| 前回のコラム(lap111)で'90年フェニックスに於けるアイルトン・セナとジャン・アレジの名勝負について記した。そしてそのコラムの冒頭では、50年以上に渡るF-1グランプリの歴史の中でも特に有名な名勝負/レースを幾つか紹介した。何人ものドライバー達が観る者を魅了し、後世まで語り継がれて行くのは彼等にとっても栄誉な事である。しかし、今回紹介するのは決して"名勝負"と言う表現だけでは済まない、壮絶な闘いである。そしてそれは、コース内外を問わず、彼等がグランプリに存在する限り延々と続けられた。同時に、これだけ"宿命のライバル対決"と言われながら、クリーンなファイトによる印象深いレースが彼等に限っては極端に少なく、どちらかと言えば後味の悪い場面ばかりが脳裏に焼き付いている。 .....同時代を生きたふたりの天才レーサー、アイルトン・セナとアラン・プロスト。このコラムを御覧の方々でこのふたりの名を御存じ無い方はさすがにいないと思うが、セナ没後10年を経た今、あらためて彼等の壮絶な闘いを振り返る。F-1史上、唯一無比のライバル対決。それがセナ・プロスト対決である。 アラン・プロスト。'55年2月24日、フランス/サン・シャモンにて誕生。2歳上のレース狂の兄、ダニエルの影響でカート・レースを始め、'74年にはフランスと欧州の両選手権を制覇。'76年にルノー/エルフ共催によるウィンフィールド・レーシング・スクールの奨学生としてフォーミュラ・ルノー選手権にデビューし、瞬く間に欧州のタイトルを総ナメにする。'79年にはフランス/欧州F-3を制覇し、'80年に名門マクラーレンからF-1デビュー。'93年に現役を引退するまでに4度の世界王座('85/'86/'89/'93年)を獲得、199戦して51勝(当時歴代1位)を挙げた。その後'97年に母国フランスのリジェを買収してチーム・オーナーとなるが、'01年に破産し、チーム消滅。現在は氷上レースに参戦。 アイルトン・セナ。'60年3月21日、ブラジル/サンパウロ生まれ。4歳の時に父親に買い与えられたカートでレースに目覚め、'77年の南米カート選手権で初めてチャンピオンとなる。'81年にイギリスFF(フォーミュラ・フォード)-1600/タウンゼント・トレンセン選手権を制覇。翌'82年にはイギリス/欧州のFF-2000を凌駕し、'83年にイギリスF-3へとステップ・アップ、参戦初年度にタイトル獲得。翌'84年にトールマンからF-1デビューを果たす。'94年第3戦までに3度のタイトル('88/'90/'91年)を獲得。161戦41勝、ポール・ポジション獲得65回は歴代1位('04年イタリア・グランプリ現在)。'94年第3戦サンマリノ・グランプリのレース中にクラッシュし、帰らぬ人となった。享年34歳。 プロストはF-3で無敵を誇った'79年、多くのF-1チームからの誘いを断っていた。理由はチーム自体の戦闘力と自らの契約に於ける立場であった。まず始めにプロストにオファーしたのは翌年プロストがF-1デビューするマクラーレン。が、'79年のマクラーレンは優勝争いをするだけの戦闘力には明らかに欠け、しかも最終戦のみのスポット参戦だった事から「好成績で無かった場合、キャリアに泥を塗る」と断ったのである。更に母国リジェからのオファーに対しては「将来性に乏しい」と相手にせず、結局じっくりとオフ・シーズンの動向とテストでの結果をふまえた上で、'80年のマクラーレンからのレギュラー・ドライバーとしての参戦、と言う新たなオファーを得たのである。プロストは名門チームから鳴り物入りでF-1へとデビューし、開幕戦アルゼンチンで6位初入賞。翌年母国の雄・ルノーへと移籍、第8戦地元フランス・グランプリでデビュー20戦目の初優勝を達成。'83年にはブラバムのネルソン・ピケとタイトルを争うが最終戦で敗れる。翌'84年に再びデビュー・チームであるマクラーレンへと移籍し、2度の世界王者であるニキ・ラウダと共にシーズンを闘う。 