■lap101-"歴史に埋もれて行く蓮の花"/チーム・ロータス物語-
2004.05.14


"ロータス"と聞いてPC関連のイメージが湧く方は恐らく筆者よりも若い方か、はたまたクルマに興味の無い方か(それが普通なのかも知れないが)。少なくとも筆者と同世代の皆さんにとっての"ロータス"と言う名は、歴史あるスポーツ・カー・メーカーであり、偉大なF-1チームである。漫画"サーキットの狼"に於けるロータス・ヨーロッパしかり、映画"007/私を愛したスパイ"に於けるロータス・エスプリしかり、そしてジム・クラーク/グラハム・ヒル/マリオ・アンドレッティらに栄冠を齎し、6度のドライバーズ・タイトルと7度のコンストラクターズ・タイトルを獲得したF-1グランプリ史上"最強のコンストラクター"に他ならない。

....."チーム・ロータス"。彼等がグランプリ・サーカスから惨めな撤退を強いられてから、丁度10年が経過した。グランプリに様々な変革を齎したこの偉大なるレーシング・チームの軌跡は、近代F-1のみならずあらゆるオープン・フォーミュラに多大なる影響を与えた"歴史そのもの"である。

ロータスの創始者、コーリン・チャップマンことアンソニー・コーリン・ブルース・チャップマンは'28年5月19日、イギリス生まれ。父は大きなホテルの経営者で、自宅に広大な敷地を持つ裕福な家庭に生まれ育った。チャップマンは大学で機械工学を学び、オートバイを乗り回す事が趣味であった。だがある日、チャップマンのオートバイが事故で使い物にならなくなり、落ち込むチャップマンに父親が今度は車を買い与えた。チャップマンは当初、オートバイに比べて「風を感じない」自動車にあまり興味を持たなかったが、徐々にマシン・メカニズムと言う視点から車にのめり込んで行く。19歳の時に中古車販売のアルバイトを始めるが、最後の最後まである1台の車が売れず、チャップマンは止む無くその車を自分で引き取る事にする。'30年製のオースチン・セブン・サルーンであった。そして当時のイギリスには、自宅の裏庭やガレージ等で自ら所有する車の改造/チューン・アップを行う、所謂"バックヤード・ビルダー"が数多く存在していた。'47年、チャップマンはガール・フレンドのヘイゼルの自宅の裏庭でオースチン・セブンのレーシング・チューンへの改造を始める。そして'52年、チャップマンはヘイゼルとふたりで自分のガレージを創業。これが"ロータス・エンジニアリング"の始まりである。「"ロータス(蓮)"と言う名は、当時私が東洋の歴史や文化に傾倒しており、最も東洋の神秘を感じさせる花として愛したものだった。また、ギリシャ神話では蓮の実を食べた者は終生幸せになる、とされているんだよ」チャップマンは自ら改造したオースチン・セブンを"ロータス・マーク1"と名付け、'53年からレース活動を開始する。

チャップマンとロータスの主な仕事は、ロード・ゴーイング・カーの設計/製作と、BRMやヴァンオールと言ったレーシング・コンストラクターへの技術供与であった。'53年からロータスそのもののレース活動と平行して行われたこの作業はロータスに多くの恩恵を齎し、優秀なエンジニアの育成にも大いに役立った。中でもマイク・コスティンとキース・ダックワースのふたりのエンジニアは'58年に独立し、後のコスワース・エンジニアリングを設立、ロータスと共に大成功を収める事となる。また、'56年にチャップマンはヴァンオールのドライバーとして第5戦フランス・グランプリで自らステアリングを握り出走、F-1ドライバーとしてデビューを果たす。だがこれはあくまでもマシンの"試走"を目的としており、予選で出走20台中5番手のタイムを出しながらも「レースをするのは私では無く、ドライバーの仕事だよ」と、決勝レース出場は棄権している。'56年に初のオリジナル・フォーミュラとなるF-2用マシン、ロータス12を製作、'58年、チャップマンはロータス12にコベントリー・クライマックス製エンジンを搭載し、第2戦モナコでチームのF-1デビュー・レースを迎える。ドライバーにはF-2時代からの同胞であるグラハム・ヒルとクリフ・アリソンのふたりの英国人を起用し、初レースをアリソンの5位入賞で飾り、シーズンをコンストラクターズ6位で終了。翌'59年にはリア・エンジンのロータス18を開発、熟成の進んだ翌'60年、初参戦から丁度2年経った第2戦モナコでスターリング・モスがポール・トゥ・ウィンを達成、しかしモスはロータスを使用する"プライベーター"であり、チーム・ロータスとしての記念すべきグランプリ初勝利は'61年最終戦アメリカでのイネス・アイランドまで待たなくてはならなかった。

