| '55年創業のヤマハ発動機は日本が世界に誇るエンジン・メーカーのひとつである。が、御存じの通りヤマハは自動車メーカーでは決してない。MotoGP/GP250/125等のロードレース世界選手権を始め、スーパーバイク(SSのみ)やモトクロス('02年覇者)等、むしろレース・ファンにはオートバイ/モーターサイクルの世界的なメーカーとして認知されている。また、宮城県にはスポーツランドSUGOと言うオフィシャル・サーキットも持ち、モーター・レーシングに於いては日本を代表するメーカーだと言える。では、ヤマハが作るのは2輪や船舶だけかと言うとそうでは無い。レーシング・カートやスノー・モービルだって作っているし(筆者もカート時代はヤマハ・ユーザーであった)、社内には"自動車エンジン事業部"が存在し、かつては名車"トヨタ2000GT"のツインカム・エンジンの開発を手掛けたりもしていである。そして'84年、このヤマハ・自動車エンジン事業部にとんでもない指令が下る。それは「F-1エンジンを製作し、宿敵ホンダを倒せ」と言うものだったのだ。 ヤマハ/ホンダ/カワサキ/スズキ。世界的に2輪市場をリードするこれらの日本メーカーの中で、ホンダは明らかに異端児であった。元々2輪メーカーでありながら4輪の製作/販売にも着手、更にCVCCで世界初の低公害エンジン製作に成功しながら、遂には4輪レースの世界最高峰、F-1グランプリで勝利するのである。それでいて2輪で手を抜いていたかと言うとそんな事は無く、実際ロードレース世界選手権の最高峰、500cc(現在のMotoGP)に於いて、'80年代中盤はフレディ・スペンサーとエディ・ローソンによる"ホンダvsヤマハ"の一騎討ちが繰り広げられていた。2輪ロードレースに於いて、ヤマハは'64年、250ccクラスを初制覇して以来国内外を問わずモーター・レースをリードして来ており、当然、ヤマハにとってホンダは最大のライバルとなっていた。そんな中、ラルトと共にF-2を制覇したホンダが第2期のF-1活動をスピリット・チームと共にスタートしたのが'83年。翌'84年にはトップ・チームであるウイリアムズへのエンジン供給により遂に第2期初優勝を飾り、徐々にチャンピオン争いにまで絡む存在となって行く。これを見たヤマハは自動車エンジン事業部の木村隆昭をプロジェクト・リーダーとし、第2期ホンダが辿ったのと同じようにF-2エンジンの製作をスタート、'84年12月、ヤマハ初の4輪レーシング・エンジン、"ヤマハOX66"が発表された。OX66は75度V6DOHCと言う仕様で、当時世界最強と言われたF-2エンジン、ホンダRA260よりも軽量コンパクトであった。更に他メーカーに先駆け、既に2輪でも世界初開発に成功していた5バルブ方式を採用、'86年全日本F-2選手権ではデビュー・ウィンと言う快挙を成し遂げる。'87年はF-2規定がF-3000となったが、ここでもヤマハはF-1の第一人者フォードとのジョイントにより、コスワースDFVのシリンダー・ブロックにヤマハ・オリジナルの5バルブ・ヘッドを搭載したDOHC-V8を開発、"OX77"と名付けられたこのエンジンは'88年、全日本F-3000で鈴木亜久里が3勝を挙げ、無限を破ってチャンピオンを獲得する。そして翌'88年、遂にヤマハは念願のF-1へと打って出る。 折しもその頃、F-1ではホンダがマクラーレンと組み、アイルトン・セナ/アラン・プロストを擁して16戦中15勝/ダブル・タイトル獲得と言う快挙を成し遂げている真っ最中であった。つまり、ホンダはいつの間にか世界のF-1を"制覇"していたのである。またホンダ/中嶋悟の活躍によって日本には空前の"F-1ブーム"が起こり、"F-1=ホンダ"に近いイメージも出来上がりつつあった。ちょっとやそっとでホンダを倒せるエンジン等、存在する筈も無かった。