■lap116-"スクーデリア・シューマッハーの頭脳"/ロス・ブラウン&ロリー・バーン-
2004.11.15


'04年のF-1世界選手権は、フェラーリの18戦15勝/6年連続13度目のコンストラクターズ・タイトル獲得/ミハエル・シューマッハー7度目のドライバーズ・タイトル獲得+シーズン最多13勝と言う、完膚無きまでの"圧勝"を遂げた歴史的なシーズンとなった。が、'88年のマクラーレン・ホンダ(アイルトン・セナ/アラン・プロスト)の16戦15勝がドライバー同士のタイトル争いが語り継がれるのに対し、ここ数年のフェラーリによる" チーム・シューマッハー戦略"は常に賛否両論の的である。かつてのエディ・アーバイン、現在のルーベンス・バリチェロが務めるのは明らかな"セカンド・ドライバー"の座であり、フェラーリがエースのシューマッハーをトップでゴールさせる事で"点の取りこぼし"を最小限に食い止めて来た事は事実である。

'96年、低迷を続けるフェラーリのF-1チームを統率するジャン・トッドは2年連続王者、ミハエル・シューマッハーをチームに招聘、奇才ジョン・バーナードの設計によるフェラーリF310で13年振りの王座奪還へ挑んだ。が、シーズン開幕と同時にF310の空力コンセプトに根本的な問題が発覚、更に度重なるマシン・トラブルでライバル、ウィリアムズ・ルノーの後塵を廃す。パオロ・マルティネッリは"初めての"V10エンジンに苦労し、ひとり気を吐く天才シューマッハーが3勝を挙げ、どうにかコンストラクターズ・ランキング2位となるのが限界であった。自身チーム3年目となるトッドは不振の原因と責任を問われ、早急に根本的なチーム改革の必要に迫られる。

王者シューマッハーの抜けた前年のWチャンピオン・チーム、ベネトン・ルノーはドライバーにジャン・アレジ/ゲルハルト・ベルガーと言う前年のフェラーリ・コンビを起用。'92年から実質的な"シューマッハー・スペシャル"を作って来たチーフ・デザイナー、ロリー・バーンとテクニカル・ディレクターのロス・ブラウンは、ドライバーがふたりとも新しくなるこのタイミングでコンセプトを一転し、両ドライバー"乗り易い"マシン製作へ着手。しかし、それ以前にベネトン・チームが抱える"政治的な問題"は大きく、チーム本拠地のイタリア移転、同じルノー・エンジン使用のウィリアムズとの確執等、常にゴシップの絶えない不本意なシーズンとなってしまった。

.....トッドは決断した。'96年シーズンでチームを離脱したバーナードに代わり、新たなマシン・デザイナーにバーンを、そしてそのコンセプトの牽引役となるテクニカル・ディレクターにブラウンを任命したのである。バーンが"創り"、ブラウンが"磨き"、そしてシューマッハーが"走る"。.....それは'94年に非力なフォードV8エンジンでタイトルを獲得した兵共の再集結を意味していた。そしてそれはフェラーリが"チーム・シューマッハー"の意味を受け入れた瞬間であった。しかし、フェラーリにはもはや体裁を保っている余裕等無かった。伝統あるレーシング・チームが形振り構わず目指さなくてはならないもの、それは"勝利"だ。

"スクーデリア・シューマッハー"。いつしかそう呼ばれるようになった現在のスクーデリア・フェラーリの態勢は、時には賞讃され、また時には冷徹な勝利至上主義集団と揶揄される。しかし、現実に彼等に太刀打ち出来るライバルは何処にもいない。今回は'94、'95年とシューマッハーと共にタイトルを獲り、そしてシューマッハーと共に現在の最強軍団の中心を形成するふたりの頭脳、ロリー・バーンとロス・ブラウンの軌跡を振り返って見る事にする。

