■lap16-"勇者達の肖像・vol.3"/エリオ・デ・アンジェリス-
2002.09.27


時代の流れと共に、モーター・レーシングに於けるドライバーの仕事はかつての"度胸一発コーナーへのブレーキング、絶妙なシフト・アップとテール・スライドを押さえるトラクション技術"から、"シュミレーション通りの正確なコーナリング+データに基づく技術的ノウハウへの理解"へと移り変って来た。様々なレギュレーションが試され、スペクタクルと同時に安全性を必要とするレース現場に於いて、"本能の赴くままのドライビング"は徐々に求められなくなって行ったのである。それは'80年代に起こり、'90年代に確立されて行った。そうして時代が移り変わるに連れ、取り残されて行くドライバーがいた。ジル・ビルヌーヴは昇天し、伝説となった。アイルトン・セナやナイジェル・マンセルは学習し、後のチャンピオンとなった。アラン・プロストは今までになかったやり方を持ち込み、成功した。そしてここに、時代に取り残された上に不運な事故死を遂げたひとりの天才レーサーがいる。政治的な駆け引きを嫌い、マシンが進歩しなくてもフィーリングでタイム短縮して見せ、ナイト・ライフは優雅に過ごすハンサムな"典型的レーサー"、エリオ・デ・アンジェリスの事だ。

エリオ・デ・アンジェリスは'58年3月26日、イタリアのローマで建築会社を営むいわゆる"貴族"の家に長男として生まれる。父は自らラリーやパワー・ボートのレースに出場しており、エリオの家が"レースが出来る裕福な家"であった事は疑いようが無い(父はパワー・ボートに関してはかなりの腕前だったようだ)。そんなエリオも当然のようにカート・レースに夢中になり、'74年、16歳の時にはイタリア・カート・チャンピオンとなる。'77年にはイタリアF-3へステップ・アップし、見事参戦初年度にチャンピオン。'78年もモナコF-3で優勝し、F-1関係者は一気にエリオの存在に注目する事となった。が、エリオがここまで順調にステップ・アップして来たのには天性のドライビングに於ける才能の他に、もうひとつ理由があった。父からもたらされる"順託な資金"である。常にトップ・レベルのマシンと体制を確保し、そしてそれをエリオが最大限に生かす事によって、常に結果を出して来たのである。あまり知られていないのだが、実にエリオらしいエピソードがある。'77年、同郷のジャンカルロ・ミナルディがフェラーリ・エンジンでラルトのF2マシンを走らせている時、F-3の他にF-2にも何戦かスポット参戦していたエリオの速さに目をつけ、エリオをエンツォ・フェラーリに紹介したのである。エンツォもエリオをとても気に入り、フィオラノでフェラーリのF-1に乗せて極秘のテスト・ドライブまでさせていた。そしてエンツォはエリオに、ル・マン24時間レースにフェラーリの準ワークス・チームから出場しないかと提案した。エリオは少し考えた後、なんとエンツォにギャランティを要求したのだ。エンツォは激怒し、この一件でエリオとフェラーリのコンビネーションは永遠に実現しないものとなってしまった。もちろんエンツォは金を払うのが嫌だったわけでは無く、自分に"金を要求する若僧"を見た事が無かったのだ。が、エリオからすれば、「誰よりも速く走る事が出来る自分が、報酬を要求して何が悪いのか」と言う想いだったのだろう。そこには貴族の家に生まれ、誰よりも速く走る自信に充ち溢れたエリオの、実に当然とも言える価値観が見える。そして'79年、資金不足と成績不振に喘ぐシャドウがエリオを抜擢し、遂にエリオはF-1にデビューする。ポイント獲得こそサバイバル・ゲームとなったアメリカ・グランプリでの4位1度だけだったが、"持参金ドライバー"としては異様な速さを見せるエリオに名門ロータスの総帥、コーリン・チャップマンが目をつけた。ロータスもまた、当時資金不足に悩んでいたチームのひとつだったのだ。かくして'80年、エリオはマリオ・アンドレッティのチーム・メイトとしてロータスに加入、ブラジル・グランプリでは2位となり、低迷へ向かって行くロータスの救世主となった。翌'81年にはナイジェル・マンセルがチームに加入。が、この新しいチーム・メイトは決して裕福な家庭の出身では無く、下位カテゴリーに於いては働いたり自分の家を売ったりしてどうにか資金を確保、出場する回数が限られていたレースでことごとく結果を出し、それがチャップマンに認められてようやくF-1へとステップ・アップして来た苦労人。つまり、エリオとは全く別の環境から現われた"労働者階級"のドライバーだった。マンセル自身も、自分を抜擢してくれたチャップマンになんとか報いようと必死になり、反対にエリオはノンビリと構えているような印象で捉えられていた。しかし、一旦コース上に出るとエリオは速かった。翌'82年のオーストリア・グランプリでF-1初優勝。が、マンセルも決して負けてはおらず、良い意味で全く逆のタイプのふたりが低迷していたロータスを支えていた。だがこの年、コーリン・チャップマンが死去、船頭を失ったロータスは揺れ、結果、"資金的に"何も齎さないマンセルが徐々にチーム内で孤立して行った。反対に、エリオのロータス・チーム内での地位は揺るぎ無いものであると思われていた。が、''85年、追い出されるようにチームを離脱したマンセルに変ってロータスに加入して来たひとりの若いチーム・メイトによってエリオの立場は大きく揺るがされる事となった。前年、非力な弱小トールマンに乗り、雨のモナコではあわや優勝、と言う活躍を見せた新人、アイルトン・セナのロータス加入である。

