| 巨大自動車メーカーの独壇場となった近代F-1グランプリ。'99年にグランプリに参入したBAR(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)チームは現在ホンダのワークス・チームだが、参入時は巨大スポンサー(BAT/ブリティッシュ・アメリカン・タバコ)が主催/出資する、所謂"スポンサー・オーナー・チーム"としてスタートを切った。当初は初代チーム代表とエース・ドライバー(言わずもがな、クレイグ・ポラックとジャック・ビルヌーヴである)が実権を握り、その後紆余曲折があって自動車メーカーとの蜜月を深め、しかし最終的に前述の2名は解雇、チームはホンダの共同出資とプロ・ドライヴのデビッド・リチャーズの指揮による真のプロフェッショナル・レーシング・チームへと生まれ変わった。スポンサー・オーナー・チームは現在BARだけだが、これも'07年のタバコ広告禁止時にどうなっているかは憶測の域を出ない。 .....世界最高峰の"走る広告塔"であるF-1グランプリに於いて、史上最大の成功を収めたスポンサー・オーナー・チームは、ベネトン・フォーミュラである。小さなプライヴェート・チームの買収からWタイトル獲得、そして巨大自動車メーカーへのチーム売却へ。流れだけを見ればクールなこの活動は、実に16年と言う歳月の中で、F-1グランプリに確実に成果と影響を残した。 '81年、前年のF-2選手権制覇の波に乗ってひとつのレーシング・チームがF-1へと参入した。イギリスの大手輸送会社のジョン・トールマン率いるトールマン・モータースポーツである。彼等は'80年の欧州F-2選手権を元F-1ドライバーのブライアン・ヘントンと共に制覇し、F-2参戦時のメンバーそのままにF-1へとチャレンジ。マシン・デザイナーは'78年に元々フォ−ミュラ・フォードのデザイナーだった所をトールマンにスカウトされ、チーム入りした南アフリカ出身のロリー・バーン。新興ピレリ・タイヤとハート製L型4気筒ターボ・エンジンを搭載したバーン初のF-1マシン、トールマンTG181は如何にも処女作らしく予選通過ラインと戦う羽目になったが、2年目の'82年、第9戦オランダでTG183を駆るデレック・ワーウィックが最速ラップを記録、翌'83年のTG183Bは戦闘力を増し、第12戦オランダでワーウィックが4位初入賞、最終的にコンストラクターズ選手権9位でシーズンを終えた。'84年はブラジルの新星アイルトン・セナがデビュー、第6戦雨のモナコでは後一歩で優勝、と言う活躍を見せ、トールマンはターボ時代に於ける新チームとしてはかなりの成功を収めたと言えた。 そしてその'83年、イタリアのアパレル・メーカー、ベネトンが資金難に喘ぐ名門チーム、ティレルのメイン・スポンサーとしてF-1グランプリに参入。ベネトン創始者であるルチアーノ・ベネトンは、欧州で確立された自社のブランド・イメージを、アメリカやアジアへも広げたいと考えていた。その為には世界中のメーカーが参戦し、世界中に視聴者を持つF-1サーカスが最も効果的であると判断したのである。が、ティレルの成績低迷/露出度低下を理由に'84年はアルファロメオ・チームへのサポートも開始。ところがアルファは'85年いっぱいでのF-1撤退を決定。チームの方針により活動を制限される事を嫌ったベネトンは、チームの権限をも手中に収めた形でのスポンサー・シップを模索し、新たに前述のトールマン・チームへのスポンサードを開始する。 '85年のトールマンTG185・ハートは、ティレル/アルファがグリーンを基調に社名の"BENETTON"のロゴだったのに対し、白地に世界各国の国旗を描き、"UNITED COLORS OF BENETTON."と記された斬新なカラーリングとなった。この発想はベネトン自身によるものであり、カラーリングそのものもベネトン・アパレル社内のデザイン部が手掛けた(これはレーシング・チームとしては異例の事である)。だが、トールマンは前年いっぱいでF-1活動を休止したミシュランに代わるタイヤ・メーカーを見つけられておらず、'85年シーズン開幕当初、グッドイヤー/ピレリのどちらとも契約に漕ぎ着ける事が出来なかった。その為、なんとトールマンは開幕戦のグリッドにマシンを運ぶ事が出来なかったのである。