■lap109-"頑固一徹"/パトリック・ヘッド物語-
2004.08.01


"テクニカル・ディレクター"。直訳すると"技術監督"である。では、レーシング・チームに於けるテクニカル・ディレクターの立場とは何か。実際にはチームの規模や方針等によっても捕らえ方が違うのだが、多くの場合はマシンのデザイン/製作/調整等の各分野を統率する立場、と考えて良い。もちろん長いF-1グランプリの歴史の中には、テクニカル・ディレクターがチーフ・デザイナーを兼任していたり、何れの分野にも実際には手を出さない管理職的な役割だったり、と様々である。ロータスのボス、コーリン・チャップマンはチーム・オーナー兼デザイナー兼テクニカル・ディレクターだったし、フェラーリのロス・ブラウンはロリー・バーンのマシン設計には一切口を出さない"現場"監督である。

.....彼は"理想"であった。チーム創設時からチーム・オーナーと共に在り、30年近く経過した今季まで如何なる引き抜きにも動じず、常に我が道を貫き通して来た男。ウィリアムズ・チームのパトリック・ヘッドこそ、レーシング・チームの真のテクニカル・ディレクターの姿である。

パトリック・ヘッドは'46年6月5日、イギリス/ファンブローにて誕生。父コロネル・マイケル・ヘッドは元英国軍大佐、と言う厳格な家である。当然、ヘッドはカトリック系の学校で少年期を過ごすが、何故レースの世界に魅せられたのか。「私の父は'50年代にジャガーのスポーツ・カーでクラブマン・レースに出場していたんだ。だから週末はいつも父のレースを観に家族でサーキットへ出かけていた。私も徐々に自動車と言うものに惹かれて行ったんだろう。最初は退屈だったんだがね」ヘッドは名門ウェリントン・カレッジを卒業し、海軍大学へと進学。ところがたった3ヶ月で退学してしまう。「海軍大学へ入って、やっと気付いたんだ」この頃ヘッドは連日友人とゴーカートやダート・ラリー等に明け暮れていた。自宅の裏庭でマシン・チューニングを行う、所謂"バックヤード・ビルダー"である。「私がやりたい事は、自動車工学だったんだ。レーサーじゃない。どうすれば後10馬力出せるのかとか、そんな事だったんだよ」ヘッドはロンドン・ユニバーシティ・カレッジへ入り、機械工学を修得。在学中には自らレース用マシンも製作する程であった。'70年、工学士となったヘッドは就職先を探す。目に入ったのは、レース誌に掲載されていたローラ・カーズの求人広告であった。

エリック・ブロードウェイ率いるローラ・カーズは、当時北米のCanAmシリーズで成功を収めていた量産コンストラクターであった。同時に下位カテゴリーであるフォーミュラ・スーパー・ヴィーやF-2/F-5000等のシャシー製作も請け負い、若きエンジニアにとっては下位カテゴリーを登竜門としたピラミッド型のメーカーであった。ヘッドはローラへと就職し、それまでの"知識のあるバックヤード・ビルダー"から、レーシング・カーの専門家としてのノウハウをゼロから学ぶ事となった。そして、ヘッドはここで同い年の若きエンジニア、ジョン・バーナードと出会う。学生時代に同じバックヤード・ビルダーとして自動車のメカニズムに傾倒したふたりは意気投合した。「彼は私よりも1年先輩だったんだ。何故なら、私には海軍大学中退の1年があったからね(笑)」が、ここではお互いがライバル同士である事もまた事実であった。'72年、ヘッドはフォーミュラ・ヴィー/F-2の開発/設計に携わっていた。だがこの年、既に自身初のデザインとなったT260でCanAmで勝利を挙げていたバーナードはF-1のマクラーレン・チームへと移籍して行った。「ローラは優秀なメーカーだったが、残念な事にF-1やインディ等、本当の意味でのトップ・カテゴリーには参戦していなかった。エンジニア/マシン・デザイナーなら誰でも挑戦したくなるものさ」バーナードはヘッドに「パット(ヘッド)、いつか世界最高峰のカテゴリーで戦おう」と言い残してローラを去って行った。

