■lap42-"記憶に残る名ドライバーvol・1"/ジャン・アレジ-
2003.03.28


筆者のプロフィール(掲示板入口参照)の中に"好きなレーサー欄"があり、そこにジャン・アレジの名がある。そして、"思い出のレース"欄には'90年フェニックスとある。'89年途中デビューのアレジが非力なティレル・フォードを駆ってマクラーレン・ホンダに乗るアイルトン・セナと手に汗握るトップ争いを魅せた、あの伝説のレースである。最近になって良く「'90年のフェニックスって、どんなレースだったの?」と友人に聞かれる。.....そうか、もう13年も前の事なのか、と振り返る。一昨年の最終戦鈴鹿でF-1を引退したアレジはもうF-1のサーキットにはいない。アレジらと"花の'64年組(筆者は勝手に"昭和39年会"と呼んでいた/歳が完全にバレた)"と言われたジョニー・ハーバートやニコラ・ラリーニももういない。今では'91年デビューのミハエル・シューマッハーが最もベテランで、セミ・オートマチック・ギアボックスや2ペダル、TCS(トラクション・コントロール)等のいわゆるハイテク世代のドライバー達が現代のF-1を引っ張っている。そう言う意味では、アレジには"最後のアナログ・ドライバー"と言う称号がふさわしい。マニュアル・シフトを操り、パワー・ステアリングを嫌い、そしてスリック・タイヤでの豪快なドリフトを魅せた、あの"人間臭い"レーサーを忘れる事は決して出来ない。

ジャン・アレジ/本名ジョバンニ・アレジは'64年6月11日、ラリー/ヒルクライム・ドライバーだったフランク・アレジの次男としてフランス/アヴィニヨンに誕生。父はイタリア/シシリーからの移民で、当時ナビゲーターのピエール・ティモニエ(後のジャン・ラニュッティのナビゲーター)や元フェラーリF-1ドライバーのモーリス・トランティニャンらと共にフランスでレース活動を行うグループの一員であった。アレジは生まれながらにして、モーター・レーシングに囲まれていたのだ。週末になるとフランクはレースに出かけ、幼いアレジは父の華麗な優勝を何度も目撃していた。だが、アレジの興味は父フランクの駆るシボレー・カマロでは無く、一際大きな音を立てて疾走する真っ赤なマシンであった。それが"フェラーリ"であると解ると、アレジの夢は"フェラーリに乗る事"となった。「フェラーリは特別だった。性能の事とかは解らなかったけど、"いつかフェラーリでレースに勝つ"って決めたんだ」アレジの部屋はフェラーリの玩具とポスター(とりわけジル・ビルヌーヴのもの)でうめ尽くされ、当然のように自らもレースを始め、熱中する。だが、父フランクはアレジを厳格なカソリックの学校に入れ、「中等教育をちゃんと終了し、整備士の資格を取ったらレースをやらせてやる」と我が子に言った。アレジは必死で勉強に励み、父との約束を守った。14歳になるとアレジは自宅の修理工場のスペースを使って父が組み立てたカートを操るようになった。「自分で作ったコースを全開で走るんだ。でも、奥の犬小屋の犬達はいつも怯えていた。何故なら、ブレーキングせずに曲がれるかを試して3回程犬小屋に突っ込んだからね(笑)」17歳の時に初めてカート・レースに出場。アレジを敬愛していた兄のジョゼ・アレジが監督/マネージャー/エンジニア/メカニックの全てを引き受け、'82年のナショナル・クラス・チャンピオンを獲得。アレジは本当は父のようにラリーをやりたかったのだが、運転免許を取得出来る年令では無かった為(ただそれだけの理由で)、ルノー・エルフR5カップへとステップ・アップする。その間、オフロード・バイクや氷上レースの指導員等も経験したが、それはアレジがF-1に乗る事、夢にも思わなかった事を意味していた。

