| "名車"と言われるF-1マシンは数多く存在する。それぞれが独特の発想や歴史を持ち、他に例を見ない新たな挑戦の証として誕生して来た名車達は後年まで語り継がれ、色褪せる事無く人々の記憶の中に残って行く。同時に、そのマシンの"記録"も破られるその瞬間まで歴史に君臨し続ける。今回紹介する"名車"はとんでも無い"偉業"を達成した車である。'77年開幕戦アルゼンチン・グランプリ。近代F-1が始まって以来、ニュー・カマーとして前代未聞の"デビュー・ウィン"を達成したただひとつのF-1マシン、それがウルフWR1だ。 オーストリア出身のカナダ人大富豪、ウォルター・ウルフは石油事業で財を成した。'70年代、高度経済成長の波に乗ってあっと言う間に"大金持ち"となったウルフには長年の夢があった。自らの名を冠したF-1レーシング・チームを持つ事であった。ウルフが白羽の矢をたてたのは、当時チーム自体が既に消滅同然の状態だったヘスケス(結局オーナーのヘスケス卿は'76年にチームを売却)と、資金難に喘ぎながらもどうにか参戦を続けていたウイリアムズ・チームであった。'75年、ウルフはまず豊富な資金を使ってヘスケス・チームの設備一式及び人員を全て買い取った。次に、思うような成績が挙げられず苦戦していたウイリアムズ・チームに資本参入し、現場の責任者はフランク・ウイリアムズに任せたまま、ウルフはメイン・スポンサーと言う形を取った。こうしてウルフはヘスケスとウイリアムズを合体させ、チーム名を"ウルフ・ウイリアムズ"としてF-1サーカスへと参入した。しかし、マシンはヘスケスのモデル308Cをそのまま使用し、名称だけを"ウイリアムズFW05"としての参戦となった。しかし結局'75年シーズンは第11戦ドイツ・グランプリでジャック・ラフィーが2位になった以外、ウルフ・ウイリアムズは目立った成績を残す事が出来ずに終了。'76年にいたっては名手ジャッキー・イクスを持ってしても7位が最高であった。実は元々ヘスケス308C自体、決して素性の良いマシンでは無く、オリジナルとなったマーチ731をモディファイした'74年のヘスケス308の改良型であり、実の所'75年シーズンを戦うには既にやや時代遅れのマシンだったのである。更に特殊なサスペンション構造を持つ308C(FW05)はセッティングも難しく、ヘスケスから設備と共にウルフ・ウイリアムズへと移って来たこのマシンを作った張本人でさえ「これ以上の改良は不可能」と投げ出す状況であった。元々工学博士であるこの33歳の若きデザイナーの言葉はチーム内に於いて非常に高い影響力と信憑性を持っており、彼が「ダメ」と言うのならそれは"ダメ"なものであった。彼の名はハーヴェイ・ポストレスウェイトと言った。 '76年シーズンが終了すると、チーム内はバラバラになってしまっていた。現場の総指揮を取っていたフランク・ウイリアムズは若きエンジニア、パトリック・ヘッドと共にチームを離脱(lap28-"魂で闘い続ける男"/闘将、フランク・ウイリアムズ物語-参照)、結局ウォルター・ウルフはチームを100万ドル(約3億円/当時)で丸ごと買い取った。そして新たにロータスで指揮を取っていたピーター・ウォーをチーム・ディレクターに招聘。ドライバーにはティレルのエース、ジョディ・シェクターを引き抜き、新たに"ウォルター・ウルフ・レーシング"を発足。ポストレスウェイトに対し、「ヘスケスでもウイリアムズでも無い」、"ウルフのF-1マシン"を製作するよう命じた。こうして'76年11月、ウォルター・ウルフ・レーシングの記念すべき第1号車としてウルフWR1は誕生した。 当時のスタンダードであったフォード・コスワースDFVエンジンとヒューランドFGA400ミッションを搭載したウルフWR1は、発表当初オーソドックスなモノコック前方に、不釣り合いな巨大なスポーツ・カー・ノーズを持っていた。だが、この前輪をスッポリと覆い隠す程のフロント部からマシン後方へ向けた"空力処理"は当時最先端の手法であった。が、マシンそのものはシンプルでいたってオーソドックスにしか見えず、ポストレスウェイトは目に見えぬ細かい部分での処理にこだわった。また、ロータスがグランド・エフェクト・カーを持ち出して来る以前の当時、前後ウイング以外でもダウン・フォースを得ようとしたポストレスウェイトの発想は見事であった。そしてサーキット・テストが始まると、細かなモディファイが加えられて行った。結局フロント・ノーズ/ウイングはスッキリとシェイプ・アップされ、黒光りするボディにゴールドで描かれた"Walter Wolf Racing"のデザインは、同色で"John Player Special"をまとう名門、ロータスへの"挑戦状"と噂された。だが、前年のウイリアムズFW05(ヘスケス308C)の印象が強かったウルフに対し、多大な期待をかける者はいなかった。そして'77年1月、F-1グランプリはアルゼンチンのブエノスアイレス・サーキットで幕を開けた。 予選は10位のロータス・フォードのグンナー・ニルソンに0.1秒及ばず、トップ10まで後1歩の11位、だがウルフは新参チームのデビュー戦としてはまずまずのグリッドを獲得した。