■lap37-"運命の出会い"/ネルソン・ピケ物語-
2003.02.21


ブラジルの子供達にとって、"サッカーの神様"ペレはまさに英雄であった。貧富の差が激しいブラジルに於いて、広場とボールさえあれば誰もがペレを目指してその能力を伸ばして行けるサッカーは国民的スポーツであり、ワールド・カップで世界の強剛相手に勝ち進んで行く様は貧しい子供達に夢と希望を与えた。そしてもうひとり、'72、'74年のF-1ワールド・チャンピオン、エマーソン・フィッティパルディもまたブラジルが生んだスーパー・スターであった。しかし、一家が自家用車を持つ事すらままならないブラジルの人々にとって、F-1ドライバーへの道はあまりにも険しく、決して現実的なものでは無かった。だが、ある程度財を成した"上流階級"の家庭では逆に南米人の持つ天性の反射神経/運動神経で欧州のグランプリ・レーシングに挑戦する事は夢では無かった。幼き日にエマーソン・フィッティパルディを目にし、自らもフィッティパルディのようなスーパー・スターになりたい、と志した少年達は多かったろう。そしてその中からフィッティパルディの2度を超える3度のタイトル獲得を実現するレーサーが現れる。

ネルソン・ピケ。本名ネルソン・ソウト・マイオールは'52年8月19日、ブラジル/リオ・デ・ジャネイロに誕生。父は元テニス・プレーヤーで医師免許も持つブラジルの国会議員(後にブラジル厚生大臣にまでなる)、貧富の差の激しいブラジルでは相当な上流階級に育ったと言って良いだろう。父は息子をテニス・プレーヤーにしたかったようだが、幼い頃のピケは自宅の自動車に興味を示し、そのメカニズムを自らの手で解明しようとガレージに入り浸っていた。そんなピケがF-1グランプリ/エマーソン・フィッティパルディと出会い、「自分もレーサーになりたい」と思うのは当然であった。が、厳格な父親は「自動車レースは危険」とピケにサーキットへ行く事さえも禁じ、不自由はさせなくとも車だけは買い与えなかった。それでもピケは欲望を止められず、なんとかチケット無しでもサーキットに入り込んでレースを観る事は出来ないかと考える。そしてある日、運命の出会いが訪れる。

ピケはF-1ブラジル・グランプリの開催されるインテルラゴス・サーキットの関係者専用の入り口で張り込んでいた。チーム関係者の車が通ったら、頼み込んで中へ入れて貰おうとしたのである。何台かの車に当然のように無視された後、ブラバム・チームのスタッフの乗る車が入り口で止まった。ピケはすかさず「何でもするから、中へ連れて行って欲しい」と嘆願した。すると車の中から現れたひとりの男が「そんなにレースが好きなのか」と問いかけた。ピケが頷くと、その男は笑いながら「いいだろう。トランクに隠れろ」とピケを車のトランクにかくまい、パドックへと入っていった。ピケはその男に感謝し、お礼に、とブラバムのF-1マシンを必死に磨いた。その男は「いつかF-1に乗れるよう、頑張れよ。その時また会おう」とピケに微笑みかけ、ピケも「うん、必ず」とその男に約束した。