'83年9月、強風の吹くポール・リカール・サーキット。ここではウィンフィールド・ドライビング・スクール主催の奨学生制度の最終選考が行われていた。ここでトップ・タイムを出した者はエルフの奨学生として、翌年のフォーミュラ・ルノーへの参戦が約束されていた。その頃、頭角を現わしてしたアレジはエリック・ベルナール/クリスチャン・ダナー/エリック・コマスらと並び、それぞれのイニシャルを取って"フランス期待のABCD"と呼ばれていた。最終選考に残った強風の中、アレジはトップ・タイムを出すが、コース上が静かになった時、ベルナールがその記録を僅かに上回った。しかし、ベルナールはアタック中1度スピンをしていた為、勝利はアレジのものと誰もが思っていた。しかし、例年に無い長時間の審議の末、エルフ・ドライバーの座はベルナールのものとなった。父フランクは「ジャン、済まない。私がイタリアからの移民だから、きっと彼等は選ばなかったんだ」と嘆いた。消沈するアレジの元へ、ひとりの男が歩み寄って来た。ウィンフィールド・ドライビング・スクールの審査委員長であり、元フェラーリF-1ドライバーのパトリック・タンベイである。彼は審査でアレジに票を投じたひとりであった。「ジャン、心配するな。君はいつか素晴らしいF-1ドライバーになる」アレジは我が耳を疑った。何故なら、それまでアレジはF-1ドライバーになる事等、考えもしなかったからだ。そしてタンベイはアレジの為にスポンサーを紹介し、アレジ自身もフォーミュラ・レースを続けて行く事を選んだ。この時まだ、アレジには"フェラーリF-1ドライバー"となる事等、夢にも思えなかった。

'86年、フランスF-3に参戦したアレジは豪快なドライビング・スタイルで"ジル・ビルヌーヴの再来"と騒がれ、選手権を2位で終了。翌'87年はマールボロがアレジをバックアップし、名門オレカ・チームに移籍。自ら選んだ古いマルティニのマシンで最新型ダッラーラ勢を下して見事チャンピオンを獲得。'88年は同チームから国際F-3000にステップアップするが、オレカは完全にエース・ドライバーのピエール・アンリ・ラファネルを優先しており、アレジはチーム/スポンサーと対立する。「多分、僕のドライビング・スタイルがラファネルとあまりにも違ったのも原因なんだと思う。彼は細かなセッティングをチームと行うタイプだったが、僕は頭では無く、感覚でドライヴするレーサーだったからね」完全にチーム内で孤立したアレジに、ライバル・チームだったジョーダンのボス、エディ・ジョーダンが翌年のシートをオファー。行き場の無いアレジは即座に了承し、マールボロ・オレカからキャメル・ジョーダンに移籍して'89年の国際F-3000を戦う事になった。

'89年、ティレルF-1チームは不振に喘いでいた。更に、シーズン中にエースのミケーレ・アルボレートがスポンサー(マールボロ)問題で急遽チームを離脱する事態が起きた。7月の第7戦フランス・グランプリを目前に、若手ドライバーの発掘/育成の第一人者だったケン・ティレルは大胆な行動に出る。国際F-3000を戦う、アレジの起用である。フランス・グランプリの数日前、アレジの電話が鳴る。エディ・ジョーダンからだった。「ケン・ティレルが君を使いたいと言ってる。もちろん、キャメルのスポンサードを踏まえての条件だが、どうする?。」アレジには選択肢等無かった。すぐにアレジはイギリスへ飛び、シート合わせを行った。ティレル・チームからは「マシンを壊すようなドライビングをしない事」を条件とされ、アレジも「シーズン終了までジョーダンでF-3000を戦う事」を確約させた。かくしてF-1フランス・グランプリには前半分がティレルの青、後半分がキャメルの黄色、と言う奇妙なカラーリングを施したマシンが現れ、レイトンハウスのマウリシオ・グージェルミンの大クラッシュで赤旗再スタートとなったこのレースをアレジはクレバーな走りで4位フィニッシュ。アグレッシヴなアレジがマシンを壊さないよう、慎重に走った末の素晴らしい成績を収めた。この年アレジは国際F-3000のタイトルを獲得、F-1でも8戦に参戦して4位2回(フランス/スペイン)/5位1回(イタリア)を記録。当然のようにアレジはティレル・チームとの翌年の正式契約書にサインした。が、慎重に走る事で結果が出る事を知った新人アレジが、正式契約後もおとなしく走るわけが無かった。