'62年、チャップマンはその後のフォーミュラ・カーの歴史を揺るがす、最初の大発明を世に発表する。モノコック構造とロッキング・アーム式サスペンションを採用したロータス25である。従来のフォーミュラ・カーのコックピット部はスペース・フレーム(パイプ構造)の組み立て式だったのに対し、円筒状の航空機のデザインであったモノコック構造をフォーミュラ・カーに最初に持ち込んだのである。「飛行機を見ていて思ったのさ。風を受けて走るレーシング・カーが飛行機と違う点はタイヤで地面にへばり着いてる事だけだ、とね」更にアウト・ボード式サスペンションによる気流の乱れを、スプリングをシャシー内に納める事で解決したのもこのロータス25であった。'63年に天才ドライバー、ジム・クラークの手により6勝を挙げたロータス25は宿敵BRM/クーパー/フェラーリらを下し、遂に初のF-1世界チャンピオンとなった。完全にトップ・チームとなったロータスは'65年に2度目の王座を獲得するが、'66年にエンジン規定が1500ccから3000ccへと変更されると、信頼性の高さで時代を席巻したコベントリー・クライマックスが撤退、ロータスはBRMへとエンジンを変更。しかしこれが裏目に出て低迷し、ブラバム・レプコやフェラーリの後塵を拝する。その頃、アメリカの巨星、フォードがコスワースと組んでF-1参戦する事を決定、前述の通りコスワースは元ロータスのエンジニアだったふたりが興したメーカーであり、フォード・コスワース・エンジンはロータスへの独占供給と言う形でF-1へ参戦する事となったのである。

'67年、ロータス49・フォードはデビュー戦となった開幕戦オランダでヒルがポール・ポジションを獲得し、レースではクラークが優勝、と言う圧倒的な強さでデビュー・ウィンを達成する。翌'68年にはチーム3度目の初タイトルを獲得するも、若きエースたるクラークがF-2のレース中に事故死、チャップマンとチーム・ロータスにとっては失意のシーズンともなってしまった。また、この年にもロータスはF-1グランプリの歴史上極めて重要な革命を齎している。ゴールド・リーフ煙草社とのスポンサー契約、つまり、マシンのスポンサー・カラーの始まりである。それまで、各チームは母国のナショナル・カラーにペイントして出走するのがFIAの取り決めであったが、ロータスはゴールド・リーフ煙草と同じ赤と金に塗り、煙草銘柄のロゴをマシンに描いたのである。現在では当然のこのスポンサー・シップ/スポンサー・カラーと言う形態は、F-1にこの時初めて誕生したのである。チャップマンのこの斬新なアイデアはあっと言う間に全チームに広まり、その後のグランプリのスタンダードとなった。

'69年、チャップマンはロータス63に"四輪駆動"を導入する。また更に翌'70年のロータス56Bにはインディ・カーでの実験的な使用を経てガス・タービン・エンジンを採用。しかしどちらも1年で開発を断念、奇才チャップマンの代表的な"失敗作"となってしまう。そしてこの年、チーム・ロータス初の"外国人ワークス・ドライバー"となったオーストリア人のヨッヘン・リントが第10戦イタリアの予選中に事故死、結局シーズン終了時に誰もリントのポイントを上回る事なく、史上ただひとりの"本人死後チャンピオン決定"となった。チャップマンはまたも悲しみにくれた。「ジミー(クラーク)が逝き、そしてヨッヘン。正直、チーム撤退も考えた。が、このまま辞めるのは簡単だが、それでは彼等に対しても申し訳無い。信頼性が高く、扱いやすいマシン。それを目指す事が我々の役目なのだ」'72年、ロータスはエマーソン・フィッティパルディ/ロニー・ピーターソンを擁してWタイトルを獲得。サイド・ラジエーター装備のロータス72Dは翌'73年もコンストラクターズ・タイトルを獲得する等、長期に渡って戦闘力を発揮した名車となった。しかし'74年に発表したロータス76の挙動がナーバスな点をシーズン中に解決する事が出来ず、翌'75年は旧型車である72Dの改良型、72Cを製作するも未勝利に終わった。72シリーズのアイデアは既に他チームに模倣されており、チャップマンは新たなアイデアを求めて開発に没頭する。