そしてその'84年、セナがF-1デビュー。セナもまた前年イギリスF-3を記録的な勝利数で制した逸材振りが注目され、マクラーレン/ロータス/ウィリアムズ/ブラバム等、トップ・チームからのオファーを受けていた。しかし、そのいずれもが"No.2"としての契約だった為に全て断り、最終的に戦闘力では前述の4チームに遠く及ばない弱小チーム、トールマンからのオファーにサインし、開幕戦ブラジル・グランプリでF-1デビューとなった。セナは大きく重いマシンと格闘しながらも、シーズンを通してズバ抜けた速さを魅せた。最初の"セナ・プロスト対決"は'84年第6戦、モナコ・グランプリで実現した。 予選でプロストはポール・ポジションを獲得し、セナは13位。決勝レースは凄まじい豪雨の中スタートし、プロストは堅実にトップを守ったが、クラッシュ〜リタイアするマシンが続出。しかし13番手スタートのセナが豪雨で戦闘力差の無くなった難コースを果敢に攻め、19周目に2番手へと浮上。首位プロストとは30秒以上の大差があったが、セナはプロストを1周3秒程度上回る驚異的なペースで追い上げていた。しかし全78周レースの32周目、突然レースは赤旗終了となった。セナは後数周でプロストに追い付く所まで来ていたが、競技長は31周目終了時の順位でレース結果を確定すると決定。この赤旗終了のタイミングに、世界中のマスコミが母国フランスに近いモナコでプロストが"名も無い新人"に負けるのをFISAが防いだのでは無いか、と非難の声が上がった。当のプロストは「この勝利は拾物」とコメント、セナは「きっと僕やウチのような弱小チームに勝たれては困るんだろう」と不満を露にした。しかし、この時はまだプロストとセナの感情的な激突は無かった。この年プロストはラウダに0.5ポイント及ばずに2年連続でタイトルを逃し、セナは翌年からのロータス移籍を決断する。 '85年、セナはまたも豪雨の第2戦ポルトガル・グランプリで初のポール・ポジション獲得〜初優勝をデビュー17戦目で達成。第13戦ベルギーでは2勝目を上げ、年間ポール・ポジション獲得数は7回。完全にトップ・ドライバ−の仲間入りを果たす。そしてこの年、プロストは年間5勝でラウダを下して初のF-1ワールド・チャンピオンとなった。プロストは前年、やみくもに速く走る事よりもクールなポイント計算によって多くの入賞を繰り返し、勝利数でプロストに劣りながらもタイトルを奪ったラウダのレース戦略を学んだのである。'86年はウィリアムズ・ホンダが序盤から高い戦闘力を発揮し、ピケとナイジェル・マンセルと言うライバルを相手にマクラーレン・ポルシェのプロストはまたもクールなレース戦略を展開、4勝ながら5勝を挙げていたマンセルを逆転し、最終戦で2年連続チャンピオンに輝く。そしてセナは彼等3人のタイトル争いに度々割って入り、総合力に劣るロータス・ルノーを駆って2勝。シーズン残り3戦、と言う所までタイトル争いに名を連ねる程に成長していた。'87年、プロストを擁するマクラーレンは翌'88年からウィリアムズに替わってホンダ・エンジンの供給を受ける事を決定。同時に、ロータスからセナを迎え入れ、プロストとの"ジョイント・No.1"契約を名言した。マクラーレンはこの年('87年)Wタイトルを獲得したホンダ・エンジンと、時代の最高のドライバーふたりを擁する事で夢の最強チームへと変化を遂げようとしていたのである。そしてプロストはこの年、歴代最多となる28勝目を挙げ、F-1史上最強のドライバーとなった。 .....'88年、プロストとセナは最高のマシンを手に入れ、幾多の名勝負を繰り広げながら16戦15勝(セナ8勝/プロスト7勝、1-2フィニッシュ10回)と言う大記録を打ち立てる。タイトルは13回のポール・ポジションを取った最速のセナが奪ったが、反対にプロストはリタイアした2戦以外、全て優勝か2位と言う抜群の安定感を見せた。