| 筆者が初めて目の当たりにしたカー・レース、それは幸せな事に我が日本で初めて開催されたF-1グランプリとなった'76年のF-1世界選手権イン・ジャパン/富士スピード・ウェイであった。それまで、漫画"サーキットの狼"でしか知る事の無かったカー・レース、しかもオープン・ホイールのフォーミュラ・カーも実物のサーキットも全く知らなかった筆者にとって、目前で繰り広げられる"F-1グランプリ"が如何に衝撃的なものであったかは、27年後の今日、こうしてコラムを書いている事からお解り頂けるだろうと思う。そして今回紹介するドライバーは、もちろんレーシング・ドライバーとして世界中の人々の記憶に残る素晴らしいレーサーであると同時に、筆者にとって、特に忘れられない特別な存在でもある。その'76年富士F-1の優勝者、JPSロータスを駆るマリオ・アンドレッティがその人だ。 マリオ・ガブリエーレ・アンドレッティは'40年2月28日、イタリアのモンタナにて双児の兄、アルドと共に誕生。だが、彼等の国籍はアメリカである。実はアンドレッティ家はイタリアの難民収容所での"戦争難民"の生活を経て、両親と共に夢を求めてアメリカへ移住して行く、典型的な"移民"であった。'54年、マリオとアルドのふたりはモンツァで行われたF-1イタリア・グランプリを観戦。地元イタリアのヒーロー、フェラーリのアルベルト・アスカリに憧れたふたりは、自分達もレースをやろうと決心し、イタリア国内のF-Jレースに出場する。彼等が14歳の時の事である。ところが、すぐさまアンドレッティ家はアメリカへ移住する事となり、マリオは翌'55年に英語を"イエス"と"ノー"しか知らないまま渡米。アメリカでもふたりは自分達の手で作り上げたダート・レーサーで週末のレースに明け暮れていた。「英語は解らない。学校へもろくに行かない。とにかくアルドと一緒にレースに出ていたよ。だって、他に何も出来る亊が無かったんだ」ところが、兄アルドが2度に渡ってレース中に大きな事故を起こす。アルドは息子ふたりがレースで危険な目に遭う事で不安にかられる両親を思い遣り、レースの世界から足を洗う事を決心した。当然マリオも将来に向けて考え始めた。だが、マリオが出した答はこうだった。「その時、最大のライバルはアルドだった。だから、アルドがレースを辞めた今、自分は無敵だと思ったんだよ(笑)」そして、マリオの快進撃が始まって行く。 '62年3月、マリオはティーネックで行われたミジェット・カー・レースに初優勝すると、翌'63年には同シリーズ3勝を挙げる活躍を見せる。'64年、24歳になっていたマリオはディーン・バン・ラインズ・チームからの誘いでUSAC(インディ・カー/現在のIRL)にエントリー。遂にオープン・フォーミュラのレースへとデビューする。2年目の'65年にはA.J.フォイトとの激しい戦いを制し、早くもシリーズ・チャンピオンに輝き、翌'66年も2年連続でタイトルを獲得。'67年はNASCARシリーズのデイトナ500マイルに優勝。この時既にマリオはアメリカン・レーシングのスターとなっていた。勢いに乗るマリオは'68年、F-1第9戦イタリア・グランプリに"スポット参戦"しようとするも、契約問題でエントリーが認められず断念。第11戦、ワトキンス・グレンで行われた地元アメリカ・グランプリでロータス49B・フォードを駆って正式にF-1デビュー、このデビュー戦でマリオはなんとポール・ポジションを獲得してしまう。レースはクラッチ・トラブルでリタイアとなったが、アメリカからやって来た小柄なインディ・チャンピオンは欧州のF-1関係者達の度胆を抜いた。翌'69年は南アフリカ/ドイツ/アメリカの3戦にスポット参戦するが、いずれもリタイア。だがこの年、マリオは自身3度目のインディ・チャンプと同時にインディ500マイル・レースのウィナーとなっている。マリオは、インディとF-1を大西洋を横断しながら走り続けていた。だが当時、欧州の人々は明らかにアメリカ/インディ・カー・レースを過小評価していた。例えそれが伝統のインディ500の覇者であっても、"アメリカ人ドライバー"と言うだけで冷遇されていた。しかし、元々陽気なラテン気質を持つマリオは誰にでも明るく接し、それでいてレースではずば抜けた速さを魅せていた。徐々に欧州の人々のマリオに対する態度が変わって行く。'