'73年、ヘッドはバーナードの後を負うようにローラ・カーズを退社する。が、バーナード程の結果を残していなかったヘッドにF-1やインディ・チームからの誘いがあったわけでも無く、ヘッドはまずジェフ・リチャードソンでフォーミュラ・スーパー・ヴィー用のエンジン開発を手掛け、トロージャン・チームへと出向する形でガイ・エドワーズのF-5000用マシンやリチャード・スコットのF-2マシンを製作。そうこうしている内に、ヘッドの元に初のトップ・カテゴリーからのオファーが届く。求人主はフランク・ウィリアムズであった。だがこの時、ウィリアムズのチームは決して良い状態とは言えなかった。

フランク・ウィリアムズは'70年にフランク・ウィリアムズ・レーシング・カーズを興し、旧友のドライバー、ピアース・カレッジと共にブラバムやデ・トマソのマシンでF-1グランプリへと挑戦したが、カレッジが第5戦オランダ・グランプリのレース中にクラッシュし、燃え盛るマシンから脱出出来ずに死亡。途方に暮れたウィリアムズはカナダの大富豪、ウォルター・ウルフにチームを売却。自身は"雇われ監督"の身となり、ウルフが買収したもうひとつのチーム、ヘスケスのチーフ・デザイナー、ハーヴェイ・ポストレスウェイト設計のヘスケス308Cをウルフ・ウィリアムズFW05として改良しての参戦、と言うスタンスであった。もちろん技術面では素人のウルフに全てが統率出来る筈も無く、チーム内はバラバラだった。'75年、ヘッドはそこへ入り、ポストレスウェイトの部下としてマシン開発に関わった。「とは言え、ヘスケス308Cは既に古いマシンだったから、これ以上の改良は不可能だったんだ。ハーヴェイ本人もさじを投げていたくらいだからね」しかしヘッドは、天才ポストレスウェイトの仕事振りをその目に焼き付けていた。

'76年、遂にウィリアムズが爆発した。「もう我慢出来ない。もう一度、自分のチームをゼロから作る」ウィリアムズはウルフと決別し、新たな自チームを発足させる事を決意した。しかし、ポストレスウェイトは既に進行中だった'77年用のニュー・マシン、ウルフ・ウィリアムズFW06の開発を中断するわけには行かず、自身はウルフと共にチームに残留する道を選んだ。ウィリアムズは賭けに出た。まだ新人だったヘッドを新チームのチーフ・デザイナーとし、マシン設計を一任したのである。「危険な賭けだった。だが、パトリックは短時間でとてつもない量の情報を飲み込んで行った。彼なら全てを任せても良い、と思ったんだ」ウィリアムズとヘッドは'77年シーズンを棒に振り、新たなオリジナル・マシンの設計/開発に没頭した。その頃、ポストレスウェイト設計のニュー・マシンはウルフWR1と名を変え、デビュー戦優勝と言う快挙を成し遂げていた。

'78年、ウィリアムズはアラブの大富豪、サウディア航空をスポンサーに、ウィリアムズ・F-1・チームを結成。そしてヘッド初のオリジナルF-1マシン、ウィリアムズFW06・フォードが完成、ドライバーには前年に中堅チームのシャドウで初優勝を遂げたオーストラリア人、アラン・ジョーンズを迎え、意気揚々とシーズンに望んだ。

.....ところが、'78年のF-1グランプリはその後のレーシング・カーの歴史そのものを揺るがす、ひとりの男の大発明に翻弄されていた。チャップマン率いるチーム・ロータスが打ち出した、"グランド・エフェクト・カー"と言う発想である。それまで誰も手を出さなかったマシンのアンダー・フロアの気流に着目し、マシン上部だけで無く下部を流れる空気をコントロールする、と言うコンセプトで生まれたロータス79は圧倒的な強さ/速さを見せ、他の全てのマシンを一瞬にして時代遅れにして行った。それまでレーシング・カーの空気抵抗はエンジン・パワーに反比例する、単なる"抵抗"に過ぎなかった。が、チャップマンは逆にこの抵抗を利用し、真の意味での"ダウン・フォース"を発見したのである。それまでエンジン・パワーのものを言わせていたフェラーリやマトラらは惨敗し、逆に軽量/コンパクトなV8エンジンが有利な時代を迎えようとしていたのである。