'77年、前年のロータス77を用いた"気流テスト"の結果、チャップマンはとんでもない事を思いつく。今まで誰も考えなかった、マシン下部の空気の流れをコントロールしよう、と言うものである。まず、サイド・ポンツーン下部を逆翼状にする事により、マシン本体が地面に吸い付く効果を確信。更にマシンの左右へと空気の流れが逃げる事で気流の乱れが起こるのを防ぐ為、マシン下部と路面の間にブラシ状の"スカート"を装着、これによりマシンの底では後方へと抜ける空気量/方向が一定となり、安定した走行が可能になる事をチャップマンは発見したのである。これは所謂"グランド・エフェクト"効果である。こうして製作されたロータス78は文字通り世界初の"グランド・エフェクト・カー"となり、5勝を挙げてグランプリを席巻、翌'78年の進化型、ロータス79でマリオ・アンドレッティがタイトルを獲得。だが、第14戦イタリアではピーターソンがスタート直後の多重クラッシュに巻き込まれ事故死(マシンはスペア・カーの78)。皮肉にもこれによりアンドレッティのタイトルが決定する事となったのである。同時に、このタイトルがロータスの史上最後のタイトル獲得でもあった。

.....チャップマンの考え出した"グランド・エフェクト・カー"と言う発想は瞬く間にライバル・チームにコピーされ、翌'79年には既にアドバンテージを失っていた。それどころか、開発/熟成と言う点ではこのアイデアを模倣したライバル達のマシンに遅れを取ってしまっていたのである。更にロータスは長く続いて来たフォード・コスワースとの蜜月関係により、ターボ・エンジン/搭載マシン開発でも決定的な遅れを取った。'81年、チャップマンは起死回生策としてモノコック部とシャシーとを分ける"ツイン・シャシー案"を考え出すが、FIAからの"レギュレーション違反である"との判断で計画を断念。そして'82年第13戦オーストリアでエリオ・デ・アンジェリスがチームに4年振りの勝利を齎すが、その僅か数ヶ月後の12月16日、チャップマンは心臓発作の為に急逝。まだ54歳の若さであった。誰もがここでチーム・ロータスの歴史は終わった、と思った。が、チャップマンの未亡人がチャップマンの意志を引き継ぎ、チーム存続を決めた。ちなみに夫人はチャップマンが"バックヤード・ビルダー"としてキャリアをスタートさせた時のパートナー、ヘイゼルである。

ロータスは前年までチーム・マネージャーだったピーター・ウォーが新たに指揮を取り、元アルファロメオのデザイナー、ジェラール・ドゥカルージュを招き、エンジンはようやくルノーV6・ターボを搭載。徐々に戦闘力を付けて行った新生ロータス・ルノーは、'85年にブラジルの新星、アイルトン・セナの加入によって一気に優勝戦線に復活し、2年連続でコンストラクターズ・ランキング3位へと上昇。更に'87年には当時最強のターボ・エンジン、ホンダと契約、日本人初のF-1レギュラー・ドライバー、中嶋悟をデビューさせる。この年のロータス99Tはコンピューター制御によるアクティヴ・サスペンション搭載車だったが、セナ/中嶋共にシステムの熟成/信頼性不足に泣き、第5戦アメリカ東(デトロイト)でのセナの勝利を最後に、チーム・ロータスは没落の一途を辿ってしまう。また、'86年からロータスはGM(ゼネラル・モータース)の傘下となり、'90年代はピーター・コリンズが新たにチームを率いるが、スポンサーの相次ぐ撤退でロータスは財政難へと陥ってしまう。またNAエンジン規定となった'89年はジャッドV8、'90年ランボルギーニV12、'91年は再びジャッドV8、'92〜'93年はフォードV8、'94年は無限V10と、毎年のようにエンジン・サプライヤーが交代。ドライバーもスポンサー・マネー持ち込みのドライバーを採用せざるを得なくなり、'94年に遂に経営破綻。ノー・ポイントのまま屈辱的な撤退を余儀無くされた。翌'95年に新興パシフィック・チームに権利を譲渡するがこちらも1年でチームが破綻し、ここでロータスの名はF-1から完全に消えた。F-1出走回数491回/79勝/ポール・ポジション107回/最速ラップ71回/通算獲得ポイント1370点。チーム消滅から10年を経た'04年現在、これら全てが今だフェラーリ/マクラーレン/ウィリアムズに次ぐ歴代4位の記録である。