ピケをレースから遠ざける意味があったかは不明だが、父はピケをアメリカの高校へ留学させた。しかしピケは学校へはあまり行かず、修理工場でアルバイトをしながら車いじりをする日々を送った。帰国後の'70年、大学生となったピケは父親に内緒で(父は知っていて黙認していた、とも言われている)ブラジル国内のカート・レースにデビュー、翌'71年には早くもブラジルのカート・チャンピオンを獲得する。翌年は国内のスポーツカー・レースでもチャンピオンとなり、'73年からはスーパー・Veeシリーズへとステップ・アップし、'76年にはタイトルを獲得、ピケは押しも押されぬブラジルの若手No.1レーサーとなった。実は"ピケ"と言う呼び名は母親の姓で、心配する父親に自分だと解らないように、とピケ本人が名乗ったものであった。だが、その父が突然他界。ショックと悲しみから立ち直れないピケに、母国の英雄、フィッティパルディが「本気でF-1を目指すならブラジル国内では無く、欧州へ行って修行しろ」と助言する。尊敬するフィッティパルディのアドバイスで精神的に立ち直ったピケは'77年、イギリスへ渡って欧州F-3シリーズに参戦、初年度ながら2勝を挙げてシリーズ・ランキング3位の活躍を見せる。翌'78年には13勝と言う圧倒的な強さでイギリスF-3チャンピオンを獲得。当然のようにピケの元にはF-1チームからの誘いも来た。遂にピケは'78年ドイツ・グランプリでエンサイン・チームからF-1デビューを果たす。結果は予選21位/決勝リタイヤであったが、新人ピケの速さに目をつけたマクラーレンがプライヴェート仕様の3台目のマシンに乗る事をオファーし、オーストリア/オランダ/イタリアの3戦にはマクラーレンで出走。そして今度はブラバム・チームから翌'79年シーズンのレギュラー・シートのオファーを受ける。そして、テスト的な要素も兼ねて'78年終盤のカナダ・グランプリにブラバムからスポット参戦したピケは運命の再会を果たす。そう、幼いピケを車にかくまってサーキットへ入れ、「いつかF-1グランプリの現場で会おう」と約束したのは、ブラバム・チームの天才マシン・デザイナー、ゴードン・マーレイだったのである。幼かったピケはマーレイの名を覚えていなかったが、逆にマーレイの方はブラジルの国内レースやF-3を戦っていたピケを覚えていたのである。

'79年、ピケはマーレイの作ったブラバムBT48・アルファロメオを駆り、帝王ニキ・ラウダのチーム・メイトとして初のフル参戦。第12戦オランダ・グランプリで初ポール・ポジションを獲得、決勝では4位初入賞。翌'80年はBT49・フォードに乗り、第4戦アメリカ・グランプリ・ウエストで初優勝。この年3勝を挙げてシリーズ・ランキング2位となる活躍を見せた。そして迎えた'81年、ピケはカルロス・ロイテマン/アラン・ジョーンズ(ウイリアムズ)、ジャック・ラフィー(リジェ)、アラン・プロスト(ルノー)らと最終戦までもつれたタイトル争いを1点差で制し、念願のF-1ワールド・チャンピオンを獲得。F-1を夢見ていた少年が、遂に頂点に上り詰めたのである。翌'82年はブラバムのマシンとBMWターボ・エンジンのマッチングに苦しみ低迷するが、'83年には終盤の連勝でまたも最終戦でルノーのプロストを逆転、2点差で2度目のタイトルを獲得。ピケは尊敬する母国の英雄、フィッティパルディと並ぶ2度目の世界チャンピオンに輝いた。だが、ブラバム・チームの命綱であったマーレイがマクラーレンへ移籍する事が決まるとブラバムは急速に競争力を失い、反対にマクラーレン・TAGポルシェが圧倒的な強さでシーズンを凌駕し、'84年シリーズ5位、'85年8位に終わったピケはウイリアムズ・ホンダへの移籍を決意。7年間続いたピケとマーレイとのタッグは終わりを告げた。'86年移籍直後の開幕戦で優勝を飾り、4勝を挙げてランキング3位と復活。翌'87年は運命のチーム・メイト、ナイジェル・マンセルとタイトルを賭けて死闘を繰り広げる。最強のウイリアムズFW11B・ホンダに乗ったピケとマンセルはほぼ毎レースで白熱したバトルを見せ、 "チーム・オーダー制"の無いウイリアムズで"ホンダのエース・ピケ"と"英国ウイリアムズの申し子・マンセル"が1歩も譲らぬ激しいシーズンとなった。結局ピケが第15戦日本・グランプリでチーム・メイトの予選中のクラッシュによって自身3度目となるタイトル獲得が決定。チャンスさえあれば僅差でモノにするピケの強運に、勝利の女神は3度微笑んだ。

