| '89年F-1最終戦、オーストラリア・グランプリ。日本人初のF-1フル参戦ドライバー、中嶋悟(ロータス・ジャッド)は豪雨の中自己最高位タイの4位でフィニッシュ、F-1挑戦3年目にして日本人で初めてレース中の最速ラップを記録した。翌'90年、2年目の鈴木亜久里(ラルース・ローラ・ランボルギーニ)は第15戦日本グランプリで3位フィニッシュを果たし、日本人で初めてF-1の表彰台に立った。 .....そして'92年、先輩ふたり同様、前年の"全日本F-3000選手権王者"の肩書きを引提げて、ひとりの若者がF-1グランプリにデビューした。彼の名は片山右京。既に最速ラップと表彰台をその目で目撃した日本の"F-1ファン"は、3人目となる彼に日本人初の"勝利"を求めた。そして彼自身も、その日を信じ、ただがむしゃらに走り続けた。 片山右京は'63年5月29日、東京都新宿区にて予定より一ヶ月早く誕生。"右京"と言う名前は彼の叔父、片山左京氏の命名である。16歳でオートバイの免許を取り、18歳で4輪の免許を取得するが、実は右京はそれまで自動車レースとは無縁のスポーツ少年であった。子供の頃は、父の背中を見て育った。右京にとって"憧れ"とは、父そのものであった。「親父と山に登る。親父は黙って、どんどん登って行く。小さかった僕はただ必死に着いて行くだけなんだけど、もうヘトヘトに疲れて、景色なんかもどうでも良くて(笑)。泣きべそをかきながら帰って来て、親父と風呂の湯舟にザブンと入る。ずっと黙っていた親父が『どうだ、気持ち良いだろう?』と聞く。するとね、解るんだ。親父の言いたかった事の意味が」見た目の幼さとは裏腹に(?)、右京は男らしさとは何かを、父からしっかりと受け継いだ。小学生時代は自転車で日本一周を目指し、中学生時代は町田市のマラソン大会で優勝、高校時代は全国高校駅伝に出場する腕前(足前?)を持つ。「例えば、"カート・レース"なんてものがある事すら知らなかった。バイクに乗り始めたのも、回りが皆乗ってたからで、18歳になるまでは無免許で4輪に乗ったりした事も無いよ」右京にとって初めてのレース体験はマラソンだったのである。 '81年、日大三高在学中に自動車免許を取得した右京は、アルバイトで中古の昭和47年式カローラを購入する。右京は車の運転に酔いしれ、次第に本格的な走りを目指して"峠"へと向かう。大学受験を控えたある日、オートバイで事故を起こし、陸上の推薦入学がパーになった。「大学で駅伝をやるつもりだった。でも、この事故をきっかけに、何故かレーサーになりたいと思うようになった」.....何故かは不明だが、右京はレーシング・ドライバーを目指し始めたのである。そして'82年、19歳の右京は二台目の愛車、サニーを駆って初めてのサーキット、富士スピード・ウェイへ出かけ、練習走行を行った。.....が、2周した所でサニーは大破した。いや、右京が大破させた、が正しい。「何も覚えていない。ただ、気が付いたらクルマがメチャメチャで、自分が逆さまになっていた(笑)」"限界を超える"と言う頃がどう言う事か、右京はまだ知らなかった。が、この事故は彼のレーサー熱には全く影響しなかった。次に右京はFJ-1600/フォーミュラ・カー・レースへの本格参戦を志す。 .....が、フォーミュラ・カー・レースと言うものを良く知らなかった右京は、その参戦費用を知って愕然とする。「とてもじゃないが払えない。皆、どうやってこんな大金をかけてるんだ?。それとも、やっぱりレースはお金持ちにしか出来ないのか?」出かけて行った筑波サーキットで夢破れ、項垂れる右京の目に飛び込んで来たのは、筑波サーキット近くのオート・ルック・筑波ガレージに貼ってあった"メカニック募集/住み込み可"の広告であった。右京は迷わずガレージへ飛び込み、突然"住み込みメカニック生活"が始まった。来る日も来る日もオイルとガソリンに塗れ、サーキットでは他人のマシンのメカニックとして働き、ようやく念願叶ってFJ-1600シャシーを購入したのは'83年。