しかし、ターボ・エンジン規定を続けていてはこのままホンダの独壇場が続くと危惧したFISAは'89年からの自然吸気(NA)エンジン規定を決定、ある意味、ここで参戦する全てのターボ・エンジン・メーカーはエンジンを"イチから作り直し"する羽目となった。これはヤマハのみならず、全てのメーカーにとって"チャンス"であった。 全車NAとなった'89年、ヤマハはかつてのホンダ(スピリット)がそうしたようにドイツの小さなチーム、ザクスピードと組んでF-1世界選手権にエントリーした。ドライバーはドイツ人のベルント・シュナイダーと鈴木亜久里を起用、エンジンはOX66のレイアウトを基本とし、得意の5バルブ・ヘッドを搭載した75度DOHC-V8、OX88であった。だが、結果は散々なものであった。ザクスピードのマシン熟成不足とヤマハOX88の信頼性不足は取り返しのつかない問題となり、シーズンを通してシュナイダーが予選通過僅かに2回、鈴木亜久里にいたっては16戦全戦予備予選不通加と言う不名誉な記録を作ってしまう程であった。翌年に向けて問題点を洗い出そうにも実戦/サーキットでのデータも無く、ザクスピード・ヤマハはたった1年で破綻。その年、ライバルであるホンダはまたしてもダブル・タイトルを獲得していた。'90年は当初出場予定だったザクスピードが資金難を理由に急遽参戦を取り止めた為、ヤマハは2年目を完全に棒に振ってしまう。木村と開発責任者の清水紀夫は途方にくれたが、翌'91年に向けて全く新しいエンジンの製作に入った。それは、V12エンジンと言う発想であった。ホンダやフェラーリを始め、ランボルギーニやポルシェもV12を製作した'91年、時代は"パワー競争"の様相を挺していた。ヤマハもそれにならい、バンク角は75度から70度へと変更し、3.5リッター規定ギリギリの3498cc、"軽量/コンパクト"と言われたV8のOX88が145kgだったのに対し、新しいV12エンジンは140kg以下であると発表された。この画期的な"超"軽量/コンパクトなV12エンジンはOX99と名付けられ、'91年は奇才マシン・デザイナー、セルジオ・リンランドを擁する名門、ブラバム・チームと組んでのF-1復帰が決定した。しかし、やはりブラバム・ヤマハは'91年シーズン、結局5位1回/6位1回のたった3ポイントしか獲得出来なかった。ホンダはセナとゲルハルト・ベルガーによってまたしてもダブル・タイトルを獲得していた。だが、ヤマハにとって問題は明らかであった。5バルブ方式による低/中速トルクの落ち込みである。広いポート面積を必要とする為、低/中速域での流速が思うように上がらない。ヤマハはエア・ファンネルの形状を変えてみたり、マニホールド集合部をロング・サイズに改造してみたり、と改良を重ね、シーズンを通して確実に成果は上がった。だが、彼等にとって驚きだったのは他社の開発スピードの速さであった。こっちが問題をひとつ解決している間にトップ・チーム/メーカーはどんどん新しいアイデアを取り入れ、何歩も先へ行ってしまうのである。そしてそれは翌'92年、最も顕著に現れた。ヤマハはブラバムと別れ、新たに前年デビューしたばかりながら活躍を見せた新興チーム、ジョーダンと長期契約でジョイント。ところが、シーズンはV10のルノーとV8のフォードが大活躍を見せ、ホンダやフェラーリのょうなV12勢は惨敗を喫し、ホンダに至ってはあろうことかこの年いっぱいでのF-1活動の休止を決定してしまうのである。ヤマハは完全に活路を見失っていた。時代は既に、高回転V12では無くなっていたのだ。後に木村は「ジョーダンのマシンは基本的にV8構造だった。我々のV12が幾らコンパクトでも、所詮V12。バランスを取る為に時間を遣い過ぎて開発は思うように進まなかった」と語っている。結局ヤマハもこの年たった1ポイントしか獲得出来ず、長期契約を結んでいた筈のジョーダン側から一方的に契約を破棄されてしまった。 