| '02年、遂に日本最大の自動車メーカー、トヨタがF-1に打って出た。レース・ブームでも無けりゃバブルでも無いこの時期に、である。彼等のF-1での年間予算は全チーム中4番目に高いおよそ2億4千万ドル(約280億円)、ドイツ/ケルンに広大な設備を持ち、念願の富士スピードウェイ買収も叶って"打倒ホンダ"へ向けて着々と歩んでいる。この数年はインディ(CART)でも常勝エンジン・メーカーとなり、F-1には現在エンジン供給のみを行っているホンダに対し、"シャシーとエンジンの両方を作る、フェラーリ以外の唯一のコンストラクター"として殴り込みをかけた。一方のホンダも'92年にF-1へのエンジン供給を一時休止し、'00年から新興のBAR(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)チームと組んで再びエンジン供給を行い、現在はBARとジョーダンの2チームに供給している('03年からはBARのみ)が、当初ホンダはトヨタ同様"ホンダ・チーム"としてシャシー/エンジンを制作するコンストラクターとなる筈だった。実際'99年には"HRD"(ホンダ・レーシング・ディベロップメント)が天才デザイナー、ハーヴェイ・ポストレスウェイトを擁してダラーラ社の協力の元、オリジナル・F-1マシンを制作、合同テストでトップ・チームと互角かそれ以上のタイムを出して大いに期待されていたが、いざ'00年になると、ハーヴェイの急死もあって活動をエンジン供給のみに縮小。以来成績も振るわず、結果、印象ではトヨタに負けているのが現状である。が、初参戦のトヨタに対し、ホンダは'60年代に"オール・ホンダ"としてF-1にチャレンジし、2勝した歴史がある。ちなみにこの時は本来エンジン供給する筈だったロータスに直前でフラれ、頭に来たホンダが自前でシャシーも作り、急遽コンストラクターとして参戦した、と言うエピソードがある。そこから考えれば現在のホンダのスタンスはどうにも中途半端に見え、逆にトヨタが男らしく見えて来る。 が、そもそもコンストラクターとは何なのか。インディ等、他のカテゴリーでは既成のコンストラクター(マシン製造社)とエンジンをチョイスして参戦する事が可能だが、現在F-1のレギュレーションには"各チームはオリジナル・マシンを制作して参戦しなければならない"とあり、仮にフェラーリのF-1マシンを購入して別のチームから出走しようとしても認められない。つまり、エンジンは複数チームに供給出来ても、シャシーは1チームだけしか使用出来ないのである。つまり、コンストラクター=シャシー・メーカーなのだ。'80年代から'90年代にかけ、F-1には日本のヤマハやスバル等のエンジン・メーカーが参戦したが、彼等は結果を残す事無くグランプリから撤退、ホンダ創始者である本田宗一郎の息子、本田博俊が興した無限はホンダ・エンジンの"チューニング"と言う分野である程度の成功を収めた。では、コンストラクターはどうか。かつてレイトンハウスやフットワーク等、日本人オーナーのチームこそ存在したが、いずれもマーチやアロウズ等の欧州チームに金だけ出した"名ばかりの"日本チームであり、これを"和製コンストラクター"と呼ぶ事は出来ない(更に、これらはいずれも日本のバブル期のみの現象だ)。数年前には、"トレブロンF-1"と言う、全くの"幽霊会社"が参戦をブチ上げたりもした(当然、実在すらしなかったが)。では、'60年代のホンダと現在のトヨタ以外に、和製コンストラクターはいなかったのか。 "マキF-1"、そして"小嶋・エンジニアリング"。もしかしたら後者の名は聞いた事があるかも知れないが、前者を知る人はそう多くは無いだろう。'70年代、極東の日本から欧州のF-1へとチャレンジしたふたつの和製コンストラクター。もちろん結果は残せなかったが、"チャレンジ"と言う名の偉大なる足跡を残したこのふたつのチームを、今だからこそ、ホンダとトヨタがコース上で戦っている今こそ、振り返ってみようと思う。 以前このコラム内で'70年代の"フォードDF-Vエンジンとヒューランドのギア・ボックスによるキット・カー"の話をした。要するに、この二つさえあればどうにかオリジナルF-1マシン(らしきもの)を作る事は誰にでも可能だった。そしてそれは、多くの勘違いなコンストラクターを生み、殆どはその競争の中で現実を知り、撤退して行く事となった。マキF-1も、残念ながらその典型例と言えるだろう。