初めてのマシン、SES01J・スバルはメカニックの経験を活かして自らが組み立て、JAF主催の筑波FJ-1600/B選手権にエントリー。2月20日、遂に右京はフォーミュラ・カー・デビューの日を迎えた。 .....結果は、なんとポール・ポジションからの圧勝であった。自分で買って自分で組み立てたSES01Jは、決して他者に比べて良い状態とは言えなかったが、ブッチ切りで勝った。第2戦もポール・トゥ・ウィン、結局全4戦を3勝/2位1回でチャンピオンとなってしまったのである。翌'84年はひとつ上のA選手権(鈴鹿)を制覇し、片山右京の名は一躍レース関係者の間に広まって行った。'85年、右京は長谷見昌弘率いる名門、ハセミ・モータースポーツに抜擢され、全日本F-3選手権へとステップ・アップし、最高位2位でシリーズ6位。「さすがに全日本F-3は層が厚かった」ちなみに同チームには鈴木亜久里も在籍していたが、この頃ニッサン・エンジン勢は苦戦を強いられていた。そしてF-3イベントが休みとなる8月、右京はフランスへと渡り、伝統のフォーミュラ・ルノー・スクールを受講する。そして、富士の"サニー2周で大破"、"自作FJ-1600デビュー・ウィン"に続く第三の伝説が生まれる。 .....僅か3週間のフォーミュラ・ルノー・スクールで、右京は'75年にアラン・プロストが出したコース・レコードを10年振りに塗り替えて帰国したのである。これで右京は'86年はフランスでレース活動をする事を決意した。 富士〜筑波〜鈴鹿の次がいきなりフランス、と言うのに理由はあったのだろうか。「.....小田急線に乗ったら新宿に着くように、飛行機に乗ったらフランスに着くでしょ(笑)。その程度にしか考えて無かった」恐らく右京は筑波でガレージの求人広告を見た時と同じように行動しただけなのであろう。が、このチャレンジングな性格はレーシング・ドライバー片山右京の育成には不可欠なものであった。'86年、右京はたったひとりで渡仏し、アパートを借り、フォーミュラ・ルノー選手権へと参戦。関係者の間には前年のコース・レコードの一件で既に右京の名は知れ渡っていた。エリック・コマス、ジャン・マルク・グーノンら、その後のF-1ドライバー達が右京と共に凌ぎを削った。開幕戦ノガロでは予選6位からいきなり5位入賞、第2戦アルビは予選3位からブレーキ・トラブルでクラッシュし、リタイア。第3戦マニ・クールでは遂にポール・ポジションを獲得、レース中に何度と無くクラッシュ/コース・アウトを繰り返し、あちこち破損したマシンで2位フィニッシュ。これを見たフランスのマスコミ/レース関係者は右京に"カミカゼ・ウキョー"の称号を与えた。第5戦クレルモン・フェランでは宙を舞い、日本の新聞には情報不足から"片山右京選手事故死?"の記事が載った事もある。だが当の右京は完全に波に乗っており、7月の第7戦からいよいよフランスF-3選手権へとステップ・アップする。ここにはジャン・アレジ/エリック・ベルナール等、更なる強敵が待ち構えていた。 .....しかし、この頃右京は度重なるクラッシュでボロボロの身体に加え、深刻な資金難に陥っていた。フォーミュラ・ルノーでの好成績による賞金も、マシン修理であっと言う間に消えて行った。「クラッシュして怪我しても、マシンは直さなきゃならないけど、身体は放っとけば直る。だから何日間かジッとしてて、自然治癒する。あの頃、僕はまるで動物だった(笑)。金が無いからしようが無い」5戦を戦って入賞無し、翌'87年、エンジンをアルファロメオからトヨタへと変更し、再びフランスF-3へとチャレンジするが成績は上がらず、7月の第8戦ポール・リカールを最後に遂に資金が底をついてしまった。右京は決断を余儀無くされた。「一旦日本へ帰ろう」翌'88年、右京は全日本F-3000選手権へと参戦する事を決意した。