ロリー・バーンは'44年1月10日、南アフリカのプレトリアにて誕生。幼い頃のバーンは飛行機に興味を持ち、自ら模型や紙飛行機等を作り、そして飛ばす事に明け暮れていた。そしていつしかバーン少年の飛行機熱は過熱し、'60年、16歳の時を皮切りに'61、'63年と"世界手投げグライダー選手権"を3度制覇している。ヨハネスブルグのウィットウォータースタンド大学を卒業し、グライダー設計の道を進もうとしていたバーンは'73年、旅先のイギリスで友人が関わるフォーミュラ・フォード1600のレースに出かけた際、そこで彼等のマシンのモディファイを手伝う事となった。結果的にバーンの手掛けたマシン、ローヤルRP16は大成功を納め、"空を飛ぶ代わりに地面に吸い付く"レーシング・カー設計に興味を持ったバーンはローヤルにチーフ・デザイナーとして正式に加入。'76年にはフォーミュラ・フォード2000の設計も手掛け、'77年にはFF-2000に参戦していたトールマン・モータースポーツとジョイントする。翌'78年、欧州F-2選手権ではマーチやラルトを使用していたトールマンに対し、バーンはオリジナルのF-2マシンを製作、'80年にはブライアン・ヘントン/デレック・ワーウィックを擁してシリーズの完全制覇を成し遂げたのである。これで自信を深めたトールマンは'81年にF-2でエンジン供給していたブライアン・ハートと共にF-1世界選手権に挑戦する事を決定、バーンは26歳の若さでF-1チームのチーフ・デザイナーとなったのである。

ロス・ブラウンは'54年11月23日、イギリス/マンチェスターにて誕生。勉強/研究好きだったブラウンはハーウェル原子力研究所に研修生として身を置く傍ら、レーシング・カーの製作/開発に興味を持ち、'70年代にはマーチのF-3マシンのメカニックを務めていた。完全にレースの虜となったブラウンは原子力研究の道を絶ち、'76年にフランク・ウィリアムズのF-1チームへと加入、世界最高峰のカテゴリーでのレース活動へと自らの生きる道を決めた。その後ブラウンは8年間ウィリアムズに在籍し、'80、'81年には2年連続コンストラクターズ・タイトル獲得に貢献した。しかしカール・ハース率いるフォース・チームの誘いを受け'84年に活動の場をアメリカのインディ・カー・レースへと移し、3年間チーフ・エアロダイナミストとして活躍。その後'87年に欧州へと戻り、F-1アロウズ・チームに加入、'88年にはチームをコンストラクターズ4位へと導いた。しかしまたもここでトム・ウォーキンショウ率いるスポーツ・カー・レースの強豪、TWR(トム・ウォーキンショウ・レーシング)からの参加要請を受け、プロジェクトに参加。ブラウンの才能はデザイン・センターでのマシン・セット・アップに活かされ、'91年のジャガーXJR-14のシリーズ制覇へと繋がって行くのである。

.....一方バーンはその豊かな才能を、結果的には自らをF-1へと導いてくれたトールマンと言う"弱小チーム"の限界(資金/運営能力等含め)によって花開かせる事が出来ずにいた。ハート製ターボ・エンジンの開発もBMWやルノーらトップ・メーカー/チームに遅れを取り、参戦3年目の'83年にようやく初入賞、と言う有り様であった。'84年には前年イギリスF-3を圧倒的な強さで制したブラジルの天才、アイルトン・セナがトールマンからデビューするが、速過ぎる天才はたった1年で名門ロータスへと移籍。'85年にはテオ・ファビが第9戦ドイツでチーム初のポール・ポジションを獲得するが、シーズン序盤にはタイヤ・メーカーとの契約を巡ってトラブルを起し、満足に戦う事は出来なかった。トールマンはこの時同じイタリアのピレリ社とのタイヤ供給契約の仲介を行ったメイン・スポンサー、ベネトン・グループにチームを売却し、トールマンは僅か5年でF-1グランプリの舞台から姿を消す事となってしまった。しかし巨大アパレル・メーカー、ベネトンによる豊富な資金投入は、それまでと比較にならぬ程の開発設備とBMWターボ・エンジンと言う素晴らしい武器をバーンに与える事となった。前年のトールマンTG195・ハートにモディファイを加えた"だけ"の'86年のベネトンB186・BMWは快走し、第15戦メキシコでは新加入のゲルハルト・ベルガーがタイヤ無交換作戦で初優勝、バーンの才能はようやく"結果を出す"と言う形で開花したのである。