70年はマーチから5戦に出場し、第2戦スペイン・グランプリで初めてのチャンピオンシップ・ポイントを3位表彰台でゲット。翌'71年は名門フェラーリに移籍、開幕戦南アフリカ・グランプリで遂にF-1初優勝を飾る。だがこの年は6戦に出場、翌'72年は5戦だけである。理由は、相変わらずのスタンスでアメリカでのレースに出場し続けていた事と、レースの際、家族と共に暮らすペンシルヴァニアからの"出勤"がマリオにとって当たり前の事だったのである。何と言う事だろう、その間、マリオは超音速旅客機コンコルドに乗って大西洋を横断し続けていたのだ。つまり、F-1とインディを掛け持ちし続けていたのである。このアメリカからの小柄で陽気な挑戦者を、人々は"リトル・ジャイアント"と呼んだ。 '73年、インディ・カー・レースで使用するファイアストン・タイヤとの契約のもつれから、マリオは一旦F-1参戦を断念せざるを得なくなった。しかし、マリオの挑戦は続いた。'74年はUSACのナショナル・ダート・トラック・チャンピオンを獲得しながらもF-1のカナダ/アメリカの北米2連戦にパーネリー・チームからスポット参戦。翌'75年はここまで最多の13戦に出場、スウェーデンで4位、フランスで5位を獲得。そんなマリオは'76年シーズンを前に、今後自らがどうすべきなのかを自分自身に問いかけていた。アメリカに残り、得意のレースに勝ち続けるのか、それともまだまだ未知の世界、欧州のF-1に挑戦すべきなのか。「答はシンプルだったよ。昔、アスカリを観た時の衝撃を、忘れられなかったんだ」マリオは、'76年シーズンを本格的にF-1ドライバーとして迎える事に決めた。マリオが本格的にレギュラー・ドライバーとしてF-1に参戦する事が公になると、デビュー・チームであったロータスのコーリン・チャップマンから誘いが来る。「ウチで走らないか。凄いクルマが出来たんだ」チャップマンが用意したのは、空力的な冒険に満ちた新型マシン、ロータス77・フォードであった。マリオはロータスと契約し、'76年シーズンをF-1ドライバーとしてスタートした。だが、予選では時折速さを見せるものの、ロータス77はコースの性格が変わる度にその操縦性を維持出来なくなるジャジャ馬のようなマシンであった。それでも後半戦、熟成が進むに連れて徐々に安定した速さを見せるようになり、第12戦オランダ/第14戦カナダで3位を獲得。そして舞台は最終戦、F-1グランプリ・イン・ジャパンが開催される富士スピード・ウェイへと移された。 レースは、3ポイント差でタイトルを争うフェラーリのニキ・ラウダとマクラーレンのジェームズ・ハントの決着の場となった。予選で、マリオがデビュー戦以来のポール・ポジションを獲った。実は、ロータスは'74年にF-1のデモンストレーションの為に富士にやって来ており、いずれここでのグランプリ開催が実現するだろう、と踏んだチャンプマンはFISCOのデータをしっかりと取って帰っていたのだ。マリオのタイムは1分12秒77、ロータスは明らかにタイトル争いの2チームより好調であった。10月24日、決勝。スタート予定時刻の1時30分、FISCOは朝からドシャ降りの雨に見舞われていた。主催者側とGPDA(ドライバー協会)、FOCA(コンストラクター協会)とでコースの安全性について論議が繰り返される。初のF-1開催、誰も雨のFISCOをF-1で走った事が無い。中止か、それともノン・タイトル戦としての開催か.....。歴史的瞬間の為に集まった7万人の大観衆は誰ひとり席を立たない。午後3時、東からの風が霧で真っ白だったコースをクリアにし、雨はやがて小降りになった。午後3時9分、レースはスタート。トップを奪ったのはタイトルに向けて突っ走る予選2位のハント、続いて4番手スタートのペンスキーのジョン・ワトソンが追う。マリオはふたりに抜かれて3番手となった。後方では水煙の中、日本の星野一義が21番手から12台抜きで9位にまで上がって来ていた。2周目、タイトルを争うラウダが「コース・コンディションが危険過ぎる」とレースを棄権。マリオはワトソンと抜きつ抜かれつのバトルを繰り返す。レース中盤、マリオは富士のコースを良く知る日本勢(星野/高原敬武/長谷見昌弘ら)が雨の中、他のドライバー達とは違ったラインをトレースしている事に気付く。