が、武者修行を終えた右京は母国日本でも苦戦を強いられる事になる。 帰国した右京を待ち構えていたのは、母国日本の最高峰カテゴリーでありながら、またしても"ガイジン"であった。全日本F-3000選手権はエマヌエーレ・ピッロ/ジェフ・リース/ロス・チーバーらがタイトル争いを繰り広げており、全日本F-3時代の先輩、亜久里が彼等を下してタイトルを獲得し、F-1グランプリへと出て行った。右京はシリーズ11位と振るわず、初めてのビッグ・パワー・フォーミュラに翻弄された1年となってしまった。更に初のル・マン24時間レースにクラージュ・ポルシェで出場し、目を覆う大クラッシュ。フランスでは"帰って来たカミカゼ・ウキョー"と揶揄された。2年目の'89年、全日本F-3000と平行して国際F-3000にもスポット参戦、だが全く歯が立たなかった。転機となったのは翌'90年、右京はかつて中嶋や星野一義を育てた名門、ヒーローズ・レーシングに抜擢されたのである。 既に国際化の進んでいた全日本F-3000選手権で、ジョニー・ハーバート/クリスチャン・ダナー/マウロ・マルティニらを相手に右京は奮闘し、2位1回/3位2回でシリーズ5位となった。更に、7月にF-1のブラバム・ヤマハのエンジン・テストを担当する事になった。初めてのF-1ドライヴである。「正直言って、パワーには驚かなかった。F-3000とさほど変わらない印象。それよりも、加速とブレーキに度胆を抜かれた」数回に渡るF-1のテスト・ドライヴは、右京に確固たる自信を付けさせた。'91年、全日本F-3000参戦4年目/ヒーローズで2年目の右京はシーズン中盤までに2勝を挙げ、遂に初のタイトルに王手をかけた。同時に、国内では「片山右京、来季F-1参戦か」との憶測が流れ始めた。実際、フランスのラルース・チームが翌年のドライバー候補として、右京に目を付けていた。ラルースは亜久里の離脱〜フッットワーク移籍が決定的となり、新たな日本企業の参入をも視野に入れ、幾つかの日本のメーカーに打診して来ていた。結局ラルースはフランスのベンチュリ社に65%の株式を売却し、残り35%をラルースと日本のセントラル・パーク(土井産業)が持つ事となり、右京/ヒーローズ・レーシングを支援していた日本たばこもスポンサーとして名乗りを上げた。ヒーローズの田中監督もようやく育てた右京を泣く泣く送り出す事に同意。右京のF-1進出は水面下で内定した。 '91年7月25日、F-1第8戦ドイツ・グランプリ開幕。この日、ホッケンハイム・サーキットでは中嶋(ティレル・ホンダ)の引退発表が行われた。日本のF-1先駆者が、静かに刀を置いた。その2ヶ月後の9月30日、右京の'92年F-1デビューが正式にアナウンスされた。「正直、決まるんじゃないか、とは思ってたのであまり実感が無い。でも、家に帰ったら布団の中でひとりでガッツポーズします(笑)」11月30日、全日本F-3000最終戦富士を2位で終えた右京は、'91年全日本F-3000王者としてF-1入りする事となったのである。 '91年12月17日、フランス/ポール・リカール・サーキット。F-1ドライバーとなった右京はラルースのテストに現れた。マシンは2年落ちのラルース・ローラLC90・ランボルギーニ、亜久里が鈴鹿で表彰台に乗ったマシンである。何故なら'91年のラルースはフォード・コスワース・エンジンを搭載しており、翌'92年は再びランボルギーニV12エンジンを使用する事が決まっていたからである。テスト初日、右京は殆ど走れなかった。何故なら、長身の亜久里/ベルナールの乗ったマシンは165cmの右京には大き過ぎ、シート合わせに苦労したからであった。しかし翌日、右京は1分5秒70のベスト・タイムを記録、これは前年のフランス・グランプリでの予選10位に相当するタイムであった(ラルースはベルナールの1分5秒85/予選11位が最高)翌日のフランスの新聞にはまたも"カミカゼ・ウキョーが帰って来た!"