元々"マナ"と言う日本のF-2やFL500のマシンを設計する会社をやっていた三村健治と言う人物が、学生時代からその手腕を買っていた小野昌朗と言うフリーのレーシング・カー・デザイナーに声をかけ、'73年に発足したのがマキ・エンジニアリングであった。マキは、とある会社をスポンサーにつけ、フォードDF-Vエンジンとヒューランド製のギア・ボックスを購入し、オリジナルF-1マシン"マキF101"を制作。当時は、ホンダがF-1から撤退して5年が経っていた事もあり、日本初のF-1プライベート・コンストラクター誕生に日本のレース・ファンは一斉に注目した。そして'74年3月、イギリスの最高級ホテルでマキF-1の大がかりな発表会が開催された。"日本初のF-1プライベーター、マキF-1。開発/制作費一億円、近い将来にはエンジンも自社開発予定".....だが、これらは全て"嘘"だった。と言うより、発表会の時点でスポンサーの某社は既に経営が悪化しており、実はマキは深刻な資金不足に陥っていたのだ。更に、そこに現われたマキF101は.....恐ろしい程、異様なフォルムをしていた。どんな素人が見ても、これがフェラーリやロータスより速く走るわけが無い、と解るようなものだった。実際、このマキF101は失敗作であった。しかし、グランプリ開幕は待ってくれない。マキはドイツ人ドライバーのホウデン・ガンレイと日本人ドライバー、速見翔(本名は新井鐘哲)の二人をエントリーするが、実際にはコース上に1台送り込むのがやっとで、しかもデビュー戦となったイギリス・グランプリではガンレイが予選落ち、続くドイツ・グランプリでは予選中にクラッシュ、マシンを失ったマキは結局たったの2戦でF-1デビュー・イヤーを終えてしまう。翌'75年、時計メーカーのシチズンがスポンサーとなり、マキは5戦にエントリーするが、ノン・タイトル戦のスイス・グランプリでイギリス人のトニー・トリマーが6周遅れの13位、それ以外は全戦予選落ちと言う結果に終わる。が、それも当然であった。 何故かと言うと、三村も小野も、自分達がF101を作る以前に、実際にF-1グランプリを見た事すら無かったのだ。そんな彼等がマシンを制作する際、実はプラモデルや雑誌の写真を見て推測で組み立てて行った、と言うのが後年明らかとなった。しかも、当時富士等でGCカーの設計を手がけていた小野にとって、レーシング・カーは"ストレートさえ速ければ勝てる"ものだった。が、それが欧州のサーキットに通用する筈も無かった。結局'75年に小野はマキを離脱。翌'76年は秋に富士で初開催される"F-1グランプリ・イン・ジャパン"のみに照準を絞り、残された三村が単独でニューマシン"マキF102"を設計。だが、予選でトップのロータスから18秒も遅れて最下位となり、結局マキが決勝レースを走る事は無かった。ちなみに、'75年当時の平均チーム運営予算は数億円、マキの年間予算は数百万円だった。更に、F-1のレギュレーション・ブックを読み、その通りに作れば全く競争力の無いマシン、つまりマキのようなマシンしか出来ない。と言う事は、誰もがレギュレーションの抜け道や解釈と戦い、同一のエンジン/ミッションを使用していてもライバルに勝つ方法を、マキ以外の欧州のチームは知っていた、と言う事だ。マキは恐らく、F-1をやるにはF-1を知らな過ぎたのでは無かったか。 元々モトクロスのライダーだった小嶋松久が自らコジマ・エンジニアリングを興し、富士スピード・ウェイでFL-500、FJ-1300、F-2の全てのフォーミュラ・カテゴリーでPP獲得/優勝を成し遂げたのが'75年の事。翌'76年には日本初のF-1が開催される事が決まり、小嶋は「もう、他にやる事が無い。F-1をやる」と心に決めた。そして、彼は初の和製プライベーター、マキが失敗して行くのを目のあたりにしていた。小嶋の決断はシンプルで、そして合理的だった。「何もこっちから行かんでも、来年F-1が向こうから来る。それも、ウチが得意な富士に。それなら、迎え打てば良い」そして、小嶋はマキの失敗で"恐らく少しは理解したであろう"デザイナーの小野昌朗を呼び、シャシーは解良喜久雄、ボディは由良拓也等、日本のレース界のトップ/新進・デザイナー達に加え、欧州F-2でプロジェクト4(言わずとしれたロン・デニスのチーム、つまりその後のマクラーレンF-1の母体)でチーフ・メカニックをしていた蓮池和元を呼び、オリジナルのF-1マシン"KE-007"を制作。