第12戦イタリアで唯一勝利を逃したマクラーレン・ホンダだが、実はこれを機に、ここまで素晴らしいバトルを繰り広げて来た個性豊かなふたりのバランスに問題が生じる事になる。 第13戦ポルトガル。両者のポイントはセナ75点/プロスト72点、当時は上位11戦による有効ポイント制度だった為、常に上位フィニッシュを繰り返して来たプロストより、リタイアの多いセナの方がよりポイントを獲得出来る状況にあった。同時に、前戦イタリアで残り2周、と言う所で優勝を棒に振ったセナは初のタイトル獲得を目前にしてナーバスになっており、一刻も早くタイトルを決定したいとの焦りが生じていた。9月25日、ポルトガル・グランプリ決勝スタート。精神的に優位に立っていた経験豊富なプロストがイン側のポール・ポジションから絶妙なスタートを切る。が、2番手外側のセナがスルスルとプロストに接近、プロストは威嚇の為マシンをややアウトに向け、驚いたセナはコース外側へとマシンを向けた。結局セナが前に出たが、スタートで幅寄せされた事に怒ったセナは、2周目のホーム・ストレートでインから並びかけて来たプロストに同じように幅寄せし、プロストは危うくイン側のコンクリート・ウォールにヒットしそうになったのである。レースは結局プロストが制し、セナはトラブルで6位に甘んじた。レース終了後、ふたりは別々にチーム首脳に不満をブチまけていた。このレースを機に、彼等ふたりはライバルから敵同士になったのかも知れない。 「セナが約束を破ったんだ」-'89年第2戦、サンマリノ・グランプリは、ふたりの確執を決定的なものにしてしまった。予選はセナ-プロストの順。スタート後、フェラーリのゲルハルト・ベルガーがタンブレロ・コーナーで大クラッシュし、レースは赤旗再スタートへ。彼等は危険を避ける為、「スタートで前に出た方が1コーナーに先に進入出来る権利を持つ」との約束、所謂"紳士協定"を結んた。スタートが切られ、プロストがセナをパスして前へ。ところが、第1コーナー進入へのブレーキングでセナが抜き返し、そのまま優勝。プロストはチーム/マスコミを問わず不満をブチまけた。「協定を結んだのは危険を避ける為だ。なのにアイツはその危険な行為をやったんだ!」「第1コーナーまで、彼は思ったより速く無かった。だから前に出たんだ。それをもう1度譲るなんてバカげてるだろ?」ふたりの言い分は既に論争の域を超えていた。チームはマスコミへの対応に追われ、世界中がセナ/プロストの確執を取り上げた。そしてこのレースを機に、ふたりはチーム内で言葉を交わす事も、目を合わす事も無くなった。「あの時僕はプロストにナイフを向けた。その後彼は、それを僕の背中に突き立てた」これが、セナの言い分である。 第15戦、日本グランプリ。プロストは既に翌年からのフェラーリ入りを発表していた。同時に、このレースでセナがノー・ポイントならプロストの3度目のタイトル決定、と言う局面を迎えていた。ポール・ポジションのセナはダウン・フォースを大目に、予選2位のプロストは反対に最高速重視のセッティング。プロストがスタートでセナを出し抜き、セナが追う。46周目、セナがプロストの背後にピタリと着け、130Rからシケインへ。インへ飛び込むセナ、ドアを閉じるプロスト。両者接触。プロストはマシンを降りたが、セナはマーシャルの手を借りてコースへと復帰し、ピットで壊れたフロント・ノーズを交換、一旦抜かれたベネトン・フォードのアレッサンドロ・ナニーニを抜き返してトップでフィニッシュ。しかし競技委員会はセナがシケインを通過しなかった事を理由に失格扱いにし、プロストの3度目のタイトルが決定した。 .....この時、ふたりのイメージは確定した。純粋な"貴公子"セナと、不適な"策士"プロスト。両極端のイメージのふたりは善vs悪/英雄vs権利者、のように煽られ、遂にホンダvsフェラーリの要素をも持つセナ・プロスト対決のピーク、'90年シーズンへと向かう。 '90年、プロストを迎え入れたフェラーリは王者マクラーレン・ホンダに肉迫した。序盤はセナ/マクラーレンが快調に飛ばしたが、中盤フェラーリ/プロストが3連勝して逆転、その後セナが奮起して勝利数を伸ばし、プロストはチーム・メイト、マンセルの謀反にも合い、5連敗で絶体絶命。第12戦イタリアでは、記者会見中にプレスからの提案でふたりが和解の握手をする場面が見られた。しかしそれは、セナにとっては見せかけの握手であった。その理由は、シーズンの天王山となった鈴鹿で明らかになる。 第15戦日本、ここまでセナ78点/プロスト69点、プロスト無得点ならセナの王座決定。.....つまり、前年と丁度逆の立場で、ふたりは鈴鹿へと乗り込んで来たのである。スタートで2位プロストがトップへ。セナは1コーナーのイン側を差し、両者接触。2台はグラベル・ベッドへと突っ込み、リタイア。歩いてピットへと帰って来るふたりは微妙な距離を保ったまま会話を交わす事も無く、重苦しい空気が流れた。セナは「自分が正しいと思う事を追求する。僕のやったのはそれだけだ」と意味深い発言をした。そしてその1年後、セナは「あれは故意だった」と、自ら認める発言をする。例え圧倒的に選手権をリードしていても、セナは'89年のシケインでのプロストの行動を、許す事は出来なかったのである。 '91年、ニュー・マシンの開発コンセプトに失敗したフェラーリは低迷。プロストはセナ/マクラーレンに肉迫する事無く、最先端の空力コンセプトを持つウィリアムズ・ルノーの後塵をも拝し、最終戦を前にチームを離脱。そのまま'92年シーズンは休養する。対するセナは'91年シーズンを制し、プロストに並ぶ3度目のタイトルを手にする。だが翌'92年、前年速さは見せたが信頼性に泣いたウィリアムズ・ルノーの熟成の前に屈し、マンセル/リカルド・パトレーゼのウィリアムズ・コンビとベネトン・フォードを駆る若きミハエル・シューマッハーに次ぐシリーズ4位に終わった。そして眠れるプロストは'93年、最強マシンを手にグランプリに復帰する。 '93年、プロストは技術競争の頂点に立つウィリアムズFW15C・ルノーを手にサーキットに帰って来た。対するセナはホンダの撤退に伴い、ベネトンと同スペックのフォードV8搭載のマクラーレンMP4/8を駆る。最強ウェポンのプロストと非力なマシンのセナ。舞台は整った。壮絶な戦いが始まって行く。 大方の予想では、'93年シーズンはプロストの圧勝であった。如何にセナと言えども、ホンダ・エンジンをも失った今、最強ウィリアムズ・ルノーに太刀打ち出来る等とは誰も考えなかった。開幕戦南アフリカ、セナが予選2位からトップを奪い、ポール・シッターのプロストはクラッチ・ミートに失敗して3位へ。13周目、シューマッハーを抜いてプロストが2位へ。セナとの息詰まるバトルが始まった。ストレートで迫るプロスト、絶妙のコーナリングとブレーキングで凌ぐセナ。両者のスピード差は明らかだった。が、セナの抵抗は尋常では無い。25周目、ようやくプロストは1コーナーでセナをインから攻略、一旦前に出たプロストを抜き返す力は、セナにもマクラーレンにも残ってはいなかった。第2戦はセナの地元ブラジル、"得意の"ウェット・レースでセナは神憑かり的な圧勝、プロストは苦手の悪コンディションでコース・アウトし、リタイア。第3戦欧州・グランプリ/ドニントンはまたも雨、セナは予選4位からスタートで一旦5位へ後退。しかし、ここから豪雨の中他車を抜きまくり、コース終盤のヘアピンで遂にトップのプロストをもオ−バ−・テイク、4台抜きの奇跡の走りでオープニング・ラップを制した。降ったり止んだりの微妙なコンディションでプロストは後退、セナが圧勝。第4戦サンマリノは3戦連続の雨。予選4位のセナがまたもスタートでクラッチ・ミートを失敗したプロストを出し抜き、前へ。トップはプロストのチーム・メイト、ウィリアムズのデイモン・ヒルが奪い、セナは3位プロストを必死で抑える。