■lap19-"名車誕生の舞台裏・vol.1"/タイレルP34-
2002.10.18


筆者が小学生の時に父親に連れて行かれた'76年の"F-1世界選手権イン・ジャパン"(諸般の事情で"日本グランプリ"と言う名称は使用出来なかった)、この時が全てのフォーミュラ・カーとの出会いである。それまで、我が家には父親が作った(と思われる)日の丸カラーのホンダF-1の1/12スケール・モデルが飾ってあったが、それでしかフォーミュラ・カーを知らない筆者は、'60年代主流だったいわゆる"ハマキ型"のマシンが走るのだと思っていた。更に、'72年頃に放送されていたアニメ"ル◯ンlll世"の初回が確かF-1の話で、そいつには確か羽根がついてたのでウイングの存在は知っていたかも知れない(ちなみに実際にジャッキー・スチュワートやデニス・ハルムらが実名で登場する)。ところが、ドシャ降りのFISCO(富士スピード・ウェイ)で筆者が目にしたのは、各チームごとに個性的なシェイプを持った、事前の予想とは全然違うもので、事実、各チームがオリジナル・マシンで参戦しなければいけない、と言うF-1だけのレギュレーションのおかげで全部違うクルマだった(当時、プライベーターが有力チームからマシンを購入して参戦する事は可能だったが)のが衝撃的であった。しかもそこいら中でおじさん達が「ラウダだ」「いやハントだ」と言ってるのを聞いてる内にラウダってのがフロント・ウイングがノーズの上についてて(フェラーリ312T2)、ハントがノーズが前に垂れ下がってるタバコ模様のヤツ(マクラーレンM23)だ、って事は理解出来るようになっていた。.....が、筆者にはタイトル争いなんかそっちのけで気になるマシンがあった。最後までそいつに釘付けになった、変なクルマが走っていた。しかも、なんか他のマシンに比べてやけに水飛沫をたくさん上げながら最終コーナーを回って来て、しかも結局2位に入ってしまった。「.....タイヤが6個ある?」父親は「そんなレーシング・カーは無いだろう」と答えたが、いや、前に4つ、後に2つ、確かに6個ついている。しかも、ボディには平仮名が書いてあった。"たいれる"と。.....その日から、筆者はタイヤが6個付いている青いF-1、"たいれる"が気になってしょうが無かった。

F-1史に残る名車(珍車?)、"タイレルP34"は'76、'77年のグランプリに出走した、史上最初で最後の"6輪車"である(現在はタイヤは前後4輪、と決められてしまっている)。この奇抜なマシンを生んだデザイナーはデレック・ガードナー。その理由は簡単である。ガードナーいわく、最初にこのアイデアを思いついた'68年当時、ティレル・チーム('70年代、日本では"タイレル"と発音していた)にはパフォーマンス・アップの為に「全く新しいコンセプトが必要」であった。フォードDF-Vエンジン搭載のマシンに、後50馬力追加する為に必要なアイデアを考えているうちに、フロント・タイヤを小さくしてトレッドを狭める事を思いつく。そうすればフロント・タイヤが受ける空気抵抗値が確実に減り、加速が有利になる筈だ。が、ガードナーの理想とするサイズのタイヤではフロントのグリップが圧倒的に足らない。そこで彼は描いていたデッサンのフロント部に、試しに左右もうひとつずつのタイヤを描いてみた。もっとも、その時はガードナー本人もそれ以上追求はせず、'73年になって再びこのアイデアに取り組み始める事となった。そして、ガードナーがチームのボス、ケン・ティレルにこのアイデアを見せた時、ケンは目を丸くして驚いていたが、当時殆どのチームがフォードDF-Vエンジン+ヒューランド・ミッションで戦っている現状で、他チームを出し抜くには少々奇抜なアイデアであっても取り入れて行くべきだと考え、結局'74年にこの6輪車プロジェクトは実際に動き始める。それまでタイレル001〜007と続いて来たシャシー・ナンバーは一旦ストップされ、"プロジェクト34"と言う名の極秘開発が始まったのだ。