当然、DF-Vエンジンとヒューランドのギア・ボックスによるキット・カーには違い無いが、走り慣れた富士でのレースだけの為に作ったスペシャル・マシンだった。しかも他の企業の支援を当てにせず、その殆どを小嶋のポケット・マネーで凌いでいた。これも恐らくマキF-1の失敗から来る教訓であっただろう。ドライバーは当時日本のトップ・ドライバーであった長谷見昌広を起用し、果たしてF-1世界選手権イン・ジャパンは始まって行った。が、KE-007は並みいるF-1マシン相手に互角に戦い、予選では1回目に4位、最終的にもなんと10位のタイムを記録する。しかも、もしもサスペンションの故障からクラッシュさえしなければ"あわやポール・ポジションか"と言う所まで行っていたのだ。決勝では悪コンディションや予選のクラッシュも響いて完走11台中10位に終わるが、明らかに欧州と国内のレース関係者のド肝を抜いた快走であった。マキのように、やった事の無い欧州でのレースに合わせず、データ量の豊富な地元に限った小嶋の作戦勝ちであった。翌'77年も、007の改良型であるKE-009を制作、今度は"オール・ジャパン"の体制を強く意識した小嶋の呼びかけと、前年の快走劇の影響から、日本企業がいくつか小嶋の支援に回った。が、それが裏目に出る事になる。実は、初年度とは違う某タイヤメーカーとの契約で望んだ'77年は、テストで出ていた筈のタイムがどうしても出せず、結局予選、決勝ともに前年の成績を上回る事が出来なかった。それを不思議に思った小嶋は、後にF-1でチャンピオンとなるケケ・ロズベルグに依頼し、当時のF-1でスタンダードだったグッドイヤーとのタイヤ比較テストを日本・グランプリ後に実施。すると、グッドイヤーを履いた途端に、初めて富士を走るロズベルグはKE-009で決勝レース中のファステスト・ラップに匹敵するラップ・タイムを快調に出し始めた。つまり"タイヤ選択が間違っていた"と言う事になる(しかも、レース距離の2倍程走ってノー・トラブルだったそうだ)。と言うよりも、"オール・ジャパン"を意識した故の敗退"と言うべきかも知れない。が、日本企業のサポート無しで小嶋が'77年の富士に出走するのは不可能だったのもまた事実であった。そしてこのレースで起きた観客死傷事故をきっかけに、日本からF-1、いやカー・レースそのものが衰退して行き、翌'78年に「KE-009の改良型でレースに出たいので共同開発を」と申し出て来たドイツのウイリー・カウーゼンに"騙され"、'79年には小嶋エンジニアリングそのものが活動に終止符を打つ事となった。そしてその後由良はムーンクラフトを設立、童夢、無限と組んでオリジナルF-1マシンを制作するが支援団体が現われずに挫折、他のメンバーも皆自動車設計関連の仕事に就くが、当の小嶋本人は現在パワーボート・チームの運営及び主催を自ら手がける、根っからのレース屋のままである。 マキはF-1を知らな過ぎた。そして、当時のプライベーターとしては最も避けるべき"巨大な支援団体を持たないチーム"のまま、欧州を転戦しようとして失敗した。小嶋は日本企業のサポートを得る事には成功したが、ある意味それが原因で結果を残せなかった、と言えるかも知れない。同時に、後の世界転戦をも視野に入れた小嶋の思惑は、日本の"レースに対する無知"が引き起こした事故が原因で挫折した。結局、和製コンストラクターがレーシング・チームとして世界へ出て行く為に必要なものは何だったのか。彼等が教訓として残していったもの、それは、1.プライベーターでは無く自動車メーカー等の大企業を母体に持つ事/2.有能であれば国籍やナショナリズムに囚われず、幅広い視野で選択する事/3.明確な目標を持って続ける事、だ。初めに記したように、今年初参戦のトヨタはF-1に於ける本拠地を日本では無くドイツに持ち、280億円と言うトンデモナイ年間予算を使ってフィンランド人とスコットランド人のドライバーで戦う。目標はもちろん"打倒ホンダ"だ。そしてひとつ忘れてはいけないのが、マキ、小嶋、ホンダ、トヨタ、この4つのコンストラクター全て(しいて言えばフットワークもか)が、一度は赤白の"日の丸カラー"のカラーリングを施している、と言う事実だ。日本人にとって、F-1での世界制覇は永遠の夢なのだ。
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