しかし徐々に路面が乾き、12周目にトップに立ったプロストを追う事はもう出来なかった。第5戦スペインはプロストが圧勝、セナはしぶとく2位。そして第6戦モナコ、プロストはスタートで痛恨のフライングを犯し、ペナルティ・ストップ中にエンジンが2度ストール。セナは得意のモナコで通算6勝目を挙げ、セナがポイントでプロストを逆転したのである。 .....第14戦ポルトガルで、プロストは今シーズン限りでの引退を表明した。もっとも、これに驚く者は少なく、誰もが恐らくプロストは新記録となる4度目のタイトルを土産にF-1を去る決意で今シーズンに望んでいた事を知っていたのである。そしてプロストはこのレースで4度目のチャンピオンとなった。第6戦モナコ以降、誰もプロストに迫る事は出来なかったのだ。それはセナにも、同じマシンを操るヒルにも言える事であった。そしてまた、翌年プロストに代わってウィリアムズ・ルノーに乗るのはセナだ、と言う事も周知の事実であった。 .....ここまでプロストは計7勝を挙げ、セナはモナコ以降表彰台フィニッシュ無し。両者の戦いは既に終わったと思われていたが、タイトル決定後の第15戦、因縁の鈴鹿でセナは奮起する。スタートでポール・ポジションのプロストをパスし、トップへ。13周目にタイヤ交換で一旦プロストに先行を許すが、レース中盤から鈴鹿を雨が包む。ジリジリとプロストに迫るセナ、必死に押さえるプロスト。20周目、遂にセナがプロストを攻略し、再び首位へ。濡れた路面でセナを追える者がいる筈も無く、そのままセナが9戦振りのシーズン4勝目を挙げた。最終戦オーストラリア、プロストの引退レースとなるこのレースは、同時に最後のセナ・プロスト対決をも意味していた。ポール・ポジションを奪ったのはセナ。'93年シーズンにウィリアムズがポール・ポジションを明け渡したのはこの一度だけである。決勝でもセナは快調にトップを走り、プロストがセナを追う事は出来なかった。プロストはラスト・レースは大事に、と勝負を避けたのだろうか。それとも、セナが圧倒的な強さを魅せたのだろうか。 .....レースが終わり、パルクフェルメでマシンを降りたふたりに、マクラーレンのロン・デニスが歩み寄る。デニスが何かふたりに話し掛け、プロストが右手を差し出し、セナがそれに応えた。そして表彰台。国歌吹奏が終わり、プロストはセナの背中をポンと叩き、右手を差し出した。セナは言葉をかける事無く、静かにプロストの手を取り、肩を抱いた。今度は見せかけでは無い、本当の握手であった。こうして、セナ・プロスト対決は終わった。その3レース後にセナは他界し、二度とふたりの戦いを見る亊は出来なくなった。そして、彼等の戦いは永遠に語られるものとなって行ったのである。 .....彼等ふたりが共にF-1グランプリを戦ったのはセナがデビューした'84年からプロスト引退の'93年まで、'92年はプロストが出場していない為、実質的に9シーズン、と言う事になる。更に、セナ/プロストによる覇権争いが繰り広げられたのはチーム・メイトとなった'88年からプロストのフェラーリ移籍初年度の'90年、そして最後の'93年、の計4年間をピークとする事が出来るだろう。その間に残された数字が、興味深いデータを表している。 プロスト 王座2回/27勝/ポール・ポジション17回/最速ラップ20回 セナ 王座3回/25勝/ポール・ポジション37回/最速ラップ9回 .....優勝回数がほぼ同数なのに対し、予選順位とレース中のベスト・タイムにこれだけの差があるのは非常に興味深い事である。一発予選を得意とするセナと、長丁場のレースで安定したプロスト。言い換えるならば、"速いセナと強いプロスト"である。このコラムに記したセナ/プロスト対決として象徴的なレースにも、このデータははっきりと見てとれる。また、この間モナコ/アメリカ/オーストラリア等で行われた"市街地コース"でのレースでの対戦はセナ8勝/プロスト3勝、更にウェット・レースではセナ9勝/プロスト1勝となり、セナが荒れた路面でのレースに強かった事が解る。