■lap21-"勇者達の肖像・vol.4"/アイルトン・セナ-
2002.11.01


'80年代後半から'90年代中盤の日本に於ける、いわゆる"F-1ブーム"には幾つかの立役者がいる。まず、ホンダ。'83年から'92年までの10年間で69勝('60年代の2勝を含めれば71勝)、'88年の16戦中15勝を始めとした圧倒的な強さでグランプリを席巻した。そして中嶋悟。いつの間にか日本を背負っていた小柄な"日本代表"が世界を相手に戦い、日本中が彼を後押しした。他にも鈴木亜久里や片山右京らが活躍、レイトンハウスやフットワークら企業側も好景気に乗って続々とグランプリの現場へと進出していた。更にはTVの全戦中継、古館伊知郎の独特の実況スタイル等もブームの要因に上げられるだろう。これらは'70年代後半に初の国内F-1開催が成された際の"全てのモーター・レーシング・ファンの注目"と言う状況を遥かに超え、モーター・レーシング・ファンでは無い"F-1ファン"を作り出して行き、結果的にブーム/ムーブメントとして成立する事となった。が、何事にも共通する事だが、ブームであるが故に"終焉"はやって来る。単純に鈴鹿初上陸の'87年からTV視聴率が突如落ち込む'94年までをブームの頂点として考えた時、このブームを支えていたであろう中心人物が明らかに浮かんで来る。それが-古館氏の表現を借りれば-"音速の貴公子"、アイルトン・セナである。この偉大なレーシング・ドライバーについて書かれたものは数多い。ここでは我々日本人の視点から見たセナ像を分析して行こうと思う。

アイルトン・セナ・ダ・シルヴァは'60年3月21日、ブラジル・サンパウロの裕福な家庭に生まれる。4歳の時に父に買い与えられたゴーカートがすっかり気に入り、12.3歳の頃はあまりにもカート・レースにのめり込み過ぎたセナに両親が気を揉んでいると、両親を安心させる為に学校の宿題は必ず土曜日の内に"完璧に"済ませ、日曜日に堂々とレースに出かける、と言う非常に"優秀な"少年だった。同時に、少年時代から既に完璧主義者であった。当時、レース用カートのチューナーだったルシオ・パスカル・ガスコンの工場にセナ少年がやって来て、ただジッとガスコンが自分のマシンをチューニングする様を見つめ、電話が鳴ると急いで取り、ガスコンは留守だと答えて勝手に電話を切るのだそうだ。「多分、自分のマシンだけを見て欲しかったんだろう。もの凄く嫉妬深い子だ、と思ったが、決して悪い子じゃなかった。そこがいじらしくて、しかもコース上では誰よりも速かった」ガスコンだけでは無い。ブラジル国内のカート・タイトルを獲った後も'81年からイギリスFF-1600、イギリス/欧州FF-2000、イギリスF-3と王座を獲得し続けるセナの、当時最大のライバルであったマーティン・ブランドルは言う。「セナにとって2位は"負け"なんだ。勝利する事に比べれば、2位の成績なんて何の価値も持っていなかったんだよ」また、カート時代に初めての雨のレースで大敗を喫し、その弱点を克服すべくドシャ降りの日を選んで自宅近くの駐車場で練習走行を何時間でも続け、納得の行くドライビングが出来るまでは決してやめなかった。その努力が後年の"レイン・マイスター/セナ"を生んだのである。しかし、こう言ったセナの"完璧主義"は、時に周囲の人間に誤解を招く要素ともなった。チーム・メイトやスタッフ達は「彼は勝つ為/自分の優位を照明する為には何事も犠牲にする。それが例え"信頼関係"であっても、だ」と口を揃え、ブラジルからイギリスへと連れ添った妻、リリアンは'81年に1度セナがカムフラージュ的に"レースからの引退"を実行した際、予想だにしなかった"離婚"と言う運命に直面する。「仕方が無い。僕は彼女の為に生まれて来たんじゃないし、彼女も僕の為に存在してるんじゃない」また、この頃"アイルトン・セナ・ダ・シルヴァ"と言う本名でレース活動をしていたセナは、レースを辞めて母国へ帰って父の事業を継ぐように言われており、家族を安心させる為に(レースに出ている事を隠す為に)母方の性である"セナ"だけを名乗るようになった。つまり、両親や妻でさえも、もう彼を止める事は出来なかったのである。

