■lap115-"F-1ウィナーズ・クラブへようこそ"/たったひとつの尊い勝利-
2004.11.01


'04年10月10日、F-1第17戦日本グランプリでトヨタ・チームのドライバー、オリビエ・パニスが現役を引退し、11年間のF-1ドライバー生活に終止符を打った。'94年のデビュー以来、2度の大きなクラッシュやテスト・ドライバー時代等の波乱万丈の出来事を含め、近代F-1グランプリに於いて11年もの間シートを獲得したのはパニスのレーシング・ドライバーとしての実力が正当に評価された証に他ならない。その間の成績は142戦1勝。'96年第6戦、伝統のモナコ・グランプリをリジェ・無限で制した価値ある1勝が光る。来季トヨタの開発ドライバーとしての契約を決めたパニスには正ドライバーとなるラルフ・シューマッハー/ヤルノ・トゥルーリに何らかのトラブルがあった際、代役出場のチャンスはあるかも知れない。しかし現在のトヨタの実力を考えると、38歳のパニスがF-1で挙げた勝利は"僅かに"ひとつだった事も確定した、と考えて良いだろう。

.....'50年に始まったF-1世界選手権シリーズで、"ウィナーズ・クラブ"入りした者、つまりレースで勝利を挙げた者は全部で85人。その内"キャリア通算1勝"と言うドライバーは現役を含めて22人いる('50〜'60年までインディ500レースがF-1世界選手権のひとつとして開催されていたが、ここでは除外する)。例え1度でも、勝ったドライバーと勝てなかったドライバーにはイメージ的にも明らかな差が存在する。その勝利が運なのか、それとも実力による結果なのかはまちまちだが、世界最高峰のF-1グランプリで彼等が勝利した事は紛れも無い事実である。その尊い1勝に、様々なドラマが見え隠れする。

元々世界選手権としての開催以前から行われていたF-1、'50年の初レースでは殆どのドライバーが継続参戦となり、'50年以前の勝利がここにカウントされない故に記録上は1勝だが既に複数の勝利を挙げていたドライバーももちろんいる。が、ここでは'50年の世界選手権制定をスタートとして年代の古い順に並べる事とする。下記の表は、ドライバー(参戦年)/優勝レース/優勝時の所属チーム、とした。