.....だが、ベネトンは弱小トールマン・チームをモーター・レーシングの専門家では無い企業が買収した若いチームである事に変わりは無く、'87年にはフォードとの最新型エンジン独占供給契約を結ぶが未勝利に終わり、シリーズ5位。翌'88年は3位となるものの16戦15勝のマクラーレン・ホンダの圧倒的な強さの前に成す術も無くまたも未勝利。'89年はアレッサンドロ・ナニーニが第15戦日本で1位の失格により繰り上がりで初優勝を遂げるが、実力で勝つには程遠くシリーズ4位。.....それでもF-1バブルの絶頂期であったこの頃、時折優勝争いを見せるベネトンに宣伝効果/参戦意義は充分あった筈である。しかしベネトン・グループはそれを良しとせず、F-1ワールド・チャンピオンへの挑戦の為に大幅な組織改革を行う事を企てる。チーム・マネージャーにベネトン・グループよりマネージング能力に長けたフラビオ・ブリアトーレを抜擢、ドライバーには3度の世界王者であるベテランのネルソン・ピケが加入。テクニカル・ディレクターに元マクラーレン/フェラーリのジョン・バーナードを招聘し、バーンとのコンビでライバルを圧倒するマシン創りへと着手した。'90年はナニーニがシーズン中にヘリコプター事故で戦線を離脱する等アクシデントもあったが、第15戦日本ではナニーニの代役、ロベルト・モレノが1位ピケに続く2位でフィニッシュし、チーム初の1-2フィニッシュを達成、最終戦オーストラリアでもピケが勝ち2連勝。チームはマクラーレン・ホンダ、フェラーリ、ウィリアムズ・ルノーと"4強"と言われる存在にまで成長したのである。

しかし、自らが"独裁的且つ個性的な"マシン・デザイナーであったテクニカル・ディレクターのバーナードはしばしばチーフ・デザイナーのバーンと意見が対立。'91年のB191はF-1史上初のハイ・ノーズ+釣り下げ式フロント・ウィングと言う革新的なアイデアを持つマシンだったが、空力開発の方向性に於いて両者の衝突はマシン熟成に致命的な悪影響を及す事は明白であった。結局バーナードはB191発表直後にチームを離脱、第5戦カナダではピケがラッキーな勝利を挙げるが、舵取り役を失ったチーム/マシンはシーズン後半に向けてズルズルと戦闘力を落として行くしか無かった。

.....その頃、ベネトン・チームは水面下である計画を進めていた。スポーツ・カー・レースで圧倒的な強さを誇る常勝軍団、TWRの参画である。レース戦略のノウハウを知り尽くしたこのプロフェッショナル集団をチームに合体させる事により、'80年代初頭に低迷していたマクラーレンを救った、ロン・デニス率いるプロジェクト4のような展開を目論んだのである。ベネトンとTWRの野望は一致し、TWRはまずテクニカル・ディレクターにブラウンを送り込んで来たのである。更に、第11戦ベルギーで衝撃的なデビューを飾ったドイツの新星、ミハエル・シューマッハーをジョーダン・チームから強引に引き入れ、ここに正にシューマッハー/バーン/ブラウンと言う、現在のスクーデリア、いや"チーム・シューマッハー"と言う最強の布陣の土台が完成したのである。

'92年、ベネトンはチーム・ディレクターにTWRの総帥、トム・ウォーキンショウを招き、自らの腹心とも言えるブラウンにマシン開発の方向性を一任した。ブラウンはF-1/インディ・カー/スポーツ・カー等、様々なカテゴリーで培った豊富な経験でチームの向かうべき道を示し、バーンはそれに応える形でのマシン設計/開発を、バーナードと言う"邪魔者"のいない環境で伸び伸びと行った。自身もまたメルセデスのスポーツ・カー・レースでチーム戦略について学んだシューマッハーは23歳の若さでチームを完全に掌握し、デビュー僅か1年と言う'92年第12戦ベルギーで初優勝、それもこの年記録的な勝利数でシーズンを席巻したWタイトル・チーム、ウィリアムズ・ルノーの2台を従えての見事な戦略勝ちを収めたのである。翌'93年、ベネトン+シューマッハーは帝王/アラン・プロストとハイテク装備のウィリアムズ・ルノー勢、天才アイルトン・セナを擁するマクラーレンらを相手に、第14戦ポルトガルでの勝利を初め完走した9戦全て表彰台獲得と言う速さでドライバーズ・ランキング4位を獲得。名実共にトップ・ドライバーとしての地位を不動のものとした。

