■lap33-"レッド・ファイヴとその妻"/ナイジェル・マンセル物語-
2003.01.24


'80〜'90年代を代表するF-1ドライバー、アイルトン・セナ(チャンピオン獲得3回)/アラン・プロスト(同4回)/ネルソン・ピケ(同3回)。彼等トップ・ドライバー達は全ての要素を兼ね備えていた。例えば、"速さ"。そして、"強さ"。更に強靭な体力や精神力、企業からのバックアップや待遇等もこの要素に数える事が出来るだろう。これら全ての要素が揃って初めて"ワールド・チャンピオン"の座に付く事が出来るのだ。そしてもうひとつ忘れてならない大切なものが、"運"である。.....筆者は想う。恐らく彼に足りなかったものは、この"運"だけだった。前述の3人の王者に、決して引けを取らなかった。いや、"速さ"と言う点では絶対にNo.1だった。そして、観る者を常にワクワクさせてくれる、真のエンター・ティナーでもあった。だが、成績自体はタイトル獲得わずかに1回、いや、タイトルを目前で逃がす事3回、と書いた方が記憶を辿りやすいのかも知れない。"great britain's lovely son(大英帝国の愛すべき息子)"と呼ばれた彼の名は、ナイジェル・マンセル。

ナイジェル・アーネスト・ジェイムズ・マンセルは'54年8月8日、イギリス/バーミンガムにごく平凡な"労働者階級"の家の3男として誕生。7歳の時、レース好きの父エリックに連れられてF-1イギリス・グランプリを観戦、「将来はレーシング・ドライバーになる」と決心した。母ジョイスはスピード狂で、幼いナイジェルを横に乗せて時速180km/hでオースティン1100を走らせていた。14歳でカート・レースを始め、やや遅いキャリアのスタートではあったが徐々に天性の速さを見せ始め、21歳になった'75年、フォーミュラ・フォードへとステップ・アップ。更にFF-1600、F-3を経て'80年には遂にF-1デビュー.....と書けば実に順風満帆なレーシング・ドライバーのサクセス・ストーリーであるが、実際は想像を絶する波乱万丈の人生がナイジェルを待っていた。そして、同時にそのナイジェルを常に見守って来た、ひとりの女性についても書き記さなければならない。ナイジェルの妻、ロザンヌである。彼等夫婦は常に二人三脚で歩いて来た。グランプリの現場で、これ程仲睦まじい夫婦は滅多にいないだろう。

ナイジェルはレーシング・カートに夢中だった16歳の時、たまたま出会った"ミニ・スカートが似合うチャーミングな女性"、ロザンヌに一目惚れし、猛烈なアタックを敢行。「朝、学校に行く彼女の前にトラックを止めて『乗れよ』って合図したら、彼女は俺を知り合いだと勘違いして乗って来たんだ(笑)」一歳年上のロザンヌはこの強引な"少年"に徐々に心を奪われ、ナイジェルの出場するレースを観戦したりするようになった。やがて交際が始まり、夜な夜なバーで飲んだくれてケンカばかりしていた、体重90kg(!)のナイジェルに「レースに勝ちたいのならダイエットをしなさい」と助言、当時荒んだ生活をしていたナイジェルはロザンヌの言う事は聞き入れ、本格的なトレーニングを始めた。「私はレースの事なんか何も知らなかった。でも、ナイジェルの家族と一緒にイギリス中をレースの為に移動する事が楽しかったわ」ナイジェルは内助の功を得てレースに没頭した。'75年4月19日、ふたりは結婚。ナイジェル21歳、ロザンヌ22歳の時であった。が、ようやくフォーミュラ・フォードへとステップ・アップしようと言うマンセル夫妻には金銭的な余裕は全く無かった。実際この時も中古のホークDHLを購入する為に貯金は全て使われてしまっていた。当然、周囲には裕福な家庭に育った者やビッグ・スポンサーのついたライバル達がひしめいていた。ナイジェルは窓拭きのアルバイトをし、ロザンヌはガス会社でOLをしつつ、夜はふたりで額を売り歩く。それでも借金をしながらのレース参戦が続いた。'77年、FF-1600のブランズハッチ戦でナイジェルはクラッシュして首の骨を骨折。見舞いに行く時間的余裕すら無いロザンヌは泣きながらパート・タイマーとして働くしか無かった。ナイジェル自身も、そこで休んでいては前に進めない、とばかりにたったの5日間で強引に退院し、首にギブスをしてレースに復帰。骨折の2ヵ月後には早くも勝利している。「だが、勝っても勝っても、大きなスポンサーはつかなかった。前のレースの賞金で、やっと次のレースに出てるような状態だった」'78年のF-3シーズンが終わった所で遂に資金が底をつき、ロザンヌは家財道具一式はおろか自分の家まで売ってしまった。だがそれでも金は足らなかった。無一文になったマンセル夫妻に、もう希望は無かった。