 ルイジ・ファジオリ('50〜'51年)/'51年第4戦フランス/アルファロメオ
 
ピエロ・タルフィ('50〜'52/'54〜'56年)/'52年第1戦スイス/フェラーリ
 
ルイジ・ムッソ('53〜'58年)/'56年第1戦アルゼンチン/フェラーリ・ランチア
 
ヨアキム・ボニエ('57〜'71年)/'59年第3戦オランダ/BRM
 
ジャンカルロ・バゲッティ('61〜'67年)/'61年第4戦フランス/フェラーリ
 
イネス・アイルランド('59〜'66年)/'61年第8戦アメリカ/ロータス・クライマックス
 
ロレンツォ・バンディーニ('61〜'67年)/'64年第7戦オーストリア/フェラーリ
 
リッチー・ギンサー('60〜'66年)/'65年第10戦メキシコ/ホンダ
 
ルドビコ・スカルフィオッティ('63〜'68年)/'66年第7戦イタリア/フェラーリ
 
ピーター・ゲシン('70〜'74年)/'71年第9戦イタリア/BRM
 
フランソワ・セベール('69〜'73年)/'71年第11戦アメリカ/ティレル・フォード
 
ジャン・ピエール・ベルトワーズ('66〜'74年)/'72年第4戦モナコ/BRM
 
カルロス・パーチェ('72〜'77年)/'75年第2戦ブラジル/ブラバム・フォード
 
ヨッヘン・マス('73〜'82年)/'75年第4戦スペイン/マクラーレン・フォード
 
ヴィットリオ・ブランビラ('74〜'80年)/'75年第12戦オーストリア/マーチ・フォード
 
グンナー・ニルソン('76〜'77年)/'77年第7戦ベルギー/ロータス・フォード
 
アレッサンドロ・ナニーニ('86〜'90年)/'89年第15戦日本/ベネトン・フォード
 
ジャン・アレジ('89〜'01年)/'95年第6戦カナダ/フェラーリ
 
オリビエ・パニス('94〜'99/'01〜'04年)/'96年第6戦モナコ/リジェ・無限
 
ジャンカルロ・フィジケラ('96年〜)/'03年第3戦ブラジル/ジョーダン・フォード
 
フェルナンド・アロンソ('01/'03年〜)/'03年第13戦ハンガリー/ルノー
 
ヤルノ・トゥルーリ('97年〜)/'04年第6戦モナコ/ルノー

.....この内、パニスを含めた現役4人を除いた18人のドライバーの中で、志し半ばでその生涯を閉じた/或いは再起不能の傷を負った者が実に半数の9人(内死亡8人)もいる。ファジオリは'31年にデビューし、'50年の世界選手権スタート以前にグランプリで6勝を記録、'51年はアルファのエースであるファン・マヌエル・ファンジオとのマシン・シェア(交代で乗る方式)ながら53歳での初優勝を記録、しかし翌'52年にスポーツ・カー・レース中の事故で死亡、享年54歳。ムッソは'58年第6戦フランスで33歳の若さで事故死。ボニエは'72年のル・マン24時間のレース中に死亡、42歳。バンディーニは'67年第2戦モナコでマシンが大破炎上し、32歳の生涯を閉じた。スカルフィオッティは'68年にヒルクライムの練習走行中にクラッシュ、享年34歳。セベールは翌年から世界王者ジャッキー・スチュワート引退後の後任、と言うシートが決定していながら'73年最終第15戦アメリカでガードレールにクラッシュし、28年の短い生涯を閉じた。パーチェは'77年の飛行機事故で帰らぬ人となった。享年33歳。ニルソンは初勝利直後に癌に侵されている事が判明し、闘病の甲斐無く翌'78年に29歳の若さで死去。また、ナニーニは初優勝の1年後にヘリコプター事故で片腕切断の重傷を負い、選手生命を断たれている。こうした状況から、この中の殆どのドライバーは大いなる才能に恵まれ、それ以降も勝利を重ねる資質を充分に兼ね備えていた、と言える。

.....ではここで、22人の中からある意味"両極端"とも言えるふたりのケースをまず分析しよう。名門チームの"第3ドライバー" としてチーム・プレーに徹したベテランと、次代のエースとして期待されながら不運に泣いた天才である。

F-1史上最初の1勝ドライバーとなったファジオリは、前述のようにアルファロメオのワークス・ドライバーとしてファンジオ/ジュゼッペ・ファリーナと共に'50年シーズンを迎えた(ファンジオ/ファリーナ/ファジオリの3人は頭文字を取って"アルファの3F"と呼ばれていた)。アルファにとって、既に52歳だったファジオリはマセラッティから移籍して来た48歳のファンジオと、世界選手権スタート時のアルファのエース、43歳のファリーナに次ぐ3番目のドライバーであった。アルファは当然ファンジオ/ファリーナを優先し、単純に言ってファジオリに勝利のチャンスは与えられていなかったに等しかったのである。結果的に'50年の第一回F-1世界選手権は全6戦(第3戦インディ500は除外する)を両者が3勝ずつ分け合い、3ポイント差でファリーナが制した。しかし特筆すべき点は、ファリーナが6戦中3回、ファンジオが2回リタイアで無得点だったのに対し、ファジオリは第2戦モナコでリタイアした以外全て表彰台(2位4回/3位1回)と言う抜群の安定感を見せたのである。そして'51年第4戦フランスでファンジオと交代でアルファロメオ156を操り、フェラーリ勢の追撃をかわして優勝を飾ったのである。更に、アルファを離脱したファジオリのF-1キャリアはここで終わり、結果的に'50年の開幕戦から僅か7戦のみの出走で勝利を挙げたドライバーとして記録される事になる。もっとも、'50年のF-1世界選手権制定以前から優勝ドライバーであったファジオリにとって、ファンジオとのシェアによるハーフ・ポイントのレースは決して特筆すべきレースでは無かっただろう。ファジオリの1勝はあくまでも記録上の数字に過ぎない。