'94年シーズンは、大きなレギュレーション変更と共に始まった。前年ピークを迎えていたアクティブ・サスペンション/トラクション・コントロール/アンチロック・ブレーキ等の電子制御システム、所謂"ハイテク装備"が一斉に禁止となったのである。と同時に、タンク容量の変更に伴いレース中の給油が10年振りに可能となり、今までタイヤ交換の必要性のみだったピット作業に大きな変革を及す事となった。

.....それまで、究極のハイテク・マシン、ウィリアムズ・ルノー勢に圧倒されていたベネトンに、チャンスが訪れた。"ハイ・ノーズ"と言う次世代エアロダイナミクスを真っ先に研究し続けて来たバーンと、給油を含めたレース・ストラデジーをスポーツ・カー・レースで実戦して来たブラウン。そしてピケ/マンセル/プロストらが去り、セナに対抗しうるドライバーとして油の乗り切った時期を迎えた若きエース、シューマッハー。.....正に、彼等の時代がやって来ていたのである。

開幕戦ブラジル、チャンピオン候補・セナの駆るウィリアムズFW16・ルノーがポール・ポジションからホール・ショットを決め、予選2番手のシューマッハーはスタートをミスし、フェラーリのジャン・アレジに抜かれて3位へ。しかし2周目にはシューマッハーが2位を取り返し、セナとのコンマ数秒のマッチ・レースが展開されて行く。22周目、両者はテール・トゥ・ノーズのまま最初のピット・インを迎える。そして、先にピットを後にしたのはベネトン/シューマッハーだったのである。両チームの作業は、明らかにベネトン側の"ガソリン補給の段取りの速さ"によって決着が着いた。結局セナは逃げるシューマッハーを追い切れず、56周目にスピン、リタイア。ベネトンはブラウンの得意として来た"戦略と作業効率"により、チャンピオン・チームを凌駕したのである。第2戦パシフィック(岡山)はセナのスタートでのクラッシュ〜リタイアによりシューマッハーの独走となり、2連勝。ベネトン/シューマッハーはシーズンを最高の形でスタートした。

.....第3戦サンマリノ・グランプリについては多くを語るまい。ただ、このレース・ウィークに起こった様々なアクシデントにより、FIAは急速に安全面の為のレギュレーション変更、と言う対応に追われる事になり、当然各チームにとっては混乱の原因となって行く事は避けられなかった。次戦モナコまでで開幕4連勝を飾ったベネトン/シューマッハーは、この急速な流れに翻弄されて行く。

.....ウィング翼端板の縮小/エア・ボックスの禁止/市販燃料の使用義務付け/マシン下部のステップド・ボトム化/リア・ウィング多段化の禁止.....。これだけの変更が、第5戦スペインから第9戦ドイツまでのたった2ヶ月間で段階的に施行されて行ったのである。当然裕福なトップ・チームと下位チームでは対応に大きな差が生じ、あまりにも急激な変更に付いて行けず、テスト中に新パーツの不備で大クラッシュを起してしまうケースすら見られた。しかし、その間ベネトンはどのチームよりも効果的に新レギュレーションに対応して見せ、逆にセナを失ったディフェンディング・チャンピオン、ウィリアムズの方が混乱していた。更に急遽セナに代わってタイトル争いを繰り広げる事となったデイモン・ヒルは度々シューマッハーとサーキット内外で"衝突"し、選手権は決して良いムードで進行していたとは言えなかった。