そこでベネトンは同じイタリアのピレリ社との契約をまとめ、第4戦モナコからトールマンはピレリ・タイヤを使用しての参戦が可能となったのである。実はトールマンとピレリは、以前トールマン側がピレリを裏切るような形でミシュランと契約した事で険悪な関係が続いていた。この一件でベネトンはF-1のパドックに於いて一躍権力者として一目置かれるようになり、第9戦ドイツではテオ・ファビがチーム初のポール・ポジションを獲得。斬新なカラーリングと相まってベネトンはF-1の新たなスタイルのパイオニアとして注目を浴びる事となった。 .....しかし、ルチアーノ・ベネトンは満足しなかった。いや、元々販売戦略で始めたF-1グランプリに、自身がドップリと浸かって行くのを感じていた。躊躇する事無く、ベネトンは決断した。'86年、トールマンはベネトンに完全買収され、新たにベネトン・フォーミュラ・チームが誕生したのである。 ベネトンがF-1チームに求めたのは「スポーティーであり、スタイリッシュであり、アヴァンギャルドであり、アクティヴである事」であった。'86年シーズン用の新車ベネトンB186は真紅のフェラーリ/黒いロータス/フレンチ・ブルーのリジェ、らの中にあって前年のトールマンTG185よりも更に"派手な"、通称"フライング・カラーリング"と呼ばれる、白地に色とりどりの"落書き"が施された。更にベネトン・アパレルの担当者は「タイヤが黒いのがマシン・カラーと合わない」とし、ピレリ・タイヤのタイヤ・ウォールまで(それも4本全てが違う色)ペイントしてしまったのである(もっとも、これはレース中のタイヤ交換戦略に於いて情報漏洩の原因となる事が懸念され、フリー走行及び予選中のみの使用となった)。そしてベネトンはチームの実権を握るや戦闘力アップの為にBMW・ターボ・エンジンの搭載を決め、ドライバーはベテランのファビに加え、アロウズから新鋭ゲルハルト・ベルガーを迎えた。バーン設計のB186はハイ・パワー・エンジンを得てその性能を如何なく発揮する。 ベネトンB186はバーンが初めてF-1マシンを設計した'83年以来、バーン自身がマシン・フロント部の空気抵抗を突き詰めて来た集大成的なマシンとなった。フラット・ボトム規制によるダウン・フォース不足を補う為、バーンはマシン前部のグランド・エフェクト効果を目指して来ていた。'86年、同じBMWターボを使用するブラバム・チームの天才デザイナー、ゴードン・マーレイが「フラット・ボトム規制下でのグランド・エフェクト化は無駄」としてリアの空力に固執したのに対し、バーンは細く長いフロント・ノーズとディフレクターの採用によって特に高速サーキットで郡を抜く安定性を発揮。第12戦オーストリア(エステルライヒリンク)、第13戦イタリア(モンツァ)の超高速サーキットではファビが連続してポール・ポジションを獲得。しかもエステルライヒリンクでは予選1-2、ベルガーが最速ラップを記録し、モンツアではファビが最速ラップ。ピレリ・タイヤの安定性も相まって、ベネトンは'86年シーズン終盤の台風の目となりつつあった。 '86年10月12日。第15戦メキシコ・グランプリの舞台は長いストレートとバンピーな路面で、エンジン/タイヤに厳しいエルマノス・ロドリゲス・サーキット。レース前、予選4番手のベルガーは固めのタイヤで無交換、つまりピット・インしないで走り切る選択をした。猛暑の中、68周の決勝レースはスタート。予選2番手のネルソン・ピケ(ウィリアムズ・ホンダ)がポール・ポジションのセナ(ロータス・ルノー)を抜いてトップへ。ベルガーはナイジェル・マンセル(ウィリアムズ・ホンダ)に続く4位をキープ。32周目、トップのピケがタイヤ交換の為ピット・イン。続く33周目にはチーム・メイトであるマンセルもピットへ向かい、トップはセナ、2位ベルガー。36周目にセナがピットへ向かい、ベルガーがトップへと躍り出た。2位は15秒後方に予選6位スタートのアラン・プロスト(マクラーレン・TAGポルシェ)がいた。マクラーレン陣営、いやウィリアムズ、ロータスらのグッド・イヤー・タイヤ勢はベネトン・チームがいつタイヤ交換を行うのか見守っていた。しかし、レースが残り15周となってもベネトンのピット・クルーは動かない。「やられた」ライバル達がそう思った時にはもう時既に遅く、ベルガーは独走状態を築いていた。