しかし、見る人は見ていた。'79年、ナイジェルはF-1の名門チーム・ロータスの総帥、コーリン・チャップマンからテスト・ドライヴのチャンスを与えられたのだ。それは、ナイジェルが初めてレースを観てレーシング・ドライバーになる決心をしたのと同じF-1イギリス・グランプリの前座F-3レースに出場した際、非力なマシン/エンジンでアグレッシヴな走りを見せるナイジェルにチャップマンが注目した、と言うものであった。「信じられなかった。だいたい、F-1なんて夢のまた夢だと思っていたんだ。それより借金をどうするか、とりあえずテスト・ドライバーになれば金が入る、F-3が戦える、じゃあやります、みたいなもんさ」ナイジェルは数日前にクラッシュで頚椎を痛め、5週間の入院生活に入ったばかりであった。だが、ナイジェルはもちろん病院を抜け出し、このオファーをモノにする。「酷いクラッシュをした、と聞いたが?」「人違いでしょう。この通り元気ですよ」ナイジェルはフランス/ポール・リカールで初のF-1テストを走り、トップ・タイムを叩き出す。チャップマンはこの男に心底惚れ込んだ。'80年、ナイジェルはロータスF-1の正式なテスト・ドライバーをしながらF-3とF-2を戦う事が出来た。更にオーストリア・グランプリでロータスの"3台目"を駆ってF-1デビュー。この時のナイジェルのマシンはレギュラー・ドライバーのマリオ・アンドレッティとエリオ・デ・アンジェリスの乗っていたオリジナルのロータス81・ルノーでは無く、ホイール・ベースを大幅に改良した、言わば"実験車両"であり、テストを兼ねた走行だったのである。しかもナイジェルのマシンはスタート直前の給油ミスでコックピット内に燃料がこぼれ、レーシング・スーツの下まで染み込んだガソリンで皮膚に大火傷を負いながらの走行を強いられたのだ。だが、激痛に耐えたナイジェルはエンジンが壊れる40周目まで走り続けたのである。この年3戦に出場するも、リタイヤ/リタイヤ/予選落ち、と言う結果であった。周囲はナイジェルを冷ややかな目で見ていた。しかし、ロータスのエース、アンドレッティがアルファロメオに移籍するにあたり、「ナイジェルを乗せてやって欲しい。奴は必ず"化ける"」と推薦。チャップマンもナイジェルをレギュラー・ドライバーとして採用するつもりでいた。こうして、ナイジェルはロータスのNo.2ドライバーへと"昇格"した。だがこの頃、ロータスは深刻な資金難に陥っていた。'81年、ロータスはチーム2年目となるデ・アンジェリスをNo.1ドライバーへと昇格。彼はイタリアF-3王者で、豊富な持参金をチームに持ち込み、しかも速かった。かたやナイジェルは借金を背負った労働者階級の英国人、FF-1600ではタイトルを獲ったものの、F-3での成績は散々で、ロザンヌのサポートのおかげでどうにか此処まで辿り付いた。チャップマンは彼を推していたが、チーム内での扱いは決して平等とは言い難かった。それでも時折エースのデ・アンジェリスを凌ぐ速さを見せ、第5戦ベルギー・グランプリでは3位表彰台を獲得。続くモナコでも予選3位(結果はリタイヤ)、最終戦デトロイトでは4位となり、テクニックを擁するストリート・コースで強い所を見せつけた。しかし、勝利はなかなか訪れなかった。ナイジェルは恩人チャップマンに報いる為、必死に走った。だが彼が必死になればなる程、マシンが悲鳴を上げてリタイヤする日が続いた。'82年12月16日、コーリン・チャップマンが心臓麻痺で急逝。グランプリ全体が悲しみに暮れた。そして、ナイジェルの"味方"がいなくなった。チーム内で彼は完全に孤立していた。'84年、モナコ。ナイジェルはスタート時の多重クラッシュの原因を作ったとして、FISAから保護観察処分を受けた。同時に、チームは翌年、新鋭アイルトン・セナの起用を決め、チーム・ロータスにナイジェルの居場所は無くなった。ナイジェルとロザンヌは途方に暮れ、「終わった」とつぶやくしか無かった。

