着とは言え、トータル300kmにも及ぶ距離を首の太い男性ドライバー達と一緒に強大なG・フォースに耐えながらF-1マシンをドライヴする女性に、勝ち目があるとは到底思えない。何しろ、そのマシンは男性ドライバーが極限で運転する事を前提として開発/製作されたものだからだ。ところがそこへ、フィッシャーのようなドライバーが参入し、マシンもエンジンも彼女が扱い易いものを用意し、参戦したとする。例えば、ジョーダンかジャガークラスのチームでデビューし、年間を通じてチーム・メイトより良い成績を残した際、ウイリアムズかマクラーレンあたりがスカウトし、エイドリアン・ニューウィー・クラスのデザイナーがフィッシャー・スペシャルのマシンを製作、翌年タイトルを争うような事が.....不可能とは言えない筈だ。

サーキットで女性、と言えば多くの人が連想するのは露出度の高いファッションでニコニコと微笑んでいる存在、つまり"レース・クイーン"だろう。もちろん、真剣勝負の自動車競争の現場に色を添える、華やかな演出として否定はしない。だが、未来のF-1レーサーを目指して戦っている女性ドライバーも大勢存在する事を忘れないで欲しい。ここで、我等が日本の有望な女性ドライバーをふたり紹介しておこう。まず、タレントも兼任する井原慶子は'75年7月4日生まれ、'99年フェラーリ・チャレンジでデビューし、2勝/2ポール・ポジション獲得。昨年イギリス・フォーミュラ・ルノー、フランスF-3等へ参戦し、今年のフォーミュラ・BMW・アジア・シリーズでは開幕戦6位、第2戦で2位、F-1マレーシア・グランプリの前座で表彰台に立ち、BMW・F-1のマリオ・タイセンからトロフィーを受け取った。また、同じフォーミュラ・BMW・アジアが4輪レース・デビューとなった小林聡子は'77年11月8日生まれ、元々カート出身で現在は鈴木亜久里のARTAに所属する、才能と度胸を兼ね備えた日本期待の女性ドライバーである。

昨年、F-1スポンサーのフォスター・ビール社がイギリスでレース・ファンを対象にアンケート調査を行った所、実に80%以上が「F-1ドライバーに性別は無関係」と答えた。同時に、60%以上が近い将来、女性F-1ドライバーが登場するだろう、と予想している。サラ・フィッシャーが来るか、それとも井原が来るか。どっちも.....好きだ(?)。



「大勢の人達が私がコースを飛び出す方に賭けていたわ。残念だったわね(笑)」
-'58年、シラクーザ・グランプリにて/マリア・テレーザ・デ・フィリッピス-


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