ウイリアムズがホンダを失った'88年、ピケはロータス・ホンダへと移籍する。ピケがエンサインからF-1デビューする以前、当時F-2参戦の準備中であったホンダの中村良夫監督が「ブラジルにとんでもなく速い奴がいる」と耳にし、早くからピケに目をつけていた。'86年から乗ったウイリアムズでホンダ・エンジン・ユーザーとなって以来、ピケはホンダ・エンジンと行動をともにする。だが、'88年のロータス100Tは完全な失敗作であった。ピケを持ってしても、2度の3位表彰台が精一杯であった。翌'89年はロータスとホンダが決別、非力なジャッド・エンジンで表彰台に乗る事さえ無く、ベルギー・グランプリでは遂に予選落ち。たった12ポイントでシーズンを終えた。人々は「ベテランのピケも、もうピークを過ぎておしまいだ」と口々に言い始めた。その頃、フォードのワークス・エンジンを使用する新興のベネトン・チームが徐々にトップ・チームを脅かし始めていた。'89年日本・グランプリでは1位アイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)の失格でイタリアのアレッサンドロ・ナニーニが初優勝を飾っていた。ベネトンはアパレル・メーカーを母体とするチームであり、ドライバーには常にアヴァンギャルドな"2枚目"を起用し、ピット内にはロック・ミュージックが流れる、と言うやや異端児的なチームであった。同時に、まだアマチュアリズムの残るB級チームから抜けだせないでもいた。ベネトン・チームの指揮を取るフラビオ・ブリアトーレはベネトン一族が送り込んだ"経営スペシャリスト"であり、自動車レースでの経験は全く無い人物であった。ブリアトーレはコマーシャリズム的なポイントを重視し、3度のワールド・チャンピオンであるピケをチームに招く事を決めた。だが、その内容は"契約金+出来高払い"と言うものであった。決して元チャンピオンが受け取る額としては高く無い契約金だけを保証し、後は「レースでポイントが取れたらボーナスを支給する」とした。一説には1ポイント10万ドルとも言われるこの"無礼な"契約をピケは受け入れた。ロータスで苦汁を舐めた元王者に取って、もはや金額等取るに足らない問題であった。必要なのは戦えるマシンだけであり、ピケの闘志はまだ弱まってはいなかった。そして迎えた'90年、ジョン・バーナード/ロリー・バーン設計によるベネトンB190と、V8ながら高回転/高燃費を誇るフォードのワークス・エンジン/HBを得て、38歳になったピケの、誰も予想しなかった"逆襲"が始まる。

ピケは開幕戦アメリカ・グランプリを4位フィニッシュで飾り、その後第4戦モナコ(失格)、第9戦ドイツ(リタイア)、第14戦スペイン(リタイア)以外のレースで全て完走、しかも第12戦イタリア(7位)以外、なんと全レースで入賞する。クレバーな走りと最後まで諦めない闘志でこの年の完走率(81.3%)と入賞率(75%)No.1の成績をおさめた。迎えた第15戦日本・グランプリ、直前にチーム・メイトのナニーニがヘリコプターの事故で右腕切断の重症を負い、ベネトンは急遽ピケの弟分である同郷のロベルト・モレノを大抜擢して起用。スタート直後、第1コーナーでタイトルを争うセナとプロストが接触してリタイア、その後トップに立ったマクラーレン・ホンダのゲルハルト・ベルガー、フェラーリのマンセルらがミスやトラブルで次々と脱落。1年前ナニーニが初優勝を飾った同じ鈴鹿で、ピケは弟分のモレノを引き連れて劇的なベネトン初の1.2フィニッシュを決めた。自身3年振りの勝利であった。