対称的に、"未来のチャンピオン"と言われながら13年間/201戦を戦って1勝しか出来なかったドライバーがいる。ファジオリと違い、読者の皆さんの記憶にも残っている筈のその人はジャン・アレジである。アレジは'89年第7戦フランス・グランプリにティレル・フォードで代役デビューし、その年の国際F-3000タイトルを引っさげて翌'90年から同チームでフル参戦した。開幕戦アメリカではマクラーレン・ホンダのアイルトン・セナと大バトルの末2位となり、第4戦モナコでもセナに次ぐ2位を獲得。"驚異の新人"と注目を浴び、ウィリアムズ・ルノー/フェラーリらトップ・チームがアレジ争奪戦を繰り広げた。が、フェラーリ入りを決めたアレジを待っていたのはフェラーリの歴史的な"低迷"期間であった。'90年、アレジが移籍を決めた時フェラーリはマクラーレン・ホンダとタイトル争いの真っ最中、一方のウィリアムズは2チームに大きく離され、ベネトン・フォードとシリーズ3位の座を争う状況であった。しかし丁度アレジがフェラーリに加入した'91年から立場は逆転し、ウィリアムズ・ルノーは'92〜'93年にWタイトルを獲得、反対にフェラーリは未勝利記録を更新し続けてしまうのである。結局アレジはフェラーリ最終年となった'95年第6戦カナダで悲願の初勝利を挙げるが、それ以前にトップ快走中にマシン・トラブルでリタイアする事があまりにも多く、人々はアレジに同情すらしていたのである。翌年、2年連続チャンピオンとなったミハエル・シューマッハーと入れ代わるようにベネトン・ルノーへ移籍するが、今度はベネトンが低迷、皮肉にもフェラーリは復活を遂げる。その後中堅チームを渡り歩いたアレジは'01年にF-1を引退。現在もDTM(ドイツ・ツーリング・カー選手権)に参戦するが、201戦1勝のアレジの2位フィニッシュは実に16回を数える。"運"のひとことでは片付けられないが、'91年にフェラーリでは無く、もしもウィリアムズに移籍していたら、デビュー当時の人々の予想は当っていたかも知れない。

.....次に、アレジ同様将来を有望視され、参戦チームにも恵まれながら不慮の死を遂げたふたりのケースを紹介しよう。フランソワ・セベールとグンナー・ニルソンである。

フランソワ・セベールは'68年のフランスF-3選手権を制し、'69年第7戦ドイツ・グランプリにF-2マシンで参戦、翌'70年ティレル・チームに加入し、第5戦オランダから正式にF-1デビュー。前年のワールド・チャンピオン、ジャッキー・スチュワートのNo.2として腕を磨き、非凡な才能を発揮。第10戦イタリアで6位初入賞、翌'71年は第5戦フランス/第6戦ドイツでスチュワートと1-2フィニッシュを決め、最終戦ワトキンズグレンのアメリカ・グランプリでレース序盤からリードを守り、フル参戦初年度にして初優勝を飾った。'73年に3度目のタイトルを決めたスチュワートが引退を決意し、ティレル・チームの未来はセベールに託される事となった。甘いルックスの持ち主でもあったセベールはフランスの大女優ブリジット・バルドーとの交際もあり国際的な人気を得、大スターとしての道を歩んでいた。が、最終戦アメリカの予選、自身初優勝の地ワトキンズグレンでセベールのマシンは挙動を乱してガードレールに激突、反動で反対側のガードレール上にマシンが底を上にして落下、セベールは即死した。未来のワールド・チャンプは記録上僅か1勝でこの世を去ってしまったのである。原因は定かでは無いが、セベールのドライビング・ミスによるものでは無いと言われている。また、この事故を機にスチュワートはサーキットの安全性についてFIAと戦い始め、その後もレース/サーキットの事故対策の為に活動している。

スウェーデン人のグンナー・ニルソンは'75年にイギリスF-3王者となり、'76年第2戦南アフリカ・グランプリでロニー・ピーターソンに代わってロータス・フォードからF-1デビューした。当時ロータスは奇才コーリン・チャップマンによるグランド・エフェクト思想による独創的なマシン設計に傾倒しており、不馴れな新人ドライバーには決して扱い易いマシンでは無かったが、デビュー3戦目の第4戦スペインで初入賞を3位表彰台で飾る。第11戦オーストリアでも3位を獲得したニルソンはこの年4度の入賞を果たし、センセーショナルなデビュー・イヤーとなった。翌'77年第7戦、雨のベルギー/ゾルダーでエースのマリオ・アンドレッティがスタート直後にリタイア、2年目のニルソンがロータス・チームの期待に応え、終盤フェラーリのニキ・ラウダをパスしてトップに立ち、独走で初優勝を飾ったのである。ニルソンは表彰台で子供のようにはしゃいだ。しかし将来を有望視されていたニルソンは第15戦アメリカ・グランプリの際、コックピット内で大腿部に激痛を感じた。が、クルーがシート・ベルトをきつく締め過ぎたせいだと思ったニルソンはそのまま放置、翌'78年2月になって異変に気付き、病院で検査を受けた。その結果ニルソンの身体は癌に侵されている事が解り、ロンドンのチャーリングクロス病院で闘病生活に入ったが10月20日に治療の甲斐無く29歳の若さで死去。自らの病状を悟っていたニルソンは発覚から死亡までの8ヶ月程の間、私財のほぼ全てを注ぎ込んで癌治療基金キャンペーンを展開、ニルソンの入院していたチャーリングクロス病院には今も彼の設立した基金制度が存在している。