の文字が踊った。 '92年3月1日。F-1開幕戦南アフリカ・グランプリの舞台、キャラミ・サーキットに右京はいた。予選は18番手、出走した4人のルーキーの中ではトップであった。フォーメイション・ラップを終え、スターティング・グリッドに着くと、クラッチが切れず、ギアが入らない。右京はパニックに陥る。冷静になって考えようとすればする程、頭の中は真っ白になった。ふと気付いた。「そうだ、両手を上げてアピールするんだった」そう思った瞬間、グリーン・シグナルが点灯。後方のマシンが御構い無しに右京をブチ抜いて行く。「何だ何だ」そう思ってる内に最後尾に落ち、開き直った右京は強引にギアをブチ込んでヨロヨロとスタート。 .....ピエルルイジ・マルティニ(ダッラーラ・フェラーリ)をかわし、エリック・ヴァン・デ・ポール(ブラバム・ジャッド)をパスした。リカルド・パトレーゼ(ウィリアムズ・ルノー)にラップされ、しばらく付いて行こうとしてブレーキングを遅らせ過ぎてスピンした。色々な事があった。「もうそろそろ終わりだろう、と思ってサイン・ボードを見たら、"残り50周"と書いてあった(笑)。マジでショックだった。こんなに長いとは思って無かった」それでも右京はF-1デビュー・レースを4周遅れの12位でフィニッシュ、F-1ドライバーとしての第一歩を踏み出したのである。 第2戦メキシコは食あたりで最悪の体調。予選22位からスタートし、胃の中のものを全て吐きながら(何処へって、もちろんヘルメットの中にである)12位で完走、パルクフェルメでヨロヨロになりながらマシンを降りた右京を、チームは賞讃した。第3戦ブラジルは自己最高の9位完走、徐々に自信と結果を残し、第7戦カナダ・グランプリを迎える。 典型的ストップ・アンド・ゴーのサーキットであるモントリオールはブレーキング勝負+エンジン・パワーのコースである。右京はここにピッタリとハマり、予選はここまでで最高の11番手。中盤までトップ10圏内を落ち着いたペースで走り、44周目にパトレーゼがリタイアすると6位に、ミハエル・シューマッハー(ベネトン・フォード)がストップすると5位に上がった。前方はカール・ベンドリンガーのマーチ・イルモア。残り8周、差は6秒。「イケる」そう思った瞬間、最終コーナーで右京のランボルギーニV12は白煙を吹き上げてスロー・ダウン。右京自身のシフト・ミスによるオーバー・レヴだった。「まだベンドリンガーは見えなかったけど、絶対に抜いてやると思ってた。欲張り過ぎたと思う。とにかく、素晴らしいセット・アップをしてくれたチームの皆に申し訳無くって」ピットでマシンを降りた右京はチーム・スタッフに頭を下げて回った。 .....こう言うのを"鳴かず飛ばず"とでも言うのだろうか。第8戦以降の右京は予選20番手近辺、決勝リタイアか最後尾、と言うレースを7戦続けてしまう(第13戦イタリアはストップするも9位完走扱い)。「決勝のスターティング・グリッドに着くと、必ず何か問題が起きている。で、結局いつもそれが原因でストップ。正直、チームは性能を上げるどころじゃ無く、トラブルの原因も解らないままレースが終わる」しかし、第15戦鈴鹿にF-1ドライバーとして初めて母国凱旋した右京は、この年を最後にF-1を去るホンダの影に隠れていた"日本人ドライバーの存在感"を痛烈にアピールした。予選20番手から10周目にJ.J.レート、13周目にマルティニのダッラーラ・フェラーリ勢をパス、39周目にはここまで押され気味だったチーム・メイト、ベルトラン・ガショーとシケインで絡み、ガショーはリタイア。46周目には開発中のアクティヴ・サスペンション搭載で調子の出ないニコラ・ラリーニのフェラーリをS字で豪快にパス。結局マクラーレン・ホンダが母国最終戦を勝てなかった(2位/ゲルハルト・ベルガー)からか、目立ちに目立った右京は8位亜久里(フットワーク・無限)よりも大きな声援の中11位でゴールし、本人もガッツ・ポーズで応えた。 '93年、2年目の右京はかつて中嶋も乗った名門ティレルへと移籍。エンジンは右京が初めてF-1のテストを行ったヤマハのV10が搭載され、前年のイルモアよりも高回転が期待された。.....が、資金難に陥っていたティレルが用意したシャシー、020Cは、'91年に中嶋が乗ったマシン020の改良型に過ぎず、もう3年もニュー・マシンを出せないでいるのがチームの現状であった。右京は開幕から第6戦モナコまで、6連続リタイア。第10戦ドイツで新車021がデビューするも、結局第11戦ハンガリーの10位を最高位に、完走僅か4回。チーム・メイトのアンドレア・デ・チェザリスと共にティレルは9年振りのノー・ポイント(それも'84年はポイント剥奪による)となってしまった。「マシンが必ず何処か壊れる。だから、怖くて踏めない」チームもドライバーも、抜け出せない深みにはまっていた。欧州のマスコミは、2年間ノー・ポイントの右京を"スピンの多い荒いドライバー"と酷評した。インタビューに「次頑張ります」と、お約束のように答え続けるしか無い右京への期待は徐々に薄れて行った。 .....'94年は、近代F-1グランプリ史上最悪のシーズンである。明るいニュース等、人々の記憶に残ってはいないかも知れない。しかし、その混迷のシーズンで一際輝いた、我々に笑みを浮かべさせてくれたのは、右京だった。 フェラーリからティレルへ復帰したハーヴェイ・ポストレスウェイト博士の手によるティレル022は高速サーキットでトップ・チームに劣らぬ安定性を見せる名車だった。ヤマハOX10Aも速さ/信頼性の向上を実現し、開幕戦ブラジルで予選10番手、レースではピット作業に戸惑い、一時13位にまで落ちるが終盤6位まで上がり、目の前は2年前に抜き損なったベンドリンガー(ザウバー・メルセデス)、残り3周で今度こそ抜き、5位でフィニッシュ。F-1デビュー30戦目の初入賞であった。「今年のクルマはイケる!。チームに感謝しなくては」第3戦サンマリノは混乱のレース、予選9番手と初のシングル・グリッドから死亡事故/赤旗の混乱したレースを2度目の5位でフィニッシュ。シーズン中盤はエンジン・トラブル等でリタイアが続くが、第8戦イギリスで自己最高の予選8位から6位入賞。続く第9戦ドイツでは予選5番手を獲得し、スタートでタイトルを争うシューマッハー(ベネトン・フォード)とデイモン・ヒル(ウィリアムズ・ルノー)をブチ抜き、ゲルハルト・ベルガー/アレジのフェラーリ2台に次ぐ3位へ。アレジが電気系トラブルでヨロヨロとスロー・ダウンし、右京は2位へ。スタートで出し抜かれたヒルが焦って右京を抜きにかかるが、ブロックされ後退。シューマッハーがストレートで前を行ったが、その後後方のリジェ・ルノー2台を完璧に押さえ込んで3番手を快走。しかし6周目、突如スロットルが戻らなくなった右京のティレル022はタイヤを空転させたままオスト・シケインで大スピン。ピットへ戻るが修復不能でリタイヤとなった。「前方を見ていて、レース後半に燃料が軽くなればベルガーより速く走れる、と思っていた」.....このレースの覇者はベルガー、つまり、このレースで右京は初めてF-1での"勝利"が見え始めていたのかも知れない。続く第10戦ハンガリーは、高速のドイツ/ホッケンハイムとは正反対のテクニカル・コース。だがここでも右京は予選5番手を獲得。結果はリタイアだったが、欧州のマスコミ関係者は右京を"安定して速いドライバー"と言い始めた。1年前のあの評判が嘘のようであった。右京の'94年は結局完走4回で入賞3回(5位2回/6位1回)と言う数字に終わったが、イタリアでは最も勇敢だったドライバーに贈られる"プレミア・グリッタ"を受賞、イギリスのオート・スポーツ誌では'94年度ベスト・ドライバー第5位にランクされた。予選シングル・グリッド10回を誇る右京の評判は、この1年で一気に駆け昇った。 .....