.....更に、幾つかのライバル・チームから「ベネトンは禁止された筈のトラクション・コントロールを使用しているのでは無いか」と言う告発があり、第9戦ドイツではシューマッハーのチーム・メイト、ヨス・フェルスタッペン車がピット作業中に火災を起し、これによりベネトンが給油装置に違法な改造を施していた、との疑惑が持ち上がる。FIAは調査の結果、両件に付いてベネトンを"有罪"とし、罰金等の処置を行った。更に、ヒルとの感情的な激突から第8戦イギリスでシューマッハーがフォーメイション・ラップ中にヒルを抜いてしまい、FIAはこのペナルティ処置(黒旗提示〜ピット・ストップ)にチームが従わなかった、として2位でゴールしたシューマッハーをレース後失格とし、第11戦ベルギーでは優勝したにも関わらず、レース後の車検でステップド・ボトム規定によるマシン下部の板の厚みが規定に満たないとしてまたも失格、チームは「レース中に縁石で削れた不可抗力」を主張したが受け入れられず、シューマッハーは第12戦イタリア/第13戦ポルトガルの2戦を欠場、と言うペナルティ処置を受けてしまうのである。

.....これはもはや"ベネトン・バッシング"であった。歴史と伝統のある名門チームを守りたいFIAが、"新興成力"であるベネトンがシーズンを席巻する事を良しとせず、シューマッハー/ベネトンの選手権圧勝を阻止する為にレース結果をコントロールしているのでは、と言う見方さえ存在した。かくしてヒル/ウィリアムズ勢はシューマッハー不在の間に勝ち星を挙げ、FIAの"目論み通り"、両者は1点差でシーズン最終戦を迎える事となるのである。

.....初めてのチャンピオン・シップ獲得を迎えるベネトン/シューマッハーは"ぶざま"であった。最終戦オーストラリア、36周目に猛追するヒルに焦ったトップのシューマッハーがコース・アウト、慌ててコースへ戻った所でインへ入って来たヒルと接触、両者リタイア。しかしこれによりシューマッハーの'94年選手権制覇が決定。.....マシン・レギュレーションが変わり、死亡事故が起き、そして毎戦のように行われるテクニカル・レギュレーションの変更や更に数多くのペナルティ.....。それでも"チーム・シューマッハー"は全ての敵と対峙し、そして勝って魅せたのである。

では、彼等の勝因は何か。最強のライバル、ウィリアムズは前年までの最大のアドバンテージであったハイテク装備の一斉禁止に伴い、パトリック・ヘッド/エイドリアン・ニューウィー率いるデザイン・チームは混乱した。反対にベネトンは他チームの一歩先を行ったバーンのハイ・ノーズ仕様と言うエアロダイナミクス分野で一日の長を得た、と言える。更に第3戦イモラ以降、高速コースには仮設シケインが設けられ、やみくもにトップ・スピードに頼るよりも低速からのトルク性能が求められる機会が多くなり、本来非力なフォードV8がこれによってディスアドバンテージを解消した、とも考えられる。またドライバーもマンセル〜プロスト〜セナと続いて来たウィリアムズの最強ベテラン布陣に対し、チーム4年目のシューマッハーが完全にチームからの信頼を得るエースへと成長していた事も、ブラウンのレース戦略に大きな確信と幅を齎したのである。同時に、ウィリアムズにはセナの死と言うネガティヴな要素も存在していた事も考慮しなくてはいけない。とにかくウィリアムズには、この3年間の間"ドライバーの好みのセット・アップが容易な乗り易いマシン"とは程遠い開発が続いていた事は事実である。

翌'95年、ベネトンはウィリアムズに独占的に供給されていた最新型ルノーV10エンジンを獲得、'94年に獲れなかったコンストラクターズ・タイトル獲得へ向けて更に志気を高めて行く。

'95年シーズンは、各チームが前年からの大幅なレギュレーション変更によって失われた"スピード"を取り戻す為の戦いの場となった。その後流行する事となるターニング・ベインやフロント・ウィングのバーチカル・スプリッターや、逆に日本では"チョンマゲ・ウィング"と呼ばれた小型ウィングや大型化するマルチ・リア・ウィング等、決して美しいとは言えない形でのデザイナー達の混乱振りがマシン・シェイプに乱発したのである。しかし、ベネトンはようやくハイ・パワーのルノーV10エンジンを得て、バーンは前年の正常進化型のB195を投入。ブラウンはライバル・チームの混乱を尻目に開発方向を見失わないようデザイン・チームを指揮し、シーズン序盤こそルノーRS7とのマッチングによる初期トラブルに見舞われたものの、結果的にはライバルを寄せ付けず、17戦11勝(シューマッハー9勝/ジョニー・ハーバート2勝)を挙げてチーム初のWタイトル獲得を成し遂げたのである。