が、第12戦オーストリアでは1-2走行中にベネトン2台が共にエンジン・トラブルで戦線離脱しており、このままベルガーが逃げ切るとは誰も思っていなかった。更に、ベルガーをメキシコ名物"食あたり"が襲う。だがこの日のベネトン/ベルガーはツイていた。プロストのポルシェ・エンジンもセナのルノー・ターボも、レース終盤に高地であるメキシコ故の燃費走行を余儀無くされ、遂にベルガー/ベネトンがF-1初優勝を飾ったのである。この年、時のトップ4(ウィリアムズ/マクラーレン/フェラーリ/ロータス)以外のチームが挙げた、唯一の勝利であった。 '87年、ベネトンはエンジン・サプライヤーをフォードへ、タイヤ・メーカーをグッドイヤーへと変更。更にフェラーリに抜擢されたベルガーに代わってアロウズからティエリー・ブーツェンが加入する。この年からカラーリングが赤/緑/黄等の原色を取り入れた更にカラフルなものとなった。B187・フォードV6ターボは前年優勝や最速ラップを記録しながらもリタイアの多かった点を大きく見直し、信頼性を高めたマシンとなり、優勝こそ無いものの入賞11回でシリーズ5位、遂にトップ4の次に来るチームとなった。翌'88年はフォードのワークス仕様のV8NAエンジンを搭載、ドライバーはベテランのファビに代わってミナルディからアレッサンドロ・ナニーニが移籍。マクラーレン・ホンダがセナ/プロストを擁して16戦15勝/10回の1-2フィニッシュの中、5度の3位表彰台を獲得、チームは遂にマクラーレン/フェラーリに次ぐシリーズ3位の成績を収めた。'89年はウィリアムズ・ルノーへ移籍したブーツェンに代わってイギリスの新星ジョニー・ハーバートが加入、開幕戦4位と言うセンセーショナルなデビューを飾るが、前年の国際F-3000参戦中に負った足の傷が完治せず、第7戦フランスからエマヌエーレ・ピロが代役で参戦。第15戦鈴鹿ではセナとプロストのマクラーレン・コンビがタイトルを争って接触、セナがトップでチェッカーを受けたが結局失格となり、2位フィニッシュのナニーニが繰り上がりで初優勝、ベネトン・チームに2勝目を齎した。チームはシリーズ4位となり、完全にトップ・チームの仲間入りを果たしていた。.....ここまで、ルチアーノ・ベネトンの当初の狙いはほぼ満たされていた。スタイリッシュなベネトンのマシンはサーキット/メディア問わず注目の的となり、本家アパレル業の成績も鰻昇りであった。が、F-1チームとしては、まだ運に左右されるだけの、決して"常勝チーム"とは呼べない状況であった。言い換えれば、本来のベネトンの目的を考えればもう充分な成績の筈でもあった。 .....ルチアーノ・ベネトンの"レース魂"に火が入った。「頂点に立ちたい」その想いは、チームの大刷新へと繋がって行く。 '90年、まずベネトンはチーム・マネージャーのピーター・コリンズを解雇。そして新たに元々ベネトン傘下でディーラーとして名を上げ、北米ベネトンのマネージャーへ昇り詰めたフラビオ・ブリアトーレをチーム・マネージャーに抜擢し、「必要なものは全て揃えるから、他のトップ・チームとウチを比較し、足りないものを補え」と現場を託したのである。ブリアトーレはF-1はおろかモーター・レーシング経験も皆無だったが、状況を見て即座に対処する才能はベネトン一族の御墨付きだったのである。「最初にピットへ足を踏み入れたのは'89年。他チームの連中は誰も私の事を知らないので、自由に歩き回る事が出来たよ」ブリアトーレはまず、ベネトンに足りないものとして"チャンピオン経験者"を挙げた。「全員が勝利へ向かうのは当り前の事だし、それは今でも十分に出来ている事だ。だが、勝ち続ける意欲と難しさは、防衛経験のある者にしか解らない」ブリアトーレはマクラーレンで世界を獲った天才デザイナー、ジョン・バーナードをフェラーリから引き抜いてテクニカル・ディレクターに据え、そしてドライバーには3度のF-1ワールド・チャンピオン経験者であるピケをロータスから迎え入れたのである。 '90年シーズンが始まると、ベネトンB190・フォードHB/V8は快進撃を始める。現役最年長/38歳のピケは第14戦終了時までに10戦で入賞/26ポイントを挙げてドライバーズ・ランキング6位と活躍、チーム3年目のナニーニも第3戦サンマリノで最速ラップを記録する等健闘し、ピケに続く7位に着けていた。