'85年、元ワールド・チャンピオン、"フライング・フィン"ことケケ・ロズベルグを擁してチャンピオンを狙うウイリアムズ・ホンダ陣営からナイジェルに声が掛かった。ロズベルグのチーム・メイトとして"無難なNo.2ドライバー"が欲しかったフランク・ウイリアムズが契約を申し出たのだ。既に30歳を迎えていたナイジェルに選択肢等無く、彼はウイリアムズに加入。しかし周囲は5年間F-1を走って未勝利、のナイジェルに何も期待していなかった。だが、ここからナイジェルの逆襲が始まるのだった。

予選では時折ロズベルグを凌ぐ速さを見せていたナイジェルだったが、決勝レースでは今ひとつ結果が出せずにいた。迎えた第14戦ヨーロッパ・グランプリ、舞台はチームとナイジェルの故郷、イギリス/ブランズハッチ・サーキット。予選3位からスタートし、一時4位へ後退するもののロズベルグ、セナ、ピケを素晴しいオーバー・テイクでブチ抜いたナイジェルは10万人の観客が大歓声と共に総立ちで打振るユニオン・ジャックの中、トップでチェッカーを受けた。F-1グランプリ72戦目の初優勝であった。長年ナイジェルを応援し続けて来た地元の観客の興奮はピークに達し、サーキットへとなだれ込んでナイジェルを取り囲み、彼を祝福した。新しい英雄が誕生した瞬間であった。そして、ロザンヌは長女のクロエを抱きしめながら「全てが報われた気がしたわ。今まで苦労した事なんかどうでも良くなる程、最高の瞬間だった」と涙を流した。続く南アフリカ・グランプリではポール・トゥ・フィニッシュを決め、ナイジェルは周囲の予想を裏切ってトップ・ドライバーの仲間入りを果たした。だが、翌年ネルソン・ピケがチームにやって来ると、勝利の女神はナイジェルをもて遊ぶのだった。

'86年、最終戦オーストラリア・グランプリ。チャンピオン争いはウイリアムズ・ホンダのナイジェルとピケに絞られ、わずかながらマクラーレンのプロストにも逆転王座の可能性は残されていた。だが、ナイジェルは3位でフィニッシュすればタイトル決定、と言う、精神的には"もっとも気楽な"立場にいた。日本から本田宗一郎もやって来て、ナイジェルの、そしてホンダにとっても初のチャンピオン獲得の瞬間を見ようとピットは沸き返った。だが、タイヤ・メーカーのグッド・イヤーだけは焦っていた。他チームのマシンがタイヤ交換に入った際、予想以上にタイヤが摩耗していたのだ。「2台ともピットに入れろ」「ダメだ。タイトルが掛かっているんだ。無理をしなければ大丈夫だろう」そして、タイトルへ向けて3位走行中のナイジェルを悲劇が襲った。240km/hで走行中のブラバム・ストレート・エンドで、突然ナイジェルのマシンの左リア・タイヤがバーストしたのだ。ナイジェルは高速で3輪となったマシンを必死に操り、ランオフ・エリアにどうにかマシンを停止させた。焦ったウイリアムズ陣営はピケをタイヤ交換の為ピット・インさせた。結局、レースとタイトルを製したのは最も不利な立場にいた、マクラーレンのプロストであった。ナイジェルはレース後のインタビューに「生きているだけでも幸運だ」と答えた。翌'87年最終戦、日本グランプリ/鈴鹿サーキット。ピケが73点でチャンピオン・シップをリードし、ナイジェルは61点でピケを追っていた。ナイジェルには残り2戦を連勝する以外にチャンピオンへの可能性は無かった。予選、無我の境地でS字へ入って行ったナイジェルのマシンはオーバー・スピードでスピンし、タイヤ・バリアに激突した後、宙に舞った。回転しながら激しく地面に叩き付けられたマシンの中で、ナイジェルは背中を強打。そのままヘリコプターで病院へと運ばれ、少なくとも翌日のレース出場はドクター・ストップが掛かった。イギリスに残っていたロザンヌは電話でナイジェルが事故を起こした事を聞いた。「人生で最も長い2時間だった。彼が事故を起こして病院に運ばれたと聞いたのが朝の5時、7時になってようやく『大丈夫だ』と聞かされたのですから。その間、自分がどうしていたのかも覚えていない」こうしてナイジェルの欠場によって、ピケの王座獲得が決定した。'86年5勝、'87年6勝はチャンピオンを獲ったプロスト、ピケよりも勝利数で勝っていた。。それでもタイトルが獲れない不運なナイジェルを、人は"無冠の帝王"と呼ぶようになった。

