| たまにTVでF-1中継を観る程度の人でも、恐らく彼の事は知っているだろう。ホンダが第2期の活動に於いて勝利を重ねた'80年代、ルノーと組んでグランプリを席巻した'90年代、そしてBMWを擁して最強フェラーリに立ち向かう2000年代と、常に彼はTVカメラに大きく映し出されるからだ。だが、それには理由がある。彼は、自分で動く事が出来ない。従って、他チームのオーナーやテクニカル・ディレクター達のように、TVモニターに自分が映し出されていると気付いても、カメラから逃げたり顔を隠したりする事が出来ないのである。彼の名はフランク・ウイリアムズ。BMW・ウイリアムズ・チームのオーナーである。かつてフレーズの名手、古館伊知郎氏が"車椅子の闘将"と名付けた、このモーター・レーシング界きっての"レース・バカ"は実は呆れる程、素敵な男なのだ。 フランク・ウイリアムズは'42年4月16日、スコットランドに生まれる。5歳の時、母に連れられて初めて列車を見た時、フランク少年は「こんな大きなものを、あの人が1人で動かしてるの?」と、機関士を見つめていた。彼が"機械と操縦"に出会った瞬間である。彼の父は爆撃機のパイロットであり、カトリック系の厳しい学校生活を経たフランクは頑強さや責任感、更に統率能力といった要素を他の少年達よりも多く持ち合わせる事となった。学校卒業後、家を出たフランクはトラックの運転手や修理工等の職を転々としながらオースチンA35を購入し、レーシング・ドライバーとしてのキャリアをスタート。しかしフランクはすぐに自分がレースで勝てるポテンシャルの持ち主では無い事を悟る。「戦績は酷いものだった。だが、私は楽しんでいたよ。同時に、自分より速かった.....つまり、全てのドライバー達に敬意を抱く事が出来るようになったんだ(笑)」'67年、F-3までステップ・アップした所で早々にドライバーとしてのキャリアを見切ったフランクは、レーシング・カーの販売と言う分野で才覚を表して行く。'68年、かねてからの友人であったイギリス出身の新鋭ドライバーのピアース・カレッジから、自身のF2参戦に向けてマネージャーをやって貰えないか、との連絡を受け、これを了承。フランクとカレッジはブラバムのF-2マシンを購入し、なかなかの成績でタスマン・シリーズを戦った。そして'69年、彼等は2.5リッターのフォード・エンジンを3リッターに変更、念願のF-1進出を果たす。'70年、"フランク・ウイリアムズ・レーシング・カーズ"と名付けられた彼のチームはデ・トマソ製のマシンでF-1を戦っていた。しかし6月21日、オランダ・グランプリでカレッジが事故死し、フランクは途方にくれてしまう。「大切な友人を失った私の手元に残ったのは1台のF-1マシンと2基のエンジン、そして山のような負債だった」 '70年代前半、今だカレッジの事故死から立ち直れずにいたフランクは恐らくF-1の現場で最も惨めなチーム・オーナーであった。'73年アルゼンチン・グランプリで彼のチームが正式なデビューをした際も、彼の靴の先は敗れて足の指が覗き、レース・ウイークの週末はずっと同じ服を着ていた。自分のアパートにはベッド兼用のソファしか無く、電話も止められた為、公衆電話で仕事をしていた。私財の全てを投げうって、それでも彼のチームの状況は好転しなかった。そして'76年、フランクはカナダの大富豪、ウォルター・ウルフと協力関係を結び、ウルフ・ウイリアムズ・チームを結成。だがこのコンビネーションも長くは続かず、フランクはウルフにチームそのものを売却、一旦F-1グランプリの現場から去る事となる。しかし、ここでようやくフランクのモチベーションは復活する。「本意に反してのチーム売却だったが、その間の数週間、それが正しい選択だった事がだんだん解って来たんだ」'78年、フランクは無名の新人エンジニア、パトリック・ヘッドにニュー・マシンの制作を命じ、新たに"ウイリアムズ・グランプリ・エンジニアリング"を発足させる。'79年イギリス・グランプリ、ウイリアムズはスイス人ドライバー、クレイ・レガッツォーニのドライヴするFW07・フォードで遂にF-1初優勝。'80年にはオーストラリア人のアラン・ジョーンズがワールド・チャンピオンに、チームもコンストラクターズ・チャンピオンに輝き、ダブル・タイトルを達成した。'81年もウイリアムズがコンストラクターズ・タイトルを獲り、チームは完全にF-1のトップ・チームとなった。しかし、順風満帆に見えたフランクには、想像を絶する試練が待ち受けていた。 '86年3月8日。ウイリアムズ・チームはフランスのポール・リカール・サーキットでテストを行っていた。セッション終了後、フランクは自身の運転でレンタ・カーに乗り、サーキットからニースへ向けて走っていた。そして、事故が起きた。フランクの車は緩やかな下りの左カーブを曲がり切れず、車ごとガケ下に転落した。車の中で、フランクは首の骨を骨折していた。病院に運ばれた時、既に彼の身体は自由では無くなっていたのだ。知らせを聞いて病院に駆けつけた妻のヴァージニア・ウイリアムズは「目の前であまりにも変り果てた姿となってしまった彼を見た時、それが彼、フランクである事を理解するのに時間がかかった」と、ショックを隠せなかった。呼吸困難で何度か危険な状態をどうにか切り抜けた後、結局フランクはこの事故によって四肢の自由を奪われ、下半身付随の障害者となった。一生、車椅子の生活となる事が宣告されたのだ。