まず最初にケン・ティレルとデレック・ガードナーがやるべき事は、タイヤを用意する事だった。ガードナーは当時F-1の全チームにタイヤを供給していたグッド・イヤー社と秘密裏にコンタクトを取り、この奇抜なアイデアをストレートにぶつける。が、グッド・イヤーの返事は予想外のものであった。「.....やりましょう。必要なサイズは何インチですか?」そしてガードナーは通常(4輪)のマシンに新しい10インチ(約25cm)のタイヤを装着してテストを開始した。プロジェクト34はチームのドライバー達にも秘密のまま進行し、ケン・ティレルはジョディ・シェクターに「.....なあジョディ、フロントのグリップが20%増えるとしたらどう思う?」と意地悪な質問をし、シェクターは「そんな事は不可能だ。もしあり得るとしたら.....」と、幾つか答を考えたが、その中に"6輪車"と言うアイデアは無かった。もうひとりのドライバー、パトリック・デパイエも同様に推測するが、当然6輪車には行き着かない。彼等はチームが何か妙な事を考えている事を薄々感づいてはいたが、まさか自分達のドライヴするマシンが6輪車だとは考えなかったのだ。そして彼等の前に、グッド・イヤーが用意した10インチのスペシャル・タイヤをフロントに4本装着した"プロジェクト34"こと"タイレルP34"のテスト・カーの写真が公開された。2人は声を揃えて「無理だ。まともに走りっこ無い」と言い、不安を露にした。中でもシェクターはこの奇抜なアイデアに疑問を抱き、チームにオーソドックスなマシンの開発を嘆願した。マスコミもどちらかと言えば懐疑的で、P34は発表されるや一躍世界中の嘲笑の的にされてしまった。そしていざテストを行うと、大変な問題が発生した。グッド・イヤーが用意した小さなタイヤが、高速走行時に変形していたからだ。更に、ホイール自体が小さい為にブレーキの冷却性能も低く、このままでは300Kmのレース距離に耐えられそうに無かった。が、このマシンに疑念を持っていたエース・ドライバーのシェクターに代わり、最初のテストを担当したパトリック・デパイエはマシンを降りるなりガードナーに向かって「コイツはもの凄く速い!」と叫んだ。当時、成績も上がらず、チーム・ボスのケンともあまり上手く行っていなかったデパイエは、溺愛されるシェクターとは対照的にこの"醜いアヒルの子"を心から愛し、精力的にP34のテストを行った結果、ケンからの信頼を得る事にも成功したのだ。そして、改良を重ねたP34のグランプリ・デビューが'76年スペイン・グランプリに決定。直前までP34に乗る事を拒否していたシェクターは同レースが開催される直前に初めてP34のステアリングを握った。が、シェクターの印象はデパイエのそれとは違い、「フロント・タイヤが良く見えない。これではコーナーを攻めて行けない」と言うものだった。結局、スペイン・グランプリにはデパイエがニュー・マシンP34で、シェクターが従来型の007で出場する、と言う異例の形態を取る事となった。ところが、デビュー戦でP34はシェクターの007よりも予選/決勝ともに速く、結果はブレーキ・トラブルでリタイアだったがレース中は3位まで順位を上げた。次戦のベルギー・グランプリでは2人ともP34で出走し、予選2/4列目からシェクターが4位に入って初ポイントを獲得、更にモナコ・グランプリでも2台入賞と言う活躍を見せる。そして迎えたスウェーデン・グランプリで、P34は遂に初優勝を、それもシェクター/デパイエの1.2フィニッシュで飾った。フロント部のドラッグ減少によるストレート・スピードの伸びと、前4輪による高速コーナーでの抜群の安定感で、P34は一躍'76年のベスト・マシンと呼ばれ始める。その時点では、もうこの6輪車を"醜いアヒルの子"と笑う者はいなかった。

ところが、'77年シーズンに改良されたP34/2が登場すると、事態は一変した。P34/2はハンドリングの向上の為にマシンそのものがワイド・トレッド(幅広)化されたが、結果的にフロント・カウルの両側に前輪がはみ出してしまい、空気抵抗値は完全に狂ってしまっていた。'76年モデルでは剥き出しだったコスワース・エンジンをも覆う巨大なボディ・カウルも、平べったく大きな作りとなってしまった為にセッティング幅が過敏になり過ぎる等、悪影響を及ぼしていた。更に、全チームのタイヤを供給しなければならなかったグッド・イヤー社の改良や安全性向上の為の開発を、彼等の10インチ・スペシャル・タイヤだけに集中させる事は不可能だった。結果的に前年モデルと同じスペックのタイヤで我慢しなくてはならなかったガードナーに出来る事は、もうリア部のチューニングしか残っていなかった。が、この改良を試して行くに連れ、P34/2は徐々に重く、遅くなって行ってしまったのだ。特にリアのブレーキ・ダクト等は毎戦のように改良されており、マシンのパフォーマンスは全く安定しなかった。結局'77年は1勝も上げる事無く、この年限りで6輪車プロジェクトは終了し、翌'78年は再びオーソドックスな4輪マシン"タイレル008"がデビュー。P34最後のレースとなった'77年日本グランプリでは、ロニー・ピーターソン(6輪車を嫌ったシェクターは'77年はウルフ・チームに移籍)のP34がフェラーリのジル・ビルヌーヴと接触し観客が死傷する事故が起きており、決して華やかなエンディングを迎える事は無かった。

こうして歴史的な6輪F-1マシン、"タイレルP34"はたった2年間でグランプリから姿を消した。'80年代に入ると、ウイリアムズ・チームの奇才、パトリック・ヘッドが前輪2本/後輪4本、と言うタイレルP34とは正反対の6輪車を設計。が、その開発のニュースを聞いたFISA(現在のFIA)から即座に「今後、グランプリに参加するマシンは前2輪/後2輪の規定サイズのタイヤを装着していなければならない」と言うレギュレーション変更を受け、開発は中止となった。つまり、もうグランプリの現場に6輪車が登場する可能性は無くなったのである(このウイリアムズ製6輪車は最近になって初公開された)。後年、パトリック・デパイエは「コンセプトは決して間違っていなかった。問題は、改良の仕方や進むべき道を誤った事なんだ。僕にとって、P34は我が子のように愛しいマシンだった」と語り、設計者のガードナーは「もしも今のようにタイヤ・メーカーによる争いがあったら、我々のプロジェクトも違う方向へ向かっていただろう」と語っている。そして、その後もP34は'70年代のF-1を象徴する存在としてファンからは絶大なる人気を誇り、20年以上経った現在でも歴史的な名車として多くのファンに愛されている。当然のように筆者も中学生の時には'77年モデルのラジコン・カーを所有し、自宅には今でも'76年モデルに"思い出の"富士/F-1世界選手権イン・ジャパン仕様の"たいれる"の平仮名ロゴが入った1/20モデルが飾られている。




「オー・マイ・ゴッド!?」
-'74、'75年/タイレルP34を見せられたケン・ティレル、ジョディ・シェクター、パトリック・デパイエの第一声-


■"no race, no life" top