| 数年前のある日、新聞紙上(スポーツ紙では無く一般紙)で妙なものを見た。現在アメリカで"ミスター・CART"と呼ばれているマイケル・アンドレッティとその父、インディとF-1のダブル・チャンピオンであるマリオ・アンドレッティが、ドライバー・リストに"アンドレッティ(父)、アンドレッティ(息子)"と表記されていたのだ。ま、確かに"M・アンドレッティ"じゃ二人とも同じだからなのだろうが、更に追い打ちをかける文を発見。"アンサー(父)、アンサー(息子)-アル・アンサー・シニアとアル・アンサー・ジュニア-"、更に極めつけは"フィッティパルディ(叔父)、フィッティパルディ(甥)-エマーソン・フィッティパルディとクリスチャン・フィッティパルディ-"だ。一般紙だから余計に、なのかも知れないがどうにも"ほのぼの"としたものを感じずにはいられなかった。いや、冗談じゃない、父も息子も危険に晒されながら戦っているのである。決してファミリーがのんびりやってるんじゃ無い事は解っていても、何故か釈然としないものを感じていた。そして、解った。その理由は、恐らく世間全体にある"二世"のイメージだ。たとえマイケルが素晴しいレースを戦ったとしても「さすがは偉大な父、マリオの息子だ」と評され、当然多かれ少なかれ存在したであろう"偉大な父のサポート"のおかげで現在レーシング・ドライバーでいられる、と言う、非常に"ゴシップ"的な表現である方がマスコミとしては扱いやすいからなのだ。確かに、マイケル・アンドレッティもクリスチャン・フィッティパルディも父親/叔父の功績無くしてCARTレーサーへの道は開けなかったかも知れない(補足すると、二人ともF-1では成績が残せず、CARTドライバーとしては成功した)が、いざレーシング・カーのシートに座れば後はドライバーたった一人の孤独な戦いである事を忘れてはいけない。彼等はそう言う状況の中で戦い、勝って来たのだ。決して他車がオーバーテイクしようとした瞬間、父の圧力がかかったわけでは無いのだ。 "ミスター・CART"ことマイケル・アンドレッティは'62年10月5日生まれのアメリカ人で、前述の通り父はF-1とインディの両カテゴリーでチャンピオンとなった偉大なレーサーである。ちなみにインディには"元F-1レーサー"と言う人物が多く存在し、ある時期には40歳程度でF-1ドライバーを引退し、オーバル中心のシンプルな形態で競うインディに新たな戦いの場を求めて欧州からアメリカへとやって来るパターンが多かったのは事実だ。口の悪い人間からは"F-1レーサーの墓場"等と言われたりもしたが、'92年に38歳にしてようやく悲願のタイトルを獲り、"無冠の帝王"を返上して F-1を引退したナイジェル・マンセルが翌'93年にあっさりとインディのタイトルを獲得してしまい、更に入れ替わるように'91年の"インディ・チャンピオン"の肩書きを持ってF-1に挑んだマイケル・アンドレッティがチーム・メイトのアイルトン・セナに惨敗し、シーズン途中でチームを解雇される等した為に、より一層「F-1に比べ、インディはレベルが低い」と思われがちなのは否定出来ない。そして、その後アメリカへ戻ったマイケルは復帰したインディでは相変わらずの速さを見せ、F-1では上位争いに加われなかったドライバー達がインディでは堂々活躍するパターンが多く見られた。その中にクリスチャン・フィッティパルディもいる。'71年1月18日生まれの彼はF-1で2度のチャンピオンに輝いたブラジルの英雄、エマーソンの兄でこちらも元F-1ドライバーのウィルソン・フィッティパルディの息子で、F-1では弱小チームで戦う事が多く、'95年にアメリカへ戦いの場を移した。このような流れの中、マイケル同様インディ・チャンプからF-1へと渡って来て見事チャンピオンを獲った二世ドライバーがいる。伝説のフェラーリ・ドライバー、ジル・ビルヌーヴの息子、ジャック・ビルヌーヴがそうだ。'71年4月9日生まれの彼は、父親との比較を極端に嫌うドライバーとしても有名。しかも彼は当時トップ・チームであったウイリアムズ・ルノーに乗り、F-1デビュー戦('96年オーストラリア・グランプリ)でポール・ポジションを獲得、決勝レースもあわや優勝と言う2位(この時はマシンに不可解なトラブルが起こった)、4戦目(スペイン・グランプリ)で初優勝、しかも翌'97年には早くもF-1チャンピオンとなるのである(ちなみに父はチャンピオンにはなっていない)。そしてもう一人、丁度そのジャック・ビルヌーヴのチーム・メイトとして戦った、これまた二世のドライバーがいた。