が、第14戦スペイン終了後の10月11日、ナニーニは自家用ヘリコプターの墜落事故で右腕を切断する重傷を負ってしまう。第15戦鈴鹿を1週間後に控え、ベネトン・チームはチーム創設以来、最大の窮地に立たされてしまった。 チームの誰からも愛されていたイタリアの伊達男、ナニーニの大怪我はチームのムードを一転させた。テクニカル・ディレクターのバーナードは慌てずに対処した。前年、バーナードがフェラーリ在籍時にテスト・ドライバーを務め、'90年は第14戦で資金難から撤退した弱小チーム、ユーロ・ブルンのドライバーだったロベルト・モレノを日本に呼び寄せたのである。また、モレノはピケと同じブラジル出身で、マイナー・フォーミュラ時代からピケを兄のように慕っていた人物であった。10月21日、決勝。セナ/プロスト、マクラーレン/フェラーリによる熾烈なタイトル争いの中、その渦中全員がリタイア。続くウィリアムズ・ルノーを尻目に、ベネトン2台はまたもタイヤ無交換作戦で1-2態勢を築く。53周のレースはピケの3年振りの勝利、モレノの初表彰台、そしてベネトン初の1-2フィニッシュ、と言うあまりにも劇的なものとなった。ピケとモレノはナニーニにこの勝利を捧げた。起こった事故は悲しいものだった。が、チームは素晴らしい仕事で窮地を脱したのである。 続く最終戦オーストラリア、好調ピケは最終ラップまで続いたフェラーリのマンセルとの激闘に勝ち、ベネトンにチーム初の2連勝を齎した。これによりベネトンはウィリアムズ・ルノーを逆転し、マクラーレン/フェラーリに次ぐシリーズ3位でシーズンを終了したのである。 '91年は更に突っ込んだチーム改革が行われた。スポンサー・オーナー・チームでありながら大手煙草メーカーのキャメルのサポートを取り付け、マシン・カラーはキャメル・イエローとなった代わりにチームは更なる潤沢な資金を得る。バーナードはトールマン時代から続くロリー・バーン態勢を一旦崩し、自らが中心となって新たなデザイン・チームを作り上げる。だがチームは第5戦カナダでピケが"ラッキーな"1勝を挙げたに止まり、ベネトンはバーナード態勢に見切りを付ける。ベネトンはスポーツ・カー・レースの雄、TWR(トム・ウォーキンショウ・レーシング)と提携し、エンジニアリング・ディレクターにウォーキンショウを、更にテクニカル・ディレクターのロス・ブラウンをチームに招聘する。チーフ・デザイナーにはバーンが呼び戻され、第12戦イタリアでは、前戦でジョーダン・チームから衝撃的なデビューを果たしたメルセデスの育成プログラムの新人、ミハエル・シューマッハーを強引に引き抜き、モレノと交代させた。 .....これにより、ベネトンはロリー・バーン/ロス・ブラウン/ミハエル・シューマッハー、と言う布陣となった。このラインアップの意味する所を、もう皆さんお気付きだろう。 '92年、ハイテク装備で圧倒的な強さを誇ったウィリアムズ・ルノーに対向出来たのはセナを擁するマクラーレン・ホンダ(ホンダはこの年で休止)と、ベネトン/シューマッハーだけであった。第12戦ベルギーはシューマッハーのF-1デビュー1周年、ここでチームとシューマッハーは完璧なレース戦略を行い、天候すらも味方に付けてウィリアムズの2台を従えて優勝。翌'93年も第14戦ポルトガルでシューマッハーが完勝。そしてこの2年間、バーンを中心とするテクニカル・チームは最強ウィリアムズのエレクトロニクス装備を徹底的に分析し、完全なプロフェッショナル・レーシング・チームへと成長していた。ベネトンB191〜192でバーンが確立した"ハイ・ノーズ+釣り下げ式フロント・ウィング"は、その後のフォーミュラ・カーのスタンダードとなって行くのである。かくして、ベネトンの"世界制覇"への準備は整った。 .....'94年のF-1シーズンは、誰もが最強ウィリアムズ・ルノーへと移籍したセナの4度目のタイトル獲得を信じて疑わなかった。しかし、開幕から2戦、セナとウィリアムズ・ルノーはベネトン+シューマッハーの後塵を拝した。第3戦サンマリノ・グランプリでセナは逝った。シューマッハーとベネトンは、突如としてライバル達のチャレンジを受けて立つ側に立たされた。 ベネトンがウィリアムズ・ルノーを凌駕していたのは特にエレクトロニクス系のシステム・エンジニアリングであった。