■lap35-"誰も書かなかった井上隆智穂"/もうひとりの日本人F-1ドライバー-
2003.02.07


昨年末、'02年のF-1シーズンをまとめた恒例のTV番組"F-1総集編"が放送された。その冒頭で、"中嶋悟〜鈴木亜久里〜片山右京〜中野信治〜高木虎之介と受け継がれた日本人F-1ドライバーの歴史が、今ひとりの若者、佐藤琢磨に辿り着き....."のようなコメントが流された。その時、もしも貴方が「そうだったなぁ」と感慨にふけったのなら、貴方はかなりのF-1/モーター・レーシング・ファンである。しかし、即座に「いや、日本人レギュラーならもうひとりいたじゃないか」と苦笑いしたのなら、貴方は相当な"オタク"と呼んで良いかも知れない。.....何を隠そう筆者もこの放送を見て、"決して間違ってはいないが、何か物足りないぞ"と思ったひとりなのである(ちなみに、放送では「日本人レギュラーF-1ドライバーはこれで全部」等とは一言も言っていないのでお間違い無きよう)。そして、これを聞いて筆者は無性に書きたくなったのである。片山右京と中野信治の間に存在した史上4人目の日本人レギュラーF-1ドライバー、タキ井上こと井上隆智穂の事を。

前述の中嶋/鈴木/片山らは全員が全日本F-3000(現フォーミュラ・ニッポン)のチャンピオン経験者として"ニッポン代表"的なイメージを持って世界のF-1グランプリへと打って出て行った。当然、F-1デビュー以前から国内/外を問わず「次はアイツがF-1に行くかも知れない」と話題になるような活躍を見せ、実際にそれに伴う成績を残すからこそマスコミも注目/取沙汰し、レース・ファンにも名前が浸透して行くのである。更にF-1デビューの噂が出始めるとTV/雑誌等でも"次期F-1ドライバー候補"と言う触れ込みで紹介され、そしてF-1デビュー時には既に誰もが知っている"ニッポン代表"が出来上がっている、と言う図式だ。が、それ以外にも"スポット参戦"と言う形で、例え全戦フル出場で無くとも地元/日本グランプリを中心に数戦だけ出場する、と言うケースがある。'91年の服部尚貴(コローニ)、'93年の鈴木利男(ラルース)、'94年の野田秀樹(ラルース)らがそうだ(ちなみに野田は'95年シムテックからフル参戦の予定だったがチーム自体がシーズン中に消滅、結局野田は契約不履行で1戦も乗れなかった)。だが、彼等は1年間を通してフル出場するいわゆる"レギュラー・ドライバー"とは明らかに区別され、財政難に陥った弱小チームが持ち込みスポンサー・フィーをアテにして契約する事が多い為、例え本人が実際に才能溢れるドライバーだったとしてもフル出場しているドライバーと比較された場合、過小評価される事も多い。では井上はどうか。.....単純に言って、'94年日本・グランプリにエントリーされたその名を聞くまで、恐らく彼の事を知る人は極端に少なかった。それどころか、「誰それ?」と首を傾げた人も少なく無かった筈である。

"タキ井上"こと井上隆智穂は'63年9月5日、兵庫県神戸市生まれ。父はサラリーマン、これと言って裕福な家庭に育った、と言うわけではない。'85年、22歳の時に富士フレッシュマンシリーズでレース・デビュー。翌'87年にはイギリスへ渡ってFF-1600にエントリーする等海外レースで武者修行、帰国後'90年から全日本F-3へ参戦し、'93年には最高位4位、シリーズ・ランキング9位となる。翌'94年は国際F-3000選手権にスーパー・ノヴァから出場、7戦で完走し最高位は9位。ところがその同じ年のF-1日本・グランプリでシムテック・チームから突然のF-1デビューを飾る。.....つまり、国内フォーミュラ・レースで1度も表彰台に乗る事すら無く、井上はF-1日本・グランプリに"凱旋"したのだ。また、日本のマスコミは第14戦ヨーロッパ・グランプリから最終戦までの3レースを前述の野田秀樹がラルースからスポット参戦し、翌年シムテックからのフル出場契約をしていた事をメインに取り上げ、同年大活躍を見せた片山右京との"ニュー・ジャパニーズ・コンビ"として扱っていた(その野田はイギリスF-3での優勝経験がある)のもあり、日本のファン/マスコミにとって井上はまったくの"ノー・マーク"な存在であった。井上はF-1デビュー戦となった'94年の鈴鹿で予選最後尾からスタートし、3周目に雨に足元を取られてスピン、リタイヤとなった。この時点では、多くのファンが「聞いた事の無い名前だが、恐らく財政難で苦しいチーム(シムテック)が1戦のみの持参金目当てで日本人ドライバーに声をかけたんだろう」と、井上の事を"気にも止めなかった"のである。事実、翌最終戦オーストラリア・グランプリに井上の姿は無かった。ところが、シーズンオフに事態は急転し、井上は'95年シーズンをフットワーク・アロウズからフル参戦する事を発表。レーサーとしての"勲章"を何も持たない初めての日本人・F-1ドライバーの誕生であった。ところが、周囲は井上を認めようとはしなかった。それどころか、母国日本のマスコミ(一部)にさえ"井上にはF-1ドライバーの資格は無い"と言わんばかりに批判されてしまう。丁度同時期にインディ500に出場していた、松下電器創始者・松下幸之助の孫"ヒロ松下"が同じようにやり玉に挙げられ、ヒロ松下/タキ井上のふたりは一部で日本人の注目を浴びないアウト・ローとして扱われていた。しかし、井上にはあまりにも知名度が無かった為、"格式"を重んじる日本人ジャーナリスト達からは必要以上に冷たい扱いを受ける事となってしまった。