初代モナコ・マイスター、グラハム・ヒルの息子、デイモン・ヒルである。デイモンは、これまで紹介して来た二世ドライバー達とは明らかに違う。何故なら彼は父親のサポートどころか、'75年にグラハム・ヒル自身の操縦中にチーム・クルーを乗せた飛行機が墜落、この事故で他界した父とそのチーム全員の保障等で、妻と15歳のデイモンは資産の全てを奪われて全くの"無一文"となり、そこからF-1世界チャンピオンとなるのである。 デイモンは恐らく世界で最も"過小評価された二世ドライバー"である。父グラハムは'62、'68年のF-1世界チャンピオンで、'66年のインディ500、'72年のル・マン24時間と言う"世界三大レース"を制し、前述の通りモナコ・グランプリを通算5度制覇した"モナコ・マイスター"。ところがヒル家は'75年の飛行機事故で、その責任の一切を負って破産。当時15歳('60年9月17日生まれ)のデイモンはその後バイク便のライダーとして働きながら2輪のレースをやり、F-3やF-3000も全くと言って良い程他人のサポートを受けず(それも不思議な話ではあるが)、'92年にF-1ウイリアムズ・チームのテスト・ドライバーをしている所へ、女性ドライバー、ジョバンナ・アマティの成績不振によって急遽弱小ブラバム・チームからF-1デビュー(あまりの資金の無さから日本のロック・バンド"聖飢魔ll"のデーモン小暮氏が「同名だから」とスポンサードしたのは有名な話)。翌'93年にワールド・チャンピオン、アラン・プロストのチーム・メイトを探していたウイリアムズ・チームがセナやマンセルら"高額なギャラを必要とする"ドライバーを迎えるのを懸念し、テストでプロストに匹敵するタイムを出していたデイモンにそのシートを与える事となった。だが、デイモンはこの年初優勝(ハンガリー・グランプリ)から3連勝する等その才能を発揮。しかし翌'94年、新たなチーム・メイトとなったセナが第4戦で事故死、突然チャンピオン・チームのエース・ドライバーとなったデイモンは最終戦までもつれたミハエル・シューマッハーとのタイトル争いに破れ、敗者の烙印を押される。翌'95年もまた天才シューマッハーの後塵を廃すが、'96年には念願のチャンピオンを獲得、そしてこれが記念すべき史上初の"親子二代F-1チャンピオン"となったのだ。だが、ここまで彼は"ヒル家の息子"として、サーキットで優遇された事はただの一度も無かった筈である。逆に、彼は「ヒルの息子なのに」と言われ続けた後、自らの腕でタイトルを勝ち獲ったのだ。そしてそこには、グラハム・ヒルの息子としてこの世に生を受けた息子の、父への限り無い感謝があった事は言うまでも無い。 勝てば「◯◯の息子が勝った」と言われ、負けても「◯◯の息子なのに負けた」と言われる。しかし最初に記した通り、いざコックピットに座ればそこは誰もがたった一人で戦う場所であり、そのレーシング・ドライバーとしての才能に幾らかの遺伝子が影響を及ぼしていたとしても、後はそのドライバー本人の"戦う意志"と"判断力"、そしてレーサーとしての"本能"の勝負だ。3度のF-1ワールド・チャンピオンに輝く"サー"・ジャック・ブラバムの3人の息子達、ジェフリー、デビッド、ゲイリーはいずれも"父のサポート"でレーシング・ドライバーとなるが、誰一人大成した者はいなかった。2度のタイトルを獲ったジャッキー・スチュワートの息子ポールもまた、F-3まででドライバー生活に終止符を打ち、父とともにチーム・マネージャーへと転身。今年、'79年にフェラーリで王者となったジョディ・シェクターの息子でF-3ドライバーのトーマス・シェクターがジャガーF-1のテスト・ドライバーとなったが、"公衆電話ボックス内で淫らな行為をした"とかナントカで格好のゴシップネタとされ、グランプリ界を追放された。かつて2輪と4輪の両方で王者となったジョン・サーティースは現在67歳、それにしては"遅すぎる"彼の長男、ヘンリー・サーティースは現在11歳でカート・レース歴4年目(なんとジョン自身がカートのメンテナンスを行っているそうだ)。'98、'99年のチャンピオン、ミカ・ハッキネンの生まれたばかりの長男、ヒューゴにはFIAから"未来のワールド・チャンピオン、ヒューゴ・ハッキネン"と書かれた永久パドック・パスがプレゼントされている。"父の世代"である我々は、大いに彼等を見守って行こうと思う。
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