'90年、アレジのF-1ドライバーとしての初めてのフル・シーズンが開幕。場所はアメリカ/フェニックス。砂漠の中のオアシスのようなストリート・サーキット。予選初日、曇り空の中で各チームが新車で恐る恐るタイム・アタックした順位が、翌日の悪天候によって正式グリッドとなった。ポール・ポジションはマクラーレン・ホンダ移籍1戦目のゲルハルト・ベルガー。2位にはミナルディのピエルルイジ・マルティニ、3位にスクーデリア・イタリアのアンドレア・デ・チェザリスが付け、5位セナを従えてアレジは4位グリッドを獲得していた。ミナルディ/スクーデリア・イタリアらと共にピレリ・タイヤを装着するティレルは、曇りで気温/路面温度の上がらない直角ターンだらけの公道サーキットでグッド・イヤーを凌ぐ活躍を見せた。もっとも、ティレルがピレリと規約したのは開幕直前だった為、アレジとチーム・メイトの中嶋悟はほぼぶっつけ本番となっていた。決勝レースも曇り空の下スタート。ベルガーが後続のマルティニ/チェザリス、そしてセナらを牽制しながら第1ターンへ。そこへ、アレジが大外から一気にインへ切り込んで来た。怯むベルガーを尻目に、タイヤ・スモークを揚げながらF-1・グランプリ9戦目のアレジがトップを奪った。それも、市販の非力なフォード・コスワースDF-R・V8を搭載したマシンで、だ。コックピットのサイズに苦しむ長身のベルガーを、小柄なアレジがグングン引き離して行く。焦ったベルガーは9周目の第6ターンでコントロールを失い、クラッシュ/リタイア。代わって2位となったのは同じマクラーレン・ホンダのエース、いやF-1グランプリのエース、セナだった。ガソリンが軽くなるに連れ性能を発揮するマクラーレンは1周1秒ずつアレジとの差を詰め、30周目に遂にセナはアレジのすぐ後ろに付けた。この時、グッド・イヤー・ユーザーのセナは「アレジはタイヤ交換の為にピット・インするのか/それとも自分と同じノン・ストップ作戦なのか」を考えていた。もしピット・インするのであれば、無理に抜く必要は無い。だが、もしそうで無いのなら、抜き所の少ない直角ターンで"まだ戦った事の無い相手"をオーバー・テイクするのはセナとて容易な事では無いからだ。「奴はピット・インしない」そう悟ったセナは、この歴史に残る大バトルへと突入して行く。