ウィリアムズが空力とルノーV10のエンジン・パワーで安定した速さを見せていたのに対し、ベネトンは非力なフォードV8のトルク性能を完全に引き出すエレクトロニクス・システムで対向した。だが'94年は安全性向上の為に電子制御によるハイテク装備はFIAによってことごとく禁止され、それ故ベネトンがレースで勝利する度にライバル・チームからクレームと疑いの目が向けられた。謂れのない濡れ衣も含め、ベネトン・チームは度々攻撃された。それどころか、シューマッハー自身はセナの敵役としてヒール(悪役)のイメージすら付きまとい、セナに代わってシューマッハーに挑戦するデイモン・ヒルを援護するイギリスや南米のマスコミからはベネトン/シューマッハーはレギュレーション違反を公然と行っている、との情報まで流された。 .....しかし、ベネトンが我が道を見失う事は無かった。失格2戦/出場停止2戦にも関わらず、シューマッハーは8勝を挙げて初のドライバーズ・タイトルを獲得した。コンストラクターズ選手権こそウィリアムズに敗れはしたが、混乱するシーズンで最も勝利を挙げた、つまり最も強かったのがベネトンだったのは事実である。 翌'95年に向け、ルチアーノ・ベネトンは次男のアレッサンドロにチームを任せ、更なるチーム改造に乗り出す。まず、前年にチーム・オーナー(シリル・ド・ルーブル)の逮捕(横領罪)で財政難に陥っていたリジェ・チームを完全買収。これにより、リジェが持っていたルノー・エンジンのカスタマー供給契約は事実上ベネトンのものとなった。その上、'95年シーズンには本来ウィリアムズへの独占供給だったものと同スペックのルノーRS7/V10エンジンの供給を実現したのである。また、キャメルに代わってJT(日本たばこ)のスポンサードを受け、マシンはマイルドセブンの鮮やかなブルーが基調となった。ディフェンディング・チャンピオンとなったシューマッハーのチーム・メイトにはジョニー・ハーバートが6年振りに加入。ウォーキンショウをリジェに送り込み、ベネトンはフェラーリ/ティレルでチーフ・エンジニアを務めていたジョアン・ビラデルプラートをチーム・マネージャーに据えた。そして、バーン設計のB195はシーズン序盤こそルノー・エンジンとのマッチングに苦しんだが、結果的に11勝(シューマッハー9勝/ハーバート2勝)を挙げ、遂にWタイトルを獲得する。ベネトンによるトールマン買収から10年、チームは完璧なF-1トップ・チームとなったのである。 .....しかし、'96年はベネトン・チームにとって"崩壊の序章"とも言うべきシーズンとなってしまった。まず、両ドライバー共にチームを離脱。2年連続王者シューマッハーはカー・ナンバー1を持って名門フェラーリへ、ハーバートはチームと契約で揉め、エース待遇でザウバーへそれぞれ移籍。代わってフェラーリからジャン・アレジとベネトン初優勝の立役者であるベルガーのコンビを獲得するが、ウィリアムズの逆襲に合い未勝利でシリーズ3位へ後退。更にデザイナーのバーン/テクニカル・ディレクターのブラウンを、まとめてフェラーリに引き抜かれてしまったのである。舵取り役を失ったベネトンはコマーシャル・ディレクターのポストにルチアーノの末っ子である若いロッコ・ベネトンを据え、新テクニカル・ディレクターにレース・エンジニアのパット・シモンズを昇格、チーフ・デザイナーには資金難で'95年に消滅したシムテック・チームのニック・ワースを抜擢した。しかし急激なチーム態勢変化が飛躍的な成績向上に繋がる事は無く、翌'97年は第10戦ドイツで引退直前のベルガーがポール・トゥ・ウィンを飾るが、相対的に見て戦闘力は明らかに劣っていた。ベネトンは2年連続シリーズ3位となり、再び刷新を求められるのである。 '98年、ベネトンはここまでチームを率いて来たブリアトーレを外し、スバルのラリー・チームを率いていたプロ・ドライブ社のデビッド・リチャーズをチーフ・エグゼクティヴとしてチームに招聘。ところが、このリチャーズがシーズン中にベネトンをチームごとフォードへ売却しようと画策。この件でリチャーズはベネトン一族と衝突してチームを去る(後任はロッコ・ベネトンが兼任)が、これによりベネトンがF-1撤退を視野に入れたチーム売却を模索している事が明るみに出てしまうのである。