ヘッドが作ったFW06は決して悪いマシンでは無かった。ジョーンズは第4戦ロンビーチ/第16戦カナダで最速ラップを記録し、第15戦ワトキンス・グレンでは2位フィニッシュを達成した。しかし、まだ勝利は見えなかった。「ロータスのやっている事はだいたい解った。だが、我々のチームには風洞施設も無く、グランド・エフェクトを体感する事はまだ不可能だったんだ」ウィリアムズはメイン・スポンサーのサウディアに働きかけ、独自の風洞施設を建設。ヘッドはチャップマンのグランド・エフェクト構造をモチーフにしながらも一歩踏み込み、サイド・スカートと路面の隙間から流れる乱気流によって起こるマシンのポーパシング(シャシーが不安定になる現象)を解決する、アルミ・ハニカムによるバスタブ構造のモノコックを製作。'79年、ウィリアムズFW07は多くのチームがロータスの模倣に走る中、高いポテンシャルを持ってシーズンに挑んで行った。

'79年第10戦イギリス・グランプリ。この年から2カー態勢となったウィリアムズは予選でジョーンズがポール・ポジション、チーム・メイトとなったクレイ・レガッツォーニが4番手を獲得。オープニング・ラップで3番手のネルソン・ピケ(ブラバム・アルファロメオ)がコース・オフし、21周目に2位のジャン・ピエール・ジャブイーユ(ルノー)がエンジンを壊すと、ジョーンズ/レガッツォーニのウィリアムズ1-2態勢となった。38周目にジョーンズもエンジン・トラブルで戦線を離脱するが、その後レガッツォーニが安定した走りで首位を快走、2位ルネ・アルヌー(ルノー)に24秒の大差を着けてトップでチェッカーを受けた。「最後の数ラップは、正直言って私もフランクも祈るような気持ちだったよ」ヘッドのF-1マシンはキャリア26戦目で遂に勝利を手にしたのである。その後、波に乗るウィリアムズはジョーンズが3連勝を含む4勝を挙げ、コンストラクターズ・ランキング2位と言う活躍を見せた。

翌'80年、ヘッドは前年モデルをより熟成させたFW07Bを投入、今度はFW07を模倣して来たライバル達を寄せ付けず、ジョーンズが5勝を挙げて遂にWタイトルを獲得。'81年はドライバーズ・タイトルこそブラバムのピケに奪われたものの、4勝で2年連続コンストラクターズ・チャンピオンを獲得した。'82年は新車FW08で新加入のケケ・ロズベルグが僅か1勝ながら混迷のシーズンを制し、ドライバーズ・タイトルを獲得。結果だけ見ればウィリアムズは3年連続でタイトルを獲得したトップ・チーム、と言えた。

.....グランド・エフェクトと言う分野で他を圧倒したヘッド/ウィリアムズ陣営だったが、'83年は思わぬ苦戦を強いられる。お家芸であったV12を捨て、V6ターボ開発にチャレンジしたフェラーリと、同じくBMWターボと油の乗り切ったピケを擁するブラバム、そしてターボ・エンジンの先駆者ルノー。ウィリアムズは彼等の前に惨敗した。時代は急速にターボ・エンジン時代へと移行し、ウィリアムズを初めとするNAのフォード・コスワースV8勢は突如圧倒的不利な状況を迎えたのである。更に、'82年のジル・ビルヌーヴの死亡事故で、接触等のアクシデントでマシンが宙に浮く危険性が指摘され、FIAはグランド・エフェクト構造に原因があるとしてフラット・ボトムを規制。加えて、ウィリアムズがアルミ・ハニカムのモノコックで成功を治めたのに対し、名門マクラーレンが更に軽い史上初のカーボン・ファイバー製のモノコックを製作し、ポルシェ・ターボ・エンジンを搭載したMP4/1を投入して来たのである。そしてそのマシンの設計者は「いつか最高峰で戦おう」と誓ったヘッドのかつての僚友、ジョン・バーナードだったのである。

ウィリアムズ同様、NAのフォード・エンジンで戦っていたマクラーレンは、成績低迷のテコ入れとしてロン・デニス率いるプロジェクト4にチームを委ね、再生を図った。バーナードは'72年にマクラーレンに加入後、'75年からパーネリーのインディ・カーのデザインを手掛け、'80年にデニスと共に再びF-1マクラーレン・チームに関わっていた。そして'82年、シーズン中にも関わらずエンジンをポルシェV6ターボへとスイッチし、グランド・エフェクト時代の終焉とカーボン・モノコックによる新たなF-1マシンの定義を打ち出したのである。「ジョンがやって来るって事は、間違い無く意味がある事なんだ」ヘッドは周囲の意見に流されるような男では無かったが、バーナード程の男が決断するものは間違いで無い事を誰よりも理解していた。'83年、ヘッドはフォードV8搭載のFW08Cでシーズンを戦いながら、この年15年振りにF-1に復帰したホンダ製V6ターボを搭載するニュー・マシン、FW09の製作に突入する。

