| どんな競技でも、"宿命のライバル"と称される2人の対決が試合を盛り上げる事は多く、タイプや経歴の異なった2人による他に類を見ない戦いは観るものを魅了する。もちろんそれはモーター・レーシングに於いても例外では無く、ライバル同士による幾多の名勝負が常にレースを盛り上げて来た。F-1グランプリだけを取って見ても、ファン・マヌエル・ファンジオvsスターリング・モス、グラハム・ヒルvsジム・クラーク、ニキ・ラウダvsジェームズ・ハント、ネルソン・ピケvsナイジェル・マンセル、アイルトン・セナvsアラン・プロスト、ミハエル・シューマッハーvsミカ・ハッキネン等が思い浮かぶ。そして、今回取り上げる2人は何故か後世に"1人は英雄、もう1人は悪役"と記憶され、事実2人とも名勝負と呼ぶにはあまりにも悲しい結末を迎えてしまう為、あまり正しく語り継がれる事の無い2人、と言えなくも無い。"親友"であった筈の2人の天才レーサーが遭遇する数奇な運命。.....シリーズ・勇者達の肖像。vol.2は、今でこそフェラーリによるレース中の"チーム・オーダー"なるものが論議を呼んでいるが、20年前に同じフェラーリで起こり、そしてスクーデリアが「2度と繰り返したくない悲劇」として永遠に記憶する事となった、ジル・ビルヌーヴとディディエ・ピローニの2人を思い返す。 誰もが認める"F-1史上に残る伝説のドライバー"、ジル・ビルヌーヴは'50年1月18日、カナダ生まれ。元々スノー・モービルのレース出身と言う珍しい経歴を持つジルは'77年、当時でも決して若くは無い27歳と言う年齢で、ワールド・チャンプにしてチームのNo.1でもあるジェームズ・ハントの計らいでワークスでは無いマクラーレンの"3台目"を駆ってイギリス・グランプリでF-1にデビュー。今や考えられない事だが、この年の夏、さしたる成績も残していないにも関わらずその走りを「まさに天才だ」と評したエンツォ・フェラーリの鶴の一声で、シーズン中にも関わらず電撃的にフェラーリへと抜擢される。が、この"エンツォが最も愛した男"は天真爛漫な性格で自由にマシンをドライヴし、決して自国カナダやフェラーリの期待を一身に担うような"プレッシャー"を全く感じさせず、パドックで誰からも愛されるドライバーでもあった。それでいてマシンに乗り込めば誰もが釘付けになるような激しいアタックをし、記録よりも"記憶に残るドライバー"として後世まで語り継がれる事となる。'78年、ジルは"アルゼンチンの鷹"カルロス・ロイテマンのNo.2としてフェラーリでフル出走し、地元カナダ・グランプリで奇蹟の初優勝を遂げる。'79年、ディジョンで行われたフランス・グランプリではルノーのルネ・アルヌーとホイール・トゥ・ホイールの激しい2位争いを展開し、ジルのベスト・レースのひとつとして名高い。また、この年はフェラーリのエース、ジョディ・シェクターがイタリア・グランプリでチャンピオンを獲得、ここまでジルはシェクターのNo.2として完全な仕事を行い、前を行くシェクターを1度も脅かす事の無い完璧な走りで1.2フィニッシュを達成。レース後、フェラーリのマウロ・フォルギエリから「(ジルにも逆転王者のチャンスがあったにも関わらず)彼は不本意だったかも知れないが、プロとして見事な仕事をした」と言われ、ジルは「偉大なドライバーであり、最高の友人である彼の後でフィニッシュして、しかもチームがダブル・タイトルを獲得出来たんだ。それ以上何が必要だい?」と、何の皮肉も無く答えている。ティフォージ達はますますジルを愛し、翌年こそはジルがタイトルを獲る番だ、と信じて疑わなかった。だが翌々年から使用するターボ・エンジン開発に気を取られた事もあり、'80年はチームそのものが未勝利に終わってしまい、フェラーリは長い低迷期へと入ってしまった。そして前年チャンピオンを獲得したシェクターは走りに精彩を欠き、逆にジルは例え結果が出なくても常に印象的な走りを見せた。シャシーは失敗作であったがエンジンの信頼性だけは高かった'81年、ジルはその卓越したドライビングでモナコとスペインで優勝、そしてこの年、ジルは運命のチーム・メイトと出会う事となった。 ディディエ・ピローニは'52年3月26日、フランス生まれ(実はネイティヴ・イタリアンだった、と言う説もある)。彼は自由な生き方をしたジルとは対照的に、フランスの"期待の星"としてグランプリに送り込まれて来た無口なエリート・レーサーであった。実際、F-2、F-3を順調に勝ち上がって来てフランスのエルフのスポンサードによって'78年にティレルからF-1にデビューし、新人ながら何度か入賞する等活躍。また同年はルノー・チームのドライバーとしてル・マン24時間にも出場し、見事優勝を遂げている。ここで既にフランスの雄、ルノーから'79年のオファーを受けるに至るが、ディディエを大変気に入っていたティレル・チームのボス、ケン・ティレルが強引にディディエをチームに残留させた。結局翌'79年いっぱいまでティレルで出走したがチームは徐々に低迷して行き、翌'80年は当時同じフランスのトップ・チームであったリジェに移籍、時折同国のエース、ジャック・ラフィーを脅かす程の活躍を見せ、ベルギー・グランプリでは念願のF-1初勝利を飾る。この頃からルノーのルネ・アルヌーとともにF-1史上初のフランス人・チャンピオンへの期待を担い、シェクター離脱後のフェラーリに、ジル・ビルヌーヴのチーム・メイトとして迎え入れられる。