決勝レースがスタートすると、レース中盤までにポール・ポジションからスタートのジェームズ・ハント(マクラーレン・フォード)を始め、ジョン・ワトソン(ブラバム・アルファロメオ)、ニキ・ラウダ(フェラーリ)、パトリック・ドゥパイエ(ティレル・フォード)ら上位陣がアクシデントやトラブルで次々にリタイア。シェクターは絶妙のテクニックで目前で起こるアクシデントを何度と無くくぐり抜け、48周目にカルロス・パーチェ(ブラバム・アルファロメオ)をパスし、遂にトップへと浮上。終わって見ればウルフ/シェクターは2位のパーチェを43秒も引き離し、53周のレースをトップでチェッカーを受けた。ニュー・チームのニュー・マシンがデビュー戦で優勝するのはF-1史上初の快挙であった。ウルフは瞬く間にグランプリの注目の的となった。しかし、完走7台の超サバイバル・レースでの"幸運な勝利"をフロックであると揶揄する人物も数多く存在した。だが、ポストレスウェイトは開幕前に「毎レースごとにモディファイを行う」事を宣言しており、実際ウルフWR1はどこのサーキットでも速く、第3戦南アフリカ2位、第4戦アメリカ西で3位、第5戦スペイン3位、と連続して表彰台へ上り、第6戦モナコではフェラーリのラウダとの激闘を制し、2勝目を挙げた。一時'77年シーズンのポイント・リーダーにもなっていたシェクターはその後第16戦、ウルフの地元カナダで3勝目を挙げ、最終的に55ポイントを獲得、惜しくもシェクターは72ポイントで逆転チャンピオンとなったラウダに次いでドライバーズ・ランキング2位となり、ウルフ・チームも1台エントリーにも関わらずコンストラクターズ・ランキング4位を獲得。デビュー戦優勝が決してフロックでは無い事を見事に証明して見せた。それどころか、あわよくば"デビュー・イヤー・チャンピオン"の可能性すら伺えたのである。 ウルフWR1は基本的にホイール・ベースの短い、ショート・コーナーでの操作性に優れたマシンであった。前年ティレルで史上初の6輪車をドライヴし、クイックな運動性能に長けていたドライバーのシェクターもこのマシンを操るに最適な人物であったと言えるだろう。しかしポストレスウェイトはシーズン終盤に控える高速コースに合わせ、ややホイール・ベースの長めの2号車、3号車も製作した。これは基本構造が優れていなければ不可能なモディファイであり、WR1が如何に素性の良いマシンだったかが伺える。また、工学博士ポストレスウェイトは細かな部分にも航空機やヘリコプター等で信頼性/軽量化の確立された部品を数多く使用し、その結果マシンは壊れにくく、安定性の高いものとなったのだ。 だが、翌'78年にロータスがグランド・エフェクト・カー"ロータス79"を登場させると、F-1グランプリは突如としてロータスの"ワンマン・ショー"と化した。WR1の改良型で開幕を迎えたウルフが慌てて開発、第5戦モナコから投入したニュー・マシン、WR5は一瞬で勢力図の変わるF-1グランプリに於いて既に時代の波に取り残されてしまっていた。結局2位2回、0勝/コンストラクターズ・ランキング5位で'78年は終了。翌'79年はマクラーレンから'76年のチャンピオン、ハントを迎えるが最高位8位でノー・ポイント、ハントはあまりの競争力の無さにシーズン中に失意のまま引退。新人ケケ・ロズベルグが後を継ぐが新型WR7、改良型のWR8、WR9も完全な失敗作となったウルフF-1は突如終焉を迎える。急速にレースへの興味を失ったウォルター・ウルフ自身が、F-1グランプリからの完全撤退を決めたのである。ウルフは元々ヘスケスから購入したその設備を今度はブラジルのフィッティパルディ・チームへと売却。デビュー・イヤーの鮮烈な衝撃だけを残し、僅か3年の活動期間でウルフはグランプリから消えて行った。'03年現在、デビュー・ウィンを飾ったF-1チームはウルフだけである。 その後ポストレスウェイトは'82年のフェラーリ126C、'90年のティレル019等の革新的なマシンを生み出し、"シンプルだが個性的"なその手法で次々とF-1グランプリに革命を齎した。中でもティレル019は、現在でこそ当たり前となった"ハイ・ノーズ"の先駆者であり、現代のF-1のフロント部の空力処理法の原点となった。'98年にティレルがBAR(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)に買収されると、元ティレルのスタッフを引き連れ、F-1復帰を発表したホンダへと合流、HRD(ホンダ・レーシング・ディベロップメント)で総指揮を取り、ダッラーラの協力のもと"オール・ホンダ"F-1マシンとなるホンダRA099を製作。冬の合同テストでは常にトップ・チームと同等かそれ以上のタイムを連発し、期待を集めた。だが'99年4月13日、ポストレスウェイトはスペイン/バルセロナでテスト中に突然倒れ、運ばれた病院で心臓発作の為55歳の若さで急逝。.....F-1史上初の"デビュー・ウィン"を成し遂げた名車、"ウルフWR1"の生みの親はもういない。だが、このとてつも無い記録を破れるマシン/デザイナーは、もう現れないかも知れない。
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