.....幾つもの印象的なレースを見せてくれたナイジェル・マンセルだが、筆者が選ぶ彼のベスト・レースは文句無く、'87年イギリス・グランプリだ。ホンダの1.2.3.4フィニッシュでも有名なこのレースで、トップ快走中のナイジェルはタイヤのスロー・パンクチャーで緊急ピット・インし、その間にトップを奪ったチーム・メイト、そして最大のライバルでもあるピケを最速ラップを更新しながら猛追。シルバーストーン・サーキットの大観衆は総立ちでナイジェルに声援を送った。信じられない速さでピケに追いついたナイジェルはハンガー・ストレート・エンドでマシンを左右に振ってピケを挑発。ピケもミラーを見ながら見事なブロックでこれを凌ぐが、真後ろについてピケがナイジェルを見失ったほんの一瞬(正に"一瞬"である)のスキをついてナイジェルがインに飛び込み、ピケの神業とも思える反射的なブロックをかわしてトップに立った。その瞬間、さながらサッカーのゴール・シーンのような光景がウェーヴとなってコースをナイジェルと共に周回して行った。正にナイジェルらしい、劇的な勝利であった。

'86、'87年と2年連続でタイトルを逃したナイジェル。翌'88年はウイリアムズが非力なジャッド・エンジンで低迷、'89年には不振から立ち直りつつあったフェラーリに移籍するも、2勝に終わる。翌'90年、フェラーリはナイジェルのチーム・メイトにナイジェルも同意の元、"No.1ドライバーとして"プロストを迎え、前年までマクラーレンでタイトルを争ったセナとの戦いへの"サポート"を強要されるも、不器用で猪突猛進型のナイジェルにそんな事が出来る筈も無く、イギリス・グランプリ終了後に突然の"引退宣言"を行った。ロザンヌの「正直に言って、ホッとしたわ。でも、フランク(ウイリアムズ)から『来年ウチで走らないか』とオファーが来た時、彼は断われない、と思っていた」と言う言葉通り、'91年はウイリアムズ・ルノーへ移籍し、現役を続行。リカルド・パトレーゼとのジョイントNo.1待遇を得たナイジェルはマクラーレン・ホンダのセナを猛追。第15戦、舞台はまたも鈴鹿。勝ってタイトル争いを最終戦にもつれ込ませたいナイジェルはセナの後で抜きあぐねていた。セナはチーム・メイトのゲルハルト・ベルガーを先行させ、自らはペースを落としながらナイジェルの"抑え役"となっていた。10周目、イラついたナイジェルは1コーナーのサンド・トラップへ突っ込んで万事休す。タイトルはまんまとセナが持って行ってしまった。目前で逃した王座は、これで3度目となった。

.....さて、不運なナイジェルは反面、表情豊かなそのキャラクターでファンの人気は絶大なものであった。'84年のダラス・グランプリでゴール直前にガス欠でマシンがストップ、そのままフィニッシュ・ラインまでマシンを押そうとして失神。'86年ポルトガル・グランプリでは、優勝してパレード・カーの荷台で立ち上がって観客に手を振りながら橋ゲタに頭を強打。'89年ブラジル・グランプリでは表彰台で優勝カップを受け取った瞬間、鋭利に尖った部分が手のひらに突き刺さり絶叫。'91年カナダでは優勝目前のファイナル・ラップ、観客に手を振ろうとして誤ってエンジンのスイッチを切ってしまい、ストップ.....と、コース内外を問わず常に注目を浴びる人気キャラクターであった。また、本国イギリスのみならずF-2時代のラルト、F-1初勝利を飾ったウイリアムズらホンダ・エンジン・ユーザーとしての活動もあって日本での人気も高い。ある日、ナイジェルはホンダのスタッフにコインを1枚渡し、「コイツを上から落としてみてくれ」と言って両手を隠す。相手が頭の高さに手を上げ、コインを離した次の瞬間、ナイジェルはそのコインを素早く掴んで笑う。ホンダのスタッフ達はナイジェルを"猫より速い反射神経の持ち主"と呼んだ。私生活では親友、グレッグ・ノーマンと共にプロ級の腕前のゴルフを愛し、ナイジェルは3人の子供の末っ子に"グレッグ"と名付けた程だ。また、ナイジェルはウイリアムズ・チーム在籍時にチーム・メイトが白色のカー・ナンバー6をつけるのに対し、赤く塗られた5番をつける事で"レッド・ファイヴ"が彼のトレード・マークともなった。ジル・ビルヌーヴの27番と並んで、"レッド・ファイヴ"はF-1に於いてナイジェルそのものを象徴していたのだ。