ドライバーにはジャンカルロ・フィジケラとアレクサンダー・ブルツと言う若いコンビを起用するが、共に未勝利でシリーズ5位まで後退してしまった。また、エンジンはルノーのF-1休止により、フランスのメカクローム社がルノーRS9をモディファイするメカクロームGC37を使用するが、ウィリアムズ同様ワークス供給を絶たれ、マクラーレン・メルセデス/フェラーリらの後塵を拝してしまったのである。 '99年、ベネトンは創立以来最低のシーズンを迎える。ワース設計のB199は自他共に認める"失敗作"、メカクロームはブリアトーレが新たに興したスーパーテック社によるスーパーテックFB01(FBはフラビオ・ブリアトーレのイニシャル)となり、ベネトンは自社のスポーツ・ブランドである"プレイライフ"の名を冠して使用、しかし実態はルノーRS9の2年落ちである事に変わりは無く、チームは僅か16ポイントでシリーズ5位に転落してしまう。毎年のように変わる人事、態勢、そして開発の方向性。この時F-1は、皮肉にもシューマッハー/バーン/ブラウンと言う'95年のベネトンWタイトルの立役者の揃ったフェラーリと、メルセデス・ベンツとブリヂストンと言う巨大メーカーからNo.1待遇を受けるマクラーレンが席巻していた。ルチアーノ・ベネトンは、現在の状況を打破する事に確実性を見い出せないでいた。 .....'00年3月15日。開幕戦オーストラリア終了3日後と言うタイミングで発表は行われた。内容は、F-1休止中のルノーがベネトンを1.200万ドルで買収、'00〜'01年はベネトン・チームとして戦い、'02年からチームはルノーとなる、と言うものであった。これによりベネトン・チームは'00年から実質的にルノーのものとなり、'02年までの2年間はベネトンの名前だけが残る事となった。ルチアーノは「ベネトンのF-1活動は目標を充分達成した。我々の目標は、あくまでもF-1を通じてベネトンのコマーシャル展開を行う事だったからだ」との公式コメントを発表したが、それなら何故既に成績が低迷していた'98年にフォードに身売りしなかったのか。それはルチアーノが最後までベネトン・フォーミュラの存続に固執したからに他ならない。ルノー側は「何故ベネトンを買収したのか」と言う問いに対し、「ウィリアムズは売りに出されていなかったからだ」とクールなコメントを出している。かくして、ベネトンはその名に2年間と言う短い期限付きでグランプリを戦う。 マネージング・ディレクターに"ルノーの人間"としてブリアトーレが復帰、チーフ・デザイナーにティム・デンシャム、テクニカル・ディレクターにマイク・ガスコインを新たに招き、ドライバーはフィジケラ/ブルツ残留で挑んだ'00年はシリーズ順位がひとつ上がって4位。'01年はブルツに代わってウィリアムズからジェンソン・バトンが加入、チーム組織でもルノー側からクリスチャン・コンツェン/マーク・スミスが加わった。しかしシリーズ成績はたったの10ポイントでシリーズ7位、ベネトン最後の年は創立以来最低の成績で終了。翌'02年からは完全に"ルノー・チーム"となった。F-1出走260戦(トールマン時代を含むと317戦)、27勝/16ポール・ポジション、ドライバーズ・タイトル1回、コンストラクターズ・タイトル2回。通算獲得ポイント841.5点。ベネトン・フォーミュラの16年間は、レーシング・スピリットとコマーシャリズムの入り交じった、実に濃密な"時間"であった。 .....本来、ベネトンは"スポンサー"であった。当然レーシング・カーに自社のロゴを描き、世界各地を転戦する事により大きな宣伝効果を期待したのである。果たしてそれは予想以上の効果であった。我が日本に於いてもバブル期のアパレル・ムーヴメントとピッタリ一致し、本来ブランド品には縁の無かった筈の層までをも巻き込んだ。ベネトン側も高価な衣類に止まらず、ファッション小物やスポーツ用品、避妊用具にまで手を広げ、"誰でも手に入れる事が可能な有名ブランド"と言う存在を確立した。その成長にF-1活動が大きな役割を果たした事は揺るぎない事実である。しかし、本来アパレルを業務とする社内には、当然の事ながら巨額の投資を必要とするF-1活動に否定的な派閥も存在していた。いやむしろ、後年(特に'95年のWタイトル獲得以降)は活動縮小/撤退を叫ぶ者が殆どであった。