| 数年前、栃木県のツインリンク・もてぎで行われたホンダ設立50周年記念イベントを見る機会があった。歴代の2輪/4輪のホンダ車が往年のライダー/ドライバーらを世界中から呼びよせ、もてぎのオーバル・コースを颯爽と駆け抜ける。イベントのフィナーレを飾る大パレードの最後に、ホンダ創業者の故・本田宗一郎氏作の初の4輪自動車、通称"カーチス号"がその凛々しい姿を現した。いわゆる"クラシック・カー"としての存分なフォルムに身を包んだこの歴史的な1台をにこやかに運転するのは本田宗一郎氏の長男、本田博俊氏。そう、彼こそ父、宗一郎から「オマエはウチの会社には入れない」と言われ、「自動車屋なんかに入るもんか。俺はレースだけをやる会社を作ってやる」と答え、自ら"株式会社・無限"を設立した日本レース界最後のカリスマだ。 本田博俊は'42年4月11日、静岡県にてホンダ創業者、本田宗一郎の長男として誕生。彼の育って来た環境を考えればレースに興味が湧くのは当然の事であった。大学卒業後欧州へ渡り放浪、帰国後、裸足で"カラス"を駆る浮谷東次郎、若き天才レーサー生沢徹、林みのる(現童夢社長)、徳大寺有恒(現評論家)ら日本のレース黎明期を支えた若者達の中に、本田博俊はいた。しかし'60〜'70年代の日本に於いて、まだ"モーター・スポーツ"等と言う表現は存在し得なかった。それは、欧州と比べれば信じられない程の知名度の低さと社会性の乏しさであった。'73年、日本はオイル・ショックの影響の真只中。レースなんてとんでもない、ガソリンで動く公害の元、自動車なんて世の中から締め出せ、と言わんばかりの世論の中に、彼等はいた。そして父、宗一郎の会社が市販車で公害と戦っている最中、博俊は低公害エンジン開発に嫌気がさしていたホンダの'60年代第1期F-1プロジェクト・メンバーだった川本信彦(後のホンダ社長)らを巻き込み、"日本初のレース用エンジン・メーカー"である無限を設立する。もちろんホンダと言う大きなバックがあればこそ成し得た事なのは事実であるが、当時の国内状況を考えれば夢のような話であった。博俊、川本、そしてホンダのRSC(Racing Service Club)のメンバーだった木村昌夫に本田技研の1人を含むたった4人で、敷地の草刈から瓦礫の撤去までを行い、やがて工場が建設された。無限の初仕事はF2の下に位置する国内フォーミュラ、FJ-1300用エンジンの制作だった。川本が本田技研から強引に若手エンジニアの市田勝巳(その後の第2期ホンダF-1プロジェクト・メンバー)を強引に無限に出向させ、少数精鋭で制作されて英国製GRDのシャシーに積まれた記念すべき彼等の処女作は、'73年11月11日に鈴鹿サーキットで行われた全日本総合自動車選手権にエントリーし、F2000との混合レースに於いて5位でフィニッシュ。しかも4位までは全てF-2000車、無限は事実上デビュー・レースでFJ-1300を制したのである。それから無限は国内のモトクロス/レーシング・カート/F3/F2(F3000)等、あらゆるカテゴリーを制して日本の代表的な、そして唯一の"レーシング会社"へと成長して行った。 '92年9月11日、ホンダの川本信彦社長(当時)がホンダの第2期F-1プロジェクトの活動休止を正式発表。撤退では無く"休止"と言う表現となったのは、ホンダは必ずいつかF-1に帰って来る、と言う証でもあった。そして、休止中のホンダに代ってこの年からF-1の現場で戦い、いつか帰って来るホンダへの貴重な橋渡し役を担ったのが無限であった。'80年代にもホンダのF-1エンジン開発協力と言うスタンスでF-1に関わっていた事はあったが、実際にF-1レースの現場への参戦となれば話は全く別のものとなる。'91年、中嶋悟引退の年にマクラーレンの最新V12以外にティレルにもV10を供給したホンダのスタッフ陣の中に、無限は多くのスタッフを送り込んでいた。そして'92年、ホンダ最後の年に無限はホンダV10のチューナーとして、アロウズを買収したフットワーク・チームと組み、鈴木亜久里を擁して本格的にF-1を戦い始めたのである。