しかし翌'95年、右京はことごとく新しいチーム・メイトのミカ・サロの後塵を拝する事になる。予選は全17戦中4勝12敗、決勝成績でもサロが3度の入賞を含む完走12回、右京は最高位7位/完走僅かに4回でノー・ポイント。あげくの果てに第13戦ポルトガルではスタート直後の多重クラッシュで宙を舞い、ガード・レールに激突。そのまま病院に運ばれる大事故を起した。何をやっても上手く行かない年であった。翌'96年も状況は変わらず、サロ5ポイント/右京無得点。チームはヤマハ・エンジンと共に右京とも決別する事を決定。「言い訳だと言われるかも知れないけど、僕のせいじゃない。運が悪過ぎた。まだまだやれる」そう語った右京はチーム移籍を決意する。 '97年、右京はハートV8エンジン搭載の"万年テール・エンダー"、ミナルディへと移籍する。サロ優先のティレルにいるよりも、チーム・リーダーとしての地位を選んだ。「ミナルディは確かに最後尾の常連だけど、キチンとやるべき事をやれば絶対に戦える筈。今まではそう言う存在がいなかったんだと思う。なら、僕がやる」しかし、そう言ってシーズンをスタートした右京は10月10日、第16戦鈴鹿のフリー走行後、突如F-1からの引退を発表する。 「後進に道を譲ります」.....こんな、心にも無いセリフを右京が言う時は、大抵自分に自身を失くしている時である。「チームはもう1年残って若手の面倒を見てくれ、と言って来た。でも、それはやはりレーシング・ドライバーの仕事じゃ無い。レーサーは良いマシン/良いエンジンに乗って、エンジニアにワガママを言って、それで速くなったマシンで結果を出すだけ。それ以外の改革を、ドライバーがやろうとした事自体が間違いだった。それが出来ないと解った時、マシンを降りる決意をした」最終戦ヘレスでレース後、この年デビューした中野信治(プロスト・無限)とガッチリと握手した右京は「一旦自分をリセットする。それでもう一度走りたくなったら、また走るかも知れない。それまで、幼かった自分の(父親との)原点に還って、山にでも登って来る」そう言い残してサーキットを後にした。F-1参戦95回/通算獲得ポイント5点/リタイア率64%、出走95回は日本人最高記録。.....が、そんな数字はどうでも良い。最速ラップも表彰台も無かったが、右京は間違い無く"記憶に残るドライバー"だ。 筆者選出、片山右京ベスト・レースは'94年第12戦、イタリア・グランプリである。予選は渋滞に巻き込まれて14番手、しかし決勝では赤旗再スタートでジャンプ・アップ、7番手へと上がる。3周目にハインツ・ハラルト・フレンツェン(ザウバー・メルセデス)をパスして6位、翌4周目にミカ・ハッキネン(マクラーレン・プジョー)を抜いて5位。12周目にピット・インした際、リア・タイヤの交換に手間取り17位まで後退。しかし、ここからが凄かった。15周目エディ・アーバイン(ジョーダン・ハート)、19周目マルティニ(ミナルディ・フォード)、24周目ルーベンス・バリチェロ(ジョーダン・ハート)らを次々とオーバー・テイクし、再び5位まで復帰。33周目にはハッキネンをこのレース2度目のオーバー・テイクで4位へ。「どうなってんだ、今年のあの日本人は!」とは、レース後のインタビューでハッキネンが言ったセリフである。34周目に2度目のピット・インを終え、6位でコースに復帰し、39周目にバリチェロをやはり2度目のオーバー・テイクで5位へ。が、47周目にブレーキが破損し、リタイア。いつものように「次頑張ります」と呟いた右京の目が、既に次のレースを見ているかのようだったのが印象的だった。 "良いマシンを手にすると手が付けられない程速いが、結果が残せない"良くも悪くも、右京らしいレースであった。 .....'94年の片山右京は明らかに"乗れて"いた。それは、決してマシンの出来が良かったからだけ、とは思えない。「3年目で初めて『あれ、モナコのコースって、こんなに広かったっけ?』