.....セベールとニルソンのふたりには共通している要素がある。それは、当時の参戦チーム(ティレル/ロータス)が明らかなエース・ドライバー制度を取っており、若かったセベールもニルソンも当時はまだNo.1ドライバー(スチュワート/アンドレッティ)のサポート役であり、エースに何らかのトラブルが生じた際に始めて勝利のチャンスが訪れる立場にいた、と言う現状である。そして、彼等は共にそのチャンスをモノにし、実力でグランプリに勝利出来る亊を証明してみせた。彼等に早過ぎる死が訪れていなかったら、F-1ワールド・チャンピオンの歴史は間違い無く違ったものになっていただろう。それ程彼等の記録した1勝は力強く、人々の記憶に残るものとなっている。

さて、チーム態勢の話が出たところで、今度は22例の1勝組を、マシン/チーム側から分析する事にしよう。まず、気が付くのは'52年のタルフィから'95年のアレジまで、全22例中6例がフェラーリ・ドライバーである事だ。2番目はBRM(3例)、3番目がロータスとルノー(2例)となり、更にバゲッティ('61年)/バンディーニ('64年)/スカルフィオッティ('66年)と、'60年代に3人もの1勝フェラーリ・ドライバーが密集している。彼等以外に'60年代にフェラーリを駆ったドライバーを並べてみると、興味深い事実が浮き上がって来る。

 フロイラン・ゴンザレス (0勝)
 ウォルフガング・フォン・トリップス (2勝)
 クルフ・アリソン (0勝)
 オリビエ・ジャンドビアン (0勝)
 リッチー・ギンサー (0勝)
 フィル・ヒル (3勝/'61年王者)
 ウィリー・メルス (0勝)
 リカルド・ロドリゲス (0勝)
 ペドロ・ロドリゲス (0勝)
 ジョン・サーティース (5勝/'64年王者)
 ボブ・ボンデュラント (0勝)
 マイク・パークス (0勝)
 クリス・エイモン (0勝)
 ジャナサン・ウィリアムズ (0勝)
 デレック・ベル (0勝)
 ジャッキー・イクス (6勝)
 アンドレア・デ・アダミッチ (0勝)
 エルネスト・ブランビラ (0勝)
    *( )内はいずれも'60年代フェラーリでの成績

.....総勢21名の'60年代フェラーリ・ドライバーの内、フォン・トリップス/ヒル/サーティース/イクスに前述の3人を加えた7人以外、誰もグランプリに勝利していないのである。この間フェラーリのタイトル獲得は'61年のヒルと'64年のサーティースの2度だけだが、'60年代はクーパー/BRM/ロータス/ブラバムらイギリス系のコンストラクターが活躍した年代である。ロータスはモノコック・マシンを成功へと導き、3リッター・エンジン時代はレプコ(ブラバムに搭載)が制した。反対に'50年代を席巻したフェラーリ/アルファ/マセラッティらイタリア勢は苦戦の時代へと突入していたのである。つまり、'60年代当時にフェラーリで勝利を挙げると言う事はとてつもない偉業と言っても過言では無い。'95年のアレジも含め、名門フェラーリには歴史的に見て実力派ドライバーが低迷期に呑み込まれるケースが多かった、と言う結論が導き出されるのである。

.....さて、次に考えるのは「果たしてその勝利は真の勝利か?」と言う疑問の残るケースである。マスとブランビラ(共に'75年)のケースは、いずれも"クラッシュ車が続出した為レース途中で赤旗中止となり、その時点でトップにいたもの"と言う"ケチ"が付いているのだ。