32周目から、セナは第1ターンでアレジのインに入る素振りを見せ始めた。続く33周目、今度はアウト側にも振って見せた。だが、アレジは動じない。しかし、バック・ミラーを見ていないわけでは無い。後からセナがプッシュして来ているのは百も承知だ。アレジの新人らしからぬ度胸の良さに感心したセナは揺さぶるのを止め、34周目の第1ターンでスリップ・ストリームから抜け出すと、堂々とアレジのインへ入って行った。セナのマクラーレンMP4/5B・ホンダは右コーナーを完全に制圧した。セナはマシン1台分程アレジの前にいた。そして加速直後の左コーナー、今度はアウト側となるセナのインに、なんとアレジがノー・ブレーキかと思うようなスピードで突っ込んで来たのだ。左第2ターン、続く複合の左第3ターンを制圧したのはアレジだった。各国のコメンタリーがセナがトップに立った事を伝えている真っ最中に、アレジはセナを抜き返したのである。場内は騒然となった。「デビュー9戦目の新人の乗る非力なティレル・フォードがセナのマクラーレン・ホンダを抜き返した」フランスのTV局は絶叫していた。「別に、優勝するつもりなんかじゃなかったんだ。ただセナとのバトルを楽しみたかったのと、どうせ抜かれるんだからもう少し先に延ばして貰おうと思っただけなんだよ(笑)」ピットでは普段笑わないケン・ティレルが溢れる笑いを隠すのに必死だった。セナはこの驚異の新人に対する態度を改め、次の35周目、全く同じ第1ターンで全く同じようにアレジのインへと入った。セナが前へ。アレジはまたも左第2ターンのインを狙うが、今度はセナが見事に押さえ切った。ところが、アレジは押さえ込まれた体勢のまま、次の第3ターン以降、セナのアウト側にピタリと付いて来たのだ。さすがのセナもこれには驚いた。まず、60馬力は劣るであろうティレル・フォードでマクラーレンに仕掛けて来る等、到底考えられない事だったからだ。36周目に入るまでの間、アレジはマシンを左右に振りながらセナに挑み続けた。コメンタリー達は叫び続けた。だが、翌周のホーム・ストレートではセナはアレジを引き離していた。つまり、明らかなスピード差がありながら、アレジはセナを抜き返したのである。しかし、そこには"危険"は感じられなかった。ふたりとも明らかにそのバトルを楽しんでいた。結局1位セナ、2位アレジでレースは終了。パルクフェルメでセナはアレジに微笑みかけた。アレジも照れくさそうに答えた。セナは「フェアで、エキサイティングな、最高のバトルだった」とアレジに敬服した。

このバトルが伝説になっているのにはもうひとつ理由がある。前年、同じマクラーレン・ホンダでタイトルを争うセナとアラン・プロストは壮絶なバトルの末、鈴鹿での"接触事故"と言う最悪の形でタイトルを決していた。セナは"危険なドライバー"との烙印を押され、冬の間中ずっとモチベーションを失っていた。そしてそれは、ジャーナリストやファンらも同じだった。誰もがF-1の素晴らしさを見失っていた。そこへ、デビュー9戦目の新人アレジがフェアなバトルで割り込んで来た。そして、気難しいセナもそれを受け入れた。F-1に漂っていた嫌な空気が一変したのだ。この年、伝統のモナコでもセナに続く2位でフィニッシュしたアレジは完全に'90年シーズンの主役となり、翌'91年に向け、早くも水面下でウイリアムズ・ルノーとの契約にサインしていた。もっともこれは、'90年シーズンが開幕する以前の2月の事だ。ところが、アレジの元に1本の電話がかかる。それは「ウイリアムズはアレジ以外に、セナやナイジェル・マンセルにもオファーしている」と言う内容だった。アレジは混乱していた。何故なら、その電話の主は、フェラーリの人間だったからである。

'90年の大活躍以前に、既にティレル/ウイリアムズ、そしてフェラーリがアレジの才能を認めていたのである。そしてウイリアムズとの契約から僅か1ヶ月後の3月、フェラーリは「ティレルとウイリアムズとの契約をクリアにし、来年はフェラーリに乗って欲しい」と正式にアレジに伝えて来た。「驚いたよ。だって、僕はまだF-1を10戦位しかしていなくて、しかも1勝も挙げていないんだ。フェラーリは別のチームでチャンピオンになった人達がやっと入れるようなチームだと思っていたから」アレジの行動はシンプルだった。幼い頃夢に見た、フェラーリ・ドライバーの座。それも、レースの最高峰、F-1である。全ての契約を白紙に戻し、アレジはフェラーリに加入する事となった。反対にフェラーリからはマンセルが抜け、ウイリアムズへの加入が発表された。アレジの快進撃が始まる.....筈だった。

'91年、前年セナとタイトルを争ったプロストをチーム・メイトにアレジは3位3回でランキング7位。フェラーリは0勝だったが、ウイリアムズのマンセルはセナとタイトルを争った。
'92年はイタリア人のイヴァン・カペリをチーム・メイトに3位2回でランキング7位。フェラーリはまたも未勝利、マンセルはウイリアムズで初のワールド・チャンピオンに。
'93年はマクラーレンから移籍のベルガーをチーム・メイトに迎え、2位1回/3位2回でランキング6位、プロストがウイリアムズでチャンピオンに。
'94年は2位1回/3位3回でランキング5位、セナを失ったウイリアムズは混乱し、デイモン・ヒルが最終戦までベネトン・フォードのミハエル・シューマッハーとタイトルを争うが惜しくも敗退。しかし、ベルガーがフェラーリに4年振りの勝利を齎す。