と思った。緑石やガード・レースも、前の年よりもゆっくり見えた」.....川上哲治氏(元巨人軍)は、全盛期に「ボールが止まって見えた」と仰っていた。これはある意味、セナの「神を見た」に匹敵する、感覚がピークに達した瞬間なのでは無いだろうか。が、右京の"ピーク"は意外な程短かった。「'95年、何故か"バラつき" を感じる事が多かった」と右京は告白する。「スピードは相変わらずゆっくりに感じる。でも、思った場所でアクセルやブレーキを踏めなくなってる。どうも、毎回少しずつ違う。セナは1年365日、毎日ネクタイを同じ長さで締められる、と言う。それが出来ない自分にイライラした」.....筆者の憶測でしか無いが、右京は'94年に"掴みかけた"感覚を完全に掴み切る前に、次の(一段階上の)感覚を目指してしまったのでは無いか。 絶好調の'94年、セナが、ローランド・ラッツェンバーガーが逝った。が、右京はモチベーションを失う事無く、レーシング・ドライバーとして急成長した。実は、セナ/ラッツェンバーガーの事故の数日前、右京は出産中の不慮の事故で実の姉を亡くしていた。かつてサーキットでF-3時代のチーム・メイト、村松栄紀('90年3月23日没)や、右京が慕っていた小川等('92年5月24日没)を目の前で失い、右京は「自分の事故/クラッシュなんかよりも影響が大きい」と話した。しかし'94年、連続して起こる悲劇に、右京は立ち向かって行けた。「根本的に考え方を変えた。『自分の人生は99.99%がレース。それ以外の事は考えない』と。レース中に考える事は死ぬ事じゃ無くて、如何に速く生きて還るか。それが出来なきゃ、プロのレーシング・ドライバーじゃない」.....'95年ポルトガルでの大クラッシュは、右京の感覚を鈍らせたかも知れない。 '93年、ティレルのハーヴェイ・ポストレスウェイト博士は、右京に「英語を身に付けろ」と厳しく指導した。チームとのディスカッション、エンジニアとのコミュニケーション、全てに於いて英語が喋れないのは不利だと教えた。「'90年、私達のチームには中嶋がいたからね。彼は慣れないイギリス・チームの中で、ほんの片言の英語で大変苦労していた。日本人ドライバーに最も足りないものはそれだよ」亜久里も同様に英語が苦手で、マネージャー兼通訳の存在が欠かせなかった。.....そして'93年夏、既に右京はパドックの誰とでも英語で話す程上達していたのである。「初めてフランスに行った時も、もちろんフランス語なんか解るワケ無い。でも、ひとりで暮らしているウチに、生活に困らない程度に喋れるようになったんだ」'93年7月、フランス・グランプリでの、今や伝説となった右京の英語インタビューを紹介しよう。 インタビューアー「ウキョー、何か英語でジョークを披露してくれないか」 右京「.....ヘビが森の中で象と出会った。ヘビは『私は誰でしょう?』と聞いた。象は『君は髪の毛が無いし、耳も無いし、肌の色も変だし.....解った、ニキ・ラウダだろう?』と答えた」 .....ニキ・ラウダは'76年のドイツ・グランプリで顔面に大火傷を負いながら奇跡の復活を遂げた、3度のワールド・チャンピオンに輝く偉大なドライバーである。そのラウダを、極東の日本人がこのように茶化す等、常識では考えられない事である。.....ところが、その場でこのジョークを聞いた全員が、腹を抱えて笑い転げたのである。右京がどのようなつもりで言ったのかは解らないが、この一件で右京は欧州のジャーナリストからの絶大なる人気を得たのである。 '92年春、シルバーストーンでのテスト中、右京は高速のブリッジ・コーナーを曲がり切れず大クラッシュ。理由は「ガショー(チーム・メイト)が『あそこは6速全開だ』って言うから」.....実際は5速のコーナーである。ガショーは呟いた。「.....もう、ウキョーに冗談言うのは辞めておこう.....」右京は、F-1初年度から手強いチーム・メイトと出会ってしまった。