そこで考えなくてはならないのが、"井上は何故F-1ドライバーになれたのか"である。まず、F-1ドライバーの証である"スーパー・ライセンス"発給の問題だ。当時のレギュレーションでは、国際規格のフォーミュラ・レースに於いて優秀な成績を納めているか、F-1のテスト・ドライバー経験等が必要、等の条件があったが、FIAが"特例として認める者"にはスーパー・ライセンスが発給される事がある、と言うあいまいな事項が存在した。井上は国際F-3000にエントリーしていたが、決して目立った成績は残していない。'92年、国際格式である全日本F-3000での優勝経験を持つ中谷明彦がブラバム・チームからデビュー予定だったが、FIAが中谷にスーパー・ライセンスの発行を認めず、代わりに国際F-3000最高位8位の"女性ドライバー"、ジョバンナ・アマティが選ばれる、と言う事態があった(ちなみにアマティは1度も予選を通過する事無くシーズン途中でチームを解雇された)。何故中谷には発行されなかったスーパー・ライセンスがアマティには発行されたのか。これには当時、バブル景気(実際にはもう下り坂であったが)に乗り、さほどの経歴を持たない日本人ドライバーがF-1に大挙エントリーするのをFIAが懸念し、中谷がスケープ・ゴートにされた、と言う見解が存在した。更に、欧州(国籍はイタリア)出身の女性ドライバーを乗せる事で消滅寸前の弱小チームに少しでも多くの注目が集まり、スポンサーが付く効果と格式高いF-1の"ヨーロッパイズム"をFIA側が狙ったとも言われている。井上のケースは、恐らくアロウズの親会社であったフットワークの破綻により、財政難に陥ったアロウズを救える"持参金ドライバー"として、井上以上の存在が世界中を見回しても期待出来なかった、との見方がある。FIAは既に期待していなかった日本経済から救世主のように現れた井上に白羽の矢を立てたのだ。次に疑問点として浮かぶのは、井上には何故資金があったのか、である。井上は'94年の国際F-3000に、スーパー・ノヴァ・チームのドライバーとしてだけで無く、実は経営にも関わっていた。彼の方法論は極めて欧州的で、自らがマネージメントを手掛け、スポンサーを見つけて経営に関わり、その資金を元にステップ・アップして行くと言う方法を取ったのだ。井上を最も支援した日本企業はオフィス・コーヒー・サービス業で有名なユニマットであった。しかも、彼は当時F-1に進出する等考えてもいなかったユニマット社に自ら日本国内でのモーター・スポーツ人気とその宣伝広告による効果を訴え、支援を取り付けたのである。こうして巨大企業のバックアップを得て、井上は'95年のアロウズの正ドライバーの座を勝ち取ったのである。

そして、日本のファン/マスコミを中心に論争が始まった。「奴はスーパー・ライセンスとF-1のシートを金で買った」と言う批判が起こった。井上はこう反論した。「金を払わずにF-1に乗ったドライバーなんかいない」それに対し、いわゆる"F-1ブーム世代"の記者から「他の日本人選手はギャラを貰って乗っている」と言われて、井上は「もうちょっと勉強しろ。F-1にそんな奴はひとりもいない」と返した。.....これはある意味正論であった。例えミハエル・シューマッハーでも、母国の先駆者たる中嶋悟でも、当時の日本のエース片山右京でも、F-1に乗るにはまず支援団体からの資金が必要なのは事実であった。そしてそれがライバルの金額を上回る事で狭き門たるF-1ドライバーへの道が切り開かれるのは当然であった。しかし、前述の"国内トップ・フォーミュラ・チャンピオン"しか知らない日本のマスコミは井上の経歴を認めなかった。事実、この'94〜'95年は多数の弱小チームのエントリーの為に相当な数の"持参金ドライバー"が世界中からF-1デビューしていた。だが、井上ほど過去の戦績が伴わないF-1ドライバーが珍しかったのも事実である。更に、前述のマスコミとのやりとりに代表されるような彼の取材対応(そのような言い方をされれば仕方無いとも思うが)も逆風となり、TV局等とも上手くつき合って行けなかった。事実、予選/決勝に於いて井上のインタビューがTVで流される事も殆ど無かった。となればますます「何者なのか」も良く解らない井上の行く末は"ピエロ"でしか無かったのだ。'95年シーズン、井上を取り巻く状況はF-1ドライバーとしては"最悪"のものだったと言っても良いだろう。