無限のF-1でのスタンスは、基本的にはホンダが開発して来たV10エンジンの最終形をヴァージョン・アップして行く事で、エンジン・マニュファクチャラー名は"無限ホンダ"の名を採用。初年度は鈴木亜久里のチーム・メイト、元フェラーリ・ドライバーのベテラン、ミケーレ・アルボレートがクレバーな走りで入賞を繰り返し、計6ポイントを獲得。翌'93年、本家ホンダ無き初年度はアルボレートに代ってチームに加入したデレック・ワーウィックがハンガリー・グランプリの4位等で4ポイントを獲得するにとどまり、一方の鈴木亜久里は2年連続の無得点。結局フットワーク/無限ホンダ/鈴木亜久里の"ジャパン・ナショナル体制"は結果を残せずに終わった。翌'94年は破産寸前だったかつての名門、ロータスに供給。しかし、資金難から5人のドライバーを出走させる等、明らかにチーム運営そのものが上手く行かずに獲得ポイントはゼロ、F-1グランプリきっての名門チームはこの年いっぱいをもって消滅した。しかし、'95年から事態は好転しつつあった。無限は新たにトム・ウォーキンショーが指揮を取るフランスのリジェ・チームへのエンジン供給をスタート。マーティン・ブランドルがベルギー・グランプリで3位、オリビエ・パニスが最終戦オーストラリア・グランプリで2位を獲得し、計24ポイントでコンストラクターズ・ランキングではトップ4(ベネトン/ウイリアムズ/フェラーリ/マクラーレン)に次ぐ5位となった。ほぼ新設計となった無限のエンジン、MF-301Hはシーズンを通して抜群の信頼性を見せ、エンジンが原因でのリタイヤはハンガリー・グランプリの1度だけであった。そして翌'96年、迎えた第6戦、伝統のモナコ・グランプリ。 この日、無限代表の本田博俊は"珍しく"モナコに来ていた。様々なカテゴリーで活動する無限だったが、博俊は忙しくて普段グランプリの現場でレース観戦する余裕等、殆ど無かったのだ。このレース、パニスはマシン・トラブル続発で予選14位と低迷。チームはレースがサバイバル戦になる事を予想し、限りなくフルタンクに近い状態でグリッドにマシンを送り出した。レース直前、予報に無かった突然の雨がコースを濡らす。全車レイン・タイヤを装着してのスタート。1周目のヘアピンで、優勝候補No.1、フェラーリのミハエル・シューマッハーがクラッシュ。代ってトップに立ったウイリアムズのデイモン・ヒルが40周目にエンジン・ブロウで離脱。次にレースをリードしたベネトンのジャン・アレジも60周目にサスペンションを痛めてリタイヤした。その頃、リジェ・無限ホンダを駆るパニスは悪コンディションの路面をものともせずにただ1人素晴しいドライビングを見せ、この難コースでマーティン・ブランドル(ジョーダン)、ミカ・ハッキネン(マクラーレン)、ジョニー・ハーバート(ザウバー)らを続々とオーバー・テイク、更にはフェラーリのエディ・アーバインをもブチ抜き2位、アレジがリタイヤすると遂にトップに立った。レース後半、路面が乾き始めるとチームも素晴しいピット・ワークでスリック・タイヤへの交換を行い、給油もギリギリでパニスをコースへ送り出し、マクラーレンのデビッド・クルサードの追撃をかわしてとうとうトップでチェッカーを受けたのである。リジェ・チームにとっては15年振り、パニスは39戦目、無限にとっては71戦目の初優勝であった。博俊はチーフ・エンジニア、坂井典次と共に信じられない光景に歓喜した。「上手く行けば5位くらいには入るかな、と思っていた。が、まさか優勝なんて考えもしなかったよ。今日のパニスは頼もしかった」とは喜びで顔をクシャクシャにした博俊のコメントである。そしてこの勝利は、ワークスのホンダでは無い、"日本のカスタマー・エンジン"である無限の堂々たる初勝利であった。翌'97年、リジェ・チームは4度の世界王者、アラン・プロストによって買収されて"プロスト・無限"となり、新参入ブリヂストンの高い性能もあって予選/決勝共に活躍、エースのパニスがカナダ・グランプリでクラッシュ/骨折の為、後半戦は落ち込んだが、中野信治/ヤーノ・トゥルーリを擁して21ポイントを獲得、2年連続でコンストラクターズ・ランキング6位を獲得した。 '98年、無限はプロストからジョーダン・チームへと供給先を変更。