.....何かが狂っていた。'90年、非力なティレル・フォードで2位を2度記録していたアレジが、フェラーリではそれを上回れないでいた。反対に、アレジが行く"筈だった"ウイリアムズはマクラーレン/フェラーリを上回り、黄金時代を迎えていた。アレジは完全に時代に飲み込まれていた。何度か移籍の噂が出ても、「フェラーリで勝たなくては意味が無い」そう言い続けたアレジは'95年第5戦モナコ・グランプリの時点でF-1参戦90戦目を迎え、未だ未勝利であった。誰もがアレジのフェラーリ移籍は失敗だったと嘆いた。だが、反面その人気は年々膨れ上がって行った。不振に喘ぐ名門フェラーリに於いて、豪快にマシンをスライドさせながら疾走するカー・ナンバー27のフェラーリは、カナダ出身の伝説のフェラーリ・ドライバー、ジル・ビルヌーヴを彷佛とさせた。思うように走らない真っ赤な跳馬をねじ伏せるようにドライヴするアレジの姿に、人々は酔いしれた。そして、いつかアレジがフェラーリで勝利する日が来る事を、信じ続けた。

'95年6月11日、自身の31回目の誕生日、アレジは第6戦の舞台、カナダ/モントリオールのジル・ビルヌーヴ・サーキットにいた。予選は5位、スタート直後、チーム・メイトのベルガーがミスで後退、デビッド・クルサードのウイリアムズがコース・アウト、17周目にはペースの上がらないヒルが脱落、アレジの前はベネトン・ルノーのシューマッハーだけとなった。57周目、そのシューマッハーが電気系トラブルで緊急ピット・イン。シューマッハーがコースへ戻ると、アレジがトップに立っていた。観客は熱狂した。ファステスト・ラップを連発しながら迫るシューマッハーを尻目に、アレジはマシンをいたわりながらフィニッシュ・ラインを超えた。F-1参戦6年目、91戦目の初勝利、それもカー・ナンバー27のフェラーリでの勝利であった。興奮した観客が他のマシンがフィニッシュする前にコースへとなだれ込み、ジル・ビルヌーヴ・サーキットは大混乱となった。自身も感動に酔いしれながらも、アレジは予期せぬ勝利に戸惑いを見せていた。'89年と同じように、彼はマシンを壊さないように走っただけだった。しかし、それが結果的に勝利となった。もちろん、その後アレジが今までのドライビング・スタイルを変える筈が無かった。'01年にF-1を引退するまで、アレジの走りはアグレッシヴそのものだった。'96年からベネトン〜ザウバー〜プロスト〜ジョーダンと中堅チームを渡り歩いたアレジが、F-1で勝利する事は2度と無かった。

アレジの走りは間違い無く"アグレッシヴ"だ。だが、彼を"危険なドライバー"と言う人はいない。むしろ、コース上では最もフェアなドライバーだった。'93年カナダ・グランプリでは、スタート直後にセナとホイール・トゥ・ホイールで並んでコースの半分近くを走った。セナは「アレはアレジとじゃなきゃ出来なかった」と評した。'94年の雨の日本・グランプリでのナイジェル・マンセルとのサイド・バイ・サイドのバトルはセナを失って支えを無くしていた日本のファンにとって素晴らしいプレゼントとなった。'96年、ベネトンでのイタリア・グランプリではフェラーリ移籍1年目のシューマッハーを向こうに回してスタンドの大声援を受けた。「アレは2度と出来ないかもね」そう嘯く予選でのアタックは今もティフォッシの間で伝説となっている。'01年、低迷を続けるプロスト・チームで全ドライバー中ただひとりパワー・ステアリング無しで6位入賞したモナコ。汗ビッショリになりながらガッツ・ポーズを繰り返すアレジは間違い無く美しかった。