実際プロストはウェット・コンディションを苦手としていた(詳細はlap80-"教授〜プロフェッサー〜と呼ばれて"/アラン・プロスト物語-を参照)。しかし、セナの悪コンディションでの強さ/速さもまた特別だったのである。ちなみに、セナはキャリア10年間で母国ブラジル・グランプリ制覇は2度、反対にプロストは13シーズンでフランス・グランプリ6勝。同時に、'92年を除いて両者が戦った9シーズン、セナはフランスで一度も勝てず、逆にプロストはブラジルで4勝/2位1回の好成績。"地元でも敵地でも強い" プロストと、プレッシャーのかかる母国/敵地での一戦に不運が付きまとったセナ。両者の違いはこんな所にも表れる。では、セナとプロストは対称的な人物だったのだろうか。 「.....ある意味、僕達はとても良く似ていたと思う」とプロストは言った。「ひとつには、ドライビング・スタイル。何しろ、かつての僕のチーム・メイトで僕のスペア・カーをそのまま乗りこなせたのはラウダとセナだけだった。セッティングが非常に良く似ていたんだよ。それから、レースに対する取り組み方。彼は実は人一倍レースでの安全性に気を配っていた。人々の前で『恐れるもの等何も無い』と言っていたのは、彼のイメージ戦略だったんだよ。本当は非常に繊細で、もの静かな人物だったんだ」例え方法論は違っても、互いにあらゆる犠牲を払ってでも勝利を目指すのは当然の事であり、レーシング・ドライバーとしてだけで無く、一個人としての価値観も非常に似通っていた、とプロスト自身は語る。 '88〜'89年、彼等はチーム・メイトとして戦い、そしてタイトルを分け合った。"F-1マシン"と言う特殊な道具を使う分野に於いて、しかも"ジョイント・No.1"と言う状況であれば、他チーム同士による戦いよりもドライバー自身の実力差が浮き彫りとなる。現在無敵を誇るミハエル・シューマッハーは、フェラーリ・チームでの断固たるエース・ドライバーとしての地位を確立しており、かつての"ライバル"、デイモン・ヒル/ジャック・ビルヌーヴ/ミカ・ハッキネンらがフェラーリでのチーム・メイトで無かった以上、シューマッハーのレーシング・ドライバーとしての真の実力差を知る事は出来ないのかも知れない。例えそれがエディ・アーバイン/ルーベンス・バリチェロらの"トップ・ドライバー"であっても、である。そう言った意味で、セナ/プロストの戦いは観る者に解り易く、且つスリリングなものとなった。同時に、'88〜'89年を知る者にとって、'90年のフェラーリの戦闘力アップや'93年のウィリアムズ・ルノーの強さ、またマクラーレンの実力等も推測し易いものとなっていたのである。 「.....彼とは色々な事があったから、多くのレースが想い出だ。中でも'88年のメキシコは、スタートからゴールまで、ずっとセナを抑えるのに必死だった。人々の記憶以上に、当事者の我々にはタフなレースだったんだ。また違った意味で、'90年の鈴鹿も忘れられない。でも、僕達の戦いが語り継がれて行くにあたっては、悪い想い出は忘れて、良いレースだけが残って行って欲しいと願うよ」プロストがサーキットを去り、セナはライバルを失っていた。'94年第3戦サンマリノ、セナはフリー走行中にフランスTF1のTVコメンテーターとしてイモラに来ていたプロストに「アラン、君がいなくて寂しいよ!」と話し掛けた。「僕も、セナと話したかった。けれど、結局彼とゆっくり話す事は出来なかった」セナは自身65回目のポール・ポジションからスタートし、ラップ・リーダーのまま事故にあった。「彼は100%をレースに捧げていた。僕は、多分95〜98%だったと思う」彼等ふたりの違いは、きっとこのプロストの言葉に凝縮されていたように思う。ふたりの天才ドライバーが合いまみえた幾つかのシーズン、我々が感じたあの興奮は、きっと彼等で無くては出来なかった事なのだ。
|