.....その頃、イタリア/マラネロでは"紅い帝国"フェラーリのジャン・トッドがひとつの、そして大きな計画を実現しようとしていた。トッドは'93年から"跳馬復建"を一任され、フェラーリのスポーティング・ディレクターに就任していた。だがマクラーレンやウィリアムズ、更にはベネトンと言う言わば多国籍軍の前に往年の輝きを取り戻す事が出来ず、ルカ・モンテゼモーロ社長の指名でプジョーのスポーツ・カー・チームから招聘され、フェラーリの全てを一任されていたのである。それまで、フェラーリは'90年に'83年以来のタイトル獲得に後一歩まで迫ったが叶わず、それ以後の成績は低迷するばかりとなり、平均して年間1勝程度の成績しか残せないでいた。そして今のままの状況が続けば、グランプリ50年の歴史を持つ名門のF-1撤退すらあり得る状況にまで追い込まれていたのである。トッドの計画とはこうだ。-スクーデリア・シューマッハーを創る-.....シューマッハー/バーン/ブラウンによるベネトンWタイトル・トリオを、そのままマラネロに引き込む事だったのである。

'95年第11戦ベルギー・グランプリ、シューマッハーは予選16位から突如降り始めた雨、通称スパ・ウェザーに翻弄されたライバル達を尻目にただひとりドライ・タイヤのまま快走、見事に逆転優勝を飾っていた。そしてこの日、フェラーリは'96年からのシューマッハー移籍を発表したのである。更に翌年にはベネトンからバーン/ブラウンをマラネロへと招き、かくしてスクーデリアは"チーム・シューマッハー"となった。それ以降のフェラーリについては御存じの通りである。'97、'98年と最終戦までタイトルを争いながらも惜敗したが、'99年にはシューマッハーが骨折/6戦欠場しながらも17年振りのコンストラクターズ・タイトルを獲り、そして'00年からは5年連続のWタイトル"完全制覇"中なのである。

ロリー・バーンの最大の魅力は本文中にもあるように"一歩先の開発"であろう。バーンがフェラーリに来て、最初に全権を握ったマシンは'98年のF300、このマシンには翌年多くのライバル達が模倣する"上方排気システム"が採用されていた。各チームのデザイナー達がマシンのリア部の乱気流に頭を痛めていた頃、バーンはその根源となるリア・タイヤとエグゾーストの問題を見事に解決したのである。更に大幅なレギュレーション変更のあった'01年のF2001では、他チームが全てフェラーリのハイ・ノーズを模倣する中、本家フェラーリだけがロー・ノーズを採用、同時に各サーキット特性に合わせた3Dウィングを投入し、マシン前部のエアロダイナミクスで圧倒的なアドバンテージを得たのである。現在、バーンに対抗しうるマシン・デザイナーはいない。しいて挙げるならマクラーレンのエイドリアン・ニューウィーがいるが、ニューウィーの場合は'03年のMP4/18でバーン同様革新的なエアロダイナミクスとメカニカル・グリップを目指したが、結局信頼性とドライバビリティの問題を解決出来ず、'04年第14戦ベルギーでのMP4/19Bで復活の勝利まで、約2年を棒に振ってしまった。その遅れを取り戻す為の時間に、バーンは着々と新しいアイデアを風洞に入れて実験しているのである。