まず、フェラーリ経験もあるイタリアのジャンニ・モルビデッリをチーム・メイトに開幕から苦戦をしいられ、第6戦カナダ・グランプリでようやく9位初完走。ところがここでアロウズのオーナー、ジャッキー・オリバーから一方的な"解雇通告"を受ける。理由は「君にグランプリ・レーサーとしての才能は無い」と言うものだったが、実はそれ以上にイタリアの若手、マッシミリアーノ・パピスが井上を上回る持参金を持ってチームに売り込んで来た、と言う事実があった。しかし元よりマネージング面で強い井上は自らの契約書の内要を楯に反論、「シーズン序盤での不当な解雇は認められない」と言う条項でシーズン終了までの残留を勝ち取った。結局アロウズは泣く泣くエースのモルビデッリを降ろしてパピスを井上のチーム・メイトとして乗せる事態となった。第12戦、イタリア・グランプリで井上は7位パピスに継ぐ自己最高位8位でフィニッシュ、TI(岡山)/鈴鹿の日本2連戦ではパピスが降ろされ、再びモルビデッリと組んだ。結局井上は入賞無し、完走5回/最高位8位で'95年シーズンを終了、日本のTV放送には殆ど登場しなかったが、片山が事故で第14戦を欠場し、鈴木亜久里がスポット参戦となり、野田の参戦が幻となった'95年、井上は全戦に出場した唯一の日本人ドライバーとなった。

人々の記憶に残っている井上像は、実は決して格好良いものでは無い。第5戦モナコではフリー走行中にストップしたマシンにどう言うわけかセーフティー・カーが追突、マシンが横転すると言う前代未聞の事故に合う。また第10戦ハンガリーではリタイヤしてコース・サイドにマシンを止め、炎上しかかっていたマシンに自ら消化器を持って近付いたところ、またもセーフティー・カーが突っ込んで来て今度は井上自身がはねられ、"セーフティー・カーに2度も追突された男"として有名になってしまった。第12戦イタリアではタイトルを争うシューマッハーとデイモン・ヒルの追突事故の責任をヒルに追求されてライセンス剥奪騒ぎ(後にヒルが発言を撤回して収まったが)を起こし、最終戦オーストラリアでは迫るシューマッハーをバックミラーで確認した途端、コース上の白線にタイヤを取られてスピン/リタイヤ、とポカも多かったのは事実である。しかし、井上は'95年シーズンを通して確実にレーシング・ドライバーとして成長していた。もっとも、ライバル全てがそれ以上の猛スピードで成長して行ったのも事実だが。

翌'96年、井上はミナルディ・チームと契約した事を発表。フル参戦2年目となる筈だったがチームは開幕直前にスポンサー料の未払いを理由に井上を突如解雇(代役としてデビューしたのはジャンカルロ・フィジケラであった)、F-1ドライバー/井上隆智穂のキャリアは突然終わりを告げた。'94年のセナの事故を境に、急速に日本でのF-1人気が落ち込んだ事や、完全な"バブル崩壊"が日本経済を襲った事が大きな原因であった。'96年、井上は'95年国際F-3000チャンピオン、ビンセンツォ・ソスピリのマネージメントを手掛けるが、F-1参戦が決まったローラ・チームが財政難で結局開幕戦の予選落ちで撤退。その後井上は帰国して全日本GT選手権に出場する等、レーサーとしての活動は続けるものの、相変わらず目立った成績は残していない。井上にとってレースとは、F-1とはいったい何だったのか。シーズン中に井上に解雇通告をしたアロウズのジャッキー・オリバーは'95年終了時、「オマエがこんなに伸びるとは思っていなかった。来年も乗せてやっても良い」と井上に言ったそうである。ひょっとして、そのまま井上がF-1を続けていたら、事態はどう変化しただろう。'95年鈴鹿のグランド・スタンドには"六甲の星/タキ井上"の大垂れ幕が設置されていた。井上がその後日本人の信頼/期待を勝ち取る事は不可能だったのだろうか。確かに当時の日本人の見る目は非常に片寄っていた。その後'99年に高木虎之介がアロウズとの契約を更新出来なかった事や、'02年に佐藤琢磨がジョーダン残留の為の資金を確保出来なかった等の事態を見れば、幾ら才能あるドライバーであっても資金調達が必須条件である事は明白であるが、全日本F-2連覇の"雨のナカジマ"、日本人唯一のF-1表彰台経験者"有言実行のアグリ"、そして日本人F-1最多出走記録を持つ"カミカゼ・ウキョウ"の神話が、必要以上にF-1を"神聖化"してしまったのかも知れない。いずれにしても、井上が日本では馴染みの無い欧州のスタンダードなやり方で世界最高峰のレース・カテゴリーに進出した、初の日本人である事だけは確かだ。




「僕は他の日本人ドライバーとは違う、"本来のやり方"でF-1にやって来たんだ」
-'96年/井上隆智穂-


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