続く'90年最終戦オーストラリア・グランプリは筆者選出/ピケのベスト・レース。ピケは7位グリッドからプロスト、マンセル(フェラーリ)、ベルガー(マクラーレン)らを次々とかわし、トップのセナがリタイヤするとまたもトップに立った。レース中盤にタイヤ交換して猛然と追い上げるマンセルがプロストを抜き、ピケに迫る。残り4周はさながら"伝説の名勝負"、'87年イギリス・グランプリの再現であった。激しいテール・トゥ・ノーズのバトルを凌ぎ、ピケは2連勝を達成。タイトルを争ったセナ/プロストが"接触"と言う後味の悪い終わり方だった'90年シーズン、ピケは運命のライバル、マンセルとの見応えある真のバトルで本物の"レース"を魅せてくれたのだ。前戦のような上位陣の大量リタイアに助けられたわけでも無い、真の勝利であった。そしてシーズンが終わって見れば、誰もが驚く全16戦中2連勝を含む入賞12回。ブリアトーレは苦笑いした。

翌'91年、第5戦カナダ・グランプリでトップを快走するウイリアムズ・ルノーのマンセルが最終ラップにストップ、幸運の女神はまたもピケに微笑み、ベネトンでの3勝目を達成。しかしこの年、シーズン途中から若きミハエル・シューマッハーが同僚モレノを弾き出す形でチームに加入すると、徐々にベネトン内でのピケの立場は揺らいで行った。ベネトンは完全にこの"彗星のごとく現れた驚異の新人"を中心に回り始めていた。翌'92年、既に最年長39歳になっていたピケはリジェ・ルノーへの移籍を試みたが失敗、政治的な駆け引きは決して得意な方では無かった。ピケは一旦ブラジルに戻って自らタイヤ会社を運営。しかしレースへの情熱は冷めず、インディ500マイル・レースにエントリーするが予選中に高速でコンクリート・ウォールにクラッシュ、足の骨を粉砕骨折してレーサー生命を絶たれてしまった。F-1通算204戦中23勝、ポール・ポジション24回、ファステスト・ラップ23回、ワールド・チャンピオン獲得3回。運も実力も兼ね備えた真のレーサーの、偉大なる戦績である。

ピケは私生活でも常に話題を振りまいた。'77年、イギリスF-3に進出した際には既に家庭を持っていたが、F-1のパドックには常に3人程の"絶世の美女達"がピケと行動を共にしていた。また、レース・シーズン中は港に停泊した豪華クルーザーを居とし、プライヴェート・ジェット等を利用する他のドライバーとは違い、このクルーザーでサーキットを転戦した。フレーズの達人、アナウンサーの古館伊知朗氏はピケを"スピードと女の漂流者"と称した。また、ピケと同じようにフィッティパルディに憧れてF-1へとやって来た同郷のセナとは相性が悪く、レースでの激突は無かったがマスコミを通じては相当やり合った。'82年ドイツ・グランプリではトップ快走中に周回遅れのエリセオ・サラザールと接触、世界中が見守るTVカメラの前でサラザールをブン殴った(しかもサラザールはピケが面倒を見ていた、いわば弟子のような存在であった)。その気性の荒さは南米出身者ならではだが、レース中は常に冷静に物事を捕らえ、それが'87年のチーム・メイト、猪突猛進型のマンセルと好対照であったのもバトルを面白くした。そしてもうひとつ筆者が特筆しておきたいのが、ピケのヘルメット・デザインである。本人いわく"ピエロの涙"だと言うこのデザイン、バイザーから大きなティア・ドロップ型の雫が後方へ向かって流れるこのデザインを横から捕らえた図に、他のドライバー達ともさほど交流を持たないピケの"男の哀愁"を感じてやまないのである。

現役引退後ピケは自らF-3のチームを結成、今年、'02年の南米F-3でチャンピオンとなったピケの息子"ネルソン・ピケJr."ことネルソン・アンヘル・ピケをドライバーに、イギリスF-3へと進出する。ピケのレースへの情熱は、そのまま彼の息子が受け継いでいるようである。.....ネルソンJr.、君のお父さんはね、昔F-1のピットに忍び込んで、そしてチャンピオンになったんだよ。




「夜になるとマシンに潜り込んで寝ているんだ。よほどF-1が好きなんだと思ったよ」
-'86年/ゴードン・マーレイ-


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