ホンダとヤマハには、決定的な違いがあった。ホンダは、創始者である本田宗一郎による「技術では負けない。世界一になる為にレースで勝つ」と言う思想によって成り立つ、根っからの"レース屋"の会社であった。従って、当時のF-1活動は"会社を揚げて"取り組んでいた。フェラーリがそうであるように、市販車を売るのは「レースに出る為」と言っても過言では無かったのである。事実、当時は宗一郎氏健在の上、第1期F-1活動時に現場で戦っていた川本信彦氏がホンダ社長であり、当然コストも人員もF-1で勝つ為に惜しみ無く投入された。しかし、ヤマハは実質「ホンダさんの十分の一の予算(木村氏談)」でF-1を戦っていたのである。少なくとも、レースで勝つ為に市販車を売る会社では無い。逆に、世界のトヨタですら当時はF-1に打って出るのを躊躇っていた程である。また、同じ頃スバルやいすゞがF-1へ挑戦したが、形にすらならなかったのが現状であった。更に、F-1の現場にヤマハが送り込む人員も"少数精鋭"であった。実際、当時のヤマハのF-1エンジン担当者は30人、現場担当はたったの6人であった。結局'92年いっぱいでF-1活動を休止するホンダに代わって無限がホンダV10エンジンをモディファイして行く事になるが、ここにもホンダのサポートが大きく存在したのである。 '93年シーズンに向け、ヤマハは大きな決断をする。それは完全に"置いて行かれてしまった"自社製V12の開発を諦め、新たにイギリスのジャッド社と提携し、新型V10エンジンを製作する事だった。"OX10"と名付けられたこのエンジンは、基本的にはF-1経験豊富なジャッド社責任者ジョン・ジャッドの設計に対し、ヤマハがモディファイして行く形を取った。もちろんヤマハにしてみれば少々不本意な体制ではあったが、木村/清水らはシーズンを通して徐々に"F-1エンジンに必要なものは何なのか"を学んで行き、シーズン開幕時は搭載したティレル・チームが既に3年落ちのマシンで出走していた事もあって勝負にならなかったが、日本人ドライバー片山右京との"日本語ブリーフィング"も役立ち、開幕時のスペックAから最終戦ではHまで進化、最終的には無得点、と結果は出なかったが、後半戦では確かな手応えを感じ取っていた。F-1に必要で彼等に足りなかったものは"経験"であった。そして翌'94年、ティレル・ヤマハはようやく"まともに"走り始める。 セナの事故やハイテク・レギュレーションの一斉禁止等で揺れた'94年シーズン、F-1参戦後初めて2年連続で同じチームと組む事になったヤマハには"安定と進歩"と言う大きな武器があった。ハーヴェイ・ポストレスウェイト設計のティレル022はコンサバティヴなコンセプトと無駄の無い空力処理で快走、第5戦スペインではマーク・ブランデルが3位となり、ヤマハはF-1参戦後、初めての表彰台を獲得。また、片山も予選シングル・グリッドの常連となり、第9戦ドイツ・グランプリでは予選5位からスタートし、リタイヤしたものの一時は2位を走る快走を見せた。結局13ポイントを稼ぎ出し、ヤマハは片山と共に、ホンダ無き後の"F-1・ジャパン・パワー"を背負って立つ存在へと成長しつつあった。ところが、更なる期待がかかった'95年、ティレル・ヤマハはミカ・サロの5位2回/6位1回の計5ポイントのみであった。エンジン規定が3.5リッターから3リッターへと変更になったこの年、ヤマハは3.5リッター用OX10の改良型であるOX10/Cで順調にパワー・アップしていたが、ティレルが開発したハイドロリンク・サスペンションが思うように効果を発揮せず、シーズン中にパッシヴ・サスペンションに戻す、と言うドタバタが完全にチームの足を引っ張った。第6戦カナダではホーム・ストレート上での計測でトップ・スピードをマークしながら予選16位、と言うのがティレル・ヤマハ023の実力であった。