また、鈴木亜久里は国内時代から良き先輩として右京を支えたひとりである。「初めて会った時『変な名前のヤツだなあ』と思ってた。でも、向こうもそう思ってたらしい(笑)」亜久里は右京と同じハセミ・モータースポーツで国内F-3を戦い、全日本F-3000を2年目で制し、そしてF-1へと旅立って行った。「亜久里さんは"追いかける"と言うか、目指すには丁度良い所にいてくれた。中嶋さんになっちゃうとちょっと手の届かない人、って感じだけど、亜久里さんはちょっと身近だった(笑)」仲の良いふたりには、F-1での共通の"失敗"がある。共に、スポンサーや契約の問題から当時トップ・チームであったベネトンからのオファーを断っている事である(lap78-"知られざる鈴木亜久里"/有言実行レーサーの素顔に迫る-参照)。'94年、好調なティレル・ヤマハと翌年の契約を済ませた右京の元に、'95年のベネトンのセカンド・シートのオファーが来る。右京側の問題は、既にティレルと複数年契約を済ませていた事だけだった。違約金を払えば、移籍は可能だった。.....が、右京は成長著しいティレルでの3年目に賭けた。そして'95年、ティレル/右京は没落し、シューマッハー(9勝)/ジョニー・ハーバート(2勝)でベネトン・ルノーは初のダブル・タイトルを獲得した。シューマッハーには後年まで「ね、何故あの時ベネトンに来なかったの?」と言われ続けた。.....「たら/れば」が禁句のF-1/モーター・レーシングで、右京のベネトン移籍は今でも語られる「たら/れば」である。 フレーズの名手、古館伊知朗アナウンサーが右京に付けたのは"張子の虎走法"である。ストレートで、コーナーで、加速で、ブレーキングで。小柄な右京は首を前後左右に振りながらドライヴする。「いや、動いちゃうんだ(笑)。昔からのクセと言うか」が、確かに'93年のティレル020Cは本来膝の下に収まるべき消化器が尻の下にあった、言う位モノコックが大きく、右京の身体では安定性等望むべくも無かった。「首が弱いとか、体力が無いんじゃないか、と思われるのは困る。陸上をやってた高校生の頃は1日に腕立て伏せ1800回(!)、腹筋は1分間に104回。確かギネス記録が108回だった(笑)」 右京夫人である留美子さんは、知る人ぞ知る"レース狂"である。'80年代、東レ・オートスポーツ・レーシング・チームを運営していた"プロジェクト4"(ちなみにロン・デニスのそれとは全く無関係なのでお間違い無きよう)に所属し、TNT-C(トヨタ・ノーマル・カップ・ターボ選手権)に参戦。そして留美子さんは右京のファン・クラブ、"ル・ボーセ・クラブ"の創始者である。「'95年ポルトガルでクラッシュした時、気が付いたら病院のベッドの横でカミさんが泣いていた。嬉しかった。事故を起して泣いてるんじゃ無くて、僕が目を開けたから嬉しくて泣いたんだ、と」F-1引退レースとなった'97年鈴鹿では長男の竜位君、長女の莉沙ちゃんがミナルディM197のコックピットに座った。「男は、父を超えようとするDNAを持って生まれて来ると思う。竜位には『お父ちゃんがいない時はオマエが家を守るんだぞ』と言って育ててる」彼等は、父が300km/hでライバルと戦っていた事を覚えているだろうか。 .....F-1引退後の右京は御存じの通り、登山家である。ル・マン24時間/パリ・ダカール・ラリー/全日本GT選手権への参戦等、レーシング・ドライバーとして活動しつつ、キリマンジャロ(5.621m)/アコンカグア(6.959m)/チョ-・オユー(8.201m)等の世界最高峰クラスの山を次々と制覇。'02年8月には遂にエベレスト(8.848m)へ挑戦するが、最後の最後で悪天候によりアタックを断念。しかし、下山後の右京はいつものあの笑顔で「次頑張ります」と答えた。
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