ブラウンがフェラーリにやって来た最大のメリット、それはチーム内の"秩序"である。トッド言わく「ひとつの目標に向かって全員が動く。当たり前の事だが、それを可能にしたのがロスだ」と言う程、ブラウンの戦略/コンセプトには説得力がある。'97年ベルギー・グランプリでは、スパ・フランコルシャン名物"スパ・ウェザー"に各チームが翻弄された。スタートを目前にしてサーキットはみるみる黒い雨雲に覆われ、各チーム/ドライバーはグリッド上でウェット・タイヤへと交換、しかしシューマッハーだけはピットでブラウンと共に戦略を練り、彼等はウェット・セッティングのマシンにインターミディエイトのハード・タイヤをチョイス、レースはペース・カー先導によりスタート、正式なスタートが3周後に切られた時、雨は止んで陽が射していた。予選3番手のシューマッハーはジャン・アレジ(ベネトン・ルノー)とジャック・ビルヌーヴ(ウィリアムズ・ルノー)をパスし、ライバルよりも1周5秒近いハイ・ペースでトップを独走。ライバル達がタイヤ交換の為に緊急ピット・インするのを尻目にシューマッハーはピット・ストップを予定通り行い、最も効率の良い勝利を挙げた。反対に'98年第12戦ハンガリーでは予選3番手から抜き所の全く無いハンガロリンクで、シューマッハーとブラウンのとんでも無い無線のやりとりがあった。1回目のピット・ストップ後、シューマッハーは4番手走行中。「ロス、どうすればトップに立てる?」「このままじゃ無理だ」「ピット・ストップを1回増やし、スプリントしたらどうだろう」「その為には.....2回目と3回目のピット・インの間(19周)に25秒リードを築けばOKだ」「解った、やって見よう」.....結果、シューマッハーは定石通り2回ストップ作戦を取るマクラーレン・メルセデスのデビッド・クルサードに27秒の差を付け、3回目のピット・ストップを敢行して見事優勝。毎周が予選アタック並のハイ・ペース走行と、ひとつのミスも許されぬピット・ワークの正確さ。.....こんな事が実際に出来るチームは他にひとつも無いのである。

バーンは週末にフェラーリと共にグランプリに参加しする事は滅多に無い。全く別の場所でテストをしているか、褄と3歳になる息子と大切な時間を過ごしている事の方が多い。「イモラやモンツァのレースには行くよ。近いからね。けれど、実際レースの現場に行ってもあまりやる事は無いんだ。むしろそれはロスの仕事であって、僕の仕事では無いからね」いつも冷静なバーンは、実は何度かレーシング・カー設計を引退しようと考えた事がある。元々フェラーリに加入する'97年にはタイのプーケットでスキューバ・ダイビング・スクールを始めようとしていた。しかし、トッドはシューマッハーと共にバーンの元を訪れ、彼を説得。これによって再びバーンのモチベーションが復活し、引退を思い止まった。'04年第4戦サンマリノ・グランプリでは"たまたま近いから"レースの現場にやって来たバーンが優勝したシューマッハーと共に表彰台へと登り、シャンパンまみれになってシューマッハーから祝福と感謝のキスを受けていたのが印象的であった。

ブラウンは初めてマラネロにやって来た時、相当な覚悟を決めて来たのだと言う。「ベネトンはとてもフレンドリーなチームだったが、きっと歴史ある名門フェラーリではそう言った"居心地の良さ"のようなものは無いだろうと思っていたんだ。しかし、実際にはこのチームはとても家族的で、結束の堅い兄弟達のようだったんだ」その兄弟達を率いるブラウンには、前述の'97年ベルギーや'98年ハンガリーのような、一見誰もが「そいつはいくら何でも無理なんじゃ無いか」と思うような戦略でも、確信を持ってチームをひとつの目標に向かわせると言う責任がのしかかる。「それもこれも、ミハエルと言う、実現不可能な事をやって見せるドライバーがいるから可能な事だがね。彼は私が知る限り、全てのレースで100〜110%の走りをする。私はそれを信じ、皆にも信じろと言うだけなんだよ」頭脳派のブラウンが安心してシューマッハーの走りを見守っている時、それはとても簡単に解る。何故ならその時、ブラウンはピット・ウォールで人目も憚らず、バナナを食べているからだ。

.....'94、'95年と、"伏兵"でしか無かったベネトンにタイトルを齎した"チーム・シューマッハー"の立役者、ロス・ブラウンとロリー・バーン。彼等はマラネロで再びシューマッハーの元に集結し、そのチーム・ワークを存分に披露し続けている。既にシューマッハー、バーン、ブラウン、更にトッドやルーベンス・バリチェロのいずれも'06年末までのフェラーリ残留が決定しており、我々は少なくとも後2年は"スクーデリア・シューマッハー"の快進撃を覚悟しなくてならない。



「僕達は"ファミリー"なんだ!!」
-'04年/ミハエル・シューマッハー-


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