.....ここまでチーム・ロータスの歴史をなぞってみて、リアル・タイムでは無い若い世代の方もお気付きだろうか。実はチャップマンを始めとし、ロータスを代表するドライバー、ヒル/クラーク/リント/ピーターソン/アンジェリス/セナらが、いずれも既に故人となっているのである。決してロータスのマシンが原因で亡くなった者ばかりでは無いにも関わらず、かつてマスコミはチーム・ロータスを"墓場"と称した。「ロータスに関わった者は呪われる」と言う根拠の無い噂が世界に広まり、同時にチャップマンが送り出して来た数々の斬新なアイデアが"危険な実験場"としてドライバー達に恐れられてしまった。かつてロータスでは'60年のアラン・ステイシーが走行中、鳥が顔面に衝突したのが原因でクラッシュし死亡しているが、以後クラークとリントを除けばロータスのマシン構造上の欠陥が原因で起きた死亡事故はひとつも無い(ピーターソンの事故は多重クラッシュであり、本人及びマシンに責任は無い)のである。が、クラーク/リントのふたりがF-1史上あまりにも伝説的なドライバーであった為、この噂が誇張されてしまった感は否めない。

ロータスのエンブレムは、チャップマンの愛した蓮の葉を元にデザインされている。LOTUSの文字の上には"アンソニー・コーリン・ブルース・チャップマン"を表すACBCの4文字が重ねて描かれ、母国イギリスのグリーンをチャップマンの好きな黄色い円で囲んである。このアイデアは'66年のロータス43に"グリーンに黄色のストライプ"と言う形でお披露目されている。前述のように母国のナショナル・カラーが決まりだった中に於いても、チャップマンのセンスは既に具現化されていたのである。その後F-1では'68年の"ゴールド・リーフ・ロータス"をきっかけにスポンサー・カラーが定着して行くが、ロード・ゴーイング・カー/GTカー部門ではこの"グリーンに黄色にストライプ"がその後のロータスの代名詞となって行く。そして、肝心の"ゴールド・リーフ・ロータス"はこれだけその後の歴史に大きな影響を与えた割に人々の印象に残っていない。何故なら、'72年に登場した黒地に金の"John Player Special"カラーこそが、ロータス、いやレーシング・カーのカラーリングの代名詞となって行くからである。

"John Player Special"/通称JPSロータスは"赤白マールボロ・マクラーレン"と並んでフォーミュラ・カーを代表するカラーリングであった。"走る広告塔"としてのレーシング・カーはこの2車によって完成されたと言っても過言では無い。そして、どちらもそのカラーリング完成時とチームの繁栄時期が比例していた事が大きい。ロータスはJPSカラーとなった'72年以降、3度のコンストラクターズ・タイトル('72、'73、'78年)と2度のドライバーズ・タイトル('72年フィッティパルディ/'78年アンドレッティ)を獲得。当然レースで勝つクルマが最も"目立つ"クルマであり、人々にJPSカラーのロータスの強さが大きく印象付けられるのは言うまでも無い。しかしその後スポンサー契約の紆余曲折とチーム成績の低迷の時期を経て、ロータスは'87年にキャメル煙草の黄色いマシンへと変貌を遂げる。近代F-1ファンの方にとってはセナ/中嶋のロータス99T('87年)が最もロータスらしいカラーとして印象深いかも知れない。が、"ホンダの連れ子"と言われた中嶋の日本人F-1ドライバー・デビューにあたり、欧州のマスコミから"イエロー・ジャップ・ロータス"と揶揄されたのもまた事実であった。逆に言えば、それだけJPSカラーがロータスの代名詞だった事の表れであるとも言える。