ドイツ出身のマスは元々ツーリング・カー・レースを得意としていたが、'73年にF-2選手権でシリーズ2位となったのを機にフォーミュラ・カーに転向、同年サーティースからスポット・デビューした。2年目の'74年、チーム内紛でドライバー交代の続くマクラーレンに第14戦カナダから合流、翌'75年はそのままエマーソン・フィッティパルディのチーム・メイトとして残留した。'75年第4戦スペイン/モンジュイック市街地レース、マスは予選11番手からスタート、レースは序盤に7台のマシンがクラッシュでリタイア、更に25周目にトップを走っていたロルフ・シュトメレン(ヒル・フォード)が観客を巻き込む大クラッシュを起し、5名が死亡、シュトメレン自身も重傷を負った。このアクシデントで29周目にレースは中止され、直前にスロットルを緩めたロータス・フォードのジャッキー・イクスをオーバー・テイクしていたマスが勝者となったのである。

ブランビラは'72年にイタリアF-3を制し、'73年にF-2へとステップ・アップするが、ヘスケスへと移籍したジェイムズ・ハントの後釜として第3戦南アフリカ・グランプリでマーチからF-1デビュー。翌'75年第12戦オーストリア・グランプリは豪雨に見舞われ、8台が途中リタイア。19周目に予選8番手のブランビラがトップに立つが、主催者はこれ以上の走行は危険と判断、予定の半分の29周でレース終了を決定。2位ハント(ヘスケス・フォード)はピット作業により30秒程ブランビラから遅れており、追撃を断念。これにより29周目にブランビラがトップでチェッカーを受け、喜びのあまり両手でガッツ・ポーズをしたブランビラはそのままウォールにクラッシュ、表彰台では無く病院へと向かう事となったのは有名な話である。

.....マス/ブランビラの共通点は前述のように"レース中断による勝者"と言う部分である。つまり、本来予定されていた走行距離をこなす事無く、いずれも約半分でレースが終了している為、意地悪な見方をすればレースが最後まで続行されていたら結果はどうだったのか、と言う疑問が残る。彼等はレギュレーションにより獲得ポイントも半分となり、その価値も半減した印象が強い。次に、両レースの完走率/内容である。マスの'75年スペインは完走8台、しかし予選11位のマスの前でスタートしたトップ・ドライバー達は殆どが序盤にリタイアしており、更に女性ドライバー、レッラ・ロンバルディがF-1史上初となる女性による6位入賞/ポイント獲得を成し遂げている。この辺の内容は明らかにマスの勝利に"ケチ"が付いている原因である。が、対称的にブランビラの'75年オーストリアは18台が完走。しかし実際にはその殆どが濡れた路面でアクア・プレーニング現象と戦っており、前走車との間隔を大きく開けて走らざるを得なかった為に、バトルが起きなかったのである。しかし、"雨の魔術師"の異名を持つブランビラが実際に雨のレースを得意としていたのは事実である。

.....ちなみにマスはその後中堅チームを渡り歩き、'82年第5戦ベルギーの予選中、アタックを終えてスロー走行しているところへジル・ビルヌーヴのフェラーリが追突、ビルヌーヴは帰らぬ人となった。マスはこの一件で「フォーミュラ・カーはもうコリゴリだ」と'82年いっぱいで引退し、その後メルセデスのグループCプロジェクトで活躍、ミハエル・シューマッハー/ハインツ・ハラルト・フレンツェン/カール・ヴェンドリンガーらを育て挙げた事で有名である。ブランビラは'77年にサーティースに移籍し、'78年第14戦イタリアでロニー・ピーターソン(ロータス・フォード)の死亡事故に巻き込まれて頭部を負傷、その後アルファロメオでスポット参戦するが結局後遺症に苦しみ'80年に引退、'01年に心臓発作の為死去している。どちらも、F-1グランプリ・ウィナーとして記録されている事は確かである。

.....さて、これらと良く似たケースを御記憶の方も多いだろう。昨年の第3戦ブラジルの勝者、ジャンカルロ・フィジケラである。現在のF-1グランプリをリアル・タイムで観ている大部分の人のフィジケラ観はこうだ。「速いけれど運に恵まれない」しかし、その方程式は10年前のアレジにも当てはまってしまうのである。