元ワールド・チャンピオンのデイモン・ヒルとミハエルの弟、ラルフ・シューマッハーのコンビで戦った。無限の2勝目は第13戦、雨のベルギー・グランプリ。スタート直後の大クラッシュで赤旗中断、2度目のスタートとなった際に予選3位のヒルが首位に立つ。その後シューマッハーがトップを奪うも、視界不良の中スローダウン中のマクラーレンのデビッド・クルサードに追突してリタイヤ。26周目からヒルが再び首位に返り咲き、2位にはチーム・メイトのラルフが上がる。結局オーナー、エディ・ジョーダンが「頼むラルフ、デイモンと争わずにそのままフィニッシュしてくれ!」と言う"チーム・オーダー"を無線で繰り返し、ジョーダンはドシャ降りの中127戦目のF-1初優勝を、それも1.2フィニッシュで決めた。当然これは無限にとっても初の1.2フィニッシュであった。この年のコンストラクターズ・ランキングは4位にまで上昇し、無限は一躍トップ4の仲間入りを果たしたのである。更に翌'99年、無限はMF-301HをDヴァージョンまで進化させた計量/コンパクト/ハイ・パワーなニュー・エンジンを投入。ラルフに代ってジョーダン新加入のハインツ・ハラルド・フレンツェンが第7戦フランス、第13戦イタリアと2勝し、ジョーダン・無限ホンダはカスタマーでありながら第13戦終了時点でマクラーレンのミカ・ハッキネン、デビッド・クルサード、フェラーリのミハエル・シューマッハーと4人でタイトル争いを繰り広げていた。向かえた第14戦ヨーロッパ・グランプリで絶好調のフレンツェンはジョーダン移籍後初の、無限にとってはF-1初のポール・ポジションからトップに立ち、このままフレンツェンの勝利か、と思われた矢先の33周目、電気系のトラブルでストップ。この瞬間、ジョーダン・無限/ワールド・チャンピオンの夢は消えた。が、チームはコンストラクターズ3位となり、当然無限はF-1参戦以来の最高成績でシーズンを終えた。 そしてこの年の5月、その去就が注目されていたホンダが'00年からBARチームと組んでF-1復帰する事が正式発表された。迎えた翌'00年、本家ホンダのF-1復帰に無限は揺れた。本来ホンダの留守を守り、その間のデータとノウハウをホンダに伝えて行く筈だった無限は、既にカスタマーでありながらひとつのエンジン・メーカーとして確立されていた。だが7月の時点で、ジョーダン・チームは翌年からのホンダ・ワークス・エンジン獲得を発表した。つまり、ホンダはBARとジョーダンの2チームにワークス・エンジンを供給する事となったのである。まだジョーダンとの契約が残っていた無限は慌てた。無限側から見れば、9年間やって来たF-1を突如取り上げられる格好だったのである。その後ホンダ側からは「ジョーダン用に無限から経験あるスタッフを送り込む予定」とコメントがあったが、博俊は「事前の相談も無く、勝手に決められた事」と憤慨していた。無限サイドも何とかホンダと共存する道は無いかと模索したが、残された道は最下位チーム、ミナルディとのジョイントだけだった。しかし、最終的にこのジョイントにはホンダ側からのOKが出なかった。最終戦終了後の11月2日、博俊は無限のF-1からの"完全撤退"を公式発表。結局この年、コンストラクターズ・ランクは5位BAR・ホンダ20ポイント、6位ジョーダン・無限ホンダ17ポイントで終了。本家ホンダの留守を守った日本最強のカスタマー、無限のF-1挑戦は終わりを告げた。9年間で出走147戦、優勝4回、ポール・ポジション獲得1回。4度の優勝は、そのどれもが記憶に残る素晴らしい勝利であった。 .....現在、無限は同じ日本の童夢と組んでル・マン・プロジェクトを進行中。ちなみに童夢は'96年にオリジナル・F-1マシンを制作、無限V10エンジンを搭載して'97年シーズンのF-1デビューを目指したが、結局バブル崩壊後の経済不振から国内企業支援が無く、参戦を断念。この時、既にF-1でのカスタマーの時代は終わっていたのだ。ちなみに復帰後3年を経た本家ワークス・ホンダは、今だF-1未勝利である。
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