そして誰もが、F-1グランプリから1人の闘将が消えた、と思った。当然、彼のウイリアムズ・チームは撤退するか人手に渡り、フランクの持つ勝利への意欲はここで潰えたと思われた。 .....だが、闘将フランク・ウイリアムズは帰って来た。テクニカル・ディレクターであり、生涯の友人であるパトリック・ヘッドがフランクの留守中のチームを守り、タイトルこそ逃したものの、ネルソン・ピケとナイジェル・マンセルが最終戦までマクラーレン・ポルシェのアラン・プロストとチャンピオンを賭けて戦った。そして'87年、フランクは車椅子に乗り、開幕戦・ブラジル・グランプリのパドックに現われた。マクラーレンのロン・デニスは「こいつは最悪だ!。レース以外の事を考えなくなったって事は"今まで以上に手強い"って事なんだから」と、ライバルの"地獄からの生還"を彼流に称えた。そしてこの年、チーム全員がフランクの生き様に応えるように働き、ピケの3度目の栄冠と共にウイリアムズはダブル・タイトルを獲得するのである。 当然の事だが、事故及びその後のリハビリテーション等についてはメディアを通じて多くが語られる事は無い。その為、フランクの状態を良く知らない人は「車椅子に乗って、いつも怖い顔をしている氷のような人」とのイメージを持っているようだ。だが、この部分について多少補足させて貰いたい。例えばフランクは、自分で食事をする事が出来ない。シャツのボタンをかける事も、トイレで用を足す事も、目の前を飛ぶ蚊を追い払う事さえも、だ。全ての行為が第三者の手伝いの元に行われ、その都度フランクは、誰にでも、何度でも、必ず「thank you」と答える。更に、顔面に及んだ麻痺の影響で、感じた通りの表情を表す事も出来ない。少々怒っていても、微笑んでいても、それが"普通"と比べれば乏しいものに見えているだけなのだ。元々フランクは感情剥き出しの激高型で、彼のチームに起きている全ての出来事に一喜一憂しているのだ。麻痺の方はリハビリテーションの甲斐あって徐々に回復しているようではあるが、それでも完全とは程遠い。そんなフランクが'92年イギリス・グランプリでナイジェル・マンセルが完全勝利を飾った時に見せてくれた、あのとびきりの笑顔は忘れられない。 フランク・ウイリアムズはかねてから自チームのドライバー同士を戦わせる事で、チーム全体のモチベーションを上げて行く方法論で有名である。ジョーンズとカルロス・ロイテマン、ピケとマンセル、デイモン・ヒルとジャック・ビルヌーヴ、そして現在のラルフ・シューマッハーとファン・パブロ・モントーヤ等が良い例だ。'92年のマンセルとリカルド・パトレーゼでさえ、チャンピオン候補がポイント上でどちらか一方に決まるまで、もう1人のドライバーにアシスト等強要しなかった。「私はドライバーを尊敬している。彼等には、勝つ為の平等なチャンスが与えられるべきだ」この精神が、我々に常にスリリングなレースを提供してくれる。チーム・オーナーとしては時にはチーム・メイト同士が穏便にコース上を走る事を望むべきかも知れない。だが、彼は決してそれをしない。何故なら、フランクの望むものは"レース"だからだ。フランクはレースをする為に、サーキットへやって来るのだ。その結果、チャンスを棒に振ったシーズンもあった。勝てるレースを落とした事も少なくない。だが、通算8回のコンストラクターズ・タイトル獲得、優勝回数108回は希代の"レース・バカ"、エンツォ・フェラーリ亡き後、唯一の存在である事を物語る数字である。更にフランクは、チャンピオンがいつまでも自チームで"ふんぞりかえっている"状態を好まない。その為か、'83年以降フランクはタイトルを獲ったドライバーと翌年も契約する事は少なく、栄光の"カー・ナンバー1"をつけて走ったのは5人のワールド・チャンピオンの内、'97年のジャック・ビルヌーヴだけ、と言うのは如何にもフランクらしいエピソードだ。ナイジェル・マンセルもアラン・プロストも、ウイリアムズでタイトルを獲った後はそのシートを降りて行った。フランクが求めているもの、それは常に次の"勝利"なのだ。記録や記憶の中にある勝利では無く、次のレースに勝つ事だけなのである。妻、ヴァージニアは「私達の結婚セレモニー、と言っても、友人の夫婦と食事をするだけなんだけど、フランクはその席をすっぽかしてファクトリーに行っていたの(笑)。皆怒っていたけど、私は違った。だって、私はフランクのそう言うところが好きになったんだから」.....ちなみに、'75年8月と言う"貧乏チーム"時代に結婚した2人だが、フランクは役所に提出する婚姻届の手数料8ポンド(約1.800円)すら借金する程、貧乏だったと言う。 .....現代のF-1グランプリのパドックで、彼程愛されているチーム・オーナーは少ない。マクラーレンのロン・デニス、ジョーダンのエディ・ジョーダン、F-1界の首領、バーニー・エクレストンでさえも、彼と話す時は片膝をつき、目線を下げる。彼を見つけると、誰もが近寄り、話しかける。それは、決してフランクが今や"サー"の称号を持つからでも、恐れるべき存在だからでも無い。フランクと話す事で、誰もが幸せな気分になれるからだ。心からレースを愛し、勝利へのあくなき欲求に生きるフランクこそが、F-1サーカスに身を投じる誰もが憧れる存在なのである。彼に付きまとう、氷のように冷静な独裁者、とのイメージは多分忘れた方が良いだろう。愛すべき最後の"レース・バカ"、それが闘将フランク・ウイリアムズの、正しい形容である筈だ。
|