F-1デビュー後のセナの戦績については今更書くまでも無いかも知れない。いわゆる"セナ・プロ対決"を頂点に、セナのレースはいつもドラマティックであった。'84年、弱小トールマン・ハートからデビュー、大雨のモナコ・グランプリで赤旗さえ出なければあわや優勝、と言う快走で2位、この時は"伝統のレースを新人セナに勝たせたくない主催者側の陰謀説"まで出た。翌'85年に名門ロータス・ルノーへと移籍、2戦目の雨のポルトガル・グランプリで初優勝、第13戦ベルギーでも勝利を飾り、ポール・ポジション(以下PP)獲得回数は7回。'86年もスペイン/アメリカで優勝、PP獲得は8回。翌'87年はセナのホンダ/桜井淑敏監督への"直談判"も実り、ロータスがホンダ・エンジンを搭載。2度の優勝を飾って'88年にマクラーレン・ホンダへ移籍。アラン・プロストとのジョイント・ナンバーワン待遇で8勝/13PP、スタート失敗で14位から追い上げた鈴鹿で優勝し、初のワールド・チャンピオンを獲得。'89年は6勝/13PPながら選手権2位。サンマリノ・グランプリではプロストとの"紳士協定"問題で揺れ、鈴鹿のシケインでは両者接触、セナは失格となってプロストの後塵を廃した。'90年はプロストがフェラーリへと移籍し、同じ鈴鹿でまたも選手権2位のプロストと接触、今度はセナが6勝/10PPで2度目のタイトルを"奪い返し"た。'91年はライバル(ウイリアムズ・ルノー/ナイジェル・マンセル)の自滅で7勝/8PPで2年連続3度目のタイトル獲得、'92年は力をつけたマンセル/ウイリアムズに完敗、3勝/1PPでランキング4位へと後退、ホンダもこの年いっぱいでF-1を休止する。'93年休養から復帰したプロスト(ウイリアムズ)にベネトンと同じレベルのフォードV8エンジンで対抗、5勝/1PPで惜敗。そして'94年、念願叶って最強ウイリアムズ・ルノーへと移籍するが、わずか3戦目にして悲劇の事故は起こってしまった。

その日セナは迷っていた。前日のサンマリノ・グランプリ予選中にローランド・ラッツェンバーガーが事故死し、その前日には母国ブラジルの後輩であるルーベンス・バリチェロがフリー走行中に大クラッシュしていた。決勝レースに向けて、誰もが不安を隠せないでいた。セナも同じであった。そして、前年までのように"キャリアが上のライバル達に挑戦する立場"から、最強のマシンを操り、若きライバル-そう、丁度若き日のセナのような-となった新鋭、ミハエル・シューマッハーとの戦い、と言う慣れない構図が、セナにとってのレースを難しくしていた。もうプロストもマンセルも、ネルソン・ピケもそこにはいなかった。そして開幕から2戦、セナはシューマッハーの後塵を廃していた。どうして良いか解らなかった。スタート直後、ベネトンのJ・J・レートがエンジン・ストール、そこへロータスのペドロ・ラミーが突っ込んでクラッシュ。飛び散った破片で観客が負傷した。ある意味、この時点でレースは中止されているべきだった。セーフティー・カーが4周に渡って先導、再開後の7周目に高速の左コーナー、タンブレロでセナのマシンは直進し、コンクリート・ウォールに激突。レースは中断され、セナは事故発生から16分後にヘリコプターでボローニャのマッジョーレ病院に搬送されたが、午後6時40分に死亡。母国ブラジルでの葬儀は100万人を超える群衆が見守り、世界中がセナの事故死に揺れた。事故原因についてはイタリアの裁判所で"ステアリング・コラムの破損"と言う見解がなされ、フランク・ウイリアムズやパトリック・ヘッドらチーム関係者が"参考人"扱いされる事態となった。完璧主義者セナが本来のステアリング・コラムの太さよりも一部分だけ細く改造する事を望み、それが耐久性に影響を及ぼしたとされる説も存在するが、真相は定かでは無い。'94年5月1日、アイルトン・セナ死去、享年34歳。ワールド・チャンピオン3回、優勝回数41回、PP獲得回数65回、そしてモナコ通算6勝の天才の、あまりにも突然の死だった。