フィジケラの勝因は明らかである。一般的に言われているように・大雨でリタイア続出による混乱、・ブリヂストンのウェット・タイヤのグリップ力、・レース中断と判定のタイミング、である。もちろん、キミ・ライコネン(マクラーレン・メルセデス)を豪快にオーバー・テイクしたフィジケラの実力を疑う余地は無い。しかし、これらの特殊要素無しで'03年のジョーダンEJ13・フォードに勝機があった筈も無く、様々な要因とフィジケラの実力がタイミング良く一致した結果以外のなにものでも無い。フィジケラは常に「加入するチームが低迷期を迎える」と言う悪い流れと戦って来たが、勝機の無い'03年のジョーダンで勝った実力は本物である。そう言った意味では、アレジよりもインパクトが強い。来季ルノーへと"出戻る"フィジケラだが、またこの悪い流れに呑まれない事を祈る。ただでさえ、初優勝の判定がレース終了5日後となって"ケチ"が付いているのである。

.....もうひとつ興味深いデータがある。なんと、'77年のニルソンから'89年のナニーニまでの12年間、キャリア1勝で終わったドライバーがひとりも存在しないのである。'90年に片腕切断と言う再起不能のアクシデントで1勝ドライバーとなったナニーニは新生ベネトンに賭け、フェラーリからのオファーを断った直後の事故であった。そして怪我をした次戦からベネトンは2連勝。運命の悪戯がナニーニを1勝ドライバーで終わらせてしまった。そう言う意味では'95年のアレジまでの18年間、キャリア1勝ドライバーが存在しなかったと考えても良い程である。そしてこの間と言えばズバリ"ドライバー豊作"の時代でもある。ニキ・ラウダ/アラン・ジョーンズ/ネルソン・ピケ/ジョディ・シェクター/ケケ・ロズベルグ/アラン・プロスト/アイルトン・セナ/ナイジェル・マンセル/ミハエル・シューマッハー.....。これはつまり"勝つ者は何度でも勝ち、勝てない者はひとつも勝てない"証拠でもある。また、チーム/コンストラクターもその位置付けを明確にし、トップ・チームでは繁栄なドライバー交代は行われなくなった。反対に下位チームではスポンサー持ち込みの売り込みドライバーが増え、そのシートを1シーズンともたずに他のドライバーに奪われるケースが増えてしまった。チーム間の実力差もいっそう激しくなり、勝利のチャンスに恵まれた幾つかのトップ・チームは次々に新しいアイデアでライバルに挑戦し、下位チームは少ない予算でマシン/エンジンを壊さぬよう、長く使用する必要性にかられた。当然、勝利する者とそうで無い者の差は広がって行ったのである。

現役ドライバーの中で、今季初優勝を遂げた者がいる。パニスと同じ第6戦モナコ、ルノーのヤルノ・トゥルーリだ。しかしトゥルーリはチームとの関係が上手く行かず、シーズン終了を待たずしてトヨタへと移籍。F-1ドライバー9年目となる来季、トゥルーリは31歳、現在トヨタは決してトップ・チームでは無く、2勝目のチャンスは確実に減ったと言える。元チーム・メイトで昨年初優勝のアロンソはまだ23歳、将来のフェラーリ入りも噂されている。が、アレジのような"落とし穴"が待っていないとは言い切れない。フェラーリの低迷期は、一旦始まると長いのだ。

.....では最後に、気になる"通算2勝ドライバー"を挙げておこう。

 フロイラン・ゴンザレス ('50〜'60年)
 モーリス・トランティニアン ('50〜'64年)
 ビル・ブコビッチ ('51〜'55年)
 ウォルフガング・フォン・トリップス ('57〜'61年)
 ヨー・シファート ('62〜'71年)
 ペドロ・ロドリゲス ('63〜'71年)
 ピーター・レヴソン ('64〜'74年)
 ジャン・ピエール・ジャリエ ('75〜'81年)
 パトリック・タンベイ ('77〜'86年)
 パトリック・デパイエ ('72〜'80年)
 エリオ・デ・アンジェリス ('79〜'86年)
 キミ・ライコネン ('01年〜)

.....さあ、頑張れライコネン!。この"地味なメンツ"から抜け出す為に!。



「十分では無いが、悔いは無いさ」
-'04年/オリビエ・パニス-


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