| 1906年、ル・マンで行われた世界初の"グランプリ・レース"にハンガリー人ドライバー、フェレンク・シスのドライヴで勝利したルノー。モーター・レーシング大国フランスに於いて、当時国営企業として権威を持つこの巨大自動車メーカーが、'50年に始まったF-1グランプリに参戦するのは意外にも70年後の'77年だった。当時、F-1でフランスと言えばスウェーデン・グランプリで初勝利を挙げたリジェ・マトラが筆頭であり、コスワースV8を搭載する英国勢に対抗するレース大国フランスの挑戦はいやでも注目の的であった。そこへ後発ながら挑戦を開始するルノーにとっての意味、もちろんそれは英国勢のように無難なコスワースを使用する事でも無く、マトラのように高回転型V12エンジンを制作する事でも無かった。それはF-1初の"ターボ・チャージャー・エンジン"の使用であった。3リッター自然吸気エンジンが常識のF-1の現場に於いて、それまで誰も手を出さなかった、いや、"出せなかった"分野へ踏み込んだ記念すべき1号車の功績は大きく、名車と呼ぶには少々成績が伴わなかったのも事実だが、グランプリに大改革をもたらしたルノーの挑戦の持つ意味は計り知れないものだったと言えよう。 '76年、世界スポーツ・カー選手権にアルピーヌ・ルノー・ターボでエントリーしていたルノー・スポーツ社は、同シリーズのハイライトであるル・マン24時間レース制覇へ向けて開発に余念が無かった。中でも、若き天才エンジニア、ベルナール・デュドとジェラール・ラルースはルノー公団/母国フランスの威信を背負い、2リッター・V6ターボ・エンジンを当時最強のドイツのポルシェ勢と対等に戦えるレベルにまで引き上げる事に成功していた。そしてある日、デュドはルノー本社に呼ばれ、マネージャーのジャン・テラモルーシから運命の一言を聞く。「F-1用のエンジンを作れるか」「もちろん」と、デュドは即答した。だが、正直言ってデュドの頭の中は来るべきル・マン24時間レースの事でいっぱいであった。しかもF-1のエンジン規定では1.5リッターのターボまでしか認められておらず、彼等がF2やスポーツ・カー・レースで開発して来た2リッター・ターボをそのまま使用する事は出来ず、大幅なスケール・ダウンが必要だったのである。しかしデュドが事の重大さに気付いた時にはもう遅く、既にルノーのF-1プロジェクトはスタートし、結局ル・マンではポルシェに勝てなかった。 ベルナール・デュドは'66年にフランスのアルピーヌ社でエンジニアとしてのキャリアをスタート。ラリーやF3、そしてスポーツ・カー選手権をルノーのターボ・エンジンで戦うアルピーヌのエンジン部門を任されていたデュドは、活動中止を余儀なくされたゴルディニをルノーが買収し、'73年にルノー・ゴルディニとして再スタートした際の主要メンバーとなっていた。そして相棒のラルース、ドライバーのジャン・ピエール・ジャブイーユ、パトリック・タンベイらと共にアルピーヌ・ルノー・ターボでスポーツ・カー選手権を戦い、常に勝利に絡む活躍を見せていた。結局ルノーのF-1プロジェクトはデュドを中心とし、チーム・マネージャーにラルースとジャン・サージュ、ドライバーにはルノーのスポーツ・カー・プログラムのエースであり、マシン・デザインにも精通するジャブイーユが選ばれ、F-1史上初の1.5リッター・ターボ・エンジンを搭載したオリジナル・マシン"ルノー・RS01"を制作した。結局エンジンはF2で使用した"2リッターV6CH1"モデルをF-1用にモディファイしたもので、使用するタイヤは地元フランスのミシュランが選ばれた。このニュースはF-1グランプリ関係者に大きな衝撃をもたらした。同時に、そのような"不可能"と思われる冒険も、かのルノーなら成し得るのでは無いか、と興味津々であった。だが、計量/コンパクトなフォード・コスワースV8エンジンを搭載したロータスらが空力を味方につけてグランプリのスタンダードになりつつあったのもまた事実であった。地元ポール・リカール・サーキットでの初テストで、RS01は1kmに及ぶロング・ストレート"ミストラル"で素晴しいパワーを発揮した。ところが、中速コーナーの多いスペインのハラマ・サーキットでのテストでは通称"ターボ・ラグ"と言うターボ独特の症状に悩まされた。