翌'96年、ティレルとヤマハの関係は4年目となるが、結果は前年と変わらず5ポイント(サロのみ)。ヤマハOX11Aは乾燥重量100kgを下回る超小型エンジンだったが、トップ・エンドでのパワー不足とコンパクトであるが故の信頼性不足は最後まで解決出来ず、最終戦鈴鹿でティレルとヤマハは今季限りでの決別を発表。だが、来る'97年はアロウズ・チームに独占供給する事が決定。しかも'97年のアロウズには、タイトルを獲得しながらもウイリアムズ・チームを放出されて移籍して来るデイモン・ヒルと、計画を1年前倒ししてF-1に乗り込んで来るブリヂストンの開発チームとしての権利が存在していた。何よりもサーキットでの走行データが欲しいブリヂストンと、無敵の"チャンピオンV10"であるルノーの開発知識が豊富なヒルの組み合わせは、ヤマハにとっても魅力的なものであった。ヤマハは72度V10のOX11Aをアロウズ用にモディファイ。だが、シーズンが始まって見れば"万年Bチーム"のアロウズが突然トップ・チームと互角の走りをする筈も無く、逆に新興ブリヂストン装着車はプロスト・無限/スチュワート・フォードらが快走。アロウズはヒルが第9戦イギリス・グランプリでようやく1ポイントを獲得。結局いつもと変わらないシーズンか、と誰もが肩を落としていた。 第11戦、ハンガリー・グランプリ。フリー走行で5位と好調なヒルは予選前、「見てなよ、皆があっと驚く結果になるから」と木村に囁いた。木村はヒルの自信に満ちた表情に圧倒されながらも、ブリヂストンの持ち込んだ超ソフト・タイヤが上手くマッチすればトップ10グリッドも不可能では無い、と思っていた。そして予選。フェラーリのミハエル・シューマッハーが順調にポール・ポジションを獲得。ラスト・アタックをチェッカーギリギリ-つまり、最もコース上が各車のタイヤによるラバー・グリップでタイム・アップ出来る時間帯-で敢行、なんと自己ベストを一気に0.7秒縮め、予選3位を獲得したのである。木村は驚きながらも思い出していた。ヒルはデビュー1年目のハンガリーが初優勝、以降3年間で2勝/2位1回、とハンガロリンク・サーキットには滅法強いのである。もっとも、アタックを終えたヒルに木村が「狙っていたのか」と聞くと、当のヒルは「まさか!。せいぜいトップ10だと思ってただけだよ」と答え、大笑いしたのだとか。 そしてハンガリー・グランプリ決勝。スタート直後、ヒルは2番手/イン側のジャック・ビルヌーヴ(ウイリアムズ・ルノー)をパスしてシューマッハーに続いて2位で第1コーナーへ。抜き所の少ないハンガロリンクで3位に上がったエディ・アーバイン(フェラーリ)以下が数珠繋ぎになっているのを尻目に、シューマッハーとヒルだけが3位以下をブッチ切って行く。その後、ヒルはどうやらシューマッハーのフェラーリはリアの挙動が安定していないらしい事に気付く。ヒルから無線でチームに対し「良く見とけよ」と一報が入った11周目、ホーム・ストレート上でヒルはシューマッハーに並びかける。譲らないシューマッハーがヒルのラインへとかぶせるが、ここはヒル得意のハンガロリンク、ましてやグランプリ・レーサーの中では最もシューマッハーのブロックに慣れているヒルはそれをものともせず、鮮やかに第1コーナーでトップに立った。遂に、ルノー/フェラーリを抜いてヤマハがF-1グランプリをリードしたのだ。その後もヒルは快走に快走を重ね、残り17周、2位ビルヌーヴに30秒の大差をつけて独走していた。誰もがアロウズ/ブリヂストン、そしてヤマハのF-1初優勝を確信していた。 ところが残り3周、ヒルは無線で「スロットルが戻らない」と言って来た。次の周には「何てこった!、ギアが2速から動かない」との報告。ヒルのアロウズ・ヤマハは見る見るスロー・ダウンし、今にも止まりそうなスピードにまで落ちてしまった。