日本でのアレジ人気は母国フランス、聖地イタリアに次いで高い。奥方の後藤久美子と言う存在ももちろんあるが、'90年に中嶋悟のチーム・メイトとして戦った事や、フェラーリ時代にはスポンサー関連で日本のTVCMに登場していたのも大きい。そしてアレジ自身も日本を、鈴鹿を愛した。解説等でお馴染みのジャーナリスト、今宮純氏はアレジを"ドライビング・アーティスト"と評した。特にセナ亡き後、"魅せる"ドライバーはアレジをおいて他にいなかった。

'01年10月10日。この年、全ドライバー中最年長となっていたアレジはシーズンをプロスト・チームでスタートしながら、チーム内のゴタゴタに巻き込まれて第12戦ドイツ・グランプリを最後にプロストを離脱、同じく契約で揉めてハインツ・ハラルト・フレンツェンが離脱したジョーダンへと移籍した。そう、'89年に国際F-3000参戦の為アレジを抜擢し、しかもティレルからのF-1デビューにも一役買ったジョーダン・チームである。そしてこの頃、イギリスF-3を制した日本の佐藤琢磨が翌年ジョーダンからF-1デビューする事が決定。来季の去就が注目されていたアレジは、ブリヂストン・プレス・ミーティングの席上で突然の引退発表を行った。「来年の予定は?」と聞かれて、アレジが出した答は「もう、F-1は引退するよ」であった。出席していたフェラーリのジャン・トッド、ミハエル・シューマッハーらも驚く。いや、最も驚いたのはエディ・ジョーダンだったのかも知れない。確かに、'02年に向けてアレジが獲得出来そうな有力チームのシートは既に無かった。が、実際ジョーダンとの契約交渉はまだ続けられている最中だったのだ。アレジは、近代F-1が既に自らのドライビング・スタイルには合わなくなっている事を悟っていた。同時に、日本と言う国が佐藤のF-1参戦を必要としている事も解っていた。アレジは、身を引いたのだ。会見が終わると、目を真っ赤にした"親友"シューマッハーがアレジに問いただした。そこにいた誰もが、アレジに引退を撤回するよう求めたのである。10月11日、鈴鹿のレストランでアレジの引退パーティーが開かれた。翌日から戦いが始まるにも関わらず、16人ものドライバーを始め、45人ものF-1関係者が出席、クルサードのスピーチが人々の涙を誘い、ペーター・ザウバーはアレジにF-1マシンをプレゼントした。10月14日、決勝。突然の発表に驚き、急遽集まって来た日本のアレジ大応援団の前で、アレジは11位からスタート、6周目のダンロップ・コーナーでこの年デビューの新人、キミ・ライコネンがアレジの目の前でスピン、避けきれずに両者はクラッシュ。アレジのF-1ラスト・レースはあっと言う間に終わってしまった。だが、「大変な事をしてしまった」と項垂れるライコネンを慰め、アレジは笑顔で鈴鹿を後にした。

ジョーダンと佐藤の契約を含め、アレジに言いたい事は山ほどあった筈である。だが、彼は何も言わずに去って行った。自らのドライビング以外、アレジにはアピールするもの等無かったのだろう。F-1参戦201戦、優勝1回、ポール・ポジション獲得2回、獲得ポイント241点。ちなみに2位フィニッシュは16回を数え、平均完走順位は6位。また、平均予選順位9位に対して1周目通過時順位は8位、スタート直後に必ず誰かをブチ抜いて帰って来る男、それがジャン・アレジだった。フェラーリを愛し、フェラーリに呑まれたレーサー。記録よりも記憶に残るドライバー、ジャン・アレジはF-1引退後の今もドイツのDTM選手権で豪快な4輪ドリフトを魅せてくれている。




「フェラーリでの勝利は、あまりにも美しいんだ」
-'95年、カナダ・グランプリにて/ジャン・アレジ-


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