「彼等は、このコースをF-2マシンで何度も走っているんだろう。恐らくそれが最もタイヤを労れるラインだと思ったんだ」マリオは彼等のラインを真似、タイトルに躍起になっていたハントがタイヤのブロウで後退して行くのを尻目に64周目にトップに立った。結局ハントはタイヤ交換後のスパートで3位フィニッシュ、ラウダを1ポイント差で下してチャンピオンとなるが、優勝はマリオのものだった。冷静に戦況を見極め、5年降りに得たF-1での勝利であった。表彰式で喜びを爆発させたマリオに、F-1での勝利を何にも代えがたいものだと思わせたのがこのレースであった。 '77年シーズン、ロータス・チームは新車ロータス78を投入。モデル77を更に空力的に洗練させたこのマシンでマリオは祖国イタリア/アメリカを含む4勝を記録。この'77年がマリオにとっては初めての"F-1フル参戦"であった。そして翌'78年にフォーミュラ・カーの世界の常識を一変させる"グランド・エフェクト・カー"の完成型、ロータス79が登場、マリオとロータス79はシーズン6勝と言う圧倒的強さを見せ、第14戦イタリア・グランプリで初のF-1ワールド・チャンピオンとなった。が、マリオのタイトル決定はチーム・メイトでポイント・ランキング2位のロニー・ピーターソンの事故死によって齎され、マリオは手放しで喜ぶ事は出来なかった。「病院に駆け付けた時、医師は『ロニーは大丈夫だ。来年はきっと走れるだろう』と言ったんだ。でも、その後の処置のミスから、ロニーは帰らぬ人となってしまった。モーター・レースとは、何と残酷なものだと思った。でも、きっとこれがレーシング・ドライバーの運命なんだろう」フィル・ヒル以来のアメリカ人F-1チャンピオン誕生は、悲しみの中であった。 翌'79年、元々ロータスの革新的なアイデアであった"グランド・エフェクト"は他チームに続々とコピーされ、より競争力を増したライバル達がロータスを完全に戦闘力で上回ってしまった。'79、'80年と未勝利に終わったマリオは'81年、アルファロメオへの移籍を決意する。しかしここでも結果は残せず、翌'82年はまたもアメリカを活動の中心とし、F-1ではウイリアムズに1戦、フェラーリに2戦だけスポット出場し、マリオはF-1を去って行った。42歳になっていたマリオは自らのルーツと、家族を思い、アメリカに帰る事にしたのである。とは言え、マリオがここでレーシング・ドライバーを引退する筈が無かった。 '83年は息子のマイケル・アンドレッティと組んでル・マン24時間レースに出場し、プライヴェート・チームとしては最上位の3位となる。翌'84年、44歳になっていたマリオはニューマン・ハース・レーシングでCARTシリーズ・チャンピオンとなり、USAC時代と合わせると4度目のインディ・チャンピオン獲得と言う偉業を達成した。結局マリオは'94年まで現役としてCARTシリーズを戦い、引退して行った。F-1では出走128戦/12勝、'78年F-1ワールド・チャンピオン獲得。アメリカでは'74年USACナショナル・ダート・トラック・チャンピオン、'67年デイトナ500マイル(NASCAR)優勝、'69年インディ500マイル優勝、インディ・カー・シリーズ通算14勝、'65、'66、'69、'84年インディ・カー・チャンピオンを獲得。アメリカでは知らぬ者のいないレース・ファイター、マリオ・アンドレッティ。'93年フェニックスでの勝利は最年長勝利記録(53歳と34日)。アンドレッティ家はマリオの息子マイケル、ジェフリー、そしてマリオの兄アルドの息子、ジョンもレーシング・ドライバーとなった、完全なる"レース一家"である。中でもマイケルはCARTシリーズでマリオの良きライバルとなった。'99年にプレスの選ぶ"20世紀最高のレーシング・ドライバー"に選ばれたマリオは、「もし、レーシング・ドライバーにならなかったら?」と言う問いに「戦闘機のパイロット」と答える、根っからのスピード・ファイターだ。現在、愛する家族と共に今も変わらぬペンシルヴァニアの自宅から、本人言わく「たったひとつ、制覇し損なっている」ル・マン24時間レースへのスポット参戦を続けているマリオは、まだたったの63歳である。
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