後方から、ヒルのトラブルを知って俄然ペースを上げたビルヌーヴが迫って来る。ヒルは何度も「クソ、どうすりゃいいんだ?」と問いかけて来る。言葉も出ず、慌てるだけのチーム・クルーに変わって、木村が叫んだ。「大丈夫だ、踏め!。ウチのエンジンは壊れないから!」.....ヒルは最終周でビルヌーヴに抜かれながらも、必死にマシンを操作し、大殊勲の2位でチェッカーを受けた。ピット・ウォールでは全チームのスタッフが拍手でヒルを迎えた。表彰台でも、記者会見でも、この日のヒーローはヒルだった。アロウズ・ヤマハ・ブリヂストンの初優勝まで、後1歩だった。後、たったの2周だった。だがそれが、"万年Bチーム"の現実であった。F-1の記録には"2位"としか残らない。 ヤマハは翌'98年もアロウズとの契約を更新するつもりだったが、アロウズは水面下で、この年限りでF-1活動を休止するルノーに代わってルノー・エンジンを開発して行くメカクローム社との契約を狙っていた。結局この交渉は決裂するが、'97年シーズン終了後も態度保留を通していたアロウズ・チーム側から、突然「'98年は自社製エンジンで参戦する」と、12月になってから突然の発表を行う。実際はブライアン・ハート製の2年落ちV10エンジンにアロウズのバッジを付けただけに等しいシロモノだったが、とにかくアロウズは一方的にヤマハと決別してしまったのである。既に全チームが'98年の体制を決定してしまっていたこの次期から、ヤマハが翌年の他チームへのエンジン供給交渉を進める事等、不可能であった。'90年と同じように、予期せぬ事態でヤマハは翌年の参戦が出来なくなってしまったのだ。そして、結局ここでヤマハのF-1への挑戦は終わりを告げる。上層部から「もういい」との判断が下った為だった。木村も清水も悔し涙を流した。そしてこの頃、'92年でF-1を休止していたホンダに、カムバックの噂が出始める。ヤマハがF-1に参入した頃、ホンダが会社の総予算から相当な額をレースに注ぎ込んでいたのに対し、ヤマハは本社のサポートを受けず、自動車エンジン事業部の予算からのやりくりだけでF-1を戦った。元々、社内にすら「4輪市販車製造/販売の無いウチがF-1に出て、何の意味があるのか」と言う反対勢力も存在したと言う。F-1出走115戦中、決勝最高位2位/予選最高位3位、獲得総ポイント36点。それがヤマハのF-1での全成績である。 .....ヤマハは、F-1で何を残したのか。ある時は鈴木亜久里と、ある時は片山右京と、そしてある時はブリヂストンと共に、我々日本人の夢を叶えるべく戦った。チャンピオンはホンダが獲った。ヤマハの撤退後、無限はジョーダンと共にタイトル争いに参加した。ブリヂストンは参戦2年目、マクラーレン/ミカ・ハッキネンと共に王座に着いた。確かに、ヤマハは何も残していないのかも知れない。また、残せるだけの資金も体制も、木村/清水らを中心としたF-1プロジェクトには与えられなかったのも事実である。恐らく、参戦を検討し始めた'84年頃、ヤマハはF-1がこれ程までに高いハードルを持っているとは考えなかった筈だ。そしてまた、ホンダがそこまで強くなるとの予想も出来なかったに違い無い。2輪でそうして来たように、ホンダと共に世界を舞台に戦う事を夢見ただけだったのだ。そして彼等がF-1に入って来てからの8年間で、F-1は"巨大自動車メーカー同志の威信を賭けた戦い"へと変貌してしまった。もう、ヤマハがF-1で出来る事は残っていないのだろうか。.....'00年3月、ヤマハは'02年からのF-1参戦を発表したトヨタとの技術交流を発表。そう、ヤマハのF-1参戦はトヨタに受け継がれて行くのである。いつの日か、F-1でホンダvsトヨタのトップ争いが見られるだろう。 そこに、ヤマハの精神は生きているのである。
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