これは、ドライバーがコーナー出口でアクセルを踏んでもエンジンが何も答えず、予期せぬ間を置いて突然加速し始める、と言う極めて危険な症状であった。この問題により、本来デビューする予定だった地元フランス・グランプリへの出走は不可能となり、問題の解決が最優先とされた。その後イギリス/シルバー・ストーン・サーキットでの最終テストを終え、どうにかエンジンの信頼性だけは確保したルノーは、結局'77年7月のイギリス・グランプリでRS01をデビューさせる事に決定。だが、デュドは山積みとなった問題解決の為にフランスに残り、この歴史的な瞬間に立ち合う事は無かった。イギリス・グランプリの予選セッションが始まると、RS01は期待通りのパフォーマンスを見せる事が出来ず、プライベート・チームにすらかなわずに順位を後退させて行く。結局予選落ちこそまぬがれたが、21位と言う後方グリッドでセッションを終えた。世界初のターボF-1に興味津々だったマスコミも、「やっぱり無理だった」との見方を強めた。ラルースは「まだ肝心のターボ・ラグが解決出来ていない。だが、早めのギア・チェンジをする事でどうにかやりくりしている状況だ。とにかく、今の我々に必要なのは時間と経験だ。こうしてセッションを繰り返す事で、多くを学ぶ事が出来るのだから」と、レース参加を貴重なデータ収集の場として利用するものと割り切っていた。後にデュドも「燃費、レスポンス、そしてターボ・ラグ。全てが複雑で、とてもじゃ無いがいっぺんに解決するなんて事は不可能だった。我々に出来るのはゆっくりと、着実に進歩して行く事だけだったんだ」と、史上初のターボ・F-1の難しさを語った。結局デビュー戦はターボ破損が原因で15周目にリタイヤ。そしてこの後、'77年シーズンの残り数戦にエントリーしたRS01は結局完走する事すら無く、前年の欧州F2チャンピオン(しかも自らがデザインしたマシン、エルフ2Jで)であるドライバーのジャプイーユも頭を抱えた。口の悪いジャーナリスト達が、レース中、必ずと言って良い程エンジンから白煙を吹き上げてコース脇にストップするルノーの黄色いマシンを"イエロー・ティーポット"と呼んで笑った。が、誰ひとりこのプロジェクトからの離脱を申し出る者はいなかった。例え長期になろうとも、誰もがターボ・エンジンのF-1での成功と、自分達の努力の成果を信じて疑わなかったのだ。そして、デュドを始めとするスタッフ達は徐々に問題を解決して行き、RS01デビューから2年後の'79年、ディジョンで行われた地元フランス・グランプリでジャブイーユとルノー・ターボは遂に初優勝を飾った。彼等の努力はようやく報われたのだ。 .....だが、結果的にルノーはターボ成功者にはなれなかった。'80年オーストリア・グランプリでジャブイーユが2勝目を挙げるが、ターボ車初のタイトル獲得はコンストラクターズが'82年のフェラーリ、ドライバーズは'83年、ブラバム・BMWターボのネルソン・ピケのものとなった。そしてダブル・タイトル獲得は'86年、ピケとウイリアムズ・ホンダが達成。ルノーは自チーム以外にもロータス/ティレル/リジェらとも組んだが、結果的には負け組となってしまった。更に'88年でターボ・エンジンが禁止される事が決定し、'87年、ターボ・エンジンの先駆者ルノーはグランプリに大革命を齎しながらも、結局栄光は掴めずに去って行く。だが'89年にエンジン規定が3.5リッターNA化されてからはデュドを中心としたV10プロジェクトがウイリアムズと組んでF-1に復帰、'92年にはナイジェル・マンセルを擁して念願のダブル・タイトルを獲得。その後もアラン・プロスト、デイモン・ヒル、ジャック・ビルヌーヴらとタイトルを分かち合い、'90年代最高のエンジンの名を欲しいままにした。だがデュドは、'70年代のターボ・エンジンの開発が無ければ、その後のルノーは無かったと言う。「全てはあれが始まりだったんだ。我々は誰も経験した事の無い様々な問題に直面し、そして解決する事を学んだ。その経験が無ければ、今日のようなグランプリ・エンジンは作れなかっただろう」他人や先駆者からの助言を得る事が不可能だった史上初のターボ・エンジンを手がけた男の、根拠の正しい自信の原点がそこにあったのである。
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