'92年、前年のトラブルを解決したウイリアムズ・ルノーはハイテク・マシンFW-14で快進撃を続け、ナイジェルは第11戦ハンガリー・グランプリで遂に念願のワールド・チャンピオンの座についた。F-1デビュー13年目の遅すぎた王座獲得だった。レース後、ナイジェルは「最も感謝してるのは.....ロザンヌだ。彼女の支えが無ければ、今の自分は無い。今日の成功は、半分は彼女の努力によるものだ」と、妻に感謝した。ロザンヌは表彰台の下で大粒の涙をこぼしながら微笑んでいた。この年彼は年間9勝を挙げ、それまでの年間最多勝記録をも塗り変える圧倒的な強さを見せた。だが、イタリア・グランプリのパドックで、衝撃的な記者会見が行われる事となった。プレスを集め、マイクに向かって話し始めようとするナイジェルの傍らに、ウイリアムズ・チームのゲイリー・クラムプラーが歩み寄り、ナイジェルの耳元で囁き始めた。だが、その声はナイジェルの目前に立てられた何本ものマイクにハッキリと届いていた。「.....ナイジェル、頼むからすぐに会見を辞めてくれ。要求は全て呑むから.....」異様な光景であった。ナイジェルは無視し、静まりかえるプレスにゆっくりと話し始めた。「.....自分のコントロール出来ない事情により、今シーズンいっぱいでF-1を引退する」クラムプラーは唇を噛みしめ、その場から立ち去って行った。ナイジェルはチームと、翌年の契約について話し合っていた。だが、チームは1年休んでいたプロストと翌年の契約を結び、タイトルを獲ったナイジェルはNo.2待遇をオファーされていたにすぎなかった。更にホンダのF-1休止に伴い、「タダでも良いからウイリアムズに乗りたい」とセナがブラフをぶつけて来たのもナイジェルの契約交渉を難しくした。クラムプラーの持って来た"伝言"も、恐らくはこの場を止めさせるだけの効力しか持たず、実際の契約とは別問題だったであろう。結局ナイジェルはいつもセナ/プロスト/ピケの"影"のような存在であった。そして"レッド・ファイヴ"ナイジェルは夢にまで見たカー・ナンバー1をつけて走る事無く、F-1を去る事となった。

そして翌'93年、ナイジェルはアメリカへ渡ってCARTのニューマン・ハース・チームと契約し、F-1でのトレード・マークと同じ"レッド・ファイヴ"をつけ、圧倒的な強さでルーキー・イヤー・チャンピオンを獲得。F-1とCARTを2年連続で製したのは史上ナイジェルだけであった。翌'94年、イモラの非劇的な事故でセナが他界し、ナイジェルはウイリアムズからピンチ・ヒッターとして4戦に出場、最終戦オーストラリア・グランプリでは見事に優勝を飾る。翌'95年、42歳のナイジェルは"犬猿の仲"とさえ言われていたロン・デニス率いるマクラーレンに電撃加入するが、「コックピットが狭い」を理由に開幕2戦を欠場、結局第4戦を最後にチームを離脱してしまった。出走187回、優勝回数31回、ポール・ポジション獲得回数32回。.....一応、ナイジェル・マンセルのF-1戦績はここまでである。だが、'01年にはミナルディ・チームの2シーター・マシン(2人乗り)でデモンストレーション・レースに参加してレギュラーのフェルナンド・アロンソと大クラッシュ。周囲は「どう考えても"本気で攻めていた"としか思えない」とコメント。何処かでお呼びさえかかれば、いつでもナイジェルは準備OKなのだろう。「今後何が起こっても、私はナイジェルと共に寄り添って生きて行くつもりです。今までと同じように」現在ナイジェルは妻ロザンヌとクロエ、レオ、グレッグの3人の子供達とイギリス/マン島で静かに暮らしている.....筈だ。




「long wait!(長い間待っていたわ)」
-'92年、ハンガリー・グランプリ(チャンピオン決定)にて/ロザンヌ・マンセル-


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