'84年、ニキ・ラウダ/アラン・プロストを擁するマクラーレン・ポルシェはシリーズを完全制覇する。が、ヘッド/ウィリアムズはまだホンダ・ターボ搭載のFW09のシャシー・バランスに苦しんでいた。第9戦ダラスでロズベルグがホンダに復帰後初勝利を齎すが、特殊なストリート・コースでの勝利はマシン性能とイコールでは無かった。特に、ヘッドは高速コースでの安定性に重点を置き、ロッカー・アーム式のサスペンション搭載のFW09Bを製作するが、バーナードのマクラーレン・ポルシェに迫るものでは無かった。「この頃はまだ、基本設計がフォードV8時代のマシンのままだったんだ。ここで初めて、今までのノウハウを捨てる覚悟をした」'85年、遂にヘッドはカーボン製モノコックの採用に踏み切った。'85年第7戦フランスに投入されたFW10・ホンダは快進撃を見せ、シーズン終盤ナイジェル・マンセルが3連勝する等、一躍ターボF-1時代を凌駕し始めたのである。しかし翌'86年、チームは創設以来最大の危機に見舞われる。

.....'86年3月8日、チーム・オーナーのフランク・ウィリアムズがポール・リカールのテストから帰宅する途中レンタカーで事故を起し、半身不髄の重傷を負ってしまったのである。これにより、ウィリアムズ・チームの存続そのものが危ぶまれ、ホンダはウィリアムズを見切り、マクラーレンとの契約を決断。誰もがウィリアムズの終焉を覚悟した。だが、ヘッドがウィリアムズの留守を守り、ウィリアムズFW11は全16戦中9勝を挙げて5年振りにコンストラクターズ・タイトルを獲得する。だが、ドライバーズ・タイトルはマクラーレンのプロストに奪われてしまう。ウィリアムズはマンセルとピケの両ドライバーに勝負を命じ、結果的に勝ち星が分散してしまったからである。「これはフランクの哲学でもあり、同時に私の哲学でもある。ドライバーはレースをするんだ。決してエースとNo.2じゃない」翌'87年はアクティヴ・サスペンション搭載のFW11Bで4度の1-2フィニッシュを含む9勝で2年連続コンストラクターズ王者となり、ドライバーズ・タイトルも今度こそピケが獲得。チームにとって最大の危機を乗り越え、時代は再びウィリアムズのものとなった。

'88年、FIAは'88年をもってターボ・エンジンの使用を禁止する事を決定。ウィリアムズはホンダとの決別に伴い、ジャッドV8へと移行するがパワー不足で低迷。だが翌'89年からルノーV10を搭載する事が決定。再びNA時代を迎えたF-1で、ヘッドはグランド・エフェクト・カー時代に培った空力分野に重点を置いたマシン設計に目を向け、レイトンハウスから空力の奇才、エイドリアン・ニューウィーを招き、その後の近代F-1の要ともなる電子制御システム(アクティヴ・サス/トラクション・コントロール等)を重視したコンセプトでライバルに勝負を賭けた。そして'91年、"究極のハイテク・マシン"と呼ばれたFW14・ルノーはシーズン終盤に最強マクラーレン・ホンダを追い掛け回し、翌'92年には発展型のFW14Bでマンセルの初王座と共に5年振りのWタイトルを獲得。翌'93年はFW15とプロストを擁して2年連続Wタイトル。どちらもウィリアムズがライバルを全く寄せ付けず、圧倒的な強さを見せたシーズンであった。