エリオにとって、セナは非常に扱いにくい存在であった。何故なら、裕福な育ち/天性の才能と言う意味で、セナは自分と全く同じ背景を持つキャリアの持ち主だったにも関わらず、徐々に自分よりロータス・チーム内での立場を確立して行き、あっと言う間にチームのNo.1ドライバーとなってしまったのだ。ただ単純に"マシンをドライブする才能"と言う意味でエリオとセナに大きな差があったか、と言われれば答はNoだ。この二人の大きな差は別の所にあった。エリオは自分の才能と環境を受け入れ、それをエンジョイするタイプだったのだが、セナは"もっと何か出来る筈だ"と、現在の状況を良しとせず、常にその一段上を目指す努力をした。セナはフリー走行や予選の後もスタッフと長時間に及ぶブリーフィングを繰り返し、走行中に問題を見つけると的確にクルーに伝えて解決する。こうしたセナの"影の努力"はセッションごとに千分の一秒単位で確実に身を結んで行き、結果的にエリオを予選/決勝で確実に上回る事となった。が、エリオにはそうした努力が出来なかった。いや、当時の関係者の言葉を借りれば、ドライバーがそこまでする義務は無く、セナがその基準を変えてしまった、とも言える。エリオだけで無く、グランプリ・レーサーはコース上で最大限の走りをし、セッションが終われば後は有能なチーム・スタッフに任せて休息するかエンジョイする、"貴族的なグランプリ・ウイーク"が当時の当り前のやり方であった。しかし、2台のマシンを用意するチーム内に於いて、自分の乗るマシンのセッティングを突き詰め、チーム・メイトに勝つ、と言うセナの発想そのものが斬新なものだったのだ。だが、エリオの"天性のドライビング・センス"は負けていなかった。セナがそれだけのアドバンテージを築いて行く中でも、'85年サンマリノ・グランプリでは持ち前のアグレッシヴな走りで優勝、予選でも何度かセナを上回り、11回のポイント・ゲットで結果を出した。しかし、もはやロータスにエリオの居場所は無かった。セナが出した「協力的なNo.2ドライバーが欲しい」と言う要求が通り、エリオはロータスを追われて行くのである。

翌'86年、エリオはブラバム・チームに移籍。この年、空力に翻弄されたブラバムは唖然とする程に車高の低いマシンを制作、横倒しにマウントされたBMWエンジンを包む平べったいボディ・カウルの後方に突如リア・ウィングが出現するようなイビツなマシン、BT-55で明らかに苦戦していた。そして5月14日、フランスのポール・リカールでのテスト走行中、突如エリオのリア・ウィングが崩壊。高速でコントロールを失ったマシンは激しく横転し、出火。エリオは鎖骨骨折でマシンの中に取り残されていた。が、テスト中だった事もあってコース・マーシャルの準備が完全で無く、消火活動に手間取った為にエリオは燃え盛るコックピット内に取り残されて窒息し、翌日病院で死亡。享年28歳の若さであった。エリオは自分を信じ、人生をエンジョイした。裕福な家庭に育ち、恐らく通常では叶わない夢を実現し、そして散った。もし彼がその後走り続けていたとしても、恐らくテクノロジーの進歩とグランプリの在り方について行けなかったのでは無いかと思う。反面、もし彼がセナのやり方を受け入れる事が出来たなら、いつしかチャンピオン・ドライバーとなっていただろうとも思う。が、この貴族出の天才レーサーが影の努力をする場面は、当時誰も想像出来なかったに違い無い。マシンに乗れば誰よりもアグレッシヴに走り、降りれば常に人生をエンジョイする事を優先した優雅なローマ紳士、それがエリオ・デ・アンジェリスなのである。




「エリオが僕のアイドルだった。あんな風にマシンをドライブ出来たら、といつも思っていたよ」
-'89年/エリオのヘルメット・デザインを模倣するジャン・アレジ-


■"no race, no life" top