では何故、ベネトンはF-1を続けたのか。それは、ルチアーノ/アレッサンドロ/ロッコ、つまりベネトン一族のモーター・レーシングへの熱意に他ならない。言い換えるならば、彼等ベネトン一族はF-1の魅力に"ハマり"、損得抜きでその全てを注いで来たと言っても過言では無い。恐らくは相当な反対の声が上がる会議を、彼等が熱意を持ってF-1の魅力を重役達に伝えていたであろう光景は、想像にかたく無い。ベネトン一族とは、そう言う家なのである。そしてまた、'00年に彼等が迎えていた局面は"不景気"と言う世界的な現象の元、あまりにも限界に近かったと言える。 '60〜'70年代に煙草メーカーが挙ってモーター・レーシングへと参入し、絶大な広告効果を得た。そして、当時は"男臭い"イメージとファッション・センスとは必ずしも結び付くものでは無かった。それを変えたのは間違い無くベネトンである。'80年代後半になると日本のレイトンハウスがF-1へと参入。マクラーレンにヒューゴ・ボスが付き、ブラバムが伊太利屋を纏っていた。ドライバー達はグラビアや会見でリッチなファッションに身を包み、チーム・クルーのウェアのデザインまでも手掛け、オイルまみれのF-1チームを突如スタイリッシュな団体へと変貌させたのである。F-1バブル期にはサーキット/街中を問わずF-1チーム・ファッションが溢れ、関連グッズが飛ぶように売れた。もはや"現象"と呼ぶのが相応しい程の功績を、ベネトンはF-1でやってのけたのである。そんなベネトン・フォーミュラの"ドライバー人事"には、一貫して暗黙のルールが存在した、とは筆者の思い込みである事を先にお断りしておく。それは"渋いベテランと2枚目の若手"である。ファビと組んだベルガー/ブーツェン、ピケと組んだナニーニ/シューマッハー、ピケのチーム離脱後にシューマッハーと組んだブランドル/パトレーゼ。極め付けはベテランとなったベルガーとアレジ、等である。基本的にイタリア・チームである事からイタリア人ドライバーの採用が多かった事も事実だが、それ以上に彼等の"ルックス"には気を使った筈である。他にもハーバートやピロ、J.J.レートやヨス・フェルスタッペン等、ハンサム/或いは女性に人気のあるドライバーが多いのは走る広告塔・ベネトンとしては当然の選択である筈だ。そして、それを雄弁に物語るのが'91年。.....そう、モレノの扱いである。 '90年第15戦鈴鹿、重傷を負って欠場のナニーニの代役に、バーナードに押し切られる形でモレノを起用したベネトン・チームは、本来翌'91年のドライバー人事は改めて考える予定でいた。ところが、代役を務めたモレノがピケと共にチーム初の1-2フィニッシュを決めて"しまい"、モレノ/ナニーニへの同情票も含めて世論がモレノ起用へと急加速したのである。が、チームとしてはピケの相棒としてモレノは役不足であった。理由は、.....御存じの方も多いだろうが、モレノは決してハンサムでは無く、更に31歳にしてはあまりにも頭髪が少なかったのである。これで'91年シーズン中にベネトンがシューマッハーをジョーダンと裁判沙汰にまでなりながらも獲った理由は明らかになる。モレノの成績は確かにもうひとつ振るわなかったが、チーム内での待遇も決して良いものとは言えなかった。モレノがチーム内で疎外されていたのは事実であり、彼を常に庇っていた兄貴分のピケも、'91年シーズン終了と同時に契約を破棄されている。モレノはベネトンの戦略的には、不要のドライバーだったのである。しかし、鈴鹿での劇的なベネトン1-2に心奪われた日本のファンにはモレノ人気は特に高く、セナのライバルと言う意味も含めて日本でシューマッハーの人気がなかなか上がらなかった理由がここにも存在している。 .....ベネトン・チームと日本、と言えば、この人を忘れるわけには行かない。'83年にトールマンに加入し、その後'90年までベネトン・チームのメカニックとして働いた、現ジャーナリストの津川哲夫氏である。 映画評論家/元雑誌編集長の津川溶々氏を父に持つ津川哲夫は、東海大学卒業後に鈴木板金に入社し、レース活動を目指すが異動で叶わず、'76年のF-1グランプリ・イン・ジャパンを観て衝撃を受け翌'77年に単身渡英、サーティース〜エンサイン〜セオドール〜ベアトリス等のチームを転々とし、'83年にトールマンへ加入した。