が、後にそのフェラーリとの契約が実はリジェに加入した直後である'80年シーズンが始まったばかりの3月に既に交されていた事が判明、そのしたたかさと計算高さ、そして何よりディディエ自身の勝利への意欲の高さを物語っている。ディディエは「全ては予定通りなんだ。これは初めから決まっていた事なんだよ。僕がレースを始める、いや、きっと僕がこの世に生まれる以前からね」と、自らの才能と進むべき道を信じて疑いはしなかった。だが、フェラーリに加入した'81年、ディディエは"負ける気がしなかった"筈のチーム・メイト、ジルに対し思わぬ苦戦をしいられ、彼の中で初めての手強い相手と出会う。反対におおらかな性格のジルは、この2歳下の新しいチーム・メイトを家族同様に扱い、ディディエに対し様々なアドバイスをしていた。そして悲劇のきっかけはディディエが作った、と言っても過言では無いだろう。 '82年、ハーベイ.ポトレスウェイトによるフェラーリのニューマシン、126C2は素晴しい性能を誇っていた。迎えたイモラでのサンマリノ・グランプリ、ルノーのアルヌーがリタイアして完全なフェラーリの1.2態勢が出来上がり、地元のティフォージ達は狂喜していた。トップはジル、ディディエは2位。そして45周目、フェラーリのピットからは"stay(そのままの順位でゴールしろ)"と言うサイン・ボードが出された。つまり、チーム・オーダーである。若い2人のドライバーが、もしも争う事によって接触でもし、勝利出来なかったらフェラーリは世界中に大恥をかく事になる。それと同時に、傑作マシン126C2を擁するこの'82年シーズンをフェラーリはジル・ビルヌーヴ優先で戦い、チャンピオンを狙う事が宣言されたと言う意味をも持っていた。が、残り2周と言うところで事件は起きた。ディディエがジルを抜き、トップに立ってしまったのだ。レース後、「奴の仕掛けて来た事が、決して満員のスタンドを楽しませる為では無い事は解った」とジルは語った。チームのオーダー通りに走行していたジルは危険なドライヴを避け、この突然のチーム・メイトの謀反に対し動揺し、結局優勝は0.3秒差でディディエが奪った。無論、表彰台で2人が眼を合わせる事は無かった。いや、この瞬間からジルは死ぬまで1度もディディエを許す事はなかったのだ。エンツォは「ジルが感じたであろう失望、不安が、私には良く解る」とジルに同情した。が、ジルが2勝を上げた前年、自分は1勝も出来なかったディディエの焦りは解らないでも無い。しかし、あまりにもそのやり方がまずかった。そして運命の'82年5月8日、問題となったサンマリノ・グランプリからわずか13日後、次戦ベルギー・グランプリの舞台となったゾルダー・サーキットで悲劇は起こった。 仲の良かったチーム・メイトから一転、ジルにとって最大のライバルであり標的となってしまったディディエはベルギー・グランプリの予選に於いてトップ・タイムを記録し、決勝レースでのポール・ポジションをほぼ手中に収めていた。そしてこの前日、あるインタビューに於いてディディエに対し「.....イモラで彼が行った事、彼はそれを手に天国に行く事は許されない」とまで言っていたジルが、ディディエのタイムを破るべく、持てる力の全てを使って最後の予選タイム・アタックへと向かう。が、途中、アタックを終えてスロー走行中だったヨッヘン・マスのマーチを避け切れず、マスのマシン後部に高速で追突し、大破。ジルはバラバラになったマシンから投げ出される形でフェンスに激突。伝説のフェラーリ・ドライバー、ジル・ビルヌーヴは死亡した。享年32歳。エンツォが、イタリアが、世界中が驚愕し、そして泣いた。ディディエもまた、動揺を隠せ無かった。その3ヶ月後、今度はディディエを悲劇が襲う。オランダ・グランプリで優勝したディディエは'82年のチャンピオン候補の本命としてシーズンを戦っていたが、ドイツ・グランプリの予選で今度はディディエが両足を打ち砕かれる大事故に遭遇。前日のセッションで既にポール・ポジションを獲得し、大雨で視界が全く無く、当然誰もタイム・アップ等不可能なこの日、スロー走行中だったアラン・プロストのルノーにディディエは異様な程の猛スピードで激突。いったい何故猛スピードである必要があったのかは解らない。また、この件が後のプロストの雨中のレースでの異常なまでの慎重さのきっかけともなった。このレースはジルの代わりにフェラーリに乗るパトリック・タンベイが優勝し、この年フェラーリはコンストラクターズ・タイトルを獲得。が、結局ディディエはこの事故でドライバー生命を絶たれ、後に"水上のF-1"と言われるパワー・ボートへと転向するが、'87年8月23日、そのパワー・ボートのレース中の事故で死亡。享年35歳であった。 イモラでスクーデリアが出した"チーム・オーダー"を、ジルは当然のように受け止め、反対にディディエは受け入れる事が出来なかった。そして、事態は最悪の結末へと向かってしまった。ジルが死亡するほんの2週間前まで、ジルはディディエをライバルだとは思っていなかった。そして、ジルがライバルであると感じる対象は、恐らくディディエだけだっただろう。反対にディディエにとっては、フェラーリに加入したその瞬間から、生涯"初のライバル"となったのがジルだったのではないかと思う。数奇な運命を辿ったふたり、ジルとディディエ。.....ディディエの恋人、カトリーヌはディディエの死後、双子の男児を出産。その2人はジルとディディエと命名されている。
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