このコラムのスペースでセナの生涯/事故の詳細についてこれ以上詳しく書く事は恐らく不可能である。特に事故に関してはわずか8年前の出来事であり、思い出したく無い方もおられると思うのでこれ以上は書かないが、あまりに特殊な体験をした日本人をひとり紹介する。彼の名は尾張正博、セナの遺体と体面した唯一の日本人である。

尾張は一般的に言うところの"駆け出しのジャーナリスト"であった。彼はF-1を追うようになって2年目でこの事故に遭遇。レース翌日、たまたま宿泊していたホテルの従業員からセナの遺体は現在マッジョーレ病院では無く、ボローニャ大学の遺体安置所に移されている事を聞き、取材に向かった。当然のように警官が厳重に取り囲み、中を取材する事等不可能な状況であった。が、ひとりの警官が尾張の首にかけられたプレス用のパスを見て、「中へ入れ」と彼を建物の中へ誘導した。尾張は何が起きたのか理解出来なかったが、警官はそのまま彼を遺体安置室へと連れて行った。そこで尾張が目にしたのは、変り果てたセナの姿であった。同時に、それが如何に酷い事故だったかをも理解出来た。が、その後直接的な死因とされた"クラッシュで破損したサスペンション・アームが頭部に突き刺さった"と言う説を「絶対に違う」と言い切れる状況をも目のあたりにしたそうである。が、尾張はその"大スクープ"を発表する事は無かった。翌モナコ・グランプリを最後に、彼は一旦グランプリ・ジャーナリストを廃業してしまったのだ。セナの事故に関して、尾張は全く書かなかったのだ。恐らく彼にとって、夢に見たグランプリ・ジャーナリストの世界はセナの遺体との対面によって耐え難いものとなったのだろう。同様に多くのファンにとってもセナの死は絶望的な衝撃を与える事となった。その後尾張はしばらくジャーナリストとしての活動を止め、現場復帰した現在も決して当時の多くを語ろうとはしない。しかし、何故欧州のジャーナリスト達が門前払いされていた遺体安置所に、尾張だけが連れて行かれたのだろうか。本人は「警官が僕を片山右京と間違えたのではないか」と言うが、真相は解らない。この件に関しては、金子浩久著"セナと日本人"(双葉社)を参考とさせて頂いたので、"落ち着いて直視出来る"方は読んでみて欲しい。

セナの最大の魅力は、恐らく"大胆さと繊細さ"であったように思う。それがホンダとのパートナー・シップに於いて日本人の心を揺さぶり、勝っても負けても絶対的な存在として偶像化して行ったのである。特にライバル、アラン・プロストとの戦いは"善vs悪"のイメージを作り、不利な立場に置かれたセナが策士プロストを打ち負かす、と言った構図で捉えられていた。が、それも完璧主義者だったセナが作り出したある種の"設定"であったとも考えられる。更に補足するならば、神聖なモーター・レーシングの現場に於いて、アラン・プロストが"悪役"であった事実も無い。イモラでのセナの事故後、フランスTV局のコメンタリー・ブースからいたたまれなくなって出て来たプロストが空を見上げ、無言で涙を流していた事実を知る人は少ない。そして現在、セナの公式ファン・クラブのフランス支部長はアラン・プロストその人である事も書き加えておく。




「神の愛は永遠に我が身に降り注ぐ」
-アイルトン・セナ墓碑より-


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