.....'94年、またしてもチームを悲劇が襲う。第3戦サンマリノ・グランプリでFW16に乗ったセナが事故死。ウィリアムズ/ヘッド/ニューウィーらはイタリア/ボローニャ検察局によって裁かれ、バッサリーニ検事はヘッドとニューウィーに事故原因を問い、"殺人容疑"で懲役1年を求刑したのである(その後一旦証拠不十分で両名とも無罪が確定するが、'04年に裁判の再開が決定している)。チームは混乱した。「如何なる状況であれ、チームがドライバーを危険に曝すような改造を行う筈が無い」ヘッドの言葉は真実であり、かつて親友のカレッジを失ったウィリアムズもまた同様である。結局シーズンはチーム2年目のデイモン・ヒルが健闘して最終戦までタイトルを争うが、ベネトン・フォードのミハエル・シューマッハーに敗れコンストラクターズ・タイトルのみ獲得。だが'94年の混乱のツケは大きく、'95年は無冠に終わる。

'96〜'97年、チームは再び奮起した。電子制御システムの廃止に伴い、ヘッドが新たに打ち出した"トータル・パッケージング"と言う構想は高い信頼性と操縦性を実現し、ヒルとジャック・ビルヌーヴを擁して2年連続Wタイトルを獲得したのである。が、'97年でその"トータル・パッケージング"の一端であるルノーがフランスのメカクローム社にF-1用エンジンの継続開発を託してF-1休止を決定。'88年に続き、ウィリアムズはまたもエンジン・サプライヤーとの決別でバランスを崩して行く。

.....エンジン・パートナーの撤退により、非ワークスのメカクローム・エンジンで'98〜'99年と未勝利に終わると言う苦汁を舐めたウィリアムズは、'00年からBMWとエンジン供給契約を結ぶ。また、ニューウィーがマクラーレンへと移籍したのに伴い、ヘッドは若いギャビン・フィッシャーをチーフ・デザイナーに任命。'01年に17年振りにF-1参戦したミシュラン・タイヤを上手く使って優勝戦線に復帰し、'03年にはファン・パブロ・モントーヤとFW22でタイトル争いに参加するまでに力を付けて来た。そして'04年5月26日、ウィリアムズ・チームは'01年にチームに加入したレース・エンジニアのサム・マイケルを新たにテクニカル・ディレクターに任命し、ヘッドは"ディレクター・オヴ・エンジニアリング"職となる、との発表を行った。58歳のヘッドにとって、これは事実上の"勇退"だろうか。「これが私の引退の予兆だなんて思わないでくれよ(笑)。私自身は新しいポジションでより忙しくなるんだから」ヘッドは自らが育てたマイケルに引導を渡したのでは無い。自ら、より見通しの良いポジションへと登ったのである。

.....ヘッドのF-1キャリアは、27年間ウィリアムズ一筋である。ひとつのチームにテクニカル・ディレクターとして在籍した期間としては当然F-1史上最長記録だ。また、ヘッドはウィリアムズ・チームの共同株主でもある(持ち株は約30%と言われている)。多くのマシン・デザイナー/テクニカル・ディレクターがヘッド・ハンティングで様々なチームを渡り歩くのを横目に、ヘッドは黙々とウィリアムズへの忠誠を貫き通して来たのだ。「若い頃はレースで生計が成り立つとは思って無かった。いつかは生活費の為に洗濯機を設計しなくてはならないんだろうなと思っていたくらいだ(笑)。そう考えればむしろ、今までクビにならずに済んでいたのは幸せな事だよ」恐らくは高額なギャランティによるヘッド・ハンティングを何度も受けているであろうヘッドだが、自らにチャンスを与えてくれたウィリアムズに忠誠を誓い、'86年の事故でウィリアムズが最大の危機を迎えた際はウィリアムズの"手足"となった。ヘッドがいなかったら、今日のウィリアムズの成功、いや継続すら無かった、と断言出来る。