「最初は英語も解んないし、なんとか手紙を書いてF-1チームに出しまくり、ようやく仕事に着く事が出来たんだよ」津川は、小さなトールマン・チームがベネトンに買収され、徐々にプロフェッショナルなレーシング・チームへと変貌する様を体感していた。「ベネトンがチームを買収した頃はね、ピットでラジカセからロック・ミュージックがガンガン流れてたんだ。今考えれば凄くアマチュアだよね。それが'89年頃からピタリとなくなった。皆、意識がプロフェッショナルになって来ていたんだと思う」津川はトールマン時代、セナのF-1デビューをサポートした。「色々なドライバーと出会ったが、エアトン(セナ)は特別だった。デビュー2戦目('84年第2戦南アフリカ)、トールマンTG183Bってのがこれがまたステアリングの重いマシンで、"ガラスの王子"セナは6位フィニッシュして失神しちゃって、俺に抱きかかえられながらマシンを降りて『1ポイント取れたんなら、良しとする』なんて言いやがるんだ。コイツは絶対チャンピオンになる、と思ったよ。ガーティー(ベルガー)はまた違った意味で印象的だったな、いつもイタズラばかりで(笑)。それと.....サンドロ(ナニーニ)だな.....」津川はメカニック引退を決めた'90年、最後の母国グランプリとなる日本で、ナニーニが不慮の事故で片腕を切断した事を知る。津川は取り乱した。「半狂乱に近かった」と中継アナウンサーの古館伊知朗氏が言っていた程である。「奴は本当に"ナイス・ガイ"だった。最後の鈴鹿は、別に死んじゃないけど、奴への弔い合戦だった。自分の事なんかどうでも良くなっていた」そしてその津川最後の鈴鹿で、ベネトンは奇跡の1-2フィニッシュを成し遂げる。ファイナル・ラップでピット・ウォールに登り、雄叫びをあげながらガッツ・ポーズを繰り返す津川の姿は、筆者のF-1ベスト・シーンのひとつだ。 「今フェラーリが最強なのは、間違い無くベネトンのおかげだよ。だってシューマッハーにロス(ブラウン)にロリー(バーン)、皆ベネトンのWタイトル('95年)獲得時のメンバーがやってるんだから。'96年、ジャン・トッド(フェラーリ)はこの先何年も彼等のチーム・ワーク/強さは揺るがない、と確信していたんだろうね」ようやく常勝チームへと変貌したベネトン・チームはしかし、その詰めの甘さ故にライバル・チームに"武器"を取られてしまった。そして敵(フェラーリ)が手に入れた武器の効力を最大限に発揮し始めた'00年、ベネトンの歴史は幕を閉じる事が決定したのである。そう言う意味では、ベネトンは真のF-1レーシング・チームに成り損ねた、と言えなくも無い。「.....ホントはね、小さなチームがアタマ使ってメーカー・チームをやっつける。これが最高に気持ち良かった!。でも、'80年代後半からそれがだんだん出来なくなって行った。もう、F-1は資金の少ないチームがアイデアで勝負出来るカテゴリーじゃなくなって来ちゃったんだ。だから、この仕事を辞めたんだよ」津川には、ベネトンの未来が解っていたのかも知れない。 .....フェラーリ/マクラーレン/ウィリアムズ。常にF-1グランプリをリードする彼等は初めから"プロフェッショナル"であり、"一流"であった。それはエンツォ・フェラーリ/ロン・デニス/フランク・ウィリアムズらチーム・オーナーが根っからの"レース屋"だったからに他ならない。彼等にとって、全ては勝利の為でしか有り得なかったのだ。しかし、スポンサー・オーナー・チームであったベネトンに、そこまでの必要は本来無かった。しかし、一瞬でもグランプリの頂点に立つ瞬間を味わった事でベネトン一族の意識は変わり、そしてのめり込んで行った。だが、母体がレース屋では無くひとつの企業に過ぎない彼等にとって、F-1グランプリはあまりにも特殊で、そしてあまりにも巨大だったのである。そう言う意味では、むしろ彼等のWタイトル獲得は快挙と言って良いだろう。同時に、'95年のあのタイミングでチャンピオン・チームから低迷するフェラーリへの移籍を決めたシューマッハーは明らかに一流だった、とも言える。そして今、チームはフランスが誇るプロフェッショナル集団、ルノーの手で3強へのチャレンジを始めている。
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