.....筆者にとってロータスのカラーで印象深いのは、'77年日本グランプリでグンナー・ニルソンが駆った"インペリアル・カラー"のロータス78である。黒いJPSカラーが代名詞となっていたロータスで、この年初優勝を飾った若きセカンド・ドライバー、ニルソンのマシンだけが急遽(それも来日後)、JPSの系列銘柄であるインペリアル煙草のワイン・レッドにペイントされる事が決まったのである。FISCO近辺の塗装業者が一斉に駆り出され、たった2日でインペリアル・カラーとなったニルソン車は日本グランプリ決勝レースを残り10周でリタイアするが、特に我々日本人ファンにとっては特別なマシンとなった。現在このマシンは日本人コレクターの元にあるが、JPSカラーに塗り直されてしまっているのが少々残念ではある。そして当のニルソンはシーズン終了後に癌である事が発覚、翌'78年10月20日に29歳の若さで死去。ピーターソンの事故死と共に、"'76年富士世代"にとっては"忘れ得ぬドライバー"のひとりである。

.....その"'76年富士世代"の筆者にとって、ロータスのドライバーと言えばまずアンドレッティ、そしてピーターソン/ニルソン/アンジェリスらである。が、恐らくもっと若い世代の方にはセナ/中嶋/ピケ、さらに若い方にはミカ・ハッキネン/ジョニー・ハーバートと言う印象が強い事だろう。前述の通り、チーム・ロータスは発足当時からチャップマンの"イギリス人ドライバー贔屓"が強いチームであった。故にクラーク/ヒルらがロータスの黎明期を背負って立ち、且つ印象深い存在となっている。そんな母国愛の強いチャップマンが生前、最後に自ら選んだイギリス人ドライバー、それがナイジェル・マンセル('80年)である。資金難からボロボロの生活を送っていた"労働者階級"のマンセルを大抜擢し、ワールド・チャンピオン、アンドレッティの後釜として期待された。だがマンセルは'82年に恩師チャップマンが死去すると途端にチーム内で孤立し、'84年にロータスを離脱。だがその後ウィリアムズ/フェラーリ等で開花し、'92年にウィリアムズ・ルノーでチャンピオンとなったマンセルは自分をF-1ドライバーに"してくれた"チャップマンへの感謝の気持ちを涙ながらに語った。

.....ジム・クラーク。いずれこのコラムでも紹介しようと思っている、伝説の天才ドライバーである。彼はF-1ドライバーとしてのキャリア8年間全てをロータスと共に生き、そしてロータスと共に散った。'60年のデビューから'68年までに25勝/33ポール・ポジション/最速ラップ28回、と言ういずれも当時最多の記録を更新し続け、'63、'65年のワールド・チャンピオンとなり、"フライング・スコット"と呼ばれた。これらの記録はもちろん歴代ロータス・ドライバーの中でもダントツの1位であり、歴史的に見ればクラークこそがチーム・ロータスを代表するドライバーである事に疑いは無い。クラークの事故死の原因は今だ謎のままである。ドイツ/ホッケンハイムの事故現場近く('02年の改修工事で現在は使われていない旧コース)には今もクラークの石碑が立っているが、辺りには鬱蒼と緑が茂り、その存在が徐々に歴史に埋もれて行くような気がしてならない。

.....'02年のハッキネンの引退後、既にロータスのマシンを駆った現役ドライバーは誰もいない。現在GM/プロトン傘下でひっそりとロード・ゴーイング・カー・メーカーとして存続するロータス。数年前から'76年F-1ワールド・チャンピオン、ジェイムズ・ハント(故人)の実弟であるデビッド・ハント氏の手による"チーム・ロータス"の再建の話が出ては消え、の状態が続いている。が、筆者にはチャップマン亡き後のチーム・ロータスの存続の具現性が見えない。ホッケンハイムの緑の森に朽ちて行くクラークの碑のように、ロータスは深い緑と共に長い眠りに着いているのである。



「昔はロータスで働かないと一流じゃない、と言われてた」
-'90年/森脇基恭(元ロータス・コンポーネンツ)-


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