世間一般のヘッドのイメージは"頑固一徹"である。.....いや、ヘッドだけで無く、フランク・ウィリアムズも含めた"ウィリアムズ両首脳"のイメージと言ったらそれはもはや"鬼"と言うべきかも知れない。「酷いもんだよ」と笑うのは'96年王者のヒル。「なにしろシャレが通じないんだ。フランクは黙っているからまだ良いんだが、スピンしてレースを終えた時『いや、アラン(プロスト)より良いラインを走ろうとしただけなんだ』と言うと、パトリックは『じゃあどんなラインなのか正確に説明しろ』と言ってペンとコースの図面を渡すんだ。それも僕の身長よりもデカいコース図をだよ!(笑)」'93年王者のプロストも同意見である。「入ったばかりの頃は、なんて冷たいチームなんだ、と思ったよ(笑)。でも、パトリックは良い戦績を残している時は上機嫌でユーモアもあるが、そうで無い時との落差が激しいんだ」一般的にウィリアムズとヘッドは高額なギャラを要求するトップ・ドライバーに興味を示さない、と言うイメージを持たれている。マシンの性能を弾き出せるのであればドライバーは誰でも良く、チームにスター・ドライバーは不要、との印象が強い。事実、'92年王者のマンセルとは契約金と条件でモメて決別しており、F-1チームの中でもシビアなマネー・センスの持ち主である事は事実なようである。では、ヘッドには贔屓にしたドライバーはいないのだろうか。「ケケ(ロズベルグ)さ」と、ヘッドは遠い目をする。「彼は素晴らしかった。アグレッシヴで、正確で、そして美しいラインを走る。セナもアランもナイジェルもピケも素晴らしかった。が、ケケはその全てを兼ね備えていたよ」"セナもアランもナイジェルもピケも".....読者の方もお気付きだろう。彼等は充分、スター・ドライバーを雇い入れて来たのだ。

ウィリアムズ/ヘッドの歴史を振り返った時、彼等は決して"今まで誰もやった事の無い、斬新なアイデア"を持ち込んだりはしていない。'82年、ヘッドは6輪F-1マシン、FW07D・フォードを製作している。'76年にティレルが前輪4本+後輪2本の6輪車を実戦投入したが、2年間で開発は終了。同じ頃マーチ・チームのロビン・ハードが前輪2本+後輪4本の6輪車をテストするがこちらは実戦デビューする事無くお蔵入り。それから5年後、ヘッドはマーチ同様前輪2本+後輪4本のマシンを設計し、後輪に4WDを採用、更にホイール・ベースを極端に短くした。しかし'83年にFIAが4輪以上のタイヤ使用と4WDシステムの禁止を決定、FW07Dは実戦デビュー叶わずお蔵入りとなったのである。その後のFW08がホイール・ベースの短い"ズングリ型"なのは、このマシンの基本コンセプトが残っていた為である。「アレは絶対、FW07Dが『格好悪い』と言う理由で禁止されたんだ(笑)。でも、どうせなら作る前に言って欲しかったね」一見頑固一徹なヘッドも、他チームが取り入れて効果がありそうなアイデアは、自らも率先して試した。ロータスが持ち込んだグランド・エフェクトやアクティヴ・サスペンションもそうだ。周囲を良く見極めて、頑固でありつつも柔軟な開発姿勢。これがヘッドの成功の秘密である。

"頑固者"ヘッドと言えば、'02年第16戦アメリカ・グランプリを覚えている人は多いだろう。2周目の1コーナーで、チーム・メイト同士で先を争うラルフ・シューマッハーとモントーヤが接触、両者コース・アウト。その瞬間国際映像に映し出されたのは、ピットで頭を抱えて明らかに"例の4文字"を叫ぶ激高したヘッドの姿であった。「『なんて事をしてくれたんだ!』ってね。同士打ちは、チームにとって最も避けなければいけない事だ」'78年にロータスがマリオ・アンドレッティ/ロニー・ピーターソンを完全に"エースとセカンド"としてWタイトルを獲得し、チーム・プレーによる完全制覇を成し遂げた時も、ヘッドとウィリアムズは"チーム・オーダー"を出さなかった。ウィリアムズはジョーンズ/カルロス・ロイテマン、ピケ/マンセル、ヒル/ビルヌーヴ等、"チーム・メイト同士の激突"が史上最も多かったチームでもある。「マクラーレンのように、セナとプロストを一緒に走らせるなんて不可能だ。そいつはパトリック・ヘッドとジョン・バーナードを同じチームに置くより困難だよ(笑)」とはウィリアムズのコメントである。

.....'03年第10戦、フランス・グランプリ。ラルフ・シューマッハーとモントーヤによるウィリアムズ1-2走行中、モントーヤのピット作業に僅かなミスがあり、モントーヤは無線で「本当はラルフに勝たせたいんじゃないのか!」とチームを罵倒。当時チーフ・エンジニアだったサム・マイケルは「自分が遅いのを棚に上げるな!」と逆襲。.....若干33歳のマイケルに賭けたヘッドの選択が正しかった事は、ほんの数年で証明されるだろう。



「'77年2月28日。ウィリアムズ・チーム